水曜日
私の勤めている職場では年に二度ほど、残業削減月間と言うものが設定される。何でもワークライフバランスの向上が目的だそうだ。その期間中の水曜日と金曜日は『ノー残業デー』で、残業する場合は事前に総務課に届け出なければならない。そしてその時期あまりに残業届が多い課の長には注意が与えられ、改善書なるものを作成しなければならないらしい。つまりこの時残業する職員は、管理職にとっては非常に面倒な奴と思われてしまうのだ。だからなるべく定時に切り上げて帰るようにと指導を受ける。
仕事量は減らないのに働く時間だけが縮減される矛盾について嘆く先輩も多いけれども、近頃は割り切って家族と過ごす時間を増やしたり、周りを誘って帰り道に一杯ひっかて楽しんだりする人が多いようだ。うん、休息って大事だよね。
勿論私は定時に飛び出すタイプ。水・金の夕方は一人の時間を楽しんだり若しくは友人や職場の同僚と飲みにいったり、この際思いっきり楽しませていただく事にしている。慣れない頃は時間が確保できない所為で仕事が片付かないように感じてイライラしちゃったり、早く帰る事にそこはかとない罪悪感を抱いたりした事もあった。だけど仕事ごとの手加減が把握できるようになった今では、ちゃんと優先順位を上手く付けて頭を切り替えている。ウダウダ残っていても効率が悪くて上手く行かない場合が多いし、それならいっそ、思い切って余暇を楽しんだ方が次の仕事にも専念できるもんね。
そして今日は水曜日。
先週で大きな案件にケリがついたばかりなので、今週は残業しなくても何とかなりそうだ。
月曜日にアレックスと映画を観て、火曜日はハッピーアワーでアリスの英会話レッスンを受けた。月、火と出掛けてばかりだったから、今日は本屋にでも寄って家でノンビリ読書でもしようかなぁ……と食堂でご飯を頬張りつつ頭の中で予定を立てていると、テーブルにお盆が置かれて誰かが隣に座った気配がした。
「ミキちゃん」
声を掛けられて顔を上げると、柔和に微笑む体格の良い男性が。
「あっ……コンちゃん」
「隣良い?ってもう座ってるけど」
「アハハ、勿論いーよ」
と軽く応えつつ、ちょっとだけ緊張してしまう。思いがけない告白を受けて以来、初めての顔合わせだった。
『僕、その時ミキちゃんだったら結婚したいって思ったんだもの』
コンちゃんの台詞が鮮明に蘇ってしまい、心臓がドキリと跳ねた。付き合ってと言われた事よりも最初にコンちゃんが漏らした本音の方がよほど衝撃的だったかもしれない。これまで同期の気安い関係に安心しきっていた私は、これからコンちゃんとどのように付き合うべきなのか未だに決めかねている。あの後コンちゃんは「気にしないで今までと同じにしていて。こっちの勝手な気持ちなんだし」とまで言ってくれたのだけれども―――やっぱり内心ギクシャクしちゃう気まずさは押さえきれない。出来るだけ『普通に、普通に』って自分に言い聞かせてはいるんだけど……。
食事をしながら、取り留めない世間話をする。
最近の天気とか仕事は忙しいかどうかとか、出張で何処に行ったとかそんな話。何となくソワソワするのは、痛い所に触れないように当り障りの無い遣り取りをしている所為なのか……なんて、ちょっと頭の隅で考えてしまう。
すっかりお盆の上の食材が胃の中に納まって、そろそろ席を立って職場に戻ろうかと考えていると、コンちゃんがパッと話題を変えた。
「今日『ノー残業デー』だね」
「あ、うん」
「定時で帰るでしょ?ミキちゃんも」
「そうだねー。メンドクサイ案件も一旦落ち着いたし」
「帰り、飲みに行かない?」
「えっ……」
うっ……どうしよう。確かに今日は本屋に寄って家でだらだらしようと考えていたくらいだから、特にやらなきゃならない用事は無い。いつもなら二つ返事で頷いている所だ。なのに、言葉の裏やコンちゃんの気持ちを考えてしまう。
頷いたら気を持たせる事にならないだろうか?コンちゃんの事もアレックスの事も何も決断していない状態で、誘いに乗ってイイものなのか……だけど『気にしないで今までと同じにしていて』とまで言ってくれたのに、今までといきなり対応を変えるのもヒドいような気がする。うう~。
するとフッと息を吐いて、微笑む気配がした。
落としていた視線を恐る恐る上げると、精悍な瞳を細めてコンちゃんが優しい表情でこちらを見ている。ギュッ……と心臓が締め付けられるような気がした。
「サクちゃんと植野君にも声掛けるよ。場所決まったら連絡するから」
「あ、うん……有難う」
何となく読まれているような気がする。二人きり、と言うシチュエーションに躊躇してしまう私の心の内は、コンちゃんにはお見通しなのかもしれない。
頷いた後、胸の奥がシン……と静かになった。
コンちゃんはいつも私の気持ちを慮ってくれている。ずっと告白せずに黙っていてくれたのも、きっとそう言う事なんだ。私が遠距離恋愛の彼に心変わりされたのを、笑い飛ばしつつも内心落ち込んでいた事にコンちゃんは気付いていて―――だからこそ遠慮してくれたんだもの。
コンちゃんに掛かると私は妹みたいに気遣われてしまう。
……兄妹って言うより、姉妹ってイメージだけど。
このまま優しいお姉さんの厚意に甘えていては……いけないよなぁ。
コンちゃんの微笑みを見上げながら、自分はどうすべきなのか―――ぐるぐるとそんなことが頭の中を駆け巡っていた。




