緑の目の先生
プライベートレッスンに代理の先生が見つかったそうだ。私は久方振りに英会話教室『ハッピーアワー』のレッスン室の扉を開いた。
四畳ほどの小さな部屋で高級ブランドのCMに出演しているような綺麗な男の人がグレーのスーツのパンツにピシッとしたワイシャツを腕まくりして、にこやかに微笑んでいたので―――思わず扉を閉じてしまう。
何だあれは。
灰色の柔らかそうな髪の下に色素の薄い緑色の瞳。見上げるほどの高い身長、長い足―――ビジネス系の海外ドラマに現れる外人俳優みたい。白昼夢を見ているのかと思った。いや、英会話教室なのだから外国人男性がいるのはそれほど不思議な事じゃないのかもしれないけれど。先ほど目に入った男性はこれまでこの教室で見掛けた事は無かったし、これまでこの扉を開けて目にしてきた、可愛いパステル色のカーディガン、ふんわりとしたスカートのふっくら焼き上げたクリームパンみたいな親しみの持てる女性がいる光景と、ギャップが有り過ぎて動転してしまったのだ。
まさか―――あの先生が、アリスの代わり?!
何故か同じような安心感のある女性が代理だと思い込んでいた私は、かなり怯んでしまった。しかしせっかく予約したレッスンだ、逃げ出す訳には行かない。意を決して恐る恐るもう一度扉を開けようとノブを掴むと―――グイッと引かれてつんのめってしまった。ちょうどその美男子が扉の反対側でノブを引いた所だった。
「わっ!」
「Hi!...Are you Micky?(君がミッキー?)」
「あ……Yes!」
「Come on in!(入って!)」
スッと一歩下がって掌を上に向けた左手で、彼はスマートに私を招く仕草をした。
「Nice to meet you. I’m here instead of Alice. Call me Alex.(はじめまして。アリスの代理です。アレックスって呼んでください)」
そう言って高い所から笑顔で大きな手を差し出した。そうか……やっぱりこの人がアリスの代わりの先生なのか……。私はオドオドと戸惑いつつも手を握り返した。
「な……Nice to meet you, Alex. I'm Miki Yukawa.(はじめまして、アレックス。私はミキ・ユカワです)」
「I've heard about you from Alice, Micky(アリスから聞いてます、ミッキー)」
あっ、そうか。最初に愛称で呼ばれたんだっけ。アリスは私を『ミッキー』と呼んでいた。本来は『ミシェル』の短縮版だと思うのだけれど、ちょうど『ミキ』に近くて発音しやすかったのだと思う。その呼び名を知っているくらいだから、私の氏名くらいは承知しているのだろう。動けないアリスが何処まで引継いでくれたかは確認してないから分からないのだけど。
そんな風に察する事は出来たのだけれども、ありきたりな定型文しか出てこない私の語彙力じゃ……次に何と返して良いか分からず、結局黙り込んでしまう。うっ……一年以上も学んでいるのに全然進歩が無い。こんな体たらくで呆れられないだろうか。いつもにこやかなアリスは『気にしないで良い』と言ってくれたから続けてこれたのけど。
「Grab a pew」
「?」
「Ah……Sit down, please(ええと……座って下さい)」
あ『座って』って事ね。私は慌ててストンと腰掛けた。
「Well, at first Let’s talk about each other.(まず、お互い自己紹介しましょうか)」
「い……Yes!」
フッと、笑われてしまった……!
一つ覚えの『Yes』ばっかり。緊張しちゃうのは苦手意識があるからだ。そう……こういう背の高くてピシッとした外国人男性と対面した体験レッスンで、私はあまり良い想いをした事が無かったのだ。
世界中で大人気のミステリードラマに嵌ったのは、二年前。昔々から読み継がれている誰でも知っている探偵とその相棒が活躍する有名な探偵小説の設定を、現代に焼き直した英国を舞台にした九十分ドラマ。その工夫された映像や展開や設定の面白さの虜になってしまい、繰り返し視聴する内に―――段々とある衝動を抱くようになったのだ。
これ、和訳と元の英語の台詞と……きっと少しニュアンスが違うよね、原作の内容……ちゃんと理解したいなぁ。
外国語の映画を観る時、字幕を見ながらそんな事を考えた事が何度となくある。けれどもこれほど強い欲求を持ったのは初めてだった。知りたい―――何とか理解したい。DVDには英語の題字は出てこない。けれどもネットで検索すると、それは見つかった。世界中で有名になったそのミステリードラマにはコアなファンがたくさんいて、ドラマの台詞をわざわざ抜き出して解説しているサイトが結構ある。台詞と情景描写を掲載しているものを探してそれを見ながら辞書やネットを駆使して独学で訳し始めた。
しかし……昔の意味と今の意味では違うのかそれとも俗語なのか、明らかに辞書に載っている単語と意味が違うであろう使い方の表現があったり、そもそも辞書に掲載されていない単語まであって、なかなか翻訳は上手く行かない。時にはDVDの字幕の日本語訳ともかけ離れている場合があって―――一応大学まで英語授業を受けたと言っても、なんちゃって理系のしかも就職して数年が経過し勉強脳が劣化してすっかりお古になっている私の脳ではそれを解読するのは至難の業だ。現代英国に生きている設定の主人公達の生き生きとした台詞の中には辞書と格闘してもネットで検索しても見当が付けられない表現の羅列が多く、すぐにお手上げ状態になってしまった。
諦めてプロの手を借りようと思い、幾つか英会話教室を巡って体験レッスンを重ねた。ドラマの表現を紐解くサポートをしてくれるのに適当な、やや人見知りな私でもとっつき易そうな先生がいれば良いなと考えたのだ。
そして行き付いたのが、地下鉄の駅から程近いビルの二階にある小さな英会話教室『ハッピーアワー』。少人数制のレッスンや留学サポートを行っている教室で、本人が希望するテキストを使ってのプライベートレッスンも受講できる。体験レッスンを受け持ってくれたふくよかで、常に柔らかい微笑みを湛えるアリスがとても優しく感じが良くて、その日のうちに即決した。旦那様が日本人だと聞いているのでその所為なのかもしれない、日本語にはあまり堪能では無いと言いつつも私が話す日本語の簡単な単語は理解してくれるし、日本的な情緒に理解がある所為か狭い教室に二人きりで長い間いても違和感が無く過ごせて疲れない。
今まで体験レッスンで出会った先生の中には自己主張の強い外国人の先生も何人かいた。するとつい無意識に合わせようと気を使ってしまい、決まって終わる頃には緊張でヘトヘトに疲れてしまっていた。特に色の白い……西洋系?の男性に、話したいコトが上手く表現ずにもたついている所に高圧的な態度を取られたり一方的にあちらからドンドン話を進められたりする事が多かったので、苦手意識が定着してしまった。たまにアタリが優しいな……と感じた相手は妙に距離が近くて、意味が分からず曖昧に笑っていると、何故か教室の外で会おうと言われているのだと最後の方で判明して慌てて断ったり。
やはりお金を払ってまで疲れる事をすると言うのは何だか違う―――とそろそろ教室探しを諦めようかと思った時、巡り合ったのがアリスだった。
以来アリスとのレッスンは週一回の私の楽しみになった。一緒にDVDを見つつ、分からない台詞や舞台になっている英国の習慣や文化について尋ねる。基本的に質問も回答も英語なので、英会話に全く堪能でない私は聞きたい事を尋ねるだけでも単語が出て来なくて四苦八苦してしまう。―――だからいつの間にか『Wait a minute!(ちょっと待って!)』『Let me check!(調べさせて!)』だけは繰り返し使っているので、スラスラ出て来るようになった。
習った筈なのに自分の言いたい言葉の英単語が全く出てこないと言うのは大変もどかしい。慣れなのか大学を卒業して早四年、つまり二十六歳と言う年齢の所為なのか……とにかく辞書やスマホで単語を検索しつつ身振り手振り、時には日本語の単語を交えて説明して、じっくり耳をすませてくれる先生にやっと真意が伝わる程度に漸く英語力が回復した所だった。
私の希望したレッスンは通常のテキストを使ったレッスンより手間がかかるし英語力不足で進み具合は遅々として進まず大変だったのだけれども―――アリスは根気良く付き合ってくれた。お仕事なんだと言えばそれまでだけど、私のリクエストは他の一般的な英会話教室であまり聞いて貰える状況じゃ無かったし、何より相性の良い先生と巡り合うのはかなり大変な事だと知った後だから有難かった。
こうして英単語と格闘し一レッスン五十分×月四回×一年あまりの時間をかけて、漸く『コンサルティング探偵シド』のシーズン1までのお話を、満足行くまで理解する事が出来たのだ。
そうして、さあ新しくDVD化されたシーズン2に取り掛かりますか……! と言った所で、せっかく見つけた相性の良い先生、アリスがレッスンを長期でお休みする事になってしまったのだ。なんと突如彼女は切迫早産になり掛かっていて暫く安静が必要なのだと言う。妊娠したと言う事は聞いていたのだけれども、現在独身で結婚のけの字も知らない私は妊娠で絶対安静を要する事態に陥るなんて思いも寄らなかったし、元々ふくよかなアリスはあまり体型に変化が無くていつも朗らかで上機嫌だったから、体調が急変するなんて予想もしていなかった。夜中にお腹が痛くなってかかりつけ医の診察を受けたら、何とそのまま入院する事になってしまったらしい。
アリスの容体が落ち着くまでレッスンを休むと教室には伝えた。お見舞いメールを送ると、一ヵ月だけ休む事になるだろうと返答があったので、彼女の回復を祈りつつ復帰後のレッスンに備える事にした。
しかし結局アリスはそのまま産休に入る事になってしまったらしい―――教室の事務担当者からアリスの産休が開けるまで、代わりの英国出身の先生を用意したと言う連絡がメールで届いていた。
しかし仕事が佳境に入っていた私は、教室に教えていた私用メールのチェックを怠っていた。だからアリスが復帰予定と言っていた日の前日に慌てて開いたメールを見てやっと彼女の産休と代理の先生の配置を知る事となう。アリスでなければいっそ教室を辞めてもいいかな……くらいに考えていたのだが、せっかく教室が調整してくれたのだし、もうキャンセルはきかないし、代理の先生はアリスと同じ英国出身の先生だと書かれているので―――取り合えず顔合わせだけでもしてみようと決意したのだ。
そんなこんなで、吃驚するようなイケメンを前にドギマギしながら簡単な自己紹介を交わし。『ではアリスと約束していたシーズン2のDVDをまず視聴してから質問を受け付けましょう』と先生であるアレックスが言ってくれて―――持参したDVDプレーヤーにセットしていたDVDをスタートさせたのだが……
パッと映ったのは、拘束された裸の足首。
そこに現れる際どいボンテージ衣装に型どられた細いウエストと立派な腰回り……キャットウォークで歩くピンヒールから伸びる綺麗な形の脚を強調する網タイツにガーターベルト……。
『I can't wait...(待てないわ……)』
『You're a good girl, I'll show you heaven soon.(イイコね、すぐ天国に連れて行ってあげるわ)』
そうだった……!
シーズン2のスタートはこのシーンだった……!
衝撃的なワンシーンに思わず鼻血が出るかと思った。……いや、一度家で見ている時は何とも思っていなかったんだよ? だってミステリーの殺人現場に際どいシーンが使われるなんて普通の事だし、主人公である探偵はと言えばそう言う色っぽい出来事と全く関係ない聖職者のような態度を貫いている。あくまで脇役の、しかもシーズンが変わって新しい展開を期待している視聴者を惹き付けるためのどギツイ演出な訳で……。
『ほうほう刺激的な幕開けになったなぁ、制作者も考えてるね』くらいには受け取っていた。でも女性同士で見るからと、いたって平常心で予習を進めていたのだ。アリスが一ヵ月休む事になって……一レッスン分の予習はその時終わっていたから取りあえずいいかって感じでDVDと予習メモとスマホに筆記用具を鞄に放り込んで、予定時間ぎりぎりに教室に飛び込んだ。だって昨日残業だったから……っ。
内容がこんなんだって、相手が初対面の人だってコト、すっかり忘れていた! それによりによって代理の先生が男性だなんて……しかもこんなピシっと整った格好をした折り目正しい英国紳士だなんて、全然思わなかったんだもん―――!!!
こんな狭い個室で、しかもちょっと苦手になってしまった西洋人男性と二人切り……アリスは私が大のミステリー好きって分かってくれているから大丈夫だけど……こんな教材を選ぶ女って……!! このシチュエーションが恥ずかし過ぎて、頭に血が昇って鼻血を出して倒れてしまいそうだ。っつーか倒れていしまいたいっ!
しかしそんな私の内面には頓着せずに容赦なくシーンは進む……けど普通に日本でも放送しているドラマだから直接『行為』は映らない。だけど衝立の奥でそれを暗示するような呻き声と喘ぎ混じりの懇願……ああっそんな事まで!
止めたいっ……でもあとちょっとで、質問したかった辞書で引いてもネットで検索してもイマイチ理解出来ない単語が出て来るシーンになるんだ。そこは男性と一緒に見ても全然大丈夫なの、だって性欲を全く感じさせない主人公・コンサルティング探偵シドと何故か巻き込まれてその相棒になってしまうアルがただ会話しているシーンなんだもん。第一ここで辞めたら、下手したら『AVまがいのDVDをイケメン講師に見せつけるセクハラ痴女』で終わってしまう~~!! がまんっ……ここは我慢よっ……!!
「「……」」
『Al,about your ...”Yellow taxi case”(アル、君の……『黄色いタクシー事件』のことなんだが)』
『Ah...(ああ)』
『Your blog have a wide readership, doesn’t it?(君のブログ、読者が多いね?)』
『Ah...Yes,probably』
よ、良かった……!普通の場面に戻った……!
そうそう、ここが見たかったのよ。最初の導入部分は興味がある訳じゃなくってね。予習の時二度目以降は早送りしていたんだよ、だって喘ぎ声とムチの音だけでほとんど台詞も無くて疑問の余地も全く無いから。だからね、ホラこの主人公の探偵と相棒のこの遣り取りで意味の分からない単語があって……!
と、心の中で言い訳をしていてもしょうがない。私は羞恥心を抑えて顔を上げた……!
「あっあの……、じゃなくて。Well...I have a question. May I ask...?(ええと、質問があるんだけど、尋ねても良い?)」
「Sure!(もちろん!)」
アレックスはそのお綺麗な顔の眉一つも動かさず冷静な表情で私を見ていた。そうして質問しても良い? とビクビクしながら尋ねると、『これが正統派英国紳士か?』と思わせるような曇りない笑顔でニコリと頷いてくれた。ホッ……やはりプロだけあって、こんなコトじゃ動じないんだね。良かった良かった……もしかして英国出身って言うから、日本人と文化が違ってこういう映像にはあまり動じないのかもしれない。ドラマの表現だから割り切って観ているとか。ほら、過激な英国映画も結構あるし……特に彼の感性では『いやらしい』なんて感じないのかもね。
それに心配していたような圧迫感も無いし、高圧的な態度もされないし……良かった。きっと教室ごとのカラーってあるんだよね? ガンガン厳しくして欲しいって人もいるだろうし、私みたいに冷たい態度をされると萎縮しちゃう人間もいるだろうし。これならアリスが帰って来るまで耐えられるかも、うん。
「I’d like to ask about this word “pet”. The writer describe like that ...Ah...about Sid’s action.(『pet』って言う単語について聞きたいんだけど。文章を書いている人が、ええと、シドの仕草についてそう表現していて)」
「...Ah...well...(ああ、うん)」
探偵シドの仕草をファンサイトを作っている人が英語で解説している文章を読んで理解できない単語があったんだ。シドが相棒のアルを『pet』するって書いてあって……イマイチ理解できなかったのだ。普通は愛玩動物とかペットとかそう言う名詞で使うでしょ?形容詞で『得意の』とか『愛玩動物の』なんてのもあるんだけど……DVDのシドの行動を見ていてもポンと肩を叩いているだけだし……。
すると私の質問を聞いたアレックスは少し戸惑ったように口元に手をやり―――それからスマホを出してサラリと撫でた。何かを検索してくれているらしい。大人しく待っていると―――やがて探していた画像を見つけたようで、手を止める。そしてスッとその画面を差し出してくれた。
「The lists is the rules for the pool. I’ve seen it very often in U.K.(これはプールの規則なんだ。イギリスではよく見るものだよ)」
そこには英語の警告看板のような物が移っている。どうやらプールでの禁止行為が記されているらしい。イギリスではよく見るのか……ふーん、『RUNNING(走る)』『PUSHING(押す)』とか、『SMOKING(タバコを吸う)』とか一般的にやってはいけないと感じる行為が、分かりやすい絵とハッキリした文字で書かれていて―――彼の指が差した所を何気なく覗き込むと―――『PETTING』と書かれた所に抱き合う男女の絵が……。
えっええ……!!
慌ててスマホで辞書を確認する。『pet』……『pet』……あっ……! 下の方に動詞があったぁあ……!
『pet:かわいがる、甘やかす、愛撫する』
ひいいっ……!!
な、なんちゅー質問を私わっっ……! シュッとしたイケメンに聞いているんだぁあ! しかも辞書ちゃんと読んでれば分かるっちゅーねんん!!
セクハラじゃんっ……!
そんな訳でシドロモドロになった私は頭にカーッと血が昇って、訳が分からなくなってその後の記憶は定かでない。
後でネットで調べたら分かった。
あれは英国のプールによくある注意喚起看板で……『プールで抱き合ったりキスしちゃいけませんよ』って言っているんだって。日本じゃ当り前の事だけど……そう言うの外国だと走っちゃ駄目とか、人をプールに突き飛ばしちゃ駄目とかと同じレベルで注意しちゃうんだね。うん、文化が違うね。
―――なんて冷静になれる訳も無く。
ああっ!! 次のレッスン、どんな顔して行けばいいのおっ……!!
私はゴロゴロと自宅のベッドの上で、ただひたすらに転がって悶えるしかなかったのだった。




