第八章
第八章
「ただいま……」
殆ど聞き取れない程の低い声で言ったにも関わらず、優葵は玄関に飛んできた。
「お帰りなさい……! 今日は随分遅かったのね……?」
まるで腫れ物にでも触れるような、緊張した空気が伝わってくる。朝、何も言わずに家を出たこともあってか、母は相当神経が過敏になっている様子だった。
「うん……ちょっとね……」
にこりともせず、無気力な返事を返す流磨。
帰宅するのが嫌でたまらなくて、帰りのバスを途中で降り、時間潰しに歩いて帰ってきた……などと言える筈もなかった。しかもその帰り掛け、断崖になっている箇所を通り掛かっては死ぬべきだという強迫観念に駆られ、その度に辛うじて思い止まってを繰り返していた為、今もまだ追い込まれた精神状態から抜け出せないでいた。
こんな疲れや、母の変に遠慮した態度がこれからもずっと続いていくのだろうと思うと、胃がむかむかとして吐きそうになる。
「……あ、もうすぐ夕食……あと十分位で出来るから、手洗って着替えてきちゃいなさい」
優葵は不機嫌そうな流磨の態度に不安を抑えることが出来ずにいたが、表面上は取り繕って笑顔を見せた。
言われてみれば半開きになったダイニングのドアからはチーズを焼いているような香ばしい匂いがしている。
しかし、流磨はどうしても食欲が湧かなかった。
目を伏せて無反応な流磨を見ない振りをして、優葵は明るく続けた。
「そうそう、柊馬と梨歌にも声を掛けてくれる? 二人とも部屋にいると思うから」
言ってから、顔色を窺うように流磨の顔をそっと覗き込む母。
その様が、流磨には耐え難かった。
母から目を背け、強く首を振る。
「オレ……飯いらないから……三人で食べて」
「な……何言ってるの流磨、あなた昨日の夜も、今朝も食べてないでしょ? 今晩こそちゃんと食べなきゃ、お母さん怒るわよ!」
思わず感情を露わにして声を荒げる優葵。
本気で心配している目。
それでも流磨は首を横に振った。
今、家族と何かを食べる気分には、とてもじゃないがなれなかった。想像しただけで吐いてしまいそうだ。
無言のまま、その場から逃げるように去っていこうとする流磨を、母は泣きそうな声で呼び止めた。
「お昼は食べたの……? 流磨、せめて理由を言って……お願いだから……!」
流磨は耳を塞ぎ、胸を押し潰される思いでその声を振り切り、二階へ駆け上がった。
残された優葵は抑えきれずに一粒だけ涙を零した。
小さな照明が灯るだけの薄暗い二階の廊下を早足で歩き、自分の部屋に直行しようとした流磨だったが、途中で何かを思い出したように立ち止まって来た方向を振り返った。
両側の壁にある家族それぞれの寝室のドアが、橙色の光にぼんやりと照らされている。
流磨は数歩戻り、柊馬の部屋のドアをノックした。
「ん……? いいよ、入って」
普段通りの柊馬の声が返ってくる。
「……夕飯、もうすぐできるって……」
ドア越しにそれだけ言ってすぐに梨歌の部屋に向かおうとした流磨を、部屋の中から驚いたような声が追い掛けてきた。
「に、兄ちゃん?」
数秒しない間にドアを開け、顔を出す柊馬。
流磨の無気力な瞳とぶつかり、気まずそうに視線を落としながらも、おずおずと口を開いた。
「兄ちゃんも一緒に食べる……よね?」
「いや……オレは後でいいから……」
表情を動かさずに言う兄の顔を、柊馬は寂しそうに見た。
「嫌なんだよ……兄ちゃんがそんなだと、みんなも何か暗くて、気まずい感じがしてさ……いつまでそうしてるの……? お願いだから元の兄ちゃんに戻ってよ……!」
心からの、必死の訴え。
流磨は、ナイフで胸を何度も刺されるような感覚を覚えていた。
――痛いよ……
胸の中の自分が泣いているのを感じる。
しかし、それを表面に出すことなく、流磨は自分を皮肉るように薄く口元だけ笑った。
「元に戻る……か、オレの元の状態って……何だろうな……? みんなに好かれるお兄ちゃん……それがオレ……だったのかな……」
周囲がそう認識しているのなら、それが本当の自分なのかもしれない。例え自分の中で『違う』と思っていても、その様子は周りから見ると血迷っているようにしか見えないのだから。
「兄ちゃん……」
「早く、飯行けよ……」
流磨は呆然と自分を見る弟に、それだけ呟くように告げて、梨歌の部屋に向かった。
梨歌も、部屋から出てきて柊馬と同じようなことを必死で懇願してきた。
流磨は同じ言葉を妹にも伝えて、自室に戻った。
それから翌日の朝まで、流磨は部屋から外に一歩も出ることはなかった。
勇気との約束の時間が迫り、誰にも気付かれないように家を出ようとして、玄関口で靴を履いているところを父親に見付かってしまった。
日曜日は母親以外昼前まで寝ているのが常だったので、洗面所にいる母をやり過ごして油断していた。
「どうしたんだ流磨? 黙って出ていくなんて驚くじゃないか……」
父親はいつも通りの態度で接してくれる。
それが少し嬉しくもあり、辛くもあった。
だが、やはりどう反応したらいいのか分からず、流磨は無言で靴紐を結び続けた。
「流磨……どうした、母さんや柊馬達も心配してるぞ? 一体どうしてそんな態度を取るのか、ちゃんと話してみなさい」
母と違い、大きく動揺するでもなく冷静に、優しく問い掛けてくる父。流磨は、そんないつでも落ち着いていて頼りになる父が大好きで、尊敬していた。
だからこそ、その父に疎まれるのが最も怖かった。
「……友達と遊びに行くだけだから……」
それでも、逆に言えばそんな父に好かれる資格もない。
流磨は立ち上がり、父と一度も目を合わせないまま玄関を出て行こうとした。
「流磨! ちょっと待って!」
いつの間にかすぐ後ろに来ていたらしい母の声。
面食らった流磨が思わず振り返るのと同時くらいにダイニングから出てきた母は、手に持った小さな箱を差し出した。
「ご飯、全然食べてないんでしょ? ……何処でもいいからちゃんと食べなさい……ね?」
有無を言わさずに手渡されたそれは、白いタッパーに入ったサンドイッチだった。
驚きを隠せない様子でそれを見詰める流磨。
あれだけ冷たい態度を取り続けてきた自分の為に、母がわざわざ手間を掛けて作ってくれたのだと思うと、喉の辺りに熱いものが込み上げてくる。
こんなもの貰う資格、自分には無いのに。
「どうして……」
絞り出すように呟く流磨に、優葵は目を潤ませて微笑み、小さく頷いた。
胸の辺りがじくじくと痛む。
どうしてこんなに優しくしてくれる?
いっそ無視されたり、罵倒された方がまだ楽だと思った。
このお弁当は返すべきだ。
そして二度と優しくしようなんて気持ちにならないように、自分で仕向けなくては。
小刻みに震える手に気付かれないように、手の中の母の優しさを強く握り締める。
(いらない……って……)
サンドイッチから目が離せなかった。
母の温もりが手に伝わってくる。
とても、心地よかった。
「……ありがとう……」
ほっと、両親の顔が綻び、嬉しそうに顔を見合わせるのが俯いていても視界に入ってきた。
その様子を見るのが辛くて、無言で玄関を出ようとした流磨に父が優しく声を掛けた。
「いつか、ちゃんと話してくれるな流磨? お前から話す気になるまで、待ってるから」
流磨は何も答えず、出て行った。
涙が零れそうになるのを我慢した。
(その約束は……できないよ……)
全てを打ち明けても、家族は自分を責めることなく、許すと笑ってくれるかもしれない。
だが、本当の意味では許されない。
兄は帰ってこないのだから。
許されてはいけない。
お弁当を返すことの出来なかった自分の甘さが、この澄んだ青空の前では誤魔化しようがない気がして、居た堪れなかった。
朝日で輝く川面を見渡せる道に出た時、流磨は全てを忘れようとするように大きく深呼吸した。小走りに土手沿いに近づくと、河原でこちらに背を向けて立つ少年の姿が見えた。
「おーい! 勇気!」
きっと最高に楽しい一日になる。
この迷宮のような日々の、たった一つ光差すこの場所で、全てから目を逸らしていられるこの一時だけは――。
勇気の希望もあり、特に何をするでもなく、この辺りの田舎道を散策することにした二人は、流磨の思い出の場所である空き地や駄菓子屋などを見て回った後、今度は河原を川の流れにさかのぼって歩いてみることにした。
「小一か小二の時、確かこの川上で洞穴見付けたんだ、あれ、まだあるのかな……」
「へぇーっ、洞穴? なんか冒険っぽいねぇ!」
小さな子供のようにはしゃぐ勇気を見て、流磨は呆れたように笑った。
「お前って……見てると何か和むよなぁ」
流磨が勇気の前で自然体で居られる要因の一つは、この無邪気さにあるのかもしれないと思った。そんな流磨の思いに気付く様子もなく、勇気は楽しそうに笑い返してくる。
「でもさリュウ、さっきから思ってたけど、昔のことよく覚えてるね?」
「……ん? まあ、小さい頃はよく遊び回ったもんだし、色々見て歩いてるうちに段々思い出してきたって感じだな、その洞穴もさっきまではすっかり忘れてたし……」
そんなに大昔ということでもないのに、小さい頃遊んだ場所をこれ程懐かしく感じるのは、兄との思い出を心の奥に封印して忘れようとしてきたからだろうか。
思えば兄が死んでからは、空き地や河原で遊ぶこともぷっつりとなくなってしまった。
そんなことが脳裏を掠め、慌てて頭を振る流磨。
今日はそういうことは考えないようにと心に決めたではないかと自分に言い聞かせる。
「よし、行こうぜ、オレの記憶力の良さを証明してやるよ!」
しかし、全てから目を逸らし、楽しいことだけを見て得られる幸せなど、所栓夢と同じ、目覚めれば消えてしまう――そう思い知らされる瞬間はすぐにやってきた。
歩き続けて一時間が過ぎ、二時間が過ぎても、それらしき洞穴は見当たらず、次第に登りも険しくなってくる河原に、二人とも言葉少なになってきていた。
「……ねぇ、そろそろ引き返した方がよくない? これ以上進むの、ちょっと無理あるって……」
勇気に先程から何度かそう提案されていたが、流磨はどうしても諦めがつかず、もう少しもう少しと引き延ばしていた。
「……もう少しだけ……」
再び同じ返答を繰り返す声に先程までの勢いは無く、顔色も悪い。自分が兄との思い出の場所を忘れる筈が無いと、半ば意地になって後に退けなくなっていた。
「じゃあ少し休憩しよ、ね? 休憩休憩!」
勇気は肩で息をしながら足下の大きめの石に腰掛けたが、流磨は立ち止まることなく雑草を掻き分け、覚束ない足取りで進んでいく。
「おーい……リュウ? 休もーよー」
流磨にその声は届いていなかった。
何故か異様な程息が切れ、体が怠い。
と、その時、急激に意識がぼやけ、視界を黒い靄のようなものが覆い始めた。
「……?」
慌てて頭を振って気を持ち直そうとしたが、今度は強烈な吐き気が込み上げてくる。
「……う……!」
(まずい……)
堪らず膝を突くと、同時に地面が引っくり返ったような気がした。
「……ュウ!」
勇気の叫び声を最後に、流磨の意識は暗い闇の奥に遠のいていった。
兄の夢を見た気がした。
ここ最近見る悪夢とは違い、昔一緒に遊んで笑い合った頃の、楽しくて楽しくて仕方なかった温かな記憶。
ずっと続くと信じていた。
失ってしまうなんて思ってもみなかった。
そんな頃の記憶。
こんな夢を見るのは、きっと今とその頃が似ているからだろう。
唯一違っているのは、一度失ってしまった自分が再び失うことを怖れていること。
もう二度と、この温もりを失いたくない。
浅い眠りの中で見た、その余りに淡い夢のことは目覚めと同時に忘れてしまったが、ただ漠然と涙が出そうになる切なさと懐かしさだけは胸に残っていた。
「……ウ! リュウ!」
溢れそうな涙が落ちないようにゆっくりと瞼を開くと、勇気の今にも泣き出しそうな顔が目に飛び込んできた。
「あれ……勇気」
「っ! よ、よかったぁ、気が付いた~! 大丈夫? 気持ち悪くない?」
勇気のうろたえようと周囲の風景を見渡して、漸く自分が歩いている途中で倒れたらしいことを認識した。
「あぁ、平気……」
もう気分は悪くない。
頷いてすぐに立ち上がろうとしてみると、突然視界が歪んだかと思うと意識が遠のき、数秒も立っていられずに尻餅をついた。
「リュウ!」
(な……何だ……?)
自分でも驚く程の体調の悪さに唖然となる。
そして、その原因を少し真面目に考えてみて、すぐにピンときた。
と言うより、気付かなかった今までがおかしかったのだが。
「あぁ……そっか」
「リュウ」
呼ばれてふと我に返ると、目の前には背中を向けてしゃがみ込む勇気の姿があった。
「勇気?」
「おぶさって、病院行こう」
いつになく真剣な声だった。
「……! な、何言ってんだよ、ちょっと目眩がしただけで……病院行く程じゃないって」
大袈裟だと言わんばかりに大きく手を振って苦笑する流磨を、勇気は怒りを滲ませた瞳で睨みつけた。
「何言ってんだよって、それはこっちのセリフだよ! リュウは今まで自分がどういう状態だったか分かって言ってるの? 三十分くらいずっとピクリとも動かなかったんだよ? 何か悪い病気かもしれない……やっぱり下りて救急車を呼ぶべきだったよ!」
泣くのを我慢するように、声を上擦らせて捲し立てる勇気。相当心配していたらしいことが窺える。
「ごめん……」
つられて、涙が出そうになった。
それきり二人は、流水の涼しげな歌声が響き渡る中、長い沈黙の時を刻んだ。
暫くすると勇気は縁無しの薄い眼鏡を外して、零れそうにふくらんだ涙を手の甲で拭うと、流磨を促すように首だけ振り向いた。
「早く乗って……病院まで結構あるからさ」
「いや、病院は行かない」
「まだ言うの? 全然反省してないじゃん!」
「そうじゃなくて、オレ自分が倒れた理由分かってるんだ」
流磨の意外な発言に目を丸くする勇気。
「多分、貧血……ここんとこ本気で何も食べてなかったから……そのせいだと思う」
食欲が無かったとはいえ、丸二日何も食べずにこれだけ動き回ったら、こうなることは目に見えていたのだ。しかし追い詰められていた心には、そんなことに気付く余裕さえなかった。
何か尋ねた気な勇気を遮るように、流磨は無言で背中に背負った紺色のリュックを下ろして、中から白いタッパーを取り出した。
「あ、お弁当持ってきたんだ……オレも何か持ってくれば良かったなぁ」
流磨の表情を見て察するものがあったのか、勇気は喉まで出かかっていたであろう質問の言葉を呑み込んで、話題を変えてくれた。
流磨には勇気のその気遣いが本当に温かく感じられ、嬉しかった。
家族とのごたごたは口にしたくなかった。
ただの愚痴になってしまうだけだから。
こればかりは解決のしようもない、解決してはいけない、永遠に自分が一人で背負っていかなければならない罪だから。
そう心に強く刻みつけ、流磨はサンドイッチを虚ろな目で眺めた。
「……母さんが作ってくれたんだ、頼んでないのに……」
「へぇ……でも嬉しいよね、こういうの」
流磨は頷かなかった。
嬉しいと感じることは許されない。
この優しさに救われる資格もない。
兄がいないという事実がある限りは――
流磨は、戸惑ったようにこちらを見詰める勇気にうっすらと微笑み掛けると、一緒に食べようとサンドイッチを勧めた。
遅い昼食を終え、再び洞穴探しに出発しようと言い出した流磨を押し止める勇気の剣幕は凄まじかった。確かに倒れて心配を掛けたという前科がある以上、勇気の一喝に返す言葉が見付からず、流磨も渋々ながら帰ることを承諾せざるを得なかった。
夕日が沈む前に元の住宅街付近まで戻って来た二人は、お兄ちゃんのお気に入りの位置で待機しようということになった。
川の向こうに太陽が沈む迄の僅かな瞬間、その一秒一秒を噛み締めるように見守る二人。
淡い紫色の空と、逆光で黒く影になる橋の美しいコントラスト。点々と灯る街灯の白い小さな光や、行き交う車の赤いブレーキランプ、たまご色のヘッドライト。一つ一つがその光景を神秘的に彩っていた。
二人は一言も言葉を発さず、唯々この景色を心に閉じこめようと見詰め続けた。
言葉を交わさなくても、お互いの心が通じ合っているような不思議な安心感、これと同じ感覚を、昔感じたのを覚えている。
(お兄ちゃんと、こうやって一緒に見た時と同じだ……)
もう二度と、こんな満たされた気持ちにはなれないと思っていた。
懐かしい――
少しずつ、確実に手の中から零れ落ちてしまう今という瞬間が、大切で大切で、胸が締め付けられるようだった。
時よ、止まれ。
流磨は心からそう願った。
しかしその願いは叶うことなく、太陽は静かに沈んでいった。
流磨の斜め前に立っていた勇気がゆっくりと振り向いた。
日が沈み、辺りは紫色の淡い闇に包まれている為、数歩離れた位置にいる勇気の表情はよく見えない。
多分、満足そうに笑っているんだろう。
「やっぱり、いいね……」
湧き上がる高揚感を抑えているような、静かな口調。
「あぁ……」
少し元気の無い流磨の返事。
それに気付いているのかいないのか、勇気は再び流磨に背を向けて伸びをした。
「さてと、じゃあ帰ろうかな……」
流磨の心に黒く重いものが伸し掛かった。
「まだ平気だろ……?」
「いや、この頃日が長くなってきてるし、もう六時半くらいじゃない? リュウもそろそろ帰った方がいいよ」
分かってる。
しかし、一日が別世界のように楽しかったせいか、家に帰ることに、まるで戦場に戻る直前のような恐怖を感じていた。
暫く黙って俯いていた流磨だったが、思い付いたように顔を上げた。
「明日! 確か明日も休みだったよな?」
「えっ……? そりゃ今日からゴールデンウィークだもん、今週はほとんど学校ないよ」
そんなことも知らなかったのかと言わんばかりに呆気にとられる勇気に構うことなく、流磨は捲し立てた。
「な、明日も遊ばないか? 明日はもう少し遠出でもしてさ……」
「リュウ」
勇気はたしなめるような調子で流磨の言葉を制止した。
「明日はご飯ちゃんと食べて、家でゆっくりしてなよ」
流磨は何も言い返せなかった。
勇気は本当に心配してくれている。
休日の度に一緒に遊びに行くわけにはいかない。
そう、頭ではよく分かっていた。
しかし、頭と感情は少しも足並みを揃えてくれない。
「……今日みたいに弁当持ってきて食べりゃいいだろ? オレ前から行きたい遊園地あってさ……」
勇気はそんな流磨をじっと見ていたが、やがて小さく溜息を吐いて視線を外した。
「家族の人と……何かあった? 昨日から元気ないの、そのせいなの?」
流磨は絶句した。
いつもボーッとしている勇気には、まず勘付かれることはないだろうと思い込んでいた。
しかし流磨が思っていたよりも、勇気はずっと繊細で鋭くて、流磨のことをしっかり見ているらしかった。
「べ、別にそんなこと……」
「リュウ、逃げてるだけじゃなんにも変わらないよ? ……ぶつからなきゃ、自分とも、周りともさ……自分からぶつからなきゃ……」
そう言った勇気の表情は、暗がりでもはっきり分かる程悲しげだった。
流磨は俯いたきり、何も返さなかった。
分かってる――しかし、自分にはぶつかる資格もないのだ。ただ耐えるしかないという罰を受けているのに、耐えきれない痛みで息が出来ない。
際限なく湧き上がるその矛盾した感情を言葉にすることが出来ず、流磨は沈黙を続けた。
その様子を暫く見詰めていた勇気だったが、一呼吸置くと気を取り直したように表情を和らげた。
「さてと、もう帰らないとマジでやばいね!」
「あっ……勇気待っ」
「リュウ、オレが今言ったこと、よく考えて……よーくね」
呼び止めようとする流磨に頷き、微笑み掛けながら、そう一言だけ言い残して勇気はあっという間に土手を上って行ってしまった。
「考えろったって……」
一人取り残された流磨は、ふて腐れたようにぽつりと呟いた。
答えも、解決も無い。それが流磨なりの答え。
結論は出てしまっているのに、何をどう考えればいいと言うのか。
分からなかった。
鉛色の恐怖を引きずりながら家に帰った流磨を、家族は努めて明るく迎えてくれた。しかしそれと同時に壊れ物を扱うような気遣いをひしひしと感じ、流磨の心は更に重くなった。
夕食を取らずに自室に籠もっていると、廊下に何かを置いたような小さな物音がした。
そっとドアを開くと、そこには湯気を立たせた食事がお盆に乗せて置いてあった。
胸が、じんじんと痛んだ。
涙が零れて、床板に落ちる。
――お前が望むのは何?
本当にこれでいいのか?
自分で自分に何度も何度も問い掛けた。
自分は何も答えてはくれなかった。
勇気が考えろと言ったのはこのことだったのだろうか。
出ている筈なのに出てない答え。
今は全てが闇の向こうで、何も見えない。
流磨は、薄暗い自室で泣きながら温かい料理を食べた。