第六章
第六章
点々と続く淡い街灯の光に照らされながら歩く流磨の気分はこの上なく重かった。
兄の事故の夢を見た後や、家族の苦しみに触れた後に陥る状態と同じで、目の前の景色が色を失っている。
『殺そうとした華峰流磨を見てあげて』
頭の中に何度も響く勇気の声。
(うるさい……!)
立ち止まって振り払うように頭を振る流磨。
『どんなに頑張ったってリュウ以外にはなれない……』
(違う……)
頭がズキズキと痛み出す。
(オレはお兄ちゃんになるんだ……今からでも遅くないさ、華峰流磨なんか捨てて……)
『リュウはリュウでしかないんだよ?』
思考を遮るように鳴り響く勇気の言葉。
(何でそんなこと言うんだ? オレの何を分かってそう言うんだ!)
何も分かっていないくせに。
ただの同情のくせに。
ただの好奇心のくせに……!
受け入れまいと、必死に捲し立てる流磨。
――じゃあ、何て言って欲しかった?
不意に勇気とは別の、いつも自分を罵倒するあの声が口を挟んだ。
――その何も分かってない奴に、黙って頷いて自分を受け入れて欲しいと願ったのは誰だ?
(――うるさい……)
――ムシのいいことだ……お前はお兄ちゃんでも何でもないよ、あの頃よりずっと臆病になり下がった華峰流磨に過ぎないんだよ
(うるさい……うるさい!)
自分を安定させるためにずっと封印していた心が、勇気の言葉を鍵に染み出してくる。
――本当に同情と好奇心だけなのか? あいつの言葉は……
初めて会った時、あの事故を思い出して酷く怯えていた自分を見ても、態度を変えずに接してくれた。
言いたくないことは訊かないでいてくれた。
道に飛び出して自殺し掛けた自分を、体を張って救ってくれた。
黙って自分の暗い話を聞いてくれた。
本当は分かってる。
同情なんかじゃないこと。
(でも……今のオレには……)
それを受け入れることは、今までの自分を全否定することと同じだった。
全てに気付いているにも関わらず、流磨は気付かない振りを続けた。
――何故、そこまで?
矛盾を感じたもう一人の自分が問い掛けてくる。
――もういいじゃないか
(だめだ……)
他人事のようなもう一人の自分の声に耳を塞ぐ。
母の泣き顔が目に浮かんだ。
父の寂しそうな笑顔、弟達の辛そうな瞳が脳裏を過ぎり、消えた。
兄の笑顔、事故の映像と血まみれの死体が再びフラッシュバックする。
鼓動が速くなり、息が苦しかったが、それに気付かない程全身が震えていた。
(お兄ちゃんにならなきゃ……オレが生きるのなんて許されない……!)
立っていられなくなって、膝を突く。先程からの頭痛は更に激しさを増し、目眩を覚えた流磨は必死で道の脇の塀にしがみつき寄り掛かった。そのまま数分の間、抱えた膝に額を当てて、頭痛と動悸が治まるのをひたすら待った。
しかし、時は無情だった。
「あっ、兄ちゃん!」
不意に思いがけない声で呼び掛けられて、体がビクリと跳ねた。
未だに鈍い痛みが纏わり付く頭をゆっくり上げると、少し先の曲がり角に息を切らせて立っている柊馬の姿が見えた。
柊馬は流磨が道ばたに座り込んでいるのを視覚すると、驚いて走り寄ってきた。
「どうしたの兄ちゃん?」
流磨は平静を装うつもりで立ち上がったが、激しい頭痛で視界が歪み、再び膝を突いてしまった。今までに見たことのないような険しい表情の兄にただならぬものを感じた柊馬は、青くなって狼狽えた。
「具合悪いの? ちょ、ちょっと待ってて、今母さんとか呼んでくる!」
言いながら今来た道を戻ろうとする柊馬を、流磨は咄嗟に腕を掴んで止めた。
「やめろ……母さんには言うな、余計な心配するだろ? 大丈夫だから……帰ろう」
「でも……」
「何でもないよ……ちょっとお腹壊したみたいなんだ……」
それが嘘だということが十歳の柊馬にさえ分かる程、流磨の様子は憔悴し切っていた。
しかし、確かにこの事を母親に告げるのは得策でないと判断した柊馬は、のろのろと歩き出す流磨の後を黙って付いて行った。
「お前、どうしてここに来たの? もう六時とっくに過ぎてるだろ」
手足の震えを感付かれまいと、流磨はわざと大袈裟な身振りを入れて柊馬を振り返った。
「兄ちゃんが門限近くなっても帰ってこないから、回覧板口実に見に来たんだよ」
「え……」
言われて初めて時間が気になった。
勇気との口論で動転し、いつの間にか門限のことが頭の片隅に追いやられていたらしい。
「今……何時?」
数日前の修羅場が脳裏を過ぎり、血の気が引いた。
「まだ平気だよ、オレが出た時六時五十分だったから。それに今日は父さんも帰ってるし」
父が帰っているという報せに、ひとまずホッと胸を撫で下ろす流磨。
「そっか……よかった、父さんいるんだ」
父親がいれば、母が多少不安定になっても宥めてくれるので安心だった。
「じゃ、早めに帰んなきゃな」
少しだけ表情を和らげて足を速める流磨だったが、隣に誰も付いて来ないことに気付いて振り返った。
「柊馬……?」
そこには、立ち止まったまま暗い顔で地面に視線を落とす柊馬の姿があった。
「オレ達……いつまでこうなんだろうね……」
三日前の夕食時と同じ、十歳の子供には似つかわしくない翳りのある表情。
治まり掛けていた頭痛が少しずつ疼きだし、流磨は軽くこめかみを押さえた。
「いつまで……こうやって夕真兄ちゃんのことでビクビクしなきゃならないのかな……? これからもずっと変わらないのかもって思うとオレ……なんか、胸が痛くなるんだ……嫌なんだ……」
流磨は何も言えなかった。
兄なら、あの優しかった兄なら、ここで温かい言葉を掛けて、弟の顔に安堵の笑みを呼び込むことが出来ただろう。しかし自分は、その兄を殺した張本人だった。弟を苦しめている張本人だった。しかも弟は、不幸の根源である華峰流磨ではなく、家族の中にある『夕真の記憶』を疎ましく感じ始めている。
「こんな事言うのは不謹慎だって分かってる……でも、今までずっと我慢してたんだ……この前母さんが泣いてるの見るまでは……」
柊馬は辛そうに顔を歪ませ、泣くまいと堪えているようだった。
流磨は、自分の中身が音を立てて崩れ去っていくような感覚に身動きが取れなかった。
見たくないものが見え隠れする。
勇気にぶつけた、素のままの感情が表に噴き出しそうになり必死で抑えた。だが、現実を見るまいと強く閉じられた瞼は、柊馬の弱々しい声にこじ開けられる。
「しょうがないことなんだって、ずっと思おうとしてきた……でもどうしても考えちゃうんだ、なんで夕真兄ちゃんは死んだんだろうって……交通事故なら避けられただろう? ……って、そうすれば家族みんな悲しまずに済んだのに、夕真兄ちゃんも死なずに済んだのに……勝手なこと言ってるって思うけど、何で死んじゃったんだ……夕真兄ちゃん……」
どうしようもない痛みに唇を噛んで耐えている柊馬を見詰めて、言葉を聞いて、流磨は胸の中の想いが一つにまとまらず散り散りになっていくのを感じた。
最後に残ったのは、たった一つの渇いた現実。
自分は兄になろうとする資格さえ無いということ。そして、今まで自分がとってきた行動は、自分が優等生になることで、家族に必要とされたい、見放されたくないという自己防衛でしかなかったということ。自己犠牲を気取って、自分本位な考えを正当化してきたに過ぎなかった。
もう、それに気付かざるを得なかった。
柊馬にここまで言わせてしまった。
これも、華峰流磨という臆病者が生んだ現実。
――結局オレは……お兄ちゃんになることで、お兄ちゃんを消そうとしていたのか……? 自分が消えるのが怖くて
言葉に出来ない、強く、深い、訳の分からない感情が全身を駆け巡った。狂いそうになるとはこういう事なのだろうか?
流磨が先程から一言も発さず、沈黙を続けていることに漸く気付いた柊馬は、そっと兄の反応を窺って目を見張った。
「に、にぃちゃん……?」
流磨は泣いていた。
少し離れた街灯の光にぼんやり照らされた兄の頬には一筋の涙が伝っていた。
そして、もう片方の瞳からも一粒、ゆっくりと流れ落ちる。
いつも冷静な兄の、初めて見る涙に柊馬は激しく動揺し、自分の言動を後悔した。
「ごめんね! オレ考えなしなこと言って……!」
「オレが、夕真お兄ちゃんを殺したんだ」
必死でその場を取り繕おうとした柊馬の言葉を断ち切るように、流磨は言った。
柊馬は一瞬何を言われたのか分からず、訝しげに兄を見返した。そんな弟に、流磨はもう一度ゆっくりとした口調で言い聞かせた。
「オレがお兄ちゃんを殺したんだよ柊馬。だから夕真お兄ちゃんは全然悪くないんだ……父さんや母さんが悲しそうにしてるのも、柊馬や梨歌が嫌な気持ちになるのも、お兄ちゃんが死んじゃったのも……全部、オレのせいなんだ」
「……兄ちゃん……?」
柊馬は無造作に告げられた信じられない言葉に、ただ呆然とするばかりだった。
流磨は涙を流したまま、寂しげに微笑んだ。
「だから、夕真お兄ちゃんを責めるのはもう終わりにしろよ……」
――これからはオレを……
ふいと柊馬から目を逸らし、流磨は踵を返して歩き出した。
「兄ちゃん……」
黙って自分から離れて行こうとする兄を、柊馬は不安気に追った。しかし、そのまま家に着くまでの間、二人は一言も言葉を交わさなかった。お互いがお互いに遠慮し、何を言えばいいのか分からなかった。
きっともう今までのようにはいかなくなってしまうのだろう。
仕方がないことだと思いながら、流磨はそっと制服の袖で涙を拭った。
『殺そうとした華峰流磨を……見てあげて』
不意に先程の勇気の言葉が脳裏に蘇る。
勇気は全てを見通した上でそう言ったのだろうか。殺そうとした華峰流磨以外は、ただの飾りでしかないということを。
(そんな筈ない……あれだけの話を聞いたくらいで分かるもんか……)
どうして勇気はあんなに必死に、はっきりとああ言い切ることが出来たのか、流磨には益々分からなくなった。
しかし、分からなくなったのはそれだけではなかった。兄になるという道標を失った今、これからどうしたらいいのかも見当が付かなくなってしまった。
いつの間にか辿り着いていた自宅のドアを開くと、いつものように家族が笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい、流磨、柊馬も」
「よぉ、お帰り、道混んでたか?」
「おかえりーお兄ちゃん! お父さんケーキ買ってきてくれたよ!」
明るい光の中に響く、楽しそうな笑い声。
その中にいない、兄。
――オレは、華峰流磨なんだ……
そう実感した途端、いつもの『夕真』の笑顔が出来なくなった。
皆の笑顔にどう反応したらいいのか分からず、後ろに付いている柊馬の視線を強く感じて、流磨は無表情のまま玄関に立ち尽くした。
そんな息子の様子にいち早く気付いた父、勝は不思議そうに廊下を歩いてくる。
「どうした流磨、ボーッとして」
その声を聞いて、母と梨歌もダイニングから顔を出した。
流磨は怯えるように三人の顔を見渡すと、何も言わずに靴を脱ぎ、目の前までやって来ていた父の横を通り抜けた。
「! 流磨?」
驚き、呆然と振り返る父。
「お兄ちゃん……? どうしたの?」
「流磨……」
不自然な流磨の態度に戸惑い、不安そうな顔をする母と妹。
流磨は何の表情も浮かべず、俯いたまま二人の前を素通りして階段に向かった。
一刻も早くこの場から消えることしか頭になかった。
ずっと、兄ならと想像しながら家族と接していた。『流磨』として、兄を死に追いやった弟として接したことなど無かった。
流磨にとって今の状況は、未知の領域に足を踏み入れたようなものだった。これからずっと、この家族の中でやっていくというごく当たり前のことさえも、とてつもなく難しく、手の届かないもののように感じられた。
流磨の足音が二階へ消えていく。
勝も優葵も柊馬も梨歌も、廊下の奥にある階段を見ながら言葉を失っていた。
今まで家族の誰一人として、流磨のあんな様子を見たことがなかった。
物腰穏やかに微笑む流磨。
どんな時でも冷静さを保ち、取り乱すことの無かった流磨。
家族に心配を掛けるようなことは決してしなかった。
家族が知っているのは、そういう優等生で落ち度のない流磨だけだった。
それだけに、ショックも大きかった。
「……あの子、どうしたのかしら」
母、優葵は顔色を失って誰に言うでもなく呟いた。
勝もショックを隠しきれない様子で、険しい表情を浮かべ首を振った。
四人の間に重苦しい空気が流れる。
「ねぇ、シュウ兄……お兄ちゃんどうしたの? 一緒にいたんでしょ?」
梨歌は玄関に佇んだままの柊馬に、泣きそうな声で縋った。
柊馬は思い詰めたように唇を噛み、何も答えなかった。
柊馬の中でも、様々な思いが交錯していた。先程、兄の口から出た信じ難い言葉。あの言葉を鵜呑みにしたわけではないが、兄の態度を見ていると、触れてはいけない何かがあるのは確かなようだ。それが何なのか、さっきまでは父と母に訊いてみようと思っていたのだが、いざ二人を目の前にしてみて急に怖くなった。真実を知ってしまってからも、自分は今まで通りに兄と接することが出来るのだろうか。そして何より、家族のバランスが今以上に崩れてしまわないか……
「どうしたんだ? 柊馬、何かあったのか?」
「何でもない……何も……無かったよ」
柊馬は無理に笑って首を振った。
何かを隠しているだろうことは誰もが気付いたが、柊馬の怯えるような掠れた声に、それ以上問い詰めることは出来なかった。
いつも明るく、物事を深く考えないタイプの柊馬が、こんなに辛そうな笑顔をするのもまた、家族にとっては衝撃だった。
ただ事ではない何かを、皆、感じ取った。
「柊馬……」
「あ……じゃオレ二階行ってちょっと寝てくる」
何か言葉を掛けようとする母の声から逃れるように、軽い調子でそう言って柊馬は足早に廊下の奥に向かった。
家族の視線が背中に痛い。
しかし今は、一人になって考えたかった。
水色のカーテンの隙間から淡い光が漏れるのを、流磨はベットで横になったままぼんやり見詰めていた。
結局夜が明けるまで一睡も出来なかった。
寝てしまえば、起きた時に少しは何かが吹っ切れているかもしれないと僅かに期待しながら夕食も取らずにベッドに入ったが、拷問のように長い夜が待ち受けているだけだった。
目を閉じると、柊馬の悲しそうな瞳と、家族の怪訝そうな顔が鮮明に映し出される。
自分の話を聞いて、柊馬はどう思ったのだろう。昨夜のうちに両親や妹に話したのだろうか、だとしたら自分は家族にどんな態度を取ればいいのだろう。
それらを全て忘れて眠ることなど到底出来なかった。
吐きそうな程息苦しく、辛いだけの時間が積み重ねられ、今も続いている。
重い頭を上げ、机の上の目覚まし時計を覗くと、まだ四時だった。
(どうすればいいんだ……これから)
家族との接し方が分からない。
今までのように、『夕真』として接することは出来ない。兄を殺した自分にその資格は無いのだから。
そんな簡単なことに、昨日やっと気付いた。いや、もうずっと昔から気付いていた筈なのに、気付かない振りをしていたのだ。
この嫌気が差すような自分を曝け出し、皆から疎ましがられながら生きることこそが本当の意味での兄への償いになるのだろう。
それが嫌で、今まで逃げてきた。
(嫌だ……いやだ……!)
嫌だという気持ちは、今でも変わらない。
しかし、その気持ち自体が甘えであるということに気付いてしまった今、逃げ出す訳にもいかなかった。
苦痛に耐えるように目を閉じる。
覚悟しなければならなかった。
――どうしようもない
最後の結論として、その絶望が残ることに。
答えなんか無い。
出口なんか無い。
それが、自分に対する罰なのだと。
いつもより少し早い時間に一階へ降り、のし掛かるように重い空気を掻き分けながら食卓のドアを目指す。
気分が優れず、欠席しようかとも考えた流磨だったが、一晩中頭を支配していたのは家族との関係、そしてそれに対する感情。学校に行った方が、まだ気が紛れるかもしれないと結論を出した。
ダイニングの入口で立ち止まると、台所で母が朝食の準備のために動き回っているのが、卵を焼く匂いで分かった。
緊張で顔が強張っているのを感じ、大きく深呼吸するがリラックス出来るわけもなく、それどころか自分がこんなに緊張しているのだということを実感して余計に体が硬くなった。これ以上の深みにはまるのを避けるには、決死の思いでダイニングに足を踏み入れるしかなかった。
「あらっ……流磨」
勢いよく入室した流磨が目の端に映ったのか、母はすぐに気付いてこちらを振り返った。
いつも通りの母の様子に柊馬から昨日のことを聞かされていないのだと悟り内心安堵した流磨だったが、やはりどんな態度を取ればいいのかは分からず、戸惑ったように俯くことし出来なかった。
そんな息子の態度に昨夜と同様の違和感を感じた優葵は、味噌汁の鍋に掛けていた火を弱め、ゆっくりとした足取りでダイニングに入ってきた。
「おはよう、流磨」
普段と変わらない母の笑顔。
「……おはよう……」
しかし流磨はいつも通りではなかった。
母と目を合わさず、抑揚のない声で短く挨拶を返すだけで、柔らかな微笑みも、気の利いた言葉も発しようとしない。
「どうしたの、流磨……?」
まるで別人になってしまったかのような流磨の様子に不安を隠しきれず、顔を曇らせる優葵。
しかし流磨は何も言わない。
何も言えない。
流磨の中では凄まじい葛藤が渦巻いていた。
ここ何年も見せたことがない『流磨』を家族にどう表現したらいいのか、そんなことが出来るのか。
「ねぇ、流磨……!」
無言のまま、今まで見たことがないような硬い態度と表情を全く崩そうとしない流磨に、優葵はいよいよ危機感を募らせたようだった。
人形のように突っ立ったままの息子の腕を掴み強く揺さぶって、感情的に声を荒げる。
「どうしたの? 何があったの流磨……! お願いだから何か言って!」
その時、初めて母と目が合った。
青ざめ、不安そうに目を見開いた母の顔が目の前にあった。
飛び込んでくる映像に、胸が張り裂けそうになる。
急激に、何か言わなければならないという焦りを感じた。
しかし何と言ったらいい?
『流磨』なら、兄が死ぬ前のあの頃の自分はどんな風に家族と接していた?
今度は小学校二年の頃の記憶を手繰り寄せている自分の滑稽さに気付き、虚しくなる。
「どうしちゃったのよ……一体」
記憶の彼方から現実に視界を戻すと、母がやるせなさそうに口元を手で押さえて俯いていた。
そのまま、二人の間に長い沈黙が訪れた。
鍋が沸騰している音が台所から響いてくるのを感じて、優葵は気を取り直したようにテーブルにしまわれた椅子を両手で引いた。
「ごめんなさいね……話したくないなら無理には聞かないけど……心配だったからつい、ね……朝食、もうすぐ出来るから座ってて」
寂しそうに目を伏せながら、優葵は台所に向かった。
「母さん」
引き止めるように、流磨はやっと声を出した。驚いて振り返る母の目をやはり見られないまま、言葉を続ける。
「母さんは何も……悪くないんだ……心配しないで」
「……?」
それだけはどうしても伝えたかった。
それきり流磨は再び黙り込んでしまったが、優葵の表情は今の一言で少し救われたことを物語っていた。一方通行の視線を流磨に向けながら、強張った頬を緩め、薄く微笑んで頷くと台所の奥に入っていった。
流磨はテーブルから出された椅子を見詰めて少し迷ったが、躊躇いがちに席に着いた。
聞き慣れている筈の、包丁がまな板を叩く音が台所から響いてくる。しかし今の流磨には、遠く隔てられた世界から聞こえてくる、いつもとは違った奇妙な音に感じられた。
流磨は考えていた。
『夕真』を演じようとする時、あれほど邪魔だと感じていた『流磨』。だが今、その『流磨』を表に出そうとしても出てこない。『夕真』の時と同じように『流磨』も演じようとしなければ、自然には出てこないのだ。
(オレ……は)
流磨は気付いた。
長い間兄を演じているうちに、小学校二年生までいた『流磨』はとっくに死んでいたのだということに。
今『夕真』の他にあるものは、演じようとする執念と過去に怯える恐怖という感情だけ。それは『流磨』の亡霊でしかなかった。自分で考え、感じ、それを表現出来る『流磨』は、もう死んでしまっていた。確固たる〃自分〃が失くなっていたのだ。
(オレは……誰……?)
これまで無意識に気付くのを避けていた事実を、今本当の意味で実感してしまった。
圧倒的な恐怖に呑み込まれ、一瞬、気が触れて叫び出しそうになる。
頭を抱え、息は荒く、小刻みに震える流磨。
――どうしよう
――どうしよう
――どうしよう……!
パニックを起こした頭は、何度もその問いを繰り返すだけで少しも働こうとしない。
テーブルの木目のような模様を凝視しながら、必死で気持ちを落ち着けようと奮闘していると、見ていた木目の上にサラダが盛られたガラス食器がそっと置かれた。
驚いて顔を上げると、いつの間にか母が料理を運んできていた。
跳ねるように振り返って自分をじっと見詰める流磨を見て、優葵は息を呑んだ。
本当に別人のようだった。
もう、元には戻らないのではないかと思う程、昨日までの流磨の欠片も見付からない。同じ顔の別人と入れ替わったのだと言われても信じてしまいそうだ。
それでも優葵は平静を装い、一呼吸置いてから明るい声で言った。
「じゃーん、急遽ドレッシングサラダゆで卵付き! 作ってみましたっ! 流磨好きでしょ? これ食べていつもの元気出して、ね?」
流磨はサラダを見詰めたまま、やはり何も反応しなかった。
表情一つ動かさない。
ほんの少しだけ笑顔が見られるのを期待していた優葵は微かな落胆を隠し切れなかったが、すぐに思い直したように笑顔を取り戻して流磨の肩を叩くと台所に戻っていった。
流磨は心にすきま風が吹くのを放置しているような、言いようのない、寂しさよりもっと深い痛みに耐えていた。
兄が好きだと言っていたから好きになろうとした、好きだと信じ込んでいた母特製のドレッシングサラダ。今では本当に好きなのかさえよく分からない。
――いつもの元気出して……
いつもの元気ってどんな元気?
『夕真』の元気がいつもの……オレ?
『流磨』は……もう忘れられてる?
今更『流磨』はもう邪魔なだけ?
何言ってるんだオレ、最初から、あの時から『流磨』なんて、嫌われてる。
好かれたいから、『夕真』を演じてたんだ。
それを、お兄ちゃんの為とか言って。
寒気がする。
醜い、醜い自分に。
「できたよ流磨、ご飯どれくらいよそる? 食べないとか言っちゃダメよー? 昨日の夕飯だって食べてないんだから……」
言いながらダイニングに顔を出した優葵の目に流磨の姿は映らなかった。
それと同時に、玄関のドアが閉まるばたんという音。
テーブルの上のサラダは全く手を付けられないまま、半分に切られたゆで卵の断面からは細い湯気が昇っていた。