再会
夏風邪で沈没していました。ゆっくり再開します。
季節の変わり目、皆様もお体ご自愛下さい。
家族ぐるみで付き合っているアリスから英会話講師の代理を頼まれた時、誰かに物を教えると言う経験が無かった俺は一瞬躊躇した。でもそのレッスン内容を説明されて『あ、これって俺にピッタリのバイトかもしれない』直ぐにそう考え直した。それに常日頃趣味に掛けるお金が足りず金欠気味な俺にとって、この代理講師のバイトはかなり有難い申し出だった。
レッスン内容は何と!最近俺も嵌り始めた『コンサルティング探偵シド』を一緒に観て、生徒さんの疑問にお答えすると言うもの。
ナニソレ、楽し過ぎる……!と直ぐに首肯した。
相手は二十六歳の女性だそう。その時はまさかその生徒さんがあの女と同一人物だなんて想像していなかった。
大学に入学して暫くは新しい暮らしに慣れるのが精一杯で―――独り暮らしに漸く慣れて来た頃、久し振りにミニシアターに向かった。だけど何度足を運んでも、以前よく見かけていたあのお姉さんを見掛ける事は無くなった。
映画を観ている、ただそれだけで楽しかった筈なのに、彼女を見掛けなくなって胸の中に小さな隙間が空いたような物足りなさを感じてしまう。
大学で可愛い女の子に話しかけられても、あのお姉さんを見掛けた時のような胸の沸き立つ気持ちを感じられない。その時漸く俺は名前も知らない彼女に対して特別な気持ちを抱いていたんだって気が付いたんだ。
これがいわゆる『一目惚れ』ってヤツなのだろうか?いや最初はただ単純に『綺麗なお姉さんだな』と思っただけだった。何度か見掛ける内に、その記憶がしんしんと雪みたいに胸に降り積もって、いつの間にか厚く堅い根雪のように俺の胸底に根付いてしまった。
彼女を見つけた時の何とも言えないようなときめき。胸がキュッと高鳴る瞬間。失ってしまったその酩酊感をまた味わいたくて、チケット売り場に並ぶ列や上映後の人並みに視線を彷徨わせた。そうして彼女の不在の理由をあれこれ想像する。
あの頃見掛けた彼女は大学生くらいに見えた。もしかすると卒業して就職で何処か遠くの街に引っ越してしまったのかも。それともこの映画館に通うのを単に止めてしまったのか。―――もし俺があの時勇気を出して声を掛けていたら?もしかして映画の話をして仲良くなる機会もあったかもしれない。恋人になるとか、そんな大それた望みは持っていない。ただ趣味の合うあの女と知合いになるだけでも……きっとワクワクして楽しい気持ちになったんじゃないか?そんな風に想像すると、有り得たかもしれない時間を失ったような気分になってしまい、何とも寂しい様な切ない気持ちが湧き上がって来る。
でも現実的に考えて。高校生だった俺には気軽に女の人に、しかも年上の綺麗なお姉さんに声を掛けるなんて積極的な行動を取るのは難しくて……そんな未来はあり得なかっただろう、とその妄想を否定する。それに勝手に外側だけ見て好きになるなんて―――俺こそ、そう言う相手に苦い思いをさせられた当人なのに。実際付き合ったら、見た目のイメージと違った……!なんて言われて少なからぬダメージを受けたくせに。
……でも今ならちょっとあの子の気持ちも分からないでもない。よく知らない相手に夢を見て好きになっちゃう事ってあるんだ。―――素敵だな、と感じた相手と話して、その後でやっぱり何か違うって思う事も……そりゃあるだろうな、うん。
うん、そうだ。きっと俺のこの無責任な恋慕も―――実際面と向かって付き合ってみたら、泡みたいにパチンと消えてしまう類のものなのかもしれない。だから良い体験をした、そう思って忘れるのが正解。そう自嘲気味に自分に言い聞かせ、心の中のモヤモヤにケリを着けた。
だけどもし。と、同時に心の中で呟いた。
もし万が一、また彼女に会える機会があったなら―――勇気を出して話しかけてみたい。きっと変なヤツ、と思われて避けられちゃうかもしれないけど。結局接点のないまま終わるくらいなら、一度だけでもチャレンジしてみたって悪くないんじゃないか?
なんて妄想していたから。
その彼女が目の前に現れて、軽くパニックに陥ってしまった。
本当はレッスンの後にでも、日本語で話し掛ければ良かったと思う。
でも嬉しいやら混乱するやらで、自分の素を出す勇気が持てなかったんだ。だって英国人の俺はモテるのに、日本人の俺はモテない。
そう、正直欲が出たんだ。
話したいと言うだけではなくて―――目の前の彼女に好かれたい、そう思ってしまった。
目の前に再び現れたあの女は、五つも年上で綺麗なお姉さん。本来なら俺は相手にもして貰えないだろう。だけど流暢に英語を話せる英国人の俺には気後れしてしまうのか、失言にワタワタ慌てる彼女は、とてもとても可愛らしくて。想像していたように―――いや、想像した以上に魅力的に俺の目に、心に焼き付いた。
あの五十分のレッスンで、妄想の上の恋慕が、現実の本当の恋に変わってしまった。まるで錬金術だ。何の変哲もない石ッコロが金の塊に変わるみたいに、現実の彼女の声や態度や仕草……そういった全ての体温みたいなものが、触媒になって俺の感情を染め上げてしまった。
つまりその日俺は完全に、彼女に嵌ってしまったのだ。
次に会った時に、ちゃんと素の自分を見せれば良い。そう言い訳して、英国人の仮面を最後まで脱ぐ事なく、その日は終わってしまった。
次もレッスンがある。そう思っていたら、アリスが思いがけず復帰できる事になって会えなくなった。残念だったけど、アリスが産休になったら代わりに講師をやらせて貰えるだろう、その時またちゃんと話せるだろうって考えた。そしたら改めてちゃんと自分の事を話せば良い。だって嘘は言っていないんだし……と自分に言い訳をして。
そしてまた思いがけずミニシアターで彼女を見掛けて……偶然に心臓が跳ねた。咄嗟に声を掛けてその日が月曜日だと気が付いた俺は、つい以前女の子をナンパした同じ手口でカップル割引をお願いしてしまった。それこそ半ば強引に。ずっと妄想していた事が現実になって、頭が湧いてしまったとしか思えない。散々頭の中で繰り返しイメトレしていたかのように、滑らかに彼女を誘導する手口は普段の俺からしたらかなり掛け離れた行動だった。嬉しくって嬉しくってかなり調子に乗ってしまったのだと、今なら分かる。
だけどやはり無理があった。それが元でミキさんに怒られて逃げられて。―――あげくにやっと映画友達になって貰える所まで辿り着いたと言うのに……ハルに見つかって糾弾され、それが元でミキさんに遊び人だと誤解され、切り捨てられそうになった。
パニックになった俺はどさくさ紛れに告白をして……あろうことか泣き落としで追い縋って何とか映画友達の位置をギリギリ確保する事になる。
本当に日本人の俺って。いや、英国人でも日本人でもどちらの俺も、情けなくてカッコ悪い。
でもカッコ悪くても何でも。初めて俺が失いたくないって必死になれたのが、ミキさんなんだ。
ああどうしたら―――このソワソワするような落ち着かない心持ち。
そっくりそのまま、彼女に正しく伝えられるのだろうか。




