第七章
第七章
いつもより三十分早いバスに乗った流磨は、七時半には教室で今日の予習を始めていた。
さすがにこれだけ早いと神出鬼没の勇気にも会うことはなかった。
誰もいない静まり返った教室で、黙々と一時間目の数学の設問を解く。
勉強に没頭している間は他のことを何も考えずに済むので、流磨は他の生徒達程勉強が嫌いではなかった。
しかし、今日だけは勝手が違った。
どうしても頭をもたげてくる母や柊馬の顔。そして、これからのことを考えるといつの間にか手が止まっている。家族とのことだけではない、学校でも『夕真』を演じずに、どうやって皆と接していけばいいのか。深い霧が立ちこめたような気持ちが流磨を捕らえて放さなかった。
暫くそうして憂鬱と戦っていたが、やがて諦めたように予習を切り上げると、流磨は教室を出て屋上に登った。
重い鉄の扉を押し開けると、まだ微かに冷たさの残る風が体中に吹き付け、薄暗い校舎内には場違いな程眩しい朝の光が流れ込んでくる。登校中には空を見上げる精神的余裕が無かったが、雲一つない青空が広がっていたことに今初めて気が付いた。
辺りを見回すと、この東棟の屋上にはまだ誰も居ないようだった。
他にも北棟と西棟があり、それぞれの屋上は行き来できるのだが、この場所からでは死角もあって他の棟までは確認出来なかった。
自分の足音だけが響く中、煉瓦風の褐色に彩られた石畳を歩いて、校庭が見渡せる東棟の先端へ向かった。気持ちの良い風に吹かれ、深呼吸しながらフェンスを軽く掴み校庭を見下ろすと、自分でも驚く程気持ちが落ち着いた。
暫し、全てのしがらみを忘れて何も考えず、その景色と空気に酔う。
このまま時が止まればいい。
よく聞くフレーズだが、これがその感覚なのかと実感した。
自然と涙が一粒流れる。
その雫を拭うことも忘れ、流磨はフェンス越しに校庭を眺め続けた。
校庭を囲むように植え込まれた銀杏の木が、新緑を風に揺らしている。
(このまま……)
ここから飛べば、もうこれ以上苦しまなくて済むのだろうか。
ぼんやりと流磨はそんなことを思った。
『夕真』になるという目標を失い、自分自身を失い、抜け殻のように中身のない体だけになった自分。そんな自分をこの先待つものなど、虚無と絶望以外に何があるのだろう。
試しにフェンスの網目に足を掛けると、思ったより簡単に登れそうだった。上を見上げると高さは流磨の背丈の二・五倍程。
今なら誰にも気付かれずに登り切れそうだ。
そんな考えが頭を過ぎり、流磨は衝動的にフェンスをよじ登った。
頭の隅で必死に今の行動を制止しようとする理性の声が聞こえたような気がしたが、次第に視界がかすみ、意識が朦朧としていくのを止めるだけの力は無かった。
――――どのくらいの時間が経ったのか、流磨は遠くで響く金属音で意識を取り戻した。
どうやら屋上入口の扉を開けて誰かが入ってきたようだった。
(……勇気……?)
周囲を認識する感覚が戻らないまま、勇気の存在を期待した。
「――っ! ちょっとリュウちゃん何してるの!」
鋭く戦慄した千空の叫び声が耳をつんざき、流磨は急激に現実に引き戻された。
徐々に目の前の光景に焦点が合っていく。
「――うわっ!」
流磨は驚愕の余り、そのまま校庭に吸い込まれそうになった。
あろうことか流磨は今まで意識が飛んでいた間、フェンスの上に腰掛けていたのだ。
軽く直下三、四十メートルはありそうな足下の眺めに目が眩み、転げ落ちるように屋上に飛び降りる。
今までの自分の行動を改めて思い返し、鳥肌が立った。
もし、無意識の間にフェンスの上から滑り落ちでもしていたら……。
自分は死んでいた。
本当に死んでいた。
リアルな死の恐怖に足が震えて立ち上がれなかった。
千空は、飛び上がるようにフェンスから落ち、その場に蹲ったまま動かない流磨に強い不安を感じながら駆け寄った。
「……リュウちゃん! なっ、何してたの? 大丈夫?」
狼狽え、少し裏返った声で呼び掛けるが、流磨はまるで聞こえていないかのように煉瓦調の床の模様を凝視したまま、顔を上げようともしなかった。
その様子に千空は、いつもとは明らかに違う異様な雰囲気を流磨から感じ取った。
「リュウちゃん……? ねぇ、どうかした?」
「……」
「なんでフェンスに登ったりしたの?」
「……」
「あ! わかったーー! 生徒会長との仲を暴かれたもんだから仕返しにあたしをびびらせようって魂胆でしょーー!」
いつもの疲れたようなつっこみを期待して思い切り喚いてみたが、流磨は相変わらず反応しなかった。それどころか、先程よりも険しい表情を浮かべているような気がして、千空は胸の奥が小さく疼くのを感じた。
それでも負けん気の強い性格から、心とは裏腹の強がりが口をついて出てくる。
「そんな顔したってダマされないよー! でもかなりガンバッてるよね? そんなに生徒会長とのこと訊かれたくないの?」
「放っといてくれないか」
思わず千空は言葉を失った。
それ程までに流磨の声は冷たく、突き放すような響きを持っていた。
そして流磨はゆっくりと立ち上がると、無表情な瞳で千空を一瞥しただけで、何も言わずにその場を歩き去った。
校内に入り、教室に戻ろうとした流磨だったが、ふと辺りを見回すと登校してきた生徒達が好奇の眼差しをこちらに向けているのに気付き、嫌気が差した。
教室に戻っても、冷やかされたり面倒くさい質問攻めに遭うだけだ。そして、連鎖的に昨日生徒会長と交わした約束が頭を掠める。
(もう……どうでもいい)
全てから目を逸らし、逃げるように教室と反対の方向に踵を返した。
校内を当てもなく歩いた末に辿り着いたのは、昨日夕方まで隠れた非常用通路だった。
流磨は中の電気も点けずに、窓の無い真っ暗な通路に座り込んでただ闇を見詰めた。
何も考えたくないのに、色々なことが頭の中を駆け巡って、叫び出しそうになる。目を閉じ、耳を塞ぎ、歯を強く食い縛って苦しみをやり過ごそうと試みるが、やはり逃げ切ることは出来なかった。
――なぁ、こんな暗いトコで、独りで、お前は何をしてるんだ?
もしかして、行く場所がないのか?
(うるさい、居場所くらいある……行くのがウザイだけだ……)
――本当に? 『流磨』、本当にあるのか? お前の居場所が――?
「やめろ……!」
この、音も光も無い冷たい空間は、終わることのない無限の悲しみ、絶望を感じるのに最適だった。流磨は暫く暗闇でぶつぶつ独り言を言ったり、突然笑い出したりを繰り返していたが、やがてその気力も尽き、急激に襲ってきた病的な睡魔に身を任せた。
そして、遠くから聞こえてくる伸びやかなチャイムの音で目が覚めた。
目を開けても、閉じている時と変わらない暗闇が広がっている。まるで今自分を取り巻いている状況そのものを表しているようだと感じ、皮肉っぽく嘲笑しようとしたが、代わりに涙と嗚咽が溢れた。それを合図にしたかのように次々と湧き上がってくる熱く苦い感情。ついに抑えきれなくなり、膝に顔を埋めて本格的に泣こうとしたその時だった。
近くの暗闇からカサリという衣擦れのような渇いた音が聞こえた気がして、流磨は驚いて顔を上げた。何も見えないと分かっていながら思わず辺りを見渡すが、やはり見えるのは暗闇だけ。音は、時折途切れがらも止むことはなく、闇から生まれては消えていく。
今頃になってこの場所が怪奇スポットだったことを思い出し、悪寒が走った。
どうすることも出来ずに膝を抱えたままの体制で硬直していると、今度は音だけではなく誰かが苦しげに呻いているような低い声が混じり始めた。
恐怖に気が狂いそうになった流磨は必死で座ったまま出口付近まで移動し、壁伝いに蛍光灯のスイッチを探した。
得体の知れない何かがここにいる。
その確かな存在を感じた。
やっとの思いでスイッチの感触を探し当て、急いで押そうとするが、手が震えて力が入らない。
(早くっ……!)
カチリという音と共に漸くスイッチが切り替わった瞬間――
「ああぁぁぁあっ」
正体不明の叫び声が光と闇を切り裂いた。
流磨は思わず耳を塞ぎ、声のした方から目を背けた。
背ける瞬間、通路の奥に人影を見たような気がした。早朝からここにいたが、誰かが入ってきたような覚えは無いし、ずっと静かで人の気配なんかしなかった。噂に聞いていた血まみれの女を想像し、流磨は生まれて初めて背筋が凍るという思いをした。
「うぞっ! 何時? オレ何時間寝てたの?」
再び先程と同じ声質が通路奥から木霊した。
改めて聞くと聞き覚えのあるその声に、流磨は目を点にしながら顔を上げた。
人影と目が合う。
「…………」
「……えっ……?」
「………………」
「…………リュウ?」
「…………勇気…………」
勇気の目には、力無く前のめりに倒れ込む流磨の姿が映っていた。
どうやら、あの薄気味悪い衣擦れの音も呻き声も、勇気が発したものだったようだ。
勇気は倒れたままぴくりとも動かない流磨に駆け寄り、心配そうに揺り動かした。
「リュウ? 大丈夫……ねぇ、ちょっと! 何でここにいるの? ねぇ、リュウ? ……だめだ気を失ってる……」
反応がない流磨を躊躇無く肩に担ごうとする勇気。
「……失ってない! やめろ!」
暫く無視を決め込もうとした流磨だったが、勇気の天然な行動に慌てて腕を払いのけた。
「なんだ……意識があるなら返事くらいしてよ……びっくりしたー」
「あのなぁ……びっくりしたのはこっちの方なんだよ! いきなり出てきて……本物のお化けかよお前は!」
「えっ……」
「『えっ』じゃないだろ! いつからここにいたんだよ? いるならいるって言えよ、マジで恐ろしかったんだよこっちは!」
目を三角にして逆ギレする流磨を、勇気は口を半開きにして見返した。
その、事態を飲み込めていないらしいことが一目瞭然の顔が流磨の苛立ちを増幅させる。
「な……何でそんな怒ってるの……? え、て言うかリュウいつからここにいたの?」
「お前が来るずっと前からだよ……っ! お前のことだから、オレが寝てる隙に入ってきて驚かそうとか考えてたんだろうけど、シャレになってないんだよ……ったく……!」
「オレが来る前……? っていつ頃?」
「朝だよ!」
「朝の何時頃?」
「八時! ホームルーム始まる遙か前だよ! お前、まだふざけてるのか……?」
ぼぉっとしたまま反省の色を全く見せない勇気に、流磨は頬を引きつらせた。
しかし勇気は流磨に焦点を合わせず、少し考えてから合点がいったように手を叩いた。
「あぁ、だからか……オレここ来たの七時四十分頃だよ」
「…………」
「入ってくる時オレいたの気付かなかった?」
「……は……?」
流磨は頭を逆回転させた。確かに、ここに来た時は周囲を確認する余裕も無く、電気も点けずに入口近くに座った覚えしかない。
「じゃ何か? お前はここが怪奇スポットと知りながら、オレが来る前から今までずっとこの暗闇で寝てたって言うのか?」
「えっ、ここって怪奇スポットだったの? へぇ~道理で人来ないわけだ」
「怖くないのか? いや、今はその話じゃない……あの長時間、ずっと熟睡してたと?」
「うん……って! やっぱそんなに寝てたのオレ? 今何時間目? こうしちゃいられないよリュウ、急ごう、先生に怒られる!」
「え……行くのか? 今から……?」
元々授業に出るつもりなど無かった流磨は、興味なさげに視線を逸らした。
だがすぐに、勢い良く扉を開けている勇気の顔をハッとしたように見上げた。
(オレ……今、誰か演ってたか……?)
あれだけ家族やクラスメイトの前でやろうとして出来なかった、自然体でいること、『流磨』になること。それが今、何の苦も無く出来ていることに気付いた。
これが本当に『流磨』なのかは分からない。だが、考える前に感情が先に立って、口から言葉が溢れたのは事実だった。
「ほら、何ボーっとしてるのリュウ! 急がなきゃ! あー、何て言い訳しよう」
何も答えずに目を泳がせ、唇を噛んでいる流磨に勇気は首を傾げたが、すぐにいつものとぼけた笑顔に戻ると、強引に手を掴んで扉の外に飛び出した。
手を引かれて光の中に飛び込んで行く様が、スローモーション映像のように流れていく。
闇の中に独りきりだと思っていた。
でも、それはただの思い込みだった。
闇の中でずっと近くにいてくれた奴がいた。
真っ暗闇の中に溶けて無くなる前に、光の中に連れ出してくれる奴が。
未だに勇気が本当は何を考えているのか分からないことに変わりはなかった。しかし、勇気と接する時は自分を偽らずにいられる。
それは、やっと息が出来る場所を見付けたような安堵感。
こいつがいてくれれば、勇気と一緒にいれば、自分は自分を失わずにいられるのかも知れない――。
流磨は勇気の後ろ姿を見ながら、やっと少しだけ、未来の生きている自分を想像出来るようになっていることに気付いた。
――放課後
流磨と勇気は帰り支度を済ませて下駄箱で靴を履き替えていた。
辺りに他の生徒の姿は一人も見当たらない。
「まさか放課後だったとはねぇ」
「オレらホントにそんな寝てたのか……」
二人の間に情けない空気が漂う。
今日が土曜日で、授業が半日で終わるのは知っていたが、まさか自分が下校時刻をとうに過ぎるまで寝ていたとは思いもしなかった。
正直、先生やクラスメイトと顔を合わせるのは憂鬱だったが、知らないうちに皆帰って誰も居ないとなるとそれはそれで寂しく、気持ちが沈んだ。それに、例え学校で誰とも会わずに済んだとしても、今度は家に帰って家族と顔を合わせなければいけない。
結局、地獄のような堂々巡りが繰り返されるだけで、いつまで待っても自分に安息の時など訪れはしないのだ。
昇降口を出て、暫くお互い黙ったまま歩いていたが、先に口を開いたのは勇気だった。
「今日は……どっちの道行く?」
その言葉に、流磨は足を止めた。
勇気の言う『どっちの道』とは、正門から出るか、裏門から出るかという意味だった。一瞬遅れてそれに気付き、凍り付く。
重苦しい沈黙の後、流磨は真剣な瞳でこちらを見ている勇気を少し睨んでから、ボソリと「正門」とだけ呟いて歩き出した。
勇気は少し意外そうな表情をして流磨の背中を追った。
「べ、別に無理することないよ、辛いなら……もしかしてオレが言ったこと気にしてる?」
何も答えず、歩を進める流磨。
「昨日はオレ、少し感情的になり過ぎちゃって……今考えると、リュウの気持ち無視して色々言った……ごめん」
「ごめん」の時だけ、勇気は先を歩く流磨の前に回り込んで小さく頭を下げた。
目の前で頭を下げられ、さすがに足を止めて勇気をジッと見詰める流磨。
そして、軽く溜息を吐いてから徐に口を開いた。
「……お前が、お兄ちゃんのこと何も知らないクセに悪く言ったのは今でも許せない……それは事実だよ」
勇気は表情を動かさないまま、地面を見詰めて微かに頷いた。反省しているようにも、まだ何か意見があるのを抑えているようにも見える、複雑な表情だった。
その顔を見ていると、勇気が昨日叫んだ言葉の一つ一つが脳裏に蘇る。
自分以外の誰かになんかなれない、自分自身から決して目を逸らすなと。
「でも……それ以外は、お前の言うことはもっともなのかもしれないって……今は思う」
勇気が驚いたように顔を上げるのが目の端に映り、流磨は決まりが悪そうにそっぽを向いた。
「リュウ……」
「……結局オレはお兄ちゃんの代わりになるとかキレイ事言いながら、逃げてただけだったんだ……」
そう、自分はずっと逃げていた。どうしたって兄は戻ってこないし、その兄に許される日も永遠に訪れはしないという現実から。
でも、もう逃げることは出来なくなった。
気付いてしまったから。
吹き抜ける春風が、二人の髪と制服を揺らし、校庭全体に広がっていった。
銀杏の葉音が青空に柔らかく響き、誰も居ない辺りの静けさが一層引き立てられる。
「そっか……でも、ある意味良かったんじゃないかな……? 今気付くことが出来たんだから……きっと、良かったんだよ……」
近寄り難い雰囲気を放つ流磨を、躊躇いがちに、そっと励ます勇気。
しかし流磨は気が抜けたように少し笑った。
「あぁ、良かったよ、ある意味では……ね」
その投げやりな口調を耳にし、勇気は訝しげに目を上げた。
そこには、皮肉笑いを消し、何かに怯えるように身を固くして俯く流磨の姿があった。
「でも……ちっとも良くなんかないんだよ……全然良くないんだ……」
「リュウ……?」
(……辛いんだ……)
小刻みに震える流磨の両肩を掴んで、驚いたように顔を覗き込む勇気。
「何があったの? 一人で抱え込んじゃダメだよ? リュウ……!」
「…………っ……」
勇気の手の温かさに、泣くつもりなんかないのに勝手に涙が溢れてくる。
こんな風に泣くことも、勇気の前でしか出来ない。一人でいる時でさえ、心の糸が張り詰め、気の休まることなんか無かった。
この情けなさ、寂しさ、そして兄を殺した現実から逃げて逃げて、ひたすら逃げ続けているうちに自分を失い、結局逃げ切ることも出来ずに死に追い詰められている。
なんと弱い存在の、愚かな結末なのか。
「オレが……オレが死ねば良かった……んだ……オレ……が」
「リュウ……!」
流磨が何故泣いているのか分からない勇気だったが、うわごとのように呟かれたその言葉に思わず悲しみを込めた叫びを上げる。
「本当はオレが……死ぬはずだったんだ……オレが死ねば、何の問題も無かった……何で……オレは今生きてるんだ? ……死にたい……死にたい……死にたいよ……」
不意に目前を何かが横切ったのが分かった。それと同時に頭全体に衝撃が走り、自分の体が宙に浮いているのを感じたのは一瞬のことだった。
受け身に失敗し、肘と腰を地面にしたたか打ち付ける音が耳に響く。
何が起こったのか把握することが出来ずに、流磨は面食らって自分を見下ろしている勇気を見上げた。
勇気はこれ以上ないくらいの怒りと悲しみ、寂しさ宿した真剣な表情で流磨を睨んでいた。
「死ぬなんて言うな! そんなこと、誰が許したってオレが許さない!」
肩で息をしながら、もの凄い剣幕で流磨を怒鳴りつける。
その様子と今頃になって痛んできた左頬から、流磨は漸く自分が勇気に殴り飛ばされたのだということを理解した。
「絶対、絶対許さないぞ! どんなに辛くても生きなきゃ……生きなきゃダメだ!」
有無を言わせぬ必死の形相だった。
流磨にとって、勇気のこの言動は嬉しさよりも不可解さが勝った。
(何で……何でそこまで……?)
問い掛けるような目に気付いているのかいないのか、勇気の目は真っ直ぐ流磨に向けられたままだった。
「……どんなに辛くてもってお前、オレの気持ち分かって言ってるのかよ? ……はっきり言って地獄なんだよ」
「オレはリュウじゃないからリュウの気持ちは分からない、自分の気持ち正直に言ってるだけ。地獄だろうと何だろうとオレはリュウに死んで欲しくない……絶対に……!」
流磨の生気が無い、それでいて射抜くような鋭い視線にさえ一歩も怯むことなく、勇気はキッパリと言い切った。
「な……何勝手なこと言ってんだよ……?」
勇気の気迫に気圧され、思わずしどろもどろになる流磨。
一体どこからそこまでの意志が出てくるのか、真意を探ろうと勇気の瞳を見返してみたが、すぐに背中を向けられてしまった。
「……勇気?」
流磨の呆然とした呼び掛けに、少し間を置いて返ってきたその声は、ほんの数秒前の気迫に満ちたものとは明らかに質が違っていた。
「リュウ……生き……てよ……」
背中が震えている。
胸に何かが刺さり、その痛みにハッとした。
「死なないで……よ……」
勇気のしゃくり上げる声だけが風に乗り、弾けては消えていく。
流磨は言うべき言葉が喉の奥に詰まったように苦しく、沈黙することしか出来なかった。
「ご……ごめ……オレ、また感情……的になっちゃ、って……も、行くね……」
勇気はグラウンドに尻餅をついたままの流磨を振り返ることもなく、覚束ない足取りで正門に向かって歩き出した。
離れていく勇気の背中に理由もなく胸騒ぎを感じた流磨は、咄嗟に日頃から尋ねたいと思っていた疑問を声に出して投げかけていた。
「勇気、オレらまだ会って一週間だよな? なのに何で……お前、オレに対してそんな必死になれんだよ……?」
少し無神経な台詞かもしれない。
しかし、今までの勇気を見てきて思ったことを率直に表現した問い掛けでもあった。
勇気は数歩先まで歩いて、立ち止まった。
校門の外の街道を行き交う巨大なダンプカーのエンジン音が、やけに大きく響いて聞こえる。
勇気はこちらに背を向けたまま、俯いて立ち尽くし動こうとしなかった。
(何か……隠してるのか……?)
まるで反応に困っているかのような勇気の様子に、流磨は更に疑問を重ねた。
「もしかして、オレ達ずっと前に会ったことある……とか?」
もしそうだとしても全ての疑問の解決になるわけではないが、親身になってくれたり、付きまとってくる理由にはなるのではないか。
流磨の視線を背中に受け、数秒の間をおいて振り向く勇気。
「面白いこと言うねリュウ! オレがリュウをまともに知ったのは、この前リュウがクラス委員に立候補した時だよ」
全く翳りのない、無邪気な笑顔。
しかし流磨は見逃さなかった。振り返った時、一瞬だけ、何か迷っているような顔をしていたことを。
考えてみると、流磨は勇気のことを何も知らないことに気付く。家族や過去、悩み……何一つ知らない。
「じゃあ何で……」
「そんなに不思議? オレがリュウに構うのって」
流磨は頷いた。
それが分からない限り、やはり心からこの少年を信頼することが出来ない気がした。
「似てたから、かな」
勇気は照れ臭そうに頭を掻いた。
「似てる……? オレとお前が?」
「そう、余りにも自分と似てるリュウのこと、放っておけなかったのかも」
予想もしていなかった答えだった。
流磨自身は自分と勇気が似ているなんて、一度として感じたことがなかったのだから。
目を丸くして勇気の顔を見ると、神妙な面持ちで見返してくる。冗談ではないようだ。
しかし本当にそれが理由だとすれば、余計に勇気の考えていることが分からなくなる。
「どこがそんなに似てるんだ? そりゃ、地味系っていうか、そういうのは似てるかもしれんが……」
「地味系って……何気に痛いトコつくねリュウ……それにリュウはオレと違って黙ってても目立つタイプじゃないかよ……そういうのじゃなくて……何かこう、オーラが似てるってゆーか」
「オーラ?」
露骨に顔をしかめる流磨。
やはり冗談だったのではないかと思えてくる程、勇気の答えは曖昧だった
「オレと同じような悩みがあるとかか……?」
「いや……そうじゃないけど……まぁ、そうなのかなぁ……?」
「お前……本当に似てるとか思ってるのかよ……」
「思ってるよ……ただ、どう言ったらいいのか分からないんだ」
流磨はそんな勇気の顔をじっと観察した。
しかし、話を聞いても分からない心の奥を、顔を見ただけで分かる筈もなく、分かるのは、未だ勇気の全体像は霧が掛かったようにはっきり見えてこないということだけだった。
不可解そうに考え込む流磨の様子に、勇気は深刻な表情を浮かべて躊躇いがちに言った。
「迷惑……だった?」
「……え?」
「聞くまでもないか、大きなお世話だもんね……オレのやってることって」
勇気は寂しそうに笑ってから、どこか遠くに視線を移した。
「……相手のこと考えてるつもりで、いつも自分のことしか考えてないんだよ、オレって……それで誰かを傷付けて、苦しめてるってこと後から気付いて後悔するんだ、毎回……」
この時、勇気は今まで見たどの表情よりも辛そうな、まるで別人のように暗い顔をした。
勇気もまた、自分と同じように何か計り知れないものを背負っている。漠然とそんな風に感じさせる表情だった。
「変われないな……なかなか……リュウ、ごめんね…………」
勇気は再び流磨に背中を向けて歩き出した。その後ろ姿は儚く、このままぼやけて陽炎のように消えてしまいそうに見えた。
何故かもう、会えなくなるような気がした。
「勇気!」
咄嗟に叫んでいた。
「迷惑なわけない……! だって、お前はそうじゃなきゃダメなんだよ……それじゃなきゃ勇気じゃないんだから……」
流磨は、立ち止まった勇気の背中に向かって、必死に今の正直な思いをぶつけた。
勇気が相手の気持ちを考え過ぎ、遠慮して接してくるような人物だったら、自分は今までと何も変わらず逃げ続けていただろう。
もしかしたらその方が幸せだったかもしれないが、気付いた今となっては感謝している。
そして、唯一人の心を許せる存在となりつつある勇気。
その存在を、再び失うのが怖かった。
だから問うたに過ぎない。
『君は僕の前から消えたりしないかい?』
その確たる証拠は、まだ無い。
しかし流磨は信じてみることにした。
疑って、そのせいで傷付け、失ってしまうのは馬鹿らしいことだと、今失いそうになって気付いた。
(……もう、疑うのはやめよう)
流磨は勇気の横まで走っていった。
勇気は泣きそうなのを必死に堪えるように唇を噛んでいた。
「オレの方こそごめんな! 勇気に助けられてばっかの身のくせに、お前のこと何者だ、何でだって疑ってた……もう何も聞かない」
「リュウ……ありがと」
勇気は嬉しそうに表情を和らげた。
しかし流磨は気付かなかった。その笑顔の奥に、言いようのない寂しさのような感情が籠もっていたことを。
(リュウ……ごめん……)
勇気が心の中でそんな呟きを漏らしていることも知らず、流磨はまるで素晴らしい閃きでもしたかのように声を弾ませ、明日一緒にどこかに遊びに行かないかと提案した。
休日は家にいたくない。
勇気といれば、気が晴れる。
一瞬暗い影が過ぎった流磨の表情を見逃すことなく、勇気は何も気付かなかったように満面の笑みを返した。
「うん、じゃあ明日あの河原で!」
「あぁ……どこへ行くかは明日考えようぜ」
二人は今日初めて心から笑い合った。
そして、それはこれからもずっと続いていくのだろうと、流磨は信じた。