自分じゃない他の誰かが犠牲になる前提で
日本という国は、高齢者への年金や福祉が充実しているのだそうだ。自営業者等が加入している国民年金の支給額は少ないけど、確かに公務員の加入している共済年金や、一般のサラリーマンが加入している厚生年金には充分過ぎるほどの額が支給されている(金融資産等で一千万円以上の収入がある高齢者でも年金を受け取っている)し、医療費だって優遇されている。
何処まで本当かは知らないけど、こうなった原因は選挙制度だという話を聞いた事がある。高齢者の人口割合は多い。だから政治家達は当選する為に、高齢者優遇の政策を実行していったというのだ。
この原因についての話が嘘だろうが本当だろうが、高齢者への年金や福祉が充実してる事実には、一つ困った点がある。それは裏を返せば、それが高齢者を支える現役世代への負担が重い事を意味しているということ。社会が成長する為には、次世代への投資が必要なのは言うまでもないけど、これじゃそれは難しい。一般の高齢者にどこまでこの意識があるかは分からないけど、少なくとも政治家や官僚達はよくこの点を把握しているはずだ。しかも、高齢社会へ突入することで、その負担が更に増えていくことも分かっているはず……。
日本社会の、この若い世代へ負担を丸投げするという行動は、他にも観られる。例えば、莫大な国の借金。何とかして少しずつでも返していくにしろ、金融経済の混乱を引き起こすにしろ、このままでは若い世代が苦しめられる事になるのは目に見えている。なのに、それを放置するどころか更に酷くしている(もっとも、その前に大きな破綻が起こる可能性もあるのだけど)。そして、原子力発電所問題なんかもその一つだ。
原子力発電所によって生まれた核のゴミの処理を強いられるのも、このまま使い続けてウラン資源が枯渇し始めた時、エネルギー転換しなくちゃいけない状況に追い込まれて苦労するのも、その一番の犠牲になるのは若い世代だ。原子力産業のトップの方にいて、原発を推進し続けているお偉方は、誰一人その責任を取らないだろう。まぁ、多分、もう生きてはいないだろうしね。
「いやいや、稲塚君。生きていたって同じよ。福島原発事故の時だって誰も充分な責任は取らなかったんだから」
なんていきなりモノローグに割り込んで来たのは、園上ヒナという名の女生徒。彼女は高校生で、ネット文化研究部なんて部活をやっている。この部活は、簡単に言ってしまえば毎日ネットサーフィンをやって遊んでいる部活動だ。僕も一応は、この部に所属している。まぁ、準部員みたいなもの。名前は稲塚薫という。だから、当然、僕も高校生なのだけど……
「ちょっとちょっと、稲塚君。人聞きが悪いってば! 遊んでいるだけなんて失礼な。ちゃんと真面目に部活をやっている事もあるって。ネットの文化を研究しているの!」
と、そう抗議して来たのは唄枝奏という名の女生徒。五反田五郎という男生徒がそれにこう続ける。
「遊んでいるってのも、完全には否定できないけどね」
「もぅ! 五反田君! 正部員がそんな事を言わないの! ちゃんとやっている時だってあるじゃんか!」
「でも、真面目に部活やってる時だって、結局は楽しんでいるしさ」
「楽しんでいたって、真面目に部活をやっているでしょー?」
……因みに、この会話の内容から分かると思うけど、二人ともネット文化研究部のメンバーだ。
その会話を僕は止めた。
「あのさ、二人とも、話が先に進まないから止めて欲しいのだけど」
それに頬を膨らませて、唄枝さんは言う。
「稲塚くんが失礼な事を言うのがいけないんでしょー!」
まぁ、無視して続ける。
話を元に戻すけど、原発を推進したがっているお偉方が、自分じゃない他の誰かが犠牲になる前提でいるのは明らかだと僕は思う訳だ。ただしかし、これはお偉方だけに限らないとも思う。原発に賛成している人の中で、一体どれだけの人が、将来、核廃棄物の処理をやってもいいと思っているのだろう? しかも、高賃金を貰うと原発のコストは上がってしまうから、“原発の為”というのなら、それほど高い賃金で働いてもらっては困る。つまりは、半分はボランティアみたいなもんだ。こんな人はほとんどいないと思う。誰もやりたがらないはずだ。
ならば、当然、社会の誰かに犠牲を強いるしかない事になる。
「福島原発事故が継続中だから、今だって犠牲になれるのに、なってないしねー」
と言ったのは園上さん。僕はツッコミを入れる。
「モノローグの続きを始めたいきなりで、入って来ないでよ、園上さん。出端をくじかれちゃった感が満載だよ!」
「まぁ、いいから、続けなさいな」
「続けるけど……」
……えっと、もちろん、原発に反対している人もどちらでもない人も犠牲になるつもりがないのは同じだろうと思う。いや違うか。そもそも犠牲になる可能性を考える以前の問題で、そんな事は想像すらもしていないのじゃないだろうか。つまり、“自分じゃない他の誰かが犠牲になる前提”で、この問題を捉えている。
福島原発事故の直後は、あれだけ原発反対運動が起こったのに、今ではすっかり沈静化してしまっているのには、そんな要因もあるのかもしれない。“自分じゃない他の誰かが犠牲になる前提”で議論しているから、その質が軽すぎるんだ。
ただ、それじゃいけないのだと思う。やっぱり、“もしかしたら、自分がその犠牲になる”可能性を考えて、原発に関しての議論をするべきじゃないだろうか。特に若い世代は、その必要があるはずだ。なにしろ、冗談じゃなく、本当に原発の犠牲になる可能性があるんだから。
まぁ、少なくとも、ほぼ確実に犠牲にならないだろう世代の人達が、ずんずんと原発を推進していってしまう現状には、大いに疑問を抱かざるを得ない。
そういう意味で、今回の僕らのやった事には、充分に意味があったと思うんだ。
……もっとも、これをやろうと言い出した園上さんに、そんな立派な意思があったのかというと、多分、全然なかったと思うのだけど。
それは、ある日の部活の時の事だった。突然いかにも困った顔をして、古野という先生が部室にやって来たのだ……
「……なんだ? 稲塚。お前、演劇部じゃなかったのか?」
そう古野先生は言った。実は僕の本来の部活は演劇部なのだ。その時は、次の公演も決まっていなかったから、暇でネット文化研究部に顔を出していたのだけど。
「最近になって、こっちにも在籍したんですよ。掛け持ちですねー」
そう僕が言うと、冷たい抑揚のない口調で園上さんが言った。
「あら、知らなかったわ。いつの間に?」
僕はそれに抗議する。
「あのね、君らが無理矢理に入れたようなもんでしょ?」
「そうだっけ?」
「あのねぇ!」
そのやり取りを受けて、古野先生は変な顔になった。見かねたのか、五反田が言う。
「安心してください。稲塚君は、間違いなくうちの部員ですから。それよりも、古野先生は何の用なのですか?」
五反田はこの中で最も常識人だ。背が高いし頼りになる印象もある。正直、こいつがまとめ役になってくれていなかったら、この部は部の体裁を保てていないと思う。唄枝さんは子供みたいだし。因みに、この時唄枝さんは、何かのサイトを夢中になって見ていた。
古野先生は言う。
「まぁ、いいか。
いや、実はな。今度、原子力発電所に関してのシンポジウムが開かれるんだけど、誰か出席しないかと思ってな」
「それって、客としてですか?」と五反田。
「違うぞ。ちゃんと討論者としてだ。皆の前で議論をするんだな。パネルディスカッションってやつだ。と、言ってもだ。実際には学者さんに対して、学生が質問するってだけのもんで、早い話が授業みたいなもんだ。だからそんなに緊張しなくていいぞ」
その古野先生の説明の途中から、皆は興味を急速に失って、パソコン画面に視線を移し始めた。古野先生は背は高いけど、ひょろ長いといった印象で、顔もなんとなく締まりがないものだから、あまり威厳がない。それでなのか、その事態をただ黙って見つめるしかなかったようだ。少しだけ表情を歪めてから一呼吸の間の後で、古野先生はその皆の様子を再度確認すると、「はぁ」と軽くため息を漏らし、「邪魔したな」と言ってそのまま部室を出て行ってしまった。
少し可哀想に思えるけど、まぁ、仕方ない。誰だってそんな面倒くさそうな事に関わりたいとは思わないだろう。古野先生が出て行った後で、園上さんが言った。
「なんだったのかしら、あれは?」
それはまるで独り言を言っているかのような口調だった。いや、実際に、独り言だったのかもしれない。五反田が応える。
「多分、誰も参加したいって人がいなくて困っているのじゃない? 古野先生も大変だよ。他の先生達に押し付けられたんだろうね」
「そんなの無視すればいいのに」
「そうもいかないんじゃない? 圧力とか上下関係とか色々あるだろうし」
「なによ。同情しているなら、五反田君が参加すればいいじゃない」
「僕が? 冗談じゃないよ。そんな国の原発推進パフォーマンスの為に、どうして協力しなくちゃいけないのさ」
それを聞くと、園上さんは少し止まった。
「なによ? その“国の原発推進パフォーマンス”ってのは……」
そして、眉を歪めて五反田を見た。ちょうど、そんなところだった。突然、唄枝さんが声を上げて、その会話に割って入ってしまったのだ。
「ねぇ、皆! ちょっとこのサイトを見てよ! 凄いよ! パレオ・ダイエットだって! 原始時代と同じ食習慣を執る事で、健康になるんだって。健康の為には炭水化物は一切、食べないで、肉とか野菜とかばっか食べた方が良いんだって!」
どうやらさっきまで熱心に唄枝さんが見ていたのはそんなサイトだったらしい。会話を中断された所為もあったのかもしれないけど、園上さんは苛立たしげな感じで、即座にそれに反論した。
「もし本当に炭水化物がいけないなら、米をいっぱい食べてる日本人の平均寿命はもっと低くなるはずでしょうが! 精進料理しか食べないで長生きしているお坊さんは、どう説明するのよ?」
唄枝さんの言うそのサイトを見もしない。五反田もそれに続ける。
「そもそも現実に、そんな生活が送れるはずがないしね。社会の皆が、炭水化物を食べるのを止めたら、経済はどうなるんだ? 食糧制度は破綻するよ」
同じくそのサイトを見もしない。唄枝さんは軽く「うう…」と呻いて黙った。多少、容赦がなさ過ぎると僕は思ったけど、何も言わなかった。
「そんな事よりも、五反田君。さっきの話の続き。“国の原発推進パフォーマンス”ってなによ? どうして、私達が原発のシンポジウムに参加する事が、国のパフォーマンスになるの?」
それを聞くと、五反田は少し考えるような仕草をした後でこう言った。
「例えば、さっき唄枝ちゃんが見ていたサイトだけど、自分達の主張にとって都合の良い話だけが並べてあったはずだ。もちろん、自分達を有利にするために。国は原発でそれと同じ様な事をやっているんだよ。原発に関するシンポジウムもやっているみたいけど、あまり知識のない人を討論の相手に呼んで説き伏せたりしている。多分、今回もそれと同じじゃないかな?
まぁ、僕も全てを知っている訳じゃないけど、少なくともそんな記事を一回は読んだ事があるよ。つまりは、そういうのって原発推進の為のパフォーマンスなんだね。本当の討論じゃなくて、学生側が負ける前提のプロレスみたいなもん」
唄枝さんの言っていたサイトを見もしないで語る内容じゃないだろ…… とは、僕は思ったけど、やっぱり何も言わなかった。代わりに、こう言ってみる。
「原発にとって、都合の良い話っていうと、CO2を出さないとかか?」
「まぁ、それもあるだろうね」
それを聞くと、園上さんがいきなりキーボードを激しく叩き始めた。どうやら、検索エンジンで何かを調べているようだ。直ぐに目的のものを見つけたようで、こう言う(この辺りは流石“ネット文化研究部”だ)。
「その話、反論があるみたいよ。原発は発電時には確かにCO2を出ないけど、ウラン燃料を製造するまでの過程で、CO2を出すって。ウランを取る為には、膨大な量の採掘が必要になるからだって…… まぁ、それでも、火力発電所に比べれば少ないのかしらね? ちょっとその辺りの詳細は不明だけど」
それを聞くと、五反田は言った。
「まぁ、そういう原発にとって都合の悪い話は伏せられたままで、そのシンポジウムは行われるのだと思うよ。多分だけど……」
それに唄枝さんが質問する。
「どうして、伏せるの?」
「原発を推進したいから、不利になる情報は出さないんだよ。まぁ、国に限らず、多くの団体や人が行っている常套手段だね」
そう五反田が言い終えると、園上さんが言った。
「なんか、ちょっと気に食わないわね」
その時、僕には彼女のおでこと目がキラリと光ったように思えた。もちろん、錯覚だろうけど。彼女はバンドで前髪を上げているから、おでこが目立つのだ。因みに、髪形はロングだ。
「気に食わないって、何が?」と僕。
「だって、それって、私達が学生だから容易く論破できるだろうってなめられているって事でしょう? 高校生ならどうせ大した知識なんか持っていないだろうって」
五反田がそれにこう言う。
「高校生を呼ぶのは、それだけじゃなくて、次世代の代表みたいな感じで呼ばれるのだろうと思うよ」
僕は軽く頷いた。
「なるほど。それで“次世代の若い人の意見もちゃんと聞いているぞ”って体裁にしたい訳か」
唄枝さんが疑問を口にする。
「勝敗の決まっているプロレスを見せて、そんな説得力があるかな?」
園上さんがそれに言った。
「あんたみたいにあっさりと騙される人もいるのよ。これだけ情報が散乱している世の中なのに、なんで情報に対して慎重に向き合う姿勢がないのかしら? 不思議よね」
それから彼女は腕組みをすると、こんな事を言い始めたのだった。
「なんだか、そういうもんだと思うと、邪魔したくなって来たわね」
その言葉を不思議に思ったのか。「どういう事?」と唄枝さんが尋ねる。因みに、その時五反田はいかにも嫌な予感がするといったような顔をしていた。そういう僕も嫌な予感を覚えていたのだけど。
「ねぇ、そのプロレスを、真剣勝負にしてやりたくない? 真っ当な論戦にして、国側を論破してやりましょうよ」
園上さんは“炎上姫”の異名を持っている。歯に衣着せぬ発言で、掲示板やらブログやらを直ぐに炎上させてしまうのだ。そんな性格だからか、こういう事にも我慢ができないらしい。
「馬鹿にされたままなんて、癪に障るじゃない」
……単に負けず嫌いで、性格が悪いだけかもしれないけど。
五反田が言った。
「でも、相手は学者だろう? 僕らが参加しても相手にならないのじゃない? インターネットがあれば対抗できるだろうけど、もちろん、見ながら論戦なんて許してくれないだろうし」
それを聞くと彼女は得意そうに笑った。
「それがね。一人、化け物みたいな人を知っているのよ。知合いの知合いだから、詳しくは知らないのだけど」
つまりそれは、ほとんど知らないって事だ。話を聞く限りでは、物凄く不安になる。
「それって、何処の誰?」
僕がそう尋ねると、彼女はこう答えた。
「綿貫の知合いの吉田って男子高校生よ。あいつと同じ高校だって。変わった知識をたくさん持っていて、一部の教師からは恐れられているらしいわ」
「はぁ」
“綿貫”というのは彼女の友人で、僕らとは別の高校に通っている。僕もあまり知らないのだけど、一癖も二癖もある人らしい。
その後で五反田が訊いた。
「つまり、その吉田って人にシンポジウムに出てって頼むの?」
「まぁ、そのつもりだけど、あの女の事だから、こっちからも出さないと納得しないでしょうね」
「じゃ、誰が出るの?」
そう五反田の質問を受けると、園上さんは僕と、それから唄枝さんを見た。その視線の意味を察して僕は言う。
「いやいやいや、待ってよ、園上さん。その選択の理由が分からないよ」
「理由ならあるわよ。まず、稲塚君は演劇部員ってこと。皆の前で論戦するのなんて演劇みたいなもんじゃない」
「なんだそれ? ちょっと強引すぎるよ!」
その僕からの抗議を無視して、彼女は続けた。
「でもって、唄枝は子供っぽい外見だからよ」
それに唄枝さんはこう返す。
「わたし、そんなには子供っぽくないと思うよ。少しくらいは子供っぽいかもだけど」
園上さんはそれを意に介さない。
「大丈夫。凄く子供っぽいから」
「そうかな?」
「そうよ」
それを聞いて、五反田が訊いた。
「どうして子供っぽいと、シンポジウムに出ることになるの?」
すると腕組みをしながら偉そうに園上さんは言った。
「そんなの分かり切っているじゃない。子供っぽい外見の女の子に論破される事により、相手に最大級の屈辱を与えられるからよ!
観客だって、“えー! あんな子供に言い負かされているわ!”って、そう思うでしょう。原発の信頼性を下げられるわ」
……なんで、こういう意地の悪い発想を、すんなり思い付くのだろう? この人は?
それから僕は言った。
「何にせよ。それって、相手を論破できる前提だよね? なら、そもそも僕らには無理じゃないの? さっき聞いた吉田って人にならできてもさ」
ところが、それに彼女はこう返すのだった。
「大丈夫よ、稲塚君。何故なら、人間は学習できる生き物だから!」
彼女は何を言っているのだろう? と僕は疑問に思った。そして、さっきよりも更に悪い予感を覚えたのだった。
吉田誠一という男子高校生が部室に訪ねて来たのは、次の日の放課後の事だった。園上さんの友達の綿貫という女子高生と、そして村上アキという男子高生も一緒だ。因みに、村上君という彼は一年生だ。園上さんの話によると、原発シンポジウムと彼女が計画したそこでやる“悪戯”の話をすると、綿貫さんはとても面白がったのだという。それで、早速やって来たらしい。
僕は初めて見たけど、変人だと聞かされていた綿貫というその女生徒は案外普通に思えた。もっとも、人見知りが激しい性格だとも聞いているから、慣れてくれば変わるのかもしれない。村上という男生徒も普通に見え、確りしているし素直な印象を受けた。ただ、吉田という男生徒からは少しばかり変わった印象を受けたのだけど。
“猫みたいだな”
と、僕はそう思った。彼の個人主義でマイペースな雰囲気が、僕にそう思わせたのかもしれない。
「では、説明を始めたいと思う」
吉田誠一は軽い挨拶を済ませた後、席に着くなりいきなりそう言った。その“説明”とやらを聞かなくちゃならないのは、主に僕と唄枝さんだ。これから彼は原発の問題点やメリットについて色々と説明をするのだ。原発シンポジウムで相手を論破できるレベルにまで、僕らをする為に。つまり、園上さんは僕らに原発についての勉強を強要したのだ。そしてその為に、吉田誠一も協力してくれる事になって、早速、今日来てくれたとそういう訳だ。まぁ、原発シンポジウムまで間もないからね。
正直、断ってくれても良かったのだけど。お蔭で、貴重な自由時間を使って勉強をしなくちゃならない。
吉田君が口を開いた。
「まず、原発シンポジウムについての僕らの態度から明確にしたい」
その吉田君の言葉に、園上さんが疑問符をともなった声を上げる。
「態度?」
「そう、態度。議論に臨むと言っても、色々な態度があるだろう? 真面目にやるとか、茶化すとか、できるだけ公平にやるとか。それを決めなくちゃならない」
「ああ、そうねぇ」
そう園上さんは応えたけど、恐らく、そこまで深くは考えていなかったのだろうと思う。多分、論破できればそれでいいやくらいに思っていたのだろう。吉田君は続ける。
「うん。いきなりだけど、例えば仮に僕がこんな主張をしたとしよう。“日本に原発があるのは、アメリカの策略によるもので、原発は日本の自由を奪う為の首輪だ”と」
皆はその吉田の言葉に変な表情を浮かべた。どんな意味があるのかまったく分からなかったからだ。
それに唄枝さんが疑問の声を上げる。
「なに、それ? そんなはずがないじゃんか」
「そうかい? だけど、冷静になってよく考えてみてくれ。原発を抱えたまま日本は戦争ができるだろうか? もし、原発が狙われたら大惨事だし、パニックも心配だ。単独で戦争をするのは難しそうに思える。アメリカの助けが必要になるね。こう考えると、日本に原発がたくさんあるのは、アメリカにとって都合が良さそうに思える」
それを聞くと唄枝さんは「うーん」と、声を上げた。さっきの自分の言葉が、簡単に揺らいでしまったみたいだ。駄目押しに吉田君はこう言う。
「その証拠に、日本だけじゃなく、アメリカの影響力が強い韓国にも原発がたくさんある。更にアメリカに傾倒している自民党政権は、原発推進に前向きだ。これは、もしかしたら、アメリカからの要望なのかもしれない。実際、自国では縮小傾向にあるのに、アメリカが日本に原発推進を促した事もある」
そこまでを聞いて唄枝さんは「ふーん、なるほど。確かにそうかもしれない。恐いねー」などと言った。
……簡単に説得されちゃった。
そこで五反田が堪りかねたように口を開く。
「いや、ちょっと、流石にそれは論理の飛躍が過ぎるのじゃないかな?」
すると吉田君は「そうだね。僕もそう思う」とそれをあっさり認めてしまったのだった。唄枝さんは「え?」と声を上げる。多少、ショックを受けたような顔だ。
「僕が言いたいのはね。こんな感じで、自分にとって都合が良い情報だけ提示していけば、もっともらしい理屈をつけるのは簡単にできるって事なんだ。そして、それに騙されてしまう人もいる。
ただし、そうは言っても、先の陰謀論を完全に否定できるだけの明確な証拠を、僕は提示できないけどね」
そう吉田君が言い終えると、綿貫さんが腕組みをしながらこう訊いた。
「で、結局のところ、それがどうしたの、吉田君? 確か、議論する上での態度の話だったわよね?」
事前に打ち合わせしなかったんかい! と、それを聞いて僕はそう思う。印象、そのまんまのマイペースだ、この人達。吉田君は答えた。
「うん。多分、国側は原発シンポジウムでこういう態度で来ると思う。つまり、自分達にとって都合の良い情報だけを提示して、原発推進を有利にしようとする」
それに五反田は頷いた。「まぁ、そうだろうね」と、そう言う。こいつも以前に同じ事を言っていたから、同意したんだろう。園上さんがそれにこう続けた。
「なるほど。だから、私達もそれに対抗してやろうってのね。原発反対に都合の良い情報だけを提示して……」
だがしかし、それに吉田君は首を横に振るのだった。
「いや、違う。できる限り、そういうのは避けようと思う」
「なんで?」
「そういう態度にもデメリットがあるからだよ。原発賛成派も原発反対派も先に僕が言った、都合の良い情報だけを提示するって手段をよく使っている。そしてその為に信頼を失っている。
そういう卑怯な手段じゃなくて、不都合な情報も正々堂々提示して、その上で出した結論の方が信頼は得やすいはずだ。実際、頭の良い人間には、その方が同意を得やすいという心理学の研究結果もあるよ。
どうだろう? この僕の提案に同意してくれるだろうか? 僕らは正々堂々という態度でいくって」
そう尋ねられて、皆は園上さんに注目した。そもそもの発起人は彼女だからだろう。その皆からの視線に圧されるように、彼女は「ま、こっちは一方的に頼んでいる立場なんだし、反対する理由はないわよ」とそう言った。吉田は頷くと言う。
「オーケー。それじゃ、原発問題の勉強をし始めようか。と言っても、全てを勉強している時間はないだろうから、重要な点だけをピックアップしていくよ」
それから吉田誠一は、原発問題に絡む事柄に関して、色々と説明をし始めた。どうも彼は単に重要な点を語るだけじゃなく、原発賛成派が主張するだろう内容を予想して、それに合わせて説明をしているようだ。しかも、マイペースであるにも拘らず、とても分かり易かった。それで僕は“なるほど、この吉田って人は化け物だ”とそう思ったのだけど。
しばらくが過ぎた辺りで、僕にふとある疑問が浮かんだ。一緒に来ていた村上アキという一年生。何故か、彼が吉田君の説明を熱心にノートパソコンに打ち込んでいるようだったのだ。どうして、そんな事をやっているのだろう?
それでそれを質問してみると、綿貫さんがこう答えた。
「ああ、それはね。一つには彼に議論の為のシナリオを書いてもらうって事があるわ。その為にここで一緒に勉強してもらっているの。その方が効率が良いから」
「議論の為のシナリオ?」
「そう。議題が何かは既に通知されているみたいだから、議論の展開とか流れを予め想定して、シナリオを仕上げる。もちろん、そのシナリオ通りに進むとは限らないけど、少なくとも参考にはなると思うから、読んでおいて。それと、彼にもそのシンポジウムに参加してもらうつもりでもいるから」
五反田が「どうして、彼まで参加するの?」とそう尋ねる。
「いや、吉田君が最後まで議論に参加できれば良いのだけどね。そうとは限らないから、その為の助っ人よ。うちの村上は、それなりに頭が回るから」
「参加できなくなる可能性もあるの? どうして?」
これを訊いたのは僕だ。
「吉田君に手加減しろって言っても多分、無理だろうから、その可能性は大いにあるとわたしは思っているのよ。
ただ、ま、そうなったら、そうなったで、その方が面白いかもしれないけど… ふふふ」
その綿貫さんの言葉を聞くと、村上君は大きく「はぁ」とため息を漏らした。
「でも、結果として、僕の労力が膨大になるじゃないですか! 勉強してシナリオを書いた上に議論に参加なんて!」
「文句を言わない。それがあなたの我が部活動における生態系的位置付けでしょうが!」
「なんですか? 生態系って!」
それを聞いて園上さんが言った。
「なるほど。面倒な事は他人に押し付け、自分は何もしないで楽しもうとは、流石、綿貫。いつも通りね。このパワハラ女が」
それに綿貫さんは返す。
「そういうあんたもね、園上」
二人、同時に「フフフ…」と笑う。“なるほど、この二人、友達同士な訳だ”と、そのやり取りを受けて僕は思った。てか、綿貫さんは、やっぱり変な人だったみたい。
……それからも吉田誠一の講義は、放課後に何日か続き、それに村上君の作ってくれたシナリオも合わせて、なんとか議論に参加できるだけの状態に持って行く事ができた。唄枝さんに関してはよく分からなかったけど、少なくともあまり緊張しているようには思えない。そして、いよいよ原発シンポジウムは開かれたのだった。
原発シンポジウムで行われる、パネルディスカッションは高校生VS専門家という形式で行われるようだった。高校生は全員で11人。高校生の中にももしかしたら原発賛成派がいるかもしれないけど、一応、高校生達は原発反対派という雰囲気になっている。詳しい説明がなかったから、その辺りの事情は分からないけど、そんな感じで議論は始まるようだった。
予算の都合か、それとも高校生の相手だからこの程度で充分だと思ったのか、原発賛成派の専門家は二人だけだった。一人は原発の専門家で長高さん、もう一人は経済の専門家で井家田さんというらしい。二人とも見た目は穏やかそうだった。好印象を与える為に、そういう人を選んだのかもしれない。
ライトに照らされた明るい舞台。その上に並べられてある椅子。そこに座っている討論者達。そして、薄暗い観客席と、座っている人々のざわざわとした雰囲気。空席がある事はあるけど、それでも6割以上の席は埋まっている。園上さんには“討論会が演劇みたいなんて強引すぎる”と文句を言ったけど、僕はその時、その場に演劇に近い何かを感じていた。
僕が演劇部に入部した理由の一つは、舞台の上のこの何とも言えない緊張感が好きだからだ。そして、そこに至って、僕はようやく奮い立ち始めたのだった。
“観客達を楽しませたい。良い舞台にしたい”
そういう場ではないと頭では分かっていたけど、感情がそれに追いつかず、そんな風に僕は興奮していた。
僕らの中では吉田君だけが一人前の席で、僕も唄枝さんも村上君も後ろの席だった。本当を言えば、もう一人くらい前の席だった方が、この“演劇”には都合が良いのだけど、贅沢は言ってられない。吉田君が前の席ってだけでも充分だ。
それに、彼は途中で退場する事になるのかもしれないから、その席を埋めるように唄枝さんを移動させられれば、面白い効果にもなるだろう。
やがて、その内に進行役のような人が舞台の上に出て来た。まるでこれからパーティにでも参加するような出で立ちで、僕には多少場違いに思えたけど、ほとんどの人はあまり気にしていないようだった。そして、その人はそれから、パネルディスカッションがこれから開かれる旨をマイクで告げたのだった。
一斉に拍手が起こる。
僕は演劇の時と同じ様に、俄かにそれに興奮し始めていた。そして、進行役の人が、原発賛成派の二人を紹介して僕らが高校生である事を説明すると、いよいよパネルディスカッションが始まったのだった。初めの議題は『原発の安全性について』。
さて。
一幕目の主役は、吉田誠一だ。
議長がまずは高校生側からの意見を求めた。分かっている。議長は“意見”とそう言ったけど、本当は意見ではなくて“質問”なんだ。高校生の一人が挙手して立ち上がると、緊張した面持ちでこう言った。
「福島の事故で、原子力発電所の管理体制に非常に不安があると知りました。果たして、このまま原発を稼働し始めてしまって良いのでしょうか?」
なんと言うか、垢抜けていない感じが実に高校生らしくて、演劇的に観てとても良いと僕は思った。いや、演劇的に良くても仕方ないのだけど。
長高さんが手を上げると、自信に満ちた表情でそれにこう答えた。
「確かに福島原発事故以前の体制には問題がありました。ですが、それを反省し、今では新しい安全基準が作成されています。科学的に考えて、問題はありません」
それに別の高校生が手を挙げる。
「問題がないと言いましたが、今でも多くの人達が原子力発電所に対して不安を抱いています。もし、安心なのだとすれば、どうしてそういった人達が多くいるのでしょうか?」
長高さんはゆっくり頷き、まるで“その疑問はもっともだ”とでも言いたげな顔で、説明をする。
「福島原発事故は、非常に大きな事故でした。その被害は計り知れず、恐れるのは無理もない。その印象が皆の中に強烈に残っているのでしょう。ただ、それは科学的な判断ではありません。飽くまで感情的なものです。客観的、科学的に分析するのなら、原子力発電所の安全基準は信頼がおけるものです」
質問した高校生達は何も返さなかった。いや、返せなかったのかもしれない。彼らは明らかに緊張していたし、専門家を名乗る人間から自信に満ちた口調でこう断言されれば気圧されてしまって、言い返せないものだろう。恐らく、この展開は原発シンポジウムの運営側の狙い通りじゃないかと思う。だが、ここで異変が起こったのだった。彼、吉田誠一が手を挙げたのだ。
吉田君は少なくとも見た目ではまったく緊張しているように見えなかった。それに、少し怒っているようにも見える。聞いた話では、彼は科学に関してのいい加減な説明を聞くと我慢していられない性質らしいので、その所為かも知れない。
「“科学的”と言いましたが、科学と一口に言っても、帰納主義や確証主義、実証主義、反証主義、道具主義と様々にある訳です。果たして、長高さんの言われる“科学的”とは、何主義を指しているのでしょうか?」
吉田君は淡々とそれだけを語った。長高さんはそれを聞いて、頬を引きつらせる。やっぱり怒っている。容赦ない。多分、彼は長高さんに科学哲学の知識がまったくない事を予想した上でこんな意地悪な質問をしたのだろうと思う。
……いや、もしかしたら、素でもこうなのかもしれないけど。
「その質問が今、この場で重要でしょうか?」
少しの沈黙の後で、長高さんはそう逆に質問をした。会場内がややざわついたから、きっと焦って誤魔化そうとしたのだろう。吉田君は答える。
「重要です。何故なら、原発賛成派の方々が“科学的”という言葉の意味を誤っていたなら、新安全基準は科学的に安全性があるとは言えなくなるからです」
やっぱり容赦がない。
少し迷ってから、長高さんは応える。
「何かの主義という訳ではありませんが、世間一般で言われている“科学”の事です。そういった認識ですね」
吉田君は腕組みをすると「世間一般の“科学”ですか?」とそう返した。その言葉に、長高さんは明らかに怯んだ。どうやら、吉田君の事を恐れ始めているようだ。彼は続ける。
「すいませんが、それが何か僕には分かりません。多分、他の皆もそれは同じだと思います。
科学の登場以前は、頭の中で考えただけの事…… これを思弁的思考と言いますが、それがそのまま正しいと社会で認められてしまっていました。
例えば、アリストテレスは“物体は重ければ重いほど速く落下する”と考えました。そして、彼の自然哲学とキリスト教が結びついて誕生した中世スコラ哲学においてもそれは正しいと認められ、社会的な承認を得ていた。ところがこれは、ご存知でしょうが、後に間違っている事がガリレオ・ガリレイによって証明されました。その当時は、まだ“科学”は生まれていませんでしたが、近代科学の萌芽とも言える帰納主義によって、思弁的思考が否定されたのです。もっとも、ガリレオ自身は思弁的思考も多く用いていましたが、とにかく、思弁的思考だけでは認められず、実験や調査をして確かめなければ、それが正しいと認めるべきではない……」
そこまでを吉田君が語ったところで、議長がそれを止めた。
「君、ちょっと待ちなさい」
「何でしょうか?」
「その説明が、ここで何か意味があるのですか?」
「あります。“科学的”とは、何を意味するのか、それを明確化しておく必要があります。共通認識をつくり上げなければ、議論はすれ違って終わってしまうでしょう。それほど時間はかけませんので、安心してください」
長高さんはそれに何も言わず、経済の専門家だという井家田さんは何かを言いかけたが、結局は何も言わなかった。吉田君は続ける。
「頭の中だけで考えた結論、或いはコンピューターでシミュレーションしただけの結論が、実際に正しいかどうかを検証する。その手続きを経てなお正しいと認められたものこそが、科学的に正しいと呼べる。
具体的に何々主義と言わないのであれば、科学史に照らして考え、世間一般の“科学的”の認識は、こういったものだと僕は思っていますが、どうでしょうか?」
それに誰も何も返さなかった。その代わり“こいつは、何者なんだ?”という目で皆は吉田君を見ている。少し愉快だった。少し待ってから、吉田君は続けた。
「では、その“科学的”の認識を原子力発電所の新安全基準に当て嵌めてみましょうか。確かに、新安全基準は、福島原発事故の反省に基づいて作成されているのでしょうが、本当にそれで安全だと言えるのか、実証実験によって確かめられてはいません。何故なら原発には、災害の実証実験を実施する事が不可能だからですね。
要するに、原発の新安全基準は、科学的にその妥当性が証明されてはいません。証明する事が不可能なんです」
それに長高さんは反論した。首を横に振りながら。
「いや、それは違う。ちゃんと専門家が検証をしている。これは、充分に科学的検証と呼べるもので……」
「それは科学ではなく、思弁的思考ですね。それに、もし充分な検証が可能だと言うのなら、どうして福島原発事故は起きたのでしょう? もし検証が可能なら、発生前に問題点が洗い出され、事故は防げていたはずです。また、実際に原子力規制委員会は、新安全基準を護っても、原発の絶対的な安全性は確保できないと明言してもいます。その言葉は、科学的に正しい。安全性は確保できません。そもそも“ない”事を証明するのは、非常に難しいのでそれは当たり前なのですがね」
吉田君がそう言い終えると、会場は彼の弁舌に気圧され、すっかり彼の意見を認める雰囲気になっているように思えた。長高さんは顔を真っ赤にしている。さっきまでの穏やかそうな表情が消えている。
「例え科学的に安全性が証明できなくても、社会通念上、安全だと判断できるのであれば、それで充分なんです」
それから声を荒げてそう言った。それに反論して吉田君は止めを刺すかと思ったのだけど、意外にも彼はその言葉を認めたのだった。
「なるほど。確かに原子力発電所には、何十年も運転していたという実績がありますね。そういう意味では、その考えを完全に否定する事は僕にはできません。短期間に絞るのであれば、安全だと言ってしまっても良いのかもしれない」
少しだけ、吉田君のその言葉は、怒りだしそうな様子の長高さんを気遣ったものかもとも僕は思ったけど、彼はそんな性格ではないと思い直した。
これはきっと“有利な情報だけでなく、不利な情報も提示して正々堂々論じる”という初めに彼の表明した態度を全うする為の発言なのだろう。
因みにこの時点で、吉田君以外の他の高校生が発言しそうな気配はまったくなくなっていた。まぁ、こんな弁舌を聞かされたら、何も言えなくなるのは分かる。もっとも、それは狙い通りなのだけど……。これで、イレギュラーが入る要因を減らせる。
「そうでしょう。実際に、問題になるのはそこですからね。“科学的”という表現は、正確には間違っていたかもしれないが、それでも社会通念上で安全と言えるのなら、それは誤りではないのです」
安心したような満足したような顔で、長高さんはそう言った。何とか威厳を取り戻せたといった感じだ。しかし、それから続けて吉田君がまた口を開いたのだった。長高さんの表情が恐怖に歪むのを僕は見逃さなかった。
「ですが、それでも問題はあります。
まず、“短期間の利用”というその“短期間”が何を意味するのか、判断が難しいという点が一つ。そして、ここ最近になって、以前にはなかった原発の不安要素が生じて来ているという点がもう一つ」
それに長高さんは何も返さなかった。いや、返せなかったのかもしれない。“また高校生相手に言い負かされる”と思ったら、恐くて反応ができなかったのだろう。井家田さんも何も言わない。仕方ないと思ったのか、議長が二人の代わりにこう尋ねた。
「その原発の不安要素とは、何ですか?」
吉田君は淡々と答える。
「ここ最近、日本各地で火山活動が活発化しています。東日本大震災の時は、その兆候はほとんどありませんでした。極一部の専門家が不安に考えていたくらいです。だからこそ“想定外”という言い訳ができました。ですが、今日本で起こっている異変は、誰の目にも明らかです。そしてこれは、明らかに過去の状況と異なっている。つまり、過去の実績はあまり参考にならないという事です。火山の爆発や大地震がまたあるかもしれない。そして先に説明した通り、その時に原発が耐え切れるという保証はない」
それに長高さんは反論した。
「原発の新安全基準は、地殻変動を想定しているのだから、それについては問題がないはずです」
吉田君は首を傾げる。
「そうですか? 僕にはとてもそうは思えません。何が起こるか分からない状況下で、原発を稼働させる事は、明らかに危険のように思えます。それに、百歩譲ってそれを認めるにしても、まだ懸念があります」
「何ですか?」
「過去とは大きく状況が変わった事がまだあるのですよ、長高さん。“集団的自衛権の行使容認”によって……。
日本はこれまで、あまり敵をつくらない社会でした。だから、外国のテロ組織の標的になるケースは極めて少なかった。ですが、ここ最近でそれが変わってきました。もちろんそれは“集団的自衛権の行使容認”抜きにしても言える事ですが、それによって間違いなくテロの標的になる可能性は上がりました。そして、アメリカの同時多発テロの事案を考慮に入れるのなら、原発への航空機テロも警戒しなければいけない。これは国際的に認められている主張です。実際、航空機が乗っ取られるまたは乗っ取られたのではないかと思われる事件が同時多発テロ以降も何度も起きていますからね」
そこで一度発言を止めると、吉田君は何かを確認するように会場を見渡した。
「しかし、それでも、航空機の激突に原子力発電所が耐え切れるのなら、問題はあまりないでしょう。実際、新基準では航空機テロへの対策が義務付けられているようです。もしその対策が充分なら、心配は何もいらないかもしれない。
が、では実際にどんな対策が執られているのだろう?と思って僕は調べてみたのですが、外部に電源や冷却装置を確保するといった事や、指揮命令系統の強化といった程度の事しか載っていませんでした。航空機の墜落への対策として、これでは不充分なのは明らかです。だからなのでしょうが、もし航空機が原発に激突したら、悲惨な事態になるといった事を訴えている人が多くいます。
もちろん、僕は一介の高校生に過ぎません。だから、調査能力にも限界がある。もし、長高さんがこれについて何か知っているのであれば、どうか教えて欲しいのですが」
その吉田君の言葉に長高さんは、何も返さなかった。つまり、そんな対策は執られていないか知らないのだろう。ただ、常識的に考えれば、もし対策が執られているのなら、もっと広く公表しているだろうし、原発の採算性は急激に悪化しているはずだから、何も対策は執られていないと考えた方が良さそうだ。つまり、もし航空機テロの標的に原発がなったなら、その時点で福島原発事故級の悲惨な状況を覚悟しなければいけないという事だ。
吉田君が駄目押しのように付け足す。
「更に言うのなら、もし仮にもっと確り航空機テロ対策が執られていたとしても、やはり実証実験が不可能である点を考えるなら、その安全性は保証できません。また、これから先、新たな兵器が開発され、原発を容易に破壊できるようにならないとも限らない」
そう言い終えると、それから吉田君は、黙って長高さんの事をずっと見続けた。ほとんど一人だけ発言していた彼が黙ったので、誰も声を出す人がいなくなってしまった。会場はまるで凍りついたように静かになる。そして、やがてガヤガヤという声が客席から聞こえ始めた。客達はこの沈黙から、吉田君の優勢を感じ取っているのだろうと思う。そして、こう思っているのだろう。
“……やっぱり、原発は危険なんだ”
やがて、恐らくは何か言わなければと思ったのだろうか、長高さんが口を開いた。
「その心配はいりません。合同演習など、テロ対策は行われています」
吉田君はそれに首を横に振る。
「それは航空機テロの対策ではありま……」
そしてそう言いかけたのだが、それを言い終える前に議長がそれを遮ってしまった。
「はい。初めの議題はここまでにしましょう」
これは、ボクシングで言えば、タオルを投げ込んだようだものだ。つまりは、ほとんど国側が負けを認めたようなものだろう。吉田君が専門家を論破した状態にあるのは明らかだった。つまり、安全性を考えるのなら、原発には極めて高いリスクがあるという事だ。少なくとも、この場ではそういう結論に達したという事になる。
もちろん、専門家を論破した吉田君は凄いのだろうけど、それは理論的事実は“誰が言っても変わらない”という事なのかもしれない。赤ん坊が言おうが、総理大臣が言おうが、“1+1=2”だ。“0”になったり“3”になったりはしない。時々、肩書きを根拠にして、あたかもその人の考えが間違っているように吹聴する人がいるけど、だからそれは絶対におかしい。人間は肩書きで思考する訳じゃない。実際、専門家の意見が間違っている事だってよくあるんだ。専門家の意見を参考にするのは有効であるにしても、無根拠にそれを盲信する態度は改めるべきだ。
議長が議論を強引に切り上げた事で、少しだけ会場が騒がしくなっていたけど、構わず議長は場を進行させた。次の議題を発表する。次の議題は『原子力発電所の経済性について』。
第二幕の始まりだ。
この第二幕ついては、僕も発言する予定になっていた。
「――では、井家田さん。ご意見をどうぞ」
さっきは高校生から意見を言ったけど、吉田君を警戒してか、それとも元々の予定だったのか、今度は先に専門家から意見を述べるようだった。
ただ、どちらにせよ、あまり変わらないとは思うけど。
井家田さんが「では、こちらを見てください」と言うと、それから、会場に用意されていたスクリーンに棒グラフが映し出される。どうやら発電コストを示すものらしい。それによると再生可能エネルギーよりも、遥かに原発のコストは安いという事になっていた。井家田さんは言う。
「このように、原子力発電はとても安価な電源なのです。もし、仮に、再生可能エネルギーに転換したりすれば電気料金が上がり、日本は更に国際競争力を低下させるでしょう。経済の事を考えるのなら、安全を確保した上での原発の利用が望ましい」
さっき原発のリスクは高いという結論になったばかりだったので、その“安全を確保した上で”という言葉はとても白々しく響いた。そこで僕は初めて挙手をした。ようやく僕の出番だ。発言をするのが吉田君ではなかったからか、議長はとても安心した顔を見せた。僕は言う。
「原子力発電のコストが安いという事ですが、それならば、どうして日本は海外に比べて電気料金が高いのでしょうか? 福島原発事故の前からそうだったみたいですが?」
井家田さんは少しも怯まず、それにこう答える。
「日本は人件費が高いですからね。どうしても海外に比べれば高くなってしまうのです」
なんだか、もっともらしく聞こえる。本当か嘘かは知らないけど。僕はそれでは納得しない。
「では、どうして、原発比率が51%ととても高い関西電力の電気代が、原発比率がわずか15%の中部電力よりも高いのですか? もし、原発が安いのだったら、電気代も安くならないとおかしいじゃないですか」
それには少しばかり表情を歪めたけど、井家田さんはやはり落ち着いた様子で、こう答えた。
「確かに火力発電や水力発電に比べれば、原発は高いかもしれません。ですが、火力発電所は資源問題やCO2問題でいつまでも使用し続ける事はできず、水力発電は利用可能な地域に制限があります。それらを勘案するのなら、原子力発電所の利用がもっとも安価な発電手段となるでしょう」
なるほど。やっぱり嘘か本当かは分からないけど、説得力があるようには聞こえる。会場の反応も納得したような雰囲気になっていた。ところが、そこでまた吉田君が挙手をしたのだった。まだ何も発言してもいないのに、それで議長は明らかに不快感を表情に滲ませ、会場は何かを期待するような空気になった。井家田さんに表情の変化はなかったけど。吉田君は彼にこう尋ねる。
「この各種発電手段のコスト計算の内訳を教えてはもらえませんか?」
井家田さんはそれに「は?」と返す。
「計算の内訳です。どんなコストを、この計算に盛り込んでいるのか」
井家田さんはそれに何も答えなかった。すると吉田君はこう続けた。
「実は原子力発電所のコスト計算には、非常に危険な核廃棄物の処理コストや、夜間に余分に発電した分の電力を蓄える揚水発電のコストが入っていない事が知られています。特に核廃棄物の処理には、途方もない費用がかかるので、それらを合わせると、原発のコストは非常に高くなるはずです。
また、それに対して、例えば太陽光発電のコスト計算には、土地代が入っていたりする。既にある家屋等の屋根に太陽電池は設置するのだからこれはおかしいですね。その分のコストをマイナスすると、太陽光発電のコストは大幅に減る事が知られていますよ。
つまり、原発のコストは不当に低く計算されていて、再生可能エネルギーのコストは不当に高く計算されている懸念があるんです。だから、どう計算したのかその内訳が分からないと、それをそのまま信じる訳にはいかないんです」
その彼の発言がを終わると、まるでその話題を避けるようにスクリーンに映し出されていたグラフが消える。ばつが悪そうにしながら、井家田さんが言う。
「しかし、仮にそうだとしても、再生可能エネルギーの為の設備を新たに製造しなければいけない事を考えるのなら、電力に対してコスト増になる点は否めない。すると、日本経済の足を引っ張る事になる」
ところが吉田君はそれにこう反論するのだった。
「そうですか? でも、それは原発でも同じだと思いますよ。それに、経済成長がどんな現象なのか、それを考えるのならそうとも限らない事が分かりますしね」
「何?」
「余っている労働力を利用して、新たな生産物を製造する。そして、その生産物が売れて、市場を流通するようになれば、そこに新たな“通貨の循環場所”が発生し、通貨の循環量が増えます。そしてそれこそが、経済成長という現象ですね。
ここでいう、“新たな生産物”は実は別に何でも良いんです。もちろん、世の中の役に立つものが望ましいのは言うまでもありませんが、だから太陽電池でも風力発電でも地熱発電でも何でも構わないのですよ。
早い話が、太陽電池を“生産”すれば、当然ながらその分だけ国内総“生産”量が増えるという事です。国内総生産量が増えるのが、経済成長だという事は常識ですよね。再生可能エネルギーの普及で経済成長を訴えている人がいるのはだからですよ」
それに井家田さんは、こう反論する。
「しかし、そうして電気代が増えれば、日本の国際競争力が落ちるのは目に見えている」
「それはやり方によります。
例えば、再生可能エネルギーで電力の国内自給率を増やせば、油や天然ガスの輸入によって海外に流れる資金を節約できます。その節約した資金で、企業向けの電気代を安くすればいい。再生可能エネルギーのコストは、通貨は循環しているので、収入が増えるようなる点を考えれば、プラスマイナスゼロです。つまり、支出も増えるが、収入も増えるって事ですね。もっとも、国内で再生可能エネルギー生産の為の労働力のほとんどを確保する前提ですが」
それを聞き終えると、井家田さんは顔をしかめて腕組みをした。専門の経済で論戦に負ける訳にはいかないからだろう。かなり真剣になっている。
やがて口を開いた。
「君の言う理屈は分かるが、それは原子力発電所でも同じではないかな? 原子力発電所を製造する事も、国内総生産量に入っているし、それで国外に流出する資金を減らす事ができる」
ところが、それを聞くと吉田君は厳しい口調でこう指摘するのだった。
「嘘を言うのは止めてください。日本の核燃料サイクルは完全に頓挫しています。既に何兆円という規模の資金をつぎ込んでいるのに成功の芽がまるで見えていない。それどころか重大事故の可能性が危惧されています。
その為、海外に核廃棄物を処理してもらう必要があるし、ウラン燃料を輸入する必要もあるのですが、どちらも莫大な資金が海外に流出しています。
因みに、それに関連して電気代の他に原発には税金からもお金が入っています。計画が頓挫しているので、当然、無駄になっていますがね」
井家田さんはそれを聞き終えると黙った。悔しそうに歯軋りしているのが分かる。怒りだしそうだったが、吉田君は容赦なかった。
「更に考慮すべき重要な点もあります。再生可能エネルギーの多くには、維持費が非常に安価という特性があります。これから、日本社会は少子化によって労働力が不足していくと言われていますが、だからまだ労働力が余っている今の内に再生可能エネルギーの設備を整えておけば、将来世代が非常に助かるという事になります。
この影響を考慮に入れると再生可能エネルギーのコストはもっと安くなるという点にはよく注意してください。物価は変動するからなんですがね。
一方、ところが、原子力発電所にはこれがないんです。それどころかその逆です。むしろ、コストが跳ね上がる。核廃棄物の処理や廃炉などで、将来の方がコストがかかるからですね。労働力不足に陥っている状況下で、そんな事になれば悲惨な状態になるのは明らかです。
更に、ウラン資源は枯渇し続けている上に中国などの発展途上国が原発を多数製造しているので、ウラン資源のコストは高騰すると予想できます。すると、それでも原子力発電所のコストはかなり上昇します。当然、電気代も上がりますよ。日本の国際競争力は低下します。大問題ですね」
井家田さんはその吉田君の言葉に何も返せない。顔を真っ赤にしている。高校生に論戦で負けたと認める訳にはいかないが、彼の説明への反論は何も思い付かないからだろう。もう一人の専門家の長高さんは、何も言わない。経済については専門外な上に、先ほど吉田君に言い負かされて懲りているからかもしれない。
やがて、「うう…」と呻いてから、井家田さんは再び口を開いた。
「中国が原子力発電所を多数、製造しているのなら、日本もそれに負ける訳にはいかないでしょう?」
苦し紛れの言葉。
吉田君は止めを刺す。
「中国は自国にウラン資源があります。更に北朝鮮には、世界有数のウラン資源が埋まっていると言われている。だから、それだけ原発競争に有利です。広大な土地を持っているので、核廃棄物の処理も比較的やり易いでしょうしね。日本が原発で勝負すれば、それだけ不利になりますよ」
それを聞いて、井家田さんは顔を真っ赤にしてフルフルと震え始めた。それを見て、心配になったのか、議長が吉田君に向かってこう言う。
「そこの君。失礼な口は慎みなさい」
吉田君は淡々と返す。
「僕は失礼な事を言ったつもりは、少しもありませんが」
流石のマイペース。まぁ、実際、真っ当に討論しただけだから、失礼には当たらないだろう。相手の立場に配慮して手を抜けと言うのなら、討論ではなくなってしまう訳だし。
そこで井家田さんが真っ赤な顔をして立ち上がった。限界だと判断したのか、議長が言った。
「ここで、少し休憩を挟みます」
どうやら状況が芳しくないので、無理矢理、仕切り直しをするつもりらしい。
舞台の幕が閉じられていく。それから僕らは舞台袖でしばらく休むように言われたので移動をした。その舞台袖の隅の方で、二人の大人が原発シンポジウムの運営の人に、ペコペコと頭を下げているのを僕は見かけた。
近寄ってみると、どうやら吉田君の事について謝っているようだった。つまりは、この二人は、吉田君の高校の教師なのだろう。先生も大変だ。
やがて謝り終えると、教師の一人が、もう一人に向けて「だから、吉田はまずいって言ったじゃないですか」とそんな事を言った。それに相手は「だって、まさか、専門家を論破できるなんて思いませんよ。しかも、二人も」なんて返している。吉田君は一部の教師達から恐れられていると聞いたけど、どうやら事実だったらしい。それから二人は、吉田君の方に向かって歩いて行った。そして、彼を説得し始めたようだ。
どうやら綿貫さんが予想した通りの展開のようだ。つまりは、吉田君は強制的に退場させられるのだろう。
しかし、もちろんこれは想定の範囲内なのだけど。
それから吉田君は、二人の教師に向かって黙ったまま頷くと僕の方にやって来て、こう告げた。
「すまないけど、僕は急用ができた事に‘なった’よ。これから先の討論には参加できない。後の事はよろしく」
怒った様子はまったくない。いつも通りにマイペースで淡々としている。予想できていた事だからか、それとも無表情に見えるだけで内心では怒っているのかは分からなかった。僕はそれに「分かった。ベストを尽くすよ」とそう応えた。
それから吉田君は、村上君や唄枝さんにも挨拶をすると、そのまま舞台袖から去って行った。そして、まるでそれを待っているかのようなタイミングで、議長が「そろそろ、討論を再開しましょうか」とそう言ったのだった。実は、本当に待っていたのかもしれない。
僕らは指示を受けて、再び舞台の上に戻った。吉田君の席はもちろん空いている。そこには唄枝さんが座ってしまった。前もって、“もし吉田君が退場させられたらこうしよう”と打ち合わせしていたのだ。つまりはこれも作戦のうち。それを係員の人が注意しようとしたように見えたけど、結局は何も言わなかった。“まぁ、いいか”とでも思ったのかもしれない。
やがて幕が再び開いた。恐らくは、吉田君の姿が見えないからだろうけど、観客達は怪訝そうな声を上げていた。議長はそれに構わず口を開く。
「では、先ほどの続きを開始します。議題は“原子力発電所の経済性について”でしたね」
吉田君がいなくなったタイミングで、井家田さんが口を開くと“邪魔者を排除した”という印象を観客に与えると判断したからか、議長はどうやらまずは高校生側からの発言を期待しているように思えた。しかし、誰も手を挙げようとしない。この空気で、発言できる人間はなかなかいないだろうから、それも当たり前だ。ところが、そこで村上君が手を挙げたのだった。
もちろん、これも計画していた通りだったのだけど。
「よく、原子力発電所VS再生可能エネルギーのような構図で語られる事が多いですが、僕はこれは実は違うのではないかと思うのです。そもそも原発はベースロード電源として優れているもので、再生可能エネルギーは補助電源として優れています。互いに得意な分野が違う。
ならば、両立という道もあるのではないでしょうか?」
村上君の意見は、原発に対して比較的好意的な見方だった。議長も専門家の二人もその言葉に安心したような顔を見せる。
因みに、ベースロード電源とは“変動せず常に供給し続ける電源”の事だ。原発は一度稼働させると自動的に反応が持続するので、ベースロード電源としては優れている。ただその代わり、電力の調整は非常に難しく、結果として夜間に無駄に発電してしまう。さっきの吉田君の説明にあった揚水発電は、その無駄な電力を蓄える為に造られたものだ。
村上君が原発賛成派にとって都合の良い意見を言ったのは、もちろん、“正々堂々、自分達にとって都合が悪い情報も提示する態度でいく”という初めに決めた方針に則る為だ。ただそれで、議長や専門家の二人は、村上君を味方だと勘違いしたようだった。
井家田さんは嬉しそうにしながら、それにこう答えた。
「もちろん、その通りでしょう。再生可能エネルギーは不安定な電源です。これにベースロード電源としての役割を担わせようとすると非常に苦労する事になる。もちろん、補助電源として有効な範囲なら、大いにその普及を促進するべきでしょうが、自ずからそれには限界があるのです。
ベースロード電源としては、原発を活用するしかないのです。原発ほど、安定した電源は他に存在しませんからね」
そこで再び村上君は手を挙げる。議長は村上君を味方だと思っているからか、機嫌良さそうに村上君の発言を許した。しかし、それから彼はそれにこう反論するのだった。
「確かに、原発がベースロード電源として優秀だという点は認めます。ですが、安定した電源だという点については、少々、納得ができません」
井家田さんは、味方だと思っていた彼のその意外な発言に「どういう事かな?」と首を傾げた。
「フランスでは冷却水不足から原発が使用停止になった事がありますし、韓国では整備不良から使用停止になった事があります。更に日本でだって、東日本大震災以前の2003年に東電が原発を全て停止せざるを得ない状況に陥りました。
つまり、原発は稼働さえさせられれば安定した電源だと言えますが、そもそも稼働できない状況に陥る事が多々あるんです。これでは安定しているとは言えません。原発を使用するという事は、電源停止のリスクを背負うという事でもあります。フランスは、隣接する国々から電力を輸入できますが、日本はできません。だから、日本での原発利用を考えるのなら、この問題点を許容できるのどうか?という点を論じなければいけない」
その村上君の言葉を聞いて、井家田さんとそして議長は固まった。味方だと思っていた相手が敵だったから…… それもあるだろうけど、多分、それだけじゃない。“また、さっきのと同じような化け物が現れた……”。きっと、彼らはそんな恐怖を味わっているのだろう。これは『再度の怪』というやつだ。『再度の怪』ってのは“のっぺらぼう”から逃げた先で、また“のっぺらぼう”に会うっていう、あの有名なタイプの怪談こと。井家田さんがそれに応える。
「それは緊急時の電源を確保しておけばいいだけの話です。実際、現在でも原発なしでやっていけていますが、だから、その対応は充分だと言えるのではないでしょうか」
村上君はそれに軽く首を傾げる。
「将来の話を考えるのなら、今現在の話だけしても駄目ではないかと思います。一体、原発をどれだけの割合にして他の電源をどれだけ確保すれば、緊急時に対応できるのか。それに、そもそも緊急時に備えられるのであれば、どうして原発を利用し続ける必要があるのか。そんな疑問も出てくるでしょう」
それを聞くと、井家田さんは腕組みをしてからこう言った。
「単独ではないが、日本は原発の技術力で世界をリードしている部分があります。これは輸出ビジネスとしてとても有効ですが、その為にも日本では原発を使用し続ける必要があるのではないでしょうか? それにCO2問題もある。緊急時の電源が石炭火力などだった場合、常に使用する訳にはいきません」
村上君はそれにこう返す。
「近年は危ぶまれていますが、日本は地熱発電の技術で世界トップクラスと言われています。ところが、地熱発電の利用はあまり進んでいない。
ならば、原発にも同じ理屈が当て嵌まるのではないですか? 日本での利用がなくても技術力は維持できるし育てられる。それに、そもそも原発輸出ビジネスに頼るべきかどうかという問題点もあります。実際、輸出に成功した先の国でも反発があると聞きます。もしも事故が起こった時の責任はどうなるのでしょう?
CO2に関しては、もし、仮に、蓄電池によって再生可能エネルギーのベースロード電源化が実現できるのなら、解決できます。難しいかもしれませんが、チャレンジしてみる価値はあると思いますが。
原発を利用するにしても、短期間の間、またはどうしてもなしでは無理だった場合に限るべきかもしれない、とも僕は思います。原発のリスクを考えるのなら、それが妥当ではないでしょうか」
そう村上君が言い終えると、場の空気は固まってしまった。井家田さんは村上君を睨みつけているように思える。しばらく待って、その膠着状態が解かれそうにないのを確認すると議長が言った。
「何か他に意見はありますか?」
僕は直感的に“ここだ”とそう思った。村上君をチラリと見てみると彼も頷いた。どうやら同意見のようだ。
僕は手を挙げた。議長が“こいつなら、大丈夫だろう”という顔になる。きっと、さっき僕が発言しても何も問題がなかったからだろう。だが、今度は違うぞ。僕は思う。僕も彼らにとっての“再度の怪”になってやる。議長が発言を認めたので、僕は口を開いた。
「原発には、安全性や経済性の他にも致命的な欠点があると言われています。その点がある限り、どう足掻こうとも脱原発は避けられないのではありませんか?」
井家田さんではなく、長高さんがそれに応える。経済ではなく“原発”というのなら、自分の担当だと思ったのかもしれない。
「原子力発電所に致命的な問題点があるとは聞いた事がありませんね。それは、一体、何の事でしょう?」
僕は答える。
「ウラン資源の枯渇問題です。長くても100年程度しかもたないと言われている。ウラン燃料が存在しなくなれば、どう足掻いても原発は使い続ける事ができません。もちろん、ウラン資源の高騰はそれよりも早くに起きるでしょうし、脱原発ももっと早くから始めなければいけない。
つまり、これはどんなタイミングで脱原発を行うのがベストなのか、という問題でしかないのですね。ウランの枯渇が避けられない以上、脱原発は既に確定しています」
長高さんはそれを聞いて固まる。井家田さんの顔を少し見たが、彼に何も反論がないのを察したのか自分で口を開く。
「核廃棄物はリサイクル可能です。その技術が実現さえすれば……」
村上君がそれに反論した。
「ちょっと待ってください。先に既に話題に上がっていますが、核燃料サイクルの計画は、既に失敗しています。高速増殖炉もんじゅはトラブル続きで運転再開のめどすら立っていないし、使用済みの核燃料を再処理する為の青森県六ケ所村の施設もトラブル続きで既に2兆円以上の予算をかけたのに、まだ一度も本格稼働していません。
それに、そもそも核燃料サイクルは、非常に危険な技術です。危険過ぎて、世界各国が諦めている。少なくとも、地震大国の日本で導入すべき技術ではないでしょう。もんじゅで危うく大惨事になるところでしたが、その教訓を忘れてはいけません」
長高さんがそれを聞いて黙ってしまう。すると、助け船とばかりに井家田さんが言った。
「確かに核燃料サイクルが実現しなければ、いずれは脱原発を迫られる事になるのは確実だが、今現在はまだウラン燃料が存在する。ならば、それは今考える事ではなく、数十年先の話なのではないかな?」
僕はそれを聞いて“よしっ!”と心の中で呟いた。そんな返しをして来る事を、僕らは予想していたのだ。
「いえ、そのタイミングは今しかありません。早くしないと手遅れになりかねないからです」
「根拠は?」
「労働力不足ですよ」
僕はそう言うと、唄枝さんの座っている席を見た。彼女を見た訳じゃない。吉田君がかつて座っていた席だから見たんだ。その視線の意味を、井家田さんも長高さんも議長も、そして会場の観客達もどうやら察してくれているようだった。
僕は言う。
「“核燃料サイクルが失敗している”という指摘と同様に、その席に座っていた彼も先に言っていましたが、労働力が余っている今のうちに再生可能エネルギーの設備を整えておけば、将来、労働力不足に陥った時に非常に助かります。ですが、逆にそれを何十年後に先延ばししてしまうと、労働力が不足している状況下で、原発の廃炉、核廃棄物の廃棄処理、再生可能エネルギーの設備投資といった事をしなくてはならないので、若い世代に過酷な労働を強いる事になるのです。
……もちろん、僕らも酷く苦労をする世代の一つになる可能性が大きい。だから、そのチャンスは今しかないんです」
僕が言い終えると、村上君が続けた。
「先にも言いましたが、飽くまで原発を利用するというのなら、短期に限るのが妥当ではないかと思います。
原発は停止中も莫大な費用がかかる上に、既に造ってしまっているので、経済だけを考えるのなら、どうせなら利用した方が得という意見は認めるべきかもしれない。
もっとも、それでも安全面を考えると非常に不安ですが。特にテロリスト対策は、いくら何でも脆弱過ぎます」
それで黙るかとも思ったのだけど、井家田さんは口を開いた。ここで黙ったら、論破された事を認めるようなものだからかもしれない。落ち着いているように見えたけど、平静を装っているだけだろう。
「投資済みで既にインフラが整っている原発の有効性を理解しているのなら話が早い。使える発電所を使わないなんて馬鹿な話です。君達は頭の良い子のようだから、それは理解できるでしょう。
利用を短期にとどめるかどうかは、再生可能エネルギーがどれだけ有効なものなのか確かめながら慎重に判断すれば良いはずです。最近でこそ成果を出しているという声も聞くが、脱原発を目指しているドイツだってとても苦労している」
僕らは敢えてそれに対して何も返さなかった。一応断っておくけど、反論が思い浮かばなかった訳じゃない。ちゃんと、こんな返答も予想して前もって考えてある。しかし、ここで発言するのは彼女の役割だと決めていたのだ。
最後の締め。“再度の怪”のクライマックス。
彼女、
唄枝さんが手を挙げた。
明らかに彼女の外見が子供っぽいからだろうか、安心をしたような表情で議長は彼女の発言を許す。きっと、いくらでも誤魔化せる高校生らしい拙い意見を期待していたのだろうと思う。
もちろん、そうはいかないけど。
彼女は口を開いた。
「“インフラが整っている”と井家田さんは言いましたが、核廃棄物の廃棄処理の設備投資はまだ済んでいないはずですよ。それはまだこれからで、しかも莫大な予算が必要なはずですが。処分場所もまだ決まっていない。もちろん核廃棄物を増やせば、その負担がより重くなるのは明らかです」
それに井家田さんはこう返す。“やれやれ、また面倒臭そうだ”といった表情で。
「原発利用を止める事が、今直ぐには困難だからこそ言っているのです。脱原発を目指すドイツだって苦労していると説明したと思いますが。そもそもそのドイツでだって、まだ原発を利用しているのですよ?」
「ドイツが苦労している点は理解できます。ですが、そのドイツはヨーロッパ経済を牽引しているとも言われています。ならば、それは大きなダメージにはなっていないのではないでしょうか? それに、再生可能エネルギーはエネルギー自給率を高めます。資源エネルギーの輸入が減り、その分は国内総生産の上昇になる。つまり、再生可能エネルギーによる経済効果が、ドイツに大きく貢献しているとも考えられます」
井家田さんはその唄枝さんの反論を聞いて、“子供のくせに…”といったような顔をした。恐らく、本当はそんな言葉を言いたいのだろう。我慢しているようだけど。しばらく考えると彼はこう言った。
「再生可能エネルギーの普及を大幅に促進させるのは、将来、もっと技術力が上がってからでも良いでしょう。焦ってやる必要もないと思いますが」
唄枝さんは直ぐに返す。
「先ほどの話を聞いていなかったのですか? 今、日本社会は急速に労働力不足状態に向かって進んでいます。つまり、時間はあまりありません。それに、そもそも技術力を上げる為には、再生可能エネルギーの普及を促す必要があるのではないですか? 正確には、再生可能エネルギーの技術力は既に充分で、蓄電池の技術力という事になると思いますが」
何と言うか、演技しているとはいえ、いつもの唄枝さんとはかけ離れていて、かなり新鮮だ。漠然としたシナリオはあった訳だけど、それでも、これだけ言えるのは凄い。
観ると、井家田さんも長高さんも議長も少しばかり顔が青ざめていた。つまりは“再度の怪”が効いて来たのだと思う。
“もしかして、この子もなのか?”と彼らは思っているのじゃないだろうか。多分、そこが吉田君が座っていた席であった事も影響しているはずだ。
「しかし、今だって苦労する人がいる事を考えるのなら、より効率の良い手段でエネルギーを得なければいけない点は明らかで」
直ぐに論破できるつもりだったのに、論破できないものだから、井家田さんは軽く恐怖を覚え始めているようだった。声が少し震えている。まさか、逆に自分がこんな子供に論破されてしまうのか? そんな悪い予感を抱いているのだろう。
「つまり、再生可能エネルギーは不効率だと言いたいのですか? 仮に百歩譲ってそれを認めたとしましょう。ですが、不効率どころかまったくの無駄に終わっている資源の無駄遣いとしか言えないような公共事業を大量に行って来た国に、果たしてそれを言う資格があるのでしょうか?
もし仮に、かつて無駄遣いした何百兆円という規模の公共事業の為の予算を、全て再生可能エネルギーの普及の為に利用していたなら、今のエネルギー問題は大幅に改善していたはずでしょう?
しかも、これからも国はその無駄な公共事業を行おうとしています。なら、その予算を再生可能エネルギーの為に使えば良い。何故、それをしないのですか?」
それを聞いて、いよいよ井家田さんは慌て始めた。このままでは、論破されてしまう。多分、必死に反論を考えている。
「公共事業を止めたら、その犠牲になる人達がたくさん出て来るのですよ。子供には分からないかもしれませんが」
なんとか威厳を保とうとしているようにも見える。唄枝さんはこう返す。
「犠牲? 公共事業は人手不足で、海外の労働者に頼っているような状態ですよ? 充分に減らせる余地はあるはずですが」
「大人の世界は、そんなに簡単なものではないのです」
そろそろ井家田さんの説明はかなり苦しくなってきた。唄枝さんは、それにやや怒った口調で返す。
「大人の世界と言われても、具体的に説明してくれなくてはよく分かりませんが、井家田さんが犠牲者を心配していると言うのなら、それについて質問をしたいと思います」
その彼女の言葉に、井家田さんは何か悪い予感を覚えたらしい。慌てて何かを言おうとした。が、その前に彼女は口を開いてしまう。
「原子力発電所には、その犠牲になっている人がたくさんいると言われています。誰もやりたがらない強烈な毒物を扱う危険な仕事ですからね、それもよく分かります。そして、病気になったという話もよく耳にします」
「それは飽くまで噂で……」
「噂だろうがなんだろうが、誰もやりたがらない仕事をやらされている人がいる点は事実でしょう?
そして、今後、原発を稼働させ、核廃棄物を増やしていけば、その犠牲になる人が更に増える事になります。しかも、労働力不足の状態ですから、かなり強引な手段を執らないと、その犠牲になってくれる労働者は確保できないでしょう。
さて。井家田さんは、どんな人達をその犠牲者にするつもりでいるのですか?」
井家田さんはその質問に明らかに青ざめていた。
「一体、何を言って……」
それを無視して彼女は言う。
「井家田さん自身がその犠牲になる気がない点を責める気はありません。誰でもそんな仕事はしたくないでしょうからね。もちろん、それは他の原発に賛成している人、推進している人、何もしない人も同じでしょう。
自分達が犠牲になる気なんてない。
しかし、だからこそ、わたしはこう問いかけているんです。
井家田さんは、どんな人達を、原発の犠牲者にする気でいるのですか?」
井家田さんはそれに何も答えなかった。そんな事まで考えてはいないだろうし、例え考えていたって言えるはずがない。
唄枝さんは言った。
「結局、その犠牲者になるのは、弱い人達なのじゃないですか? 上の方で威張っていて原発を推進している人達じゃなくて。それは、もしかしたらわたしかも知れない。村上君かも知れない。吉田君かも知れない。これを聞いている、あなたかも知れない!
さぁ、答えてください。どんな人達を犠牲にするつもりでいるのですか?」
もちろん、井家田さんは何も答えられない。また唄枝さんは言う。
「井家田さん。あなた達のように原発に賛成している人達は、そのほとんどが、漠然と“自分じゃない他の誰かが犠牲になる前提”で原発に賛成しているのじゃないですか?
そんな感覚で賛成されても、議論の質が軽すぎるんですよ!
どうか、わたし達のような原発の犠牲になる世代の事もよく考えて喋ってください!」
その声は会場全体に響き渡った。最後の方はいつも通りの唄枝さんの口調にやや戻っていたような気もする。
だけど、だからこそ、感情にも訴えられて良かったのじゃないだろうか、とも思う。
……もっとも、吉田君なら、理屈だけで理性的に納得してもらうのが一番だと言うかもしれないけど。ただ、人間に影響を与えるには、やっぱり感情に訴えかける事も無視しちゃいけないと僕は思うけどね。演劇部だけに。
その後、会場は静まり返った。専門家は二人とも何も言わなくなり、これ以上続けても無駄だと判断したのか、議長は討論会の終わりを宣言した。
その次の日。
ネット文化研究部。
その部室。
園上さんが言った。
「いや、しかし、見事に唄枝は嵌っていたわよね。あそこまで演技できるとは思っていなかったわ。稲塚君よりも実は巧いのじゃない?」
それに唄枝さんは照れて頭を掻きながら、こう返す。
「まぐれだよ、まぐれ。トランス状態に入っていたっていうか。まぁ、自分でも、少しは凄いかなぁ、なんて思っているけど」
僕と五反田はその様子をやや呆れながら見ていた。小声で僕は言う。
「僕も唄枝さんの事は言えないけどさ、あれ、大丈夫だったのかな? ついノリノリで偉い大人に歯向かっちゃったけど」
「聞いた話だと、教師達の間では問題になっているらしいよ。そのうち、誰かここに来るかもね」
実はあの原発シンポジウムは、“原発推進派の専門家が、高校生に軽く論破された”と多少なりとも話題になっていて、お蔭で学校に圧力がかかっているとかなんとか、そんな噂が流れてすらいるのだ。
相変わらず、唄枝さんは上機嫌だったけど、その僕らの嫌な予想は的中し、やがてそこに古野先生が訪れたのだった。僕は思う。“本当に来ちゃったよ”と。
「おい、唄枝奏」
入って来るなり、古野先生はそう言った。唄枝さんは嬉しそうにこう返す。
「あ、先生、今日は! わたし、シンポジウムで、凄かったでしょう?」
どうやら彼女は、褒めてもらえると思っているようだ。先生は言う。
「“凄かったでしょう?”じゃないよ。なんて事をしてくれたんだ。ああ、稲塚、お前もだ。偉い人達に対して、あんな失礼な事をやって……」
やっぱり叱る気でいるよう。
僕らにとっては予想通りだけど、唄枝さんにとってはやっぱり予想外だったらしく、「へ?」とそんな声を彼女は上げた。
「でも、先生、わたし達は正々堂々と議論して勝っただけで……」
少し涙ぐんでそう言う。
「それが駄目なんだ。大人の世界は、色々と事情があってな……」
ところがそこまでを古野先生が言いかけたところだった。園上さんが「ふーん…」とそう言ったのだ。
「なるほど。“大人じゃない大人の事情”ってやつですか。本当に、成長しない大人が多くて困りますよね、この世の中……」
頬杖をついて彼女は古野先生を見据えている。そして、それから軽くパソコンをポンポンと軽く叩いてから優しく撫でた。
「だけど、この私が誰だか分かっているのですかね? 古野先生?」
……いや、普通に高校の女生徒だよね?
と、僕は思ったけど、古野先生はたじろいでいるようだった。彼女は続ける。
「もしも、正々堂々議論した私達を叱るっていうのだったら、どんな噂がネット上を駆け巡る事になるか分かっていますよね?
さて。
どれだけの苦情がこの高校に来る事になりますかねぇ?」
それに古野先生は表情を硬くした。
「いや、園上、あのな。何も、叱ろうって言うんじゃなくてな……」
「じゃ、先生は何の用なんです?」
「いや、特に用があった訳じゃないんだ。少し顔を見ようと思っただけで……」
そう言うと古野先生は、「ハハハ」と笑って誤魔化しながら外へ出て行った。
薄らと笑いながら、園上さんはこんな事を言う。
「本当にネットが普及して、弱者が社会に抗うには都合が良い世の中になったわよね」
まぁ、この場は勝った事は勝った。けど、内申書には酷い事を書かれそうな気もする。もっとも僕らは、基本的には良い事をしたのだろうとは思うけど。
……ただ、あの程度の事で、今の現状をひっくり返せるとは思わない。
この先、この世の中は、いったい、どうなってしまうのだろう? やっぱり、次の世代を犠牲にするやり方がこれからも続けられるのだろうか?
それを思うと、僕はとても不安になるのだった。
参考文献:見せかけの正義の正体 著者:辛坊治郎 朝日新聞社
……その他にもあるのですが、雑多過ぎて書き切れません。
正々堂々、不利な情報も提示したうえで、その是非を判断する。
的確に物事を判断する際には当然求められる態度ですが、なかなか難しいですよね(構成も複雑になるし、文章量も多くなるんです)。
そういう僕も、あまりできていません。
今までやったのは「原発のメリットデメリット」というエッセイの時くらいです。
だから、その反省を込め、状況が変わった内容も追加修正し、もう一度やりたいと思ったのですが、何度もやるようなもんでもないでしょう。
そこで、エッセイではなく、小説として提示してやろうと思って、これを書きました。
ただ、小説にすると、更に構成が複雑になり、結果的にやっぱり不利な情報を載せきる事ができませんでした。本当は他にもあって、それに対する反論もあるのですがね…
ま、人間にはできる限界があるという事で…
もし、機会があったら、それも取り上げます。