今夜も休む
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勤務先の会社を出て、外気に触れると、辺り一帯に熱が滞留しているのが感じられた。外を歩き出した俺は仕事帰りに最寄のスーパーに寄り、タイムセール時の五割引のお弁当を一つ買って自宅に戻る。そして即席で作ったウイスキーの水割りを飲みながら、夕食を取った。帰宅後、欠かさずテレビを見る。二年前に地デジのテレビとDVDレコーダーを併せて買っていた。時間の許す限り、大抵映画や連続ドラマなどを視聴している。確かに疲れていた。入浴は食事後と決めている。シャンプーとコンディショナーで髪を整え、その後、ボディーソープを塗ったタオルで体を洗う。風呂上りに買い置きしていたアルコールフリーのビールを軽く一缶飲んでリラックスした。俺もさすがに疲れているのだ。会社で管理職の立場にいて、部下たちをまとめるのが仕事である。疲労とストレスはずっと続いていた。たまには息抜きを――、と思うのだが、なかなか時間が取れない。会社ではずっと仕事が溜まっていて簡単には休めなかった。ただ、夜になると午後十一時過ぎには部屋の電気を消してベッドに潜り込み、眠りに就く。俺も夜遅くまで起きていることはない。確かに眠り辛いときもある。こんなに蒸し暑い夏の夜だと、簡単には寝付けない。そういったとき、近くのドラッグストアで買ってきていた市販の睡眠導入剤を飲んでベッドに横になる。いつの間にか眠気が差してきて眠りに落ちた。そして朝の午前七時過ぎに起き出し、出勤準備をして会社へと向かう。社ではパソコンに向かい、キーを叩き続けていた。俺もさすがに疲れていて体が付いていかないこともある。だが、朝起きて出社の時間帯になると、自然と外出する態勢が出来る。キッチンでお湯を沸かし、ホットでコーヒーを一杯淹れて、飲んでから歩き出す。時間に余裕を持って自宅マンションを出、職場へと向かった。この繰り返しだ。俺も特別にぼろ儲けが出来る仕事をしているわけじゃない。単に一サラリーマンとして頑張っているだけである。こういった職種しか自分にはないと思い。
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彼女の裕香からスマホに電話が入ってきたのは、八月のお盆休みの数日前の午後二時過ぎだった。大事な会議中だったので、申し訳ないと思いながらも留守電に切り替える。俺も普段はずっとメールのやり取りをしていた。メールだけじゃ物足りないと思うことがあったのだが、彼女のスマホに電話するとお金が掛かってしまう。だから極力スマホへの電話は控えていた。その代わり彼女の自宅に設置してある固定電話は通話料金が安いので、そっちの方に電話することはある。確かに裕香が固定に出られるのは彼女の都合が付くときだけだった。俺もそう思いながら、午後九時や九時半など時間を見計らって掛ける。俺も必要な人間としか口を利かない。会社でも嫌なヤツがいるのだ。仕事上ではパートナーかもしれないが、私生活には一切干渉しない。完全に割り切っているのだった。たまに胃が痛むこともある。胃薬も飲んでいたのだが、最低限に留めていた。胃腸の不具合など人間の自然治癒力で治るからである。そしてお盆休みでも互いに都合が付く日に、裕香の部屋へと行った。互いのマンションは歩いていける距離にあるので、俺の方が訪問する。
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「裕香」
「何?」
「仕事疲れてるだろ?」
「ええ。……それがどうかしたの?」
「いや。俺も毎日きつくてね。お盆か正月、ゴールデンウイークぐらいしか、まとまった休みないし」
「誰でもそうよ。でもいいじゃない。土日とかでも会えるんだから」
「まあな。俺も君に対しては気を遣うことがほとんどないから」
笑みが漏れ出る。俺もいつもの自分と今日の自分が違うのが分かっていた。普段はずっと会社に詰め続けているのだが、こんなときは気を抜く。会社での憂さも忘れられる。綺麗さっぱりと。そして社でやっている仕事のことも頭にはなかった。何も考えないことはないのだが、少し気分が変わっている。俺も生身の人間だ。裕香も会社の女性社員で、俺と似た仕事をしている。会社員の実態は実に厳しい。ストレスや過労などが祟ることは大いにあった。オフィスにいる間はキーを叩き続けながら、食事時だけゆっくり出来る。後は仕事だ。どうやら彼女もそうだった。同じ三十代でもう若くはない。だがいいカップル同士だと思っていた。お互い言いたいことは言い合える仲なのだし、心が迷うときはメールする。そしてその日の夜、抱き合った。キスから入り、互いの感じる部位に愛撫を繰り出しながらゆっくりと。
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抱き合ってお互いオーガズムに達した後、ベッドの上に横になる。寝そべったまま、作ってベッドサイドのテーブルに置いていた水割りを飲む。タバコを吸うのだが、部屋の中ににおいが付くのはまずいと思って換気扇を回す。ゆっくりと抱き合い続けた。腕同士をしっかりと絡ませながら……。俺と裕香は恋人同士だったから、何ら遠慮は要らない。抱き合えるときはヘビのように絡んでいた。サイドテーブルに置いてあった水割りのグラスに口を付けて飲み、ゆっくりと抱き合い続ける。俺も確かに気を遣うことはあった。相手がちゃんとした交際相手であり、恋人だからである。だが一定の年数一緒にいるので、気を遣ったとしても遣いすぎることはなかった。俺も人間である。年齢相応に振舞っていた。三十代というのが仕事でもプライベートでも一番迷いやすい時期であるということも分かっていて……。
「謙次」
「何?」
「あまり仕事のことでクヨクヨ考えないでね。あたしも心配なの。あなたがそういう性格だから」
「まあな。俺もずっと苦労が続いてきたし、結構疲れてるんだ。だから今、こうやって君といられることが一番嬉しいんだよ」
「そう?じゃあこれからも好きでいてくれる?」
「ああ」
頷き、また裕香を抱く。ゆっくりと。互いにいい関係が続いているから構わないのだった。俺も昔からずっと一度射止めた恋人は逃さないようにしようと思っていたのだし、実際彼女も俺から離れることはない。その夜は水割りで多少酔っていたのだが、こういったときもある。一緒のベッドに眠った。ずっと傍にいて癒し合いながら疲れが取れる。俺たちはずっと一緒だった。これからも。ふっとグラスに目が行くと、夏場の暑さで水割りの氷が溶けてしまっている。それが室温の高さを表しているのだった。エアコンが入っていても室内は暑い。まるで蒸すように。だが俺たちは今夜も休む。多少の寝苦しさを感じながらも……。
(了)