後悔
早口英語で逃げ切ったと思った相手が月曜日ミニシアターの入口に立っているのを見掛けた時は、ちょっと意外に感じただけだった。余程の映画好きじゃないと、このミニシアターに続けて足を運ばないと思っていたからだ。何せ上映される映画は好みの別れる癖のある作品や、テレビで宣伝されないようなマイナーな作品がほとんどなのだ。実際前回俺が観た作品は恋愛ドラマで、今回観ようとしている映画は戦場を舞台としたノンフィクション作品だった。俺は恋愛メインの作品にはあまり食指が動かないタイプだ。だけど前回観た作品は、お気に入りの監督が初挑戦した恋愛映画だと言う事で、嗜好度外視で足を向けたのだ。
二度目に出会ったその女の人は、出入口でキョロキョロ視線を彷徨わせていた。誰かと待合わせしているのかと思ったが―――俺を見つけて駆け寄って来たから、驚いた。
カタコトの英語でまた一緒に映画を観よう、と言われて頷いたのだけれど……上映後連絡先を尋ねられて困ってしまった。何となく彼女はその映画を観たかった訳じゃないんだと感じたから。それから次に新しい映画が上映される月曜日、またしても入口でキョロキョロしているその人を見つけた時―――これはマズい事になったと気が付いた。クルリと方向転換した瞬間、またしても彼女に見つかってしまい……その日は泣く泣く映画を観るのを諦めた。何とか逃げ切って、月曜日以外にミニシアターへ出掛けたのだが―――何と彼女はまた、そこに人待ち顔で立っていたのだ。
当てもなく毎回そこに通うなんて無理だと思うから、その三度めの再会が偶然だったって可能性は捨てきれない。だけどそんな彼女の執着心に背筋がスッと冷えてしまった。二度一緒に映画を観ただけなのだけれど、些細な遣り取りの中であまり気が合わない人だなと感じていた所為もあるかもしれない。それにその頃の俺はもう、現実の女の人に恋愛的な意味であまり興味を抱けなくなっていた。単にやさぐれていたとも言えるけど、だからこそこんなナンパまがいの事をしていたのだから。
お気に入りの映画館に通えなくなってしまい溜息を吐きつつ後悔していると、ミニシアターの話題を振って来たハルに様子がおかしいと見抜かれた。誘導尋問のように真相を追及され、経緯を漏らしてしまう。
するとミニシアターで待ち伏せする彼女が諦めるまで、彼女役として月曜日に映画館に一緒に通う事を提案された。結局ハルの申し出を受ける事を決断し、代わりに期間限定でハルの所属するサークルに参加する事となった。
彼女の所属する映画サークルは、自主制作に出演する人間を探していた。監督である先輩が目を付けた女の子が、偶々ハルと俺が一緒にいる所を見掛けたらしく興味を示していたそうだ。映画を撮り終るまで餌としてサークルに参加して欲しいと言われた。
お陰で俺はそのサークルで期間限定ホストみたいな役割に甘んじている……ハルの指導でその女の子をガッカリさせないように、自分の本性を押し込めつつ日本語があまり得意じゃない英国紳士風ハーフ学生を演じているのだ。これ、絶対バレるだろう……!と思っていたのだが、意外とバレない。その女の子が学外の女子大からのインカレ参加で、かつ道外出身者で地元に人脈が薄いと言うのが功を奏しているのかもしれないし、映画サークルのメンバーが面白半分でフォローしている所為かもしれない。
もうミニシアターでもあの女の人に付き纏われなくなったし、そろそろ薄氷を踏むような『餌役』を引退したいと訴えてはいるのだけれど……残念ながらハルは首を縦に振ってくれない。映画を撮り終るまでは気が抜けないのだと言われ、今日も俺は飲み会に女優さんの接待役として駆り出されたのだが。
その飲み会の一次会が終わった後、偶然ミキさんと遭遇したのだ。
またしても偶然会えるなんて……!と俺はその確率の高さに浮かれたが―――ミキさんの傍らに体格の良いピシッとスーツを着こなした男が寄り添っていて、大層焦ってしまった。
その男も検分するように俺を見ているような気がした。
だから出来るだけ親しい印象を、彼に与えたかった―――下らない対抗心だ。だけどその男は社会人らしく余裕の態度を貫いていて……後でかなり落ち込んだ。
そう言えば、と思い出す。ミキさんはスーツ姿の俺に対しては初々しい態度で接していたような気がする。恥ずかしそうに頬を染めたりして慌てて動揺して、随分と可愛らしかった。それが俺が年下だって知った途端、遠慮が無くなって気さくな態度に変わったように思う。気さくなミキさんも親しみが持てるなぁ、なんてあの時は単純に嬉しく感じたけれど―――あのスーツの男に出会った後では、それも『緊張する必要のない相手』だと断言されている証のように思えて、憂鬱になる。ミキさんにとっては学生なんて恋愛対象にはならないのだろうか。俺が五歳年下だと知ったミキさんからはある種の気負いが消えてしまったように思う。
あの男はミキさんの何?―――ただの『同僚』?
少なくとも、あの男にミキさんは好意を持っているように感じた。それがどういう種類のものかは分からないけれど。
それより何より焦ったのは―――バッタリ顔を合わせたハルが誤解して捲し立てた言葉が切っ掛けで、せっかく縮まったミキさんとの距離が遠くなってしまった事。……いや、距離どころか繋がり自体失ってしまう事になる所だったんだ。それもこれも俺の浅はかな行動が原因なのだけれど。
気付いたら涙が出ていた。女の人の前で泣くなんて小学校低学年以来の事だったから、泣いている自分を受け入れられなくて『泣いていない』なんて言い張ってしまったけど。ますます自分の子供っぽさが表出してしまったようで、本当に情けない。
映画友達にはかろうじて留まれたけど。
これで更にまた、あの落ち着いた男との差が彼女の中で歴然となったんだろうと想像すると悲しくなる。いや、そもそも元から同じ土俵に上げて貰っていないのかもしれないけれど。
そんな事を考えていると、思わず溜息が出てしまう。
はぁあ……ぺらっぺらの紙相撲で良いから、彼女の心の土俵に上げて貰えないだろうか。




