第九章
第九章
火曜日、流磨は定時刻に家を出て、学校へ向かうバスに揺られていた。
学生や会社員といった他の乗客達を眺めながら溜息を吐く。
気が重かった。
学校の皆と上手く接することが出来るのかと考える度に苦い溜息を繰り返している。
暫く学校を休んでゆっくり気持ちの整理をしたかったが、それも家に居て落ち着くことが出来たらの話だ。みどりの日の振替休日だった昨日、一日中家に居てみてそれが不可能だということを痛感した。
事ある毎に機嫌を窺うかのように流磨の部屋に顔を出し、一生懸命語りかけてくる両親。廊下で擦れ違っても言葉を交わすことのなくなった兄弟関係の気まずさ。
食卓に顔を出せる精神状態ではなく、それでいて、毎回廊下に食事が置かれているのを見る度に後悔と自責の念に駆られた。
おかしくなりそうになって、深夜、一人で河原に行って泣いた。
もがけばもがく程、底無しの沼にはまり、最後には溺れて死ぬ感覚に似ていると思った。
今、溺れている。
身体が死ななくても、このままではきっと心が死ぬ。
今は沼から逃れる為の力より先に、なにか、つかまるものが欲しかった。
つかまるもの、それは流磨にとって勇気しかいない。
だから学校に向かっていた。
勇気が一緒なら、学校でだけでも上手くやれるかもしれない。
そうすれば、学校が安息の場所になる。
生き延びることが出来るかもしれない。
バスを降り、学校へ続く広い歩道を歩いていると、見慣れた後ろ姿を見付けた。
軽くウェーブの掛かった色素の薄い髪に、痩せ気味の細い手足。
(勇気……!)
「ゆ……」
呼び掛けようとして、流磨はあることに気付き声を切った。
勇気は鞄を胸に強く抱え、微動だにせず何かを凝視している。
(まただ……)
先週も勇気は同じ場所で、同じような状態で学校方向を向き、佇んでいた。その時は話を誤魔化され、何を見ていたのかは分からずじまいだった。
好きな子でも見ているんじゃないかと思った流磨は、悪戯心でそっと背後に近づくと、肩越しに勇気の視界を見渡した。
すぐ脇を走る大小様々な車のエンジン音の所為か、勇気は少しも気付く様子がない。
(……別に誰もいないな)
勇気の視線の先にあるものを探そうとしたが、別段誰がいるわけでも、何があるわけでもないようだった。
もしかしたら、ただ放心しているだけなのではないかと呆れ掛けていた時、流磨は思い出したようにハッと息を呑んだ。
(……まさか……)
険しい表情で、もう一度その景色に視線を戻す。
今度は流磨が硬直する番だった。
――事故……現場……?
瞬間、勇気が振り返り目が合う。
「……! リュウ……!」
漸く流磨の存在に気付いた勇気は、飛び上がって二、三歩後退った。
流磨は、複雑な表情で勇気を見詰めた。
心に疑念が生まれたのを強く感じる。
あれ程勇気を信じようと心に決めたというのに、根拠のない信頼はすぐに揺らいでしまう。特に今の流磨の心は、失うことへの恐怖で余計に脆く、崩れやすかった。
「びっくりしたー! もーー近くにいるなら声くらい掛けてよぉ!」
勇気は心の底から驚いたようで、胸を押さえながら裏返った声で流磨に非難を浴びせた。
しかし流磨には、勇気が何かを誤魔化そうと、わざと声を荒げているように見えた。
「勇気……お前、何で……」
――何で、事故現場を見てた?
オレに同情して?
それとも好奇心……?
勇気だけは、他の奴とは違うと思っていた。
でも、もしかしたら同じじゃないのか?
そんな疑いと共に、勇気の姿が急に色褪せていくように感じた。
そのまま、闇の底に滑り落ちていきそうになる自分の中の勇気という存在を、流磨は歯を食い縛って無理矢理に止めた。
「リュウ……? 何でって……何が?」
流磨の緊張の面持ちに漸く気付いたらしく、勇気も真顔になる。その真っ直ぐな瞳は、流磨に色々なことを思い出させた。
自分の為に本気で怒って、泣いて、笑ってくれた勇気。
独りで狼狽えて、怖がっている自分に安心と温もりを与えてくれた。
何も返すことの出来ない自分が、そんな勇気を疑いの目で見るっていうのか……? そんなの最低だ。
「リュウ……」
(勇気が……オレを裏切ったりする筈無いさ)
自分にそう言い聞かせると、流磨は少し悲しそうにしている勇気に微笑んだ。
「何でもない……ちょっと目開けたまま寝てただけだよ」
「はぁ……? 何なんだよその言い訳!」
「さっ、学校行こう」
「リュウ……オレのことバカだと思ってるでしょ!」
憤慨する勇気を尻目に、流磨は歩き出した。
壊れ掛けた何かに気付かないふりをして。
だって手放すわけにはいかなかった。
流磨にとって、つかまるものは勇気だけなのだから。
しかし、ただしがみついているだけの盲目的な信頼は些細なことで壊れやすく、最も失いやすいと、流磨は身をもって実感することになる。
事はその日の放課後に起こった。
心配していた皆との接触も、勇気がさりげなく入れてくれたフォローのお陰で、受け答え程度なら違和感無くこなすことが出来た。
いつものように余裕があって、人を言いくるめられる話術を持った『夕真』のような態度を取る事は出来なかった……と言うより、しないように心掛けた為、少し不思議がられたが「今日は元気ないな」程度のものだった。
このまま皆とも無難に付き合っていけるようになれば、学校にいる間だけでも息抜きが出来るようになるかもしれない。希望が実現しそうな雰囲気に心底ホッとした。
いつもはうるさいと呆れていた帰りのHR前の喧騒も、不思議と心地良く感じる。
「でさ、結局はどうなワケ? リュウ」
ふと我に返ると、隣の席の春季がにやにやしながら話し掛けてきていた。
「……え? 何が?」
反対側の隣にいる筈の勇気が今は席を外してしまっている為、一人で受け答えをしなければならなかった。
「おい! 聞いてなかったのかよお前! さっきからジェスチャー入れながら長々と話してたオレの立場はどーなるんだよ? え? 責任取れよオイ!」
「え……で何?」
気の抜けた流磨の返事にガクッと肩を落とす春季。
「あ……あの……だからぁ、簡潔に言うとだね? よーするに生徒会長とはどーなんだって話だよ……ったく超虚しくない? オレ」
「あぁ……」
流磨は遠い目をしながら、再び気の抜けた返事をした。
そう言えば先週、生徒会長の前で近いうちに必ずはっきりした答えを出すと断言したことを思い出す。しかし実際のところ、ここ数日のごたごたで周りが見えなくなっていた流磨は、今春季にその話題を持ち出されるまでそんなことはすっかり忘れていた。あれ程、これ以上変な噂が広まって生徒会長に迷惑掛けまいと、固く決心した筈なのに。
――最低だ。
結局自分のことしか考えていない。
自分だけが悲劇の主人公になって現実から逃げようとするこの卑怯な性格は、兄を殺した時から何一つ変わっていないのだ。
もう流磨の頭の中には、自責以外の思考の居場所が無くなっていた。
何を、どう考えればいいのかさえ、今の流磨には分からなかった。
「……おいリュウ……何だんまりしてんだよ、まさかまた聞いてなかったとか言うなよ?」
いつの間にか自分の中に閉じこもってしまっていた流磨に、眉をヒクつかせながらツッコミを入れる春季。
その時だった。
四、五人の女子グループが異様に盛り上がりながら教室に入ってきた。
「でもさぁ、お兄ちゃんが死んじゃったなんて暗い過去があるようには全然見えないよねぇー!」
嫌でも聞こえてくるそのバカ騒ぎの内容に、流磨は耳を疑った。思わず硬直し、会話の続きに耳をそばだてる。
(……まさか……)
「でも、お兄さんが死んだのがすぐそこの道路ってホントかな? だとしたらこの学校来るの辛くない? 案外図太かったりね、華峰く……」
「……! ちょっとエリ! シッ」
振り返った流磨の険しい視線に気付いた一人が、大きな声を出していた友人の肩に手を掛ける。それを合図に他の三人も気まずそうに黙り込んだ。
その緊張した、ただならぬ雰囲気にクラスメイト達も一瞬で静まり返り、双方の出方を見守っている。
先に口を開いたのは、いかにも沈黙を嫌いそうな、先程エリと呼ばれた女の子だった。
「あ、あのね違うの! 私達、ほら……辛いのに負けないでがんばってる華峰くんのことカッコイイなーって、そういう話してただけで、別に悪く言ってたワケじゃなく……て」
努めて明るく、冗談ぽく話し始めた声が次第に消え入りそうな調子になり、途切れた。
流磨は凍り付くような冷たい視線で、女子グループを射抜いていた。
今までクラス中誰も見たことがなく、想像もしなかった、触ったら手が切れそうな程近寄り難い流磨に、皆息を呑んだ。
隣のクラスの喧騒が聞こえてくる程の静寂が教室を支配する。
数秒の間を置いて、今度はグループの別の女子が、顔色を失ったまま無理に明るい調子で口火を切った。
「あ……はは……こんな話、もちろん私達本気になんかしてないよ? ね?」
「……言ったの……」
「……え?」
「……誰が言ったの、それ」
静かな、落ち着いた声。
それが逆に、周囲に不気味な印象を与える。
抑え難い激しい感情を無理矢理押さえ付けているような危うさを誰もが直感していた。
「え、そんな……誰って……」
「いいから言いなよ、誰が言った」
苛立ったような強い口調に、少女はビクッと体を震わせ、消え入るような声で言った。
「……四組の伊勢さんから……」
それを聞くと流磨はすぐさま席を立ち、脇目も振らず静まり返った教室を出た。
妙に冷めた頭で、流磨は生徒が大勢行き交う廊下を突っ切り、四組の教室前まで来ると伊勢という生徒を呼び出した。
やがて出てきた伊勢は、先程の女子グループと同系統の騒ぐのが好きそうなキツめの人相をした女生徒だった。
「うっそ、華峰くんじゃん! 噂の! ナニナニ? あたしに何か用?」
流磨の顔を見ると、それまでの気怠そうな態度を一変させてハイテンションになり、自分の教室内にいる女友達にピースサインを送ったりしている。
その態度が、流磨の苛立ちを余計に増幅させた。
「オレの噂って、オレの兄貴が死んだっていうやつ?」
その言葉と、自分に向けられた目つきで大体察しがついたのか、伊勢はつまらなそうに肩をすくめて視線を逸らした。
「そんな責めるような目で見ないでよ、あたしだって他の誰かから聞いた話をそのまま話しただけなんだから、確かにちらっとはタチ悪い噂かなとも思ったけど、イイ話として広まってるみたいだし?別にいいじゃん」
ガンッ!
唐突に、近くを歩いている生徒達が驚いて振り返る程の大きな破裂音が響いた。
そこには怒りの形相を浮かべ、教室前の掲示板を拳で力任せに殴りつけている流磨の姿があった。
これにはさすがに身を竦ませた伊勢だったが、気丈にも再び胸を張り腕を組むと流磨を睨み返した。
「あんたね、自分に都合のイイ噂の時は何も言わないくせに、ちょっとイヤな噂だとそうやって一人一人吊し上げて脅すわけ? 噂が広まるのなんて自然の成り行きみたいなもんでしょ? 誰が悪いわけでもないんだから!」
「誰だ……お前には誰が言ったんだ……!」
伊勢の御託など、どうでもよかった。
流磨はただ確かめたかった。
情報の出所が勇気でないことを。
「別に教えてもいいけど、あんたそうやっていったら学校中の生徒全員を脅すことになるよ?」
「!」
伊勢の言葉に、目の前が真っ暗になる思いだった。
「もう……そんなに広まって……るのか?」
「はぁ? 今更気付いてんの? バッカじゃん」
伊勢は憎たらしく半笑いしながら、フイと教室に入って行ってしまった。
残された流磨は、頭の中をミキサーで回されているような混乱とショックで指先一本動かすことが出来なかった。
勇気一人に明かすだけでも一大決心だった自分の忌まわしい過去を、学校中の大半の生徒達が知り、語り合っている。
考えて、鳥肌が立った。
(何で……どうして……)
頭が上手くまとめられない。
HRの始まりを告げるチャイムが鳴り響く中、呆然と立ち尽くす流磨を行き交う生徒達が怪訝そうに振り返りながら通り過ぎて行く。
(こいつも、知ってるのか……?)
全く面識の無い一人を見送りながら思った。
自然と笑いが漏れた。
目に映る全てのものが馬鹿馬鹿しく見えた。
今まで必死だった自分が酷く滑稽に思えた。
人気の無くなった廊下で、声を上げて笑う。
「リュウ!」
自分を呼ぶ声に振り向くと、心配そうな顔をした勇気が息を切らせて立っていた。
「何してるの? 早く教室戻ろう」
流磨は勇気をジッと見詰めたまま、何も言葉を返さなかった。
「リュウ……?」
「……オレの兄ちゃんの話……噂になってるみたいなんだ……」
低く無表情な声でそう言った瞬間、さっと勇気の顔色が変わったのが分かった。
「リュウ、どこでそれ……」
「いくらオレが鈍くたって、学校中で噂されてりゃ気付きもするさ!」
勇気の様子から、どうやら既にこの噂を知っていると悟った流磨は、皆に騙されていたような気分になって語調を荒げた。
「……その話は帰りにでもしよう……今は教室に行こうよ、先生探してるよ?」
そう言って、腕を掴み連れて行こうとする勇気の手を、流磨は反射的に振り払った。
その態度に勇気の表情も硬くなり、重い沈黙が二人の上に伸し掛かった。
「……もしかして、オレのこと疑ってるの?」
勇気がぼそりと言った。
ここ数日、勇気と過ごしてきた時間が脳裏に蘇る。
信じたい。
勇気は言いふらしたりする奴じゃないって。
(でも……)
何故、事故現場を見てた?
他の誰にも話していない、誰も知らない筈の話がこんなにも知れ渡っているのに、本当に絶対に勇気じゃないなんて根拠、どこにあるというのだろう。
長い沈黙の果てに、勇気は溜息を吐いて小さく笑った。
「……そうだね。そう、オレが言ったよ……みんなにバラしたのは紛れもなくオレ」
「な……」
「今までのオレが演技だったのも見抜けないなんて、リュウってホントに人がイイよね」
やっぱり、そうだったのか――?
衝撃で、激しい震えが襲ってきた。
「な……んで」
今まで信じてきた勇気の温かな言葉や優しい笑顔が、次々に崩れ去っていく。
声にならない声で勇気を問い質そうとした。
だが、勇気は一呼吸置いてこう続けた。
「そう言ったら、リュウは納得するんだ……」
「え……?」
どういう意味なのか、一瞬呆然となる流磨。
つまり勇気はばらしていない?
それともこれも何かのカムフラージュなのか。
流磨は勇気の言動についていけないだけでなく、そんなことにばかりこだわっている自分にも気付いていなかった。
自分の姿を全く映そうとしない流磨の瞳を悲しそうに見詰めながら、勇気は呟いた。
「信じてほしい……なんて、無理な願いだったんだね……きっと」
「勇……気……?」
まるで最後通告のような呟き。
そこで初めて、明らかに傷付いた勇気の瞳に気付いた。
だが、時は既に遅過ぎた。
今まで見たどの勇気よりも勇気らしくない、疲れたような、何かを諦めたように気力を失った様子で、勇気は初めて何も言わずに流磨に背を向けて立ち去って行った。
後に残された流磨は――本当に独りぼっちになってしまった。