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第五章

第五章


その日の放課後は珍しく雑用を頼まれなかったが、流磨は居残った。思うところがあっての行動だったが、教室にいると千空以下、リポーター軍団がうるさいので、夕暮れ時に幽霊が出ると噂の一階の非常用通路に隠れて人気が無くなるのを待った。教師まで避けて通るというこの場所に籠もっているとは誰も思わなかったらしく、一番しつこい千空とも、また噂の幽霊とも出喰わすことなく下校時刻過ぎまでやり過ごすことが出来た。

 ただ、耳が痛くなる程静かなこの場所で長い時間ぼんやりとしていると、頭の中に棲む誰かが発する罵声からは逃れることが出来なかった。

 ―――お前はいない方がいいんだよ

 ―――分かるだろう? お前の所為でどれだけのひとが迷惑してる? 不幸になってる?

 その声に反発するだけの気力はとうの昔に尽きていた。

(もう、この声が聞こえることもなくなるだろう)

 そう思うと、少し気が楽だった。

(今……何時だろう……)

 門限を過敏に意識しながら非常口扉からそっと顔を出すと、多少日が陰り始めてはいるものの、無人の廊下は思ったよりずっと明るかった。一番近くにある、滅多に使われることのない国語科教材室を覗いて壁掛け時計を確かめると、まだ四時を少し回った所だった。

普段雑用を頼まれて帰る時間より大分早い。それでも、この静けさからして一般の生徒は殆ど下校していると見た流磨は、自分の頬を軽く叩いて気合いを入れ直すと歩き出した。

 はっきりとした意志が胸の中にあった。

 もう迷いは無い。

 ここに到達するまで、どれだけの時間が掛かっただろう。

流磨にはずっと前から漠然と分かっていた。

 どうすれば華峰流磨が本当に消えるのか。


 昇降口から外に出ると、夕方の少しひんやりとした風が頬を撫でた。

 目の前の昇降口前広場には誰もいない。

 大きく深呼吸して気を落ち着け、そっと目を開くと、鮮明な景色が視界に流れ込んだ。

 気持ちは変わっていない。

 それを確認するように軽く頷くと、正門に向かって歩を進めた。

 鼓動は速くなるのに、気持ちの方は冷たく沈んでいくのを強く感じながら街道に出た。

 結構なスピードを出した車が何台も行き交う道路の脇の歩道を一歩一歩踏みしめるように歩く。

 ――そう、あの時もこんな感じだった。

 淡いオレンジ色の光を浴びて、この道を渡った、反対側の歩道を不安気に歩いていたっけ。知らない道と、通り過ぎていく大きな車の音が怖かった。

 今見えているもの全てが、あの時の光景とオーバーラップする。

 当時とまったく同種の恐怖がじわじわと胸に湧き上がり、手や足が震え始めるのが分かったが、流磨はその景色から目を離そうとしなかった。

 やがて、目の端に映った一本の街路樹をハッとしたように凝視する。

 ――そうだ、この植え込みが見えて――それで……その木の下に……

 見付けたのだ。

 楽しそうに友人と笑い合う兄を。

 この直後、まさか自分が命を落とすとは思いもよらない、無邪気な笑顔。

 足が竦んで動けないでいる流磨の横を、兄は笑いながら通り過ぎて行く。  

――だめだよ! そっちへ行っちゃ……お兄ちゃん! そっちは……!

いつの間にかカラカラに渇いていた喉から声にならない叫びを上げる。

 その声に振り向きもせず、流磨のいる場所から遠ざかっていく兄。

――お兄ちゃん!

 道路の反対側から、こちらに向かって飛び出してくる幼い男の子が見えた。

 あっと思ったその瞬間、兄も飛び出して――――

 ――だめだ! 行くなお兄ちゃん!

 けたたましい警笛とタイヤの擦れる音が鳴り響く中、咄嗟に兄を追って飛び出そうとして、誰かに引き戻される。

 ――放せ! 間に合わない――!

 跳ね飛ばされて、道路の真ん中に転がる兄の姿が瞬きを忘れた目の中に飛び込んできた。

 何かが、胸の奥でぷつりと切れて、全ての感情が素通りしていった。

 ――これが、オレのやったこと……

 呆然としたまま、兄の死体に一歩一歩近付く……まだ生きているかもしれない。

 足下までおびただしい血が流れてくる。

「……う……め……だよ!」

 野次馬の声がうるさい。

 警笛がまだ鳴っている。

 兄はもう、死んでいるというのに……。

 兄の側に行きたいのに、野次馬が手を引っ張って行かせてくれない。

「行きたいんだ……邪魔をするな!」 

 死んだ目のまま、野次馬を怒鳴りつける。

 手足はまるで痙攣しているかのように大きく震え、神経が昂って目から一粒の涙が零れ落ちた。

「リュウ、リュウ! しっかりして!」

 野次馬の聞き覚えのある声にハッとして、その顔を見る。それでも、混乱した頭で目の前にいるのが勇気だと認識するまで数十秒の時を要した。

「……あ……うっ」

 激しい頭痛と神経衰弱の為、うまく言葉が出てこない。警笛は未だ鳴り止まずに耳に響いて、頭痛は更に増していくばかりだ。

 玉のような汗を浮かべて苦しげに耳を塞ぐ流磨を、辛そうに見詰める勇気。

「ね……リュウ、とにかくここから動こう」

 静かな声、優しく言い聞かせるようなその言葉。

 懐かしいような安心感を覚えて、石のようにその場から離れなかった流磨は手を引かれるままに歩いた。

 荒かった息が少しずつ鎮まっていくのを感じながら、漸く周りを見回すだけの余裕を取り戻した。

「あの、どうもすみませんでした!」

 見ると、勇気が道路で警笛を鳴らしている乗用車に向かって頭を下げている。そしてその乗用車の後ろにも数台の車が連なって、同じように警笛を鳴らしていた。

 勇気はその車全部に頭を下げて謝ってから、急いで流磨の元に走ってきた。

「リュウ……」

 心配そうに声を掛けるが、流磨の異常なまでに怯えた様子に続く言葉を失った。

 流磨は震える体を何とか抑えようとしながら、ゆっくりと勇気を見た。

「オレ……道路に飛び出し……てた?」

 勇気は唇を噛み締めて俯くだけだった。

 ――オレ……ホントに死ぬトコだった?

 そう思ったら、何だか急に笑えてきた。

 その場に座り込み、声を上げて笑った。

 ――オレは死にたかったのか?

 ――それとも……お兄ちゃんがオレに死ねって言ってるのか?

 蒼白の顔をし、体は震えたままで、虚しい笑い声だけが空に吸い込まれていく。

「リュウ!」

 勇気は、項垂れて笑い続ける流磨の肩を強引に掴むと自分の方を向かせた。

「何が……可笑しいの? どうしてこんな事……!」

 悲しそうな瞳で流磨の目を真っ直ぐに見ながら、怒りを露わに問い掛ける。

「死にた……かったの……?」

 勇気の目から今にも涙が零れ落ちそうなのを見て流磨は笑うのを止めた。それどころか自分まで泣きそうになっているのに気付き、必死でこらえた。

 暫くの沈黙の後、流磨は目の前でしゃがみ込んだままの勇気をちらりと見やって言った。

「死にたかった訳じゃない……ただオレは、殺したかった……華峰流磨を」

 今まで、自分の胸の内だけに溜め続けてきた思いの一つを吐き出した。

 まさか、会って三日かそこらの勇気にこんな話をするとは。自分でも不思議な気分だったが、真剣な顔で黙って見守っていてくれる勇気に向かっていると、言葉が自然と紡ぎ出されていく。

「ここに来れば……オレの中の華峰流磨を殺せると思ったんだ」

「どうして……どうして殺すの……」

 勇気はショックを隠しきれない様子で視線を宙に漂わせた。一瞬、想像以上に深そうな流磨の苦しみに、どう対処すればいいのか分からなくなったようだった。しかし、今自分に出来ることをもう一度思い直し、目の前の今にも壊れそうな少年の目をしっかりと見詰め直した。

 受け止めよう、全部。

 その決意が、勇気の目を見返す流磨の心にも伝わってきた。

 張り詰めていた気持ちが解きほぐされていくのを感じて、流磨は思わず頬を綻ばせた。

「強いのな……お前」

 勇気も、何も言わずに微笑む。

 暫しの沈黙をおいて、流磨は行き交う車を眺めながら消え入りそうな声で語り始めた。

「オレさ、死んだ兄貴のこと……ずっと引きずってるんだ」

 小さい頃、よく自分の面倒を見てくれた優しい兄が大好きだったこと。休みの日や学校から帰った後によく一緒に外で走り回って、とても楽しかった。犬に追い掛けられたり、近所の子にいじめられた時も守ってくれた。

 本当に兄にベッタリの甘えん坊な弟だった。

 そんな弟を兄は可愛がってくれた。

 それだけで、楽しくて幸せな日々だった。

「でも……兄ちゃんが中学に上がってから急に遊ぶ時間が減って……小学校よりも遠いし、部活とかも見て回ってたら帰りが遅くなるのは当たり前なんだけど……あの頃オレ、バカだったからさ、それが分からなかった。いつも兄ちゃんが帰ってきてた時間に帰ってこないと寂しくて寂しくて……もう兄ちゃんはオレと遊んでくれなくなるんじゃないかって……一人きりで部屋で泣いてたの、今でも覚えてる」

 そこで言葉を切って小さく深呼吸する流磨。

 胸の痛みに耐えるように目を閉じている流磨の姿を、勇気は膝を抱えて見守った。

 時々通行人が何事かと二人を見下ろしながら通り過ぎていったが、流磨の目には見えていないようだった。見えているのは遠い日に笑っている優しい兄だけ……勇気にはそう思えた。

 何度目かの深呼吸を終え、目を開けた流磨は再びゆっくり話し始めた。

 あの日のことを。

「それでオレは……寂しさに耐えられなくなって、ある日兄ちゃんの学校まで会いに行くことに決めたんだ……貯金箱の中のお金を全部はたいてバスに乗った……小学校とは反対方向のバスだし、一人でそんなに遠くまで行ったこと無かったからホントあの頃のオレにとっては大冒険だった。だからあの時……兄ちゃんの姿を見付けた時嬉しかったんだ……こんな所まで一人で来れたのか? すごいなって褒めてもらえると思って得意になって夢中で走った……周りのものなんて何も見えなかった、兄ちゃんしか見えなかったんだ……でも、そのお兄ちゃんをオレは殺した……お兄ちゃんは何か叫んでオレを突き飛ばしてた、あとは倒れて、動かないお兄ちゃんと、たくさんの赤い血を泣きも叫びもせず見てた……何でお兄ちゃんは倒れてるんだろう……って……頑張って来たのに何で褒めてくれないんだろう……って……」

 そこまで言って、涙で声が詰まった。

 もうこのことで泣く涙は涸れたと思っていたのに……まだ少し残っていたようだ。

 悲しいのと同時に、悔しさと自分に対する怒りが混ざり合った涙。

 あの頃はどれだけその涙を流しただろう。

「オレは……オレを殺したかったんだ……ずっと……」

 嗚咽を漏らしながら途切れ途切れにそう言うと、流磨は涙を隠すように下を向いた。

 勇気は唇を噛んで聞いていた。表情は厳しく、悲しげだった。

 そして、流磨が下を向いて泣いているのを見計らって、気付かれないように自分も涙を拭うと、何かを思い出すような目で遠くを見詰めた。

 いつの間にか日も大きく傾き、夕方の日差しは更に彩りを増していた。

「ゴメンな……こんな話」

 少しだけ落ち着いてきた流磨が情けなさそうにぼそりと言った。

 その声に反応せずに遠くを眺め続けていた勇気だったが、突然立ち上がると

「ねぇ! リュウの住んでるトコに行ってみたいな」

 明るい笑顔を向けてきた。

 突然の提案にポカンとなる流磨。 

「え……っ? オレが住んでるトコ?」

 勇気は何度も頷くが、まだ意味がよく飲み込めない。

「って……オレんちってこと? 今から?」

「ううん、そうじゃなくて、リュウの育った所って言うか、そのお兄ちゃんとの思い出の場所……とか、見てみたい」

 何の躊躇いもなくさっそくバス停の方へ歩き出す勇気。

「何で……」

 遠ざかる勇気を呆然と見上げながら、流磨は胸の中に湧いた一つの疑問を呟いていた。

(何で、勇気はそこまでオレにこだわるんだろう……)

 流磨にとって、勇気は本当に不思議な存在になりつつあった。

 今まで、こんなにも自分の内面に踏み込んできた者はいなかった。踏み込まれそうになると、一歩引いて壁を作るのが癖になっている流磨に誰もが遠慮し、入り込めず、距離を置くのが常だった。自分にとってもそういう生き方が一番楽であり理想的だと思っていた。しかし今、引いても、かわそうとしても関係なくぶつかってくる少年と出会い、焦りと恐れ、そして微かな温もりを感じている。この感情にどう対処したらいいのか、自分でもよく分からなかった。しかし分からないままに、夕日に照らされながら振り向き「早く早く」と声を上げる勇気に笑顔で答えながら立ち上がる自分もいた。

 やっと空気が吸えたような感覚。

「バス代自腹だぞー! あるのかぁ?」

 今までと何かが変わるような理由の分からない期待感を胸に、流磨もバス停へ走った。


 バスに揺られる四十分の間、流磨は窓の外ばかり気にして何を話しかけられても上の空だった。どうせ案内するなら勇気に見せたいものがあったのだが、見せられるかどうかは時間との戦いだった。

「着いたら走るぞ」

 取り敢えず事前にそう告げておいた。

「えっ、走るの? 何で?」

「日が沈む前に行きたい所があるんだ」

「……日が沈む前に……」

 勇気は窓の外を確認してから納得したように頷いた。

 太陽は、流磨が住む住宅地がある、小さな丘の向こうに沈み掛けていた。

 バス停に降り立つと、流磨が道案内するように一歩先を走り出し、勇気も無言でそれに続いた。

 辺りの景色は深い紅から赤紫色へと様相を変えつつある。

 川沿いの道を息を切らせて走り、ある地点で流磨が「ここだ」と土手を駆け下りた。

 それに習って勇気も土手を下りようとして、前方の景色に目を奪われた。

「うわあ……」

 どこまでも流れる橙色の川と、それに架かる橋の向こうで、今正に太陽が沈みきろうとしていた。今さっきバスで通った街道の橋に灯る街灯や無数の車のヘッドライトが、夕闇迫るその景色をより幻想的に浮かび上がらせている。

 見惚れていた勇気は、うっかり足を滑らせて土手から転げ落ちた。

「おい、大丈夫か?」

 息を切らせながら、倒れた勇気に手を貸す流磨。しかし立ち上がった勇気は、まるで自分が転げ落ちたことになど気付いていないかのように、沈みゆく太陽が作り出すその情景に釘付けになっていた。

「何とか間に合ったな……」

「…………綺麗……だね……」

 勇気が予想以上に感激しているのを見て、流磨は感慨深そうに遙か向こうに消えようとする太陽を眺めた。

「……兄ちゃんもさ、この景色見て、いつもキレイだなって嬉しそうに言ってた。オレとよくこの河原で遊んでくれて……日が沈む頃になると二人で並んで、黙ってこの景色見るのが日課みたいになってたんだ。オレはまだガキだったから、正直その時間って退屈だったけど、兄ちゃんは毎日飽きずに嬉しそうに見入ってたよ……今のお前みたいに、感動してた」

 遠い日を思い返していた流磨は、勇気の方を振り返ってみてギョッとした。

 勇気はその景色から目を逸らさないまま、涙を流していた。

「勇気……」

 その呼び掛けに、やっと自分が泣いていることを自覚したらしい勇気は慌てて服の袖で涙を拭いた。

「何かさ、リュウのお兄ちゃんの気持ちが伝わってくるようだよ……この景色見てると」

 少し照れたような微笑みを向けてくる勇気を見て、流磨は何故か寂しそうに水平線に視線を戻した。

「そっか……きっとお前はお兄ちゃんと感性が似てるんだろうな……オレは正直言うと、そこまでいいって言うのが分からないんだ」

 悔しそうに唇を噛み、言いたくない言葉を発した。

「……だから、オレはお兄ちゃんになれないのかな……」

「え……?」

 意味が分からず、キョトンとなる勇気に流磨は、もうここまでバレれば同じことと、投げやりな口調で打ち明けた。兄や、家族への罪滅ぼしのために自分が兄の代わりになろうとしてきたことや、何かを考える基準も兄の視点で考えてきたこと、理想の兄自身になろうと、それだけを目指して生きてきたことを。

「でも……生徒会に誘われてみて、思った以上に兄になれてない自分を知った……気が弱くて、周りのことも何も見えてないあの頃のオレがこんなに残っていたなんて……嫌だった……すごく、もの凄く嫌で……あの場所に行ったんだ……お兄ちゃんを殺したあの場所に行けば、何となくだけど自分の中の情けない自分を殺してしまえる気がして……」

 今まで家族にさえ隠してきたものを、何故こんなにペラペラと喋っているのか、自分でも不思議で仕方なかった。ただ、目の前にいる少年の全てを受け入れてくれるような柔らかな印象が、流磨の中に安心感を生んでいるのは確かだった。

 群青色の空を、遠い目で見ながら流磨は押し殺したような声で続けた。

「でも……結局、華峰流磨だけを殺すことは出来なかった……それどころか、自分全部を殺そうとしたんだ……オレはお兄ちゃんになって……お兄ちゃんには生きてて欲しいのに……意味無いんだ、それじゃあ……」

 話すうちに言葉が覚束ず、途切れ途切れになっていく。

 無表情で棒立ちになったまま、淡々と話すその姿は明らかに普通の状態ではなかった。

 そんな後ろ姿を黙って見詰めていた勇気はぴくりとも動かないまま、喉の奥に詰まっていた感情を漸く吐き出すように呟いた。

「リュウがお兄ちゃんになったら……本当のリュウは……どこに行っちゃうの……?」

 声が震えていた。

「死ぬんだよ、だって生きてく価値なんて無いんだから」

 少し怒りを含んだ声で、流磨は即答した。

 勇気は弾かれたように、空を眺めたままの流磨の腕を掴んでこちらを向かせた。

「そんな価値の無い命を、お兄ちゃんは助けたの? 自分の代わりになる命が欲しいだけなら、リュウを助けたりしなかったんじゃないの?」

 勇気の突然の剣幕に目を見張る流磨。

「お兄ちゃんは……リュウに死んで欲しくなかったから……自分の命と取り替えてもいいくらいリュウが大切だったから! 助けたんじゃないの?」

「……!」

「きっと、今のリュウを見たら……お兄ちゃんすごく悲しむよ……」

 勇気自身、これ以上ないくらい悲しそうな瞳をして流磨を見詰めていた。

 勇気の言葉に衝撃を受け、動揺した流磨だったが、何年も苦しみ、歪んだ心は容易にその救いの言葉を受け入れられなかった。

「そうだよ、オレは……お兄ちゃんが命を懸けて守る程の人間じゃないよ……」

 否定し続けてきた自分自身。

「どう考えても、オレよりお兄ちゃんが生きてた方が価値があるとしか思えない……」

 何も映そうとしない流磨の瞳。

 何も見ない、怖くて仕方ないという瞳。

「だから……オレはお兄ちゃんになるんだ……いつか……きっと……」

 それが、流磨が長年苦しんで出した答え。何を言われてもその考えを変えるつもりはなかったし、変えたくなかった。

 頷いてくれるような気がして勇気の顔を見上げたが、薄闇色に照らされたその表情は厳しく悲しいままだった。

「……リュウのお兄ちゃんてそんなにスゴイ人だったの? オレにはそうは思えないよ」

 勇気の口から出た予想外の言葉が、流磨の思考を停止させた。

「いくら死んで助けたって、リュウにこんな辛い思いさせるなら無意味だよ、ただの自己満足じゃないか!」

「……な」

「自分の命と引き替えにリュウを助けて、それで正義の味方になったつもりだったんだ……残されて苦しむ弟のことなんて少しも考えずに……」

「やめろよ!」

 心を強い衝撃に襲われ、耐えられなくなって流磨は思わず叫んだ。

「お兄ちゃんのこと悪く言うな! 何も知らないくせに……お兄ちゃんがどんなに優しかったか……どんなに強かったか!」

 一瞬我を忘れて勇気に掴みかかり、思い切り怒鳴りつけていた。兄を貶められたことに対する怒りが噴き出して抑えられなかった。

 兄がどれだけ優しかったか。

 どれだけ温かかったか。

 自分がどれだけ兄を好きだったか。

 どれだけ、救いだったか。

 勇気は何一つ分からず、兄を馬鹿にした。

 そうとしか思えず、許せなかった。

 勇気は掴まれたままの体制で、流磨の目を直視し続けていた。

 そして何かを堪えるように静かに言った。

「そんな完璧な人はこの世にいないよ、お兄ちゃんにだって弱い所やカッコ悪い所はあったに決まってる……リュウならそんなの……とっくに分かってるはずだろ……?」

 勇気の目から落ちる一粒の涙。

 その涙を見て、流磨は掴んでいた勇気の襟元を乱暴に突き放して横を向いた。

「何で……何でお前はそんなにオレに関わろうとするんだ……? オレのこともお兄ちゃんのことも何も知らないくせに、何でそんな風に泣けるんだよ……同情なら……されたくない」

「! 同情なんかじゃないよ!」

 驚いて声を荒げる勇気の顔を、流磨は見ようとしなかった。

「じゃあ何なんだ? 説明してくれよ」

「――……」

 勇気は何か言おうとして、途中で俯いてしまった。

 そしてそのまま、二人の間に長い沈黙が流れた。

 辺りはすっかり暗くなり、先程までは気付かなかった川のせせらぎが、半月の上る夜空に良く響いている。

(――答えられない、か……)

 妙に冷めた気持ちが胸の奥を通り抜けた。

 考えてみれば、会って三、四日の人間が付き纏ってきたり涙を流したりする理由なんて、好奇心と同情以外に何があるというのだろう。

 当然といえば当然のことだったが、実感してみて小さくはない失望感が流磨の中を支配した。

 自分は、この少年に一体何を期待していたのだろう。こんな自分を本当に受け入れてくれる人間なんて、この世界中どこを探したっていないことくらい、もうずっと前から分かっていた筈なのに。

 虚しさで、思わず自分を嘲り、笑った。

 その(さま)に、流磨の中で蠢く底無しの闇を垣間見た勇気は辛そうに顔を歪めた。

 しかしそれも、もはや流磨には同情と偽善にしか取れなかった。

「そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」

 笑うのを止め、流磨は無表情な声で勇気の真剣な瞳を振り切った。

「リュウ……」

「もう暗いしさ、家族も心配するぞ」

 そこには、普段その他大勢の人間と接する時の物腰柔らかな、他人行儀な微笑みを浮かべた流磨が立っていた。

 本当は笑っていない笑顔。

「バス停まで送るよ」

 言いながら土手を上り始めた。

 俯いたまま動こうとしない勇気を、振り返り急かす。

「お前ンち門限平気なのか? オレんちはものスゴクうるさくてさぁ、さ、急いだ急いだ!」

 何事も無かったかのように軽い調子でおどける流磨の態度が勇気の胸に突き刺さった。

「いいよ、リュウ……一人で行けるから」

 そう言って顔を上げた勇気の悲しそうな表情が、流磨には自分を哀れんでいるように見えた。激しい苛立ちを覚え、すぐにその場を立ち去ろうとする。

「じゃあなっ」

「リュウ待って!」

 止めるつもりは無かった筈の足が、勇気の必死の叫びで反射的に止まった。

「リュウはリュウでしかないんだよ? どんなに頑張ったって、リュウ以外にはなれない――……殺そうとした華峰流磨のこと……しっかり見てあげて」

(――うるさい!)

 ギュッと目をつぶり、小走りに河原沿いを離れようとして、道を歩いていた通行人に思い切りぶつかってしまった。

「きゃっ」

 短い悲鳴を上げてアスファルトの上に尻餅をついた少女に慌てて手を差し伸べる流磨。

「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

「あ……うん、リュウくんの方こそ大丈夫?」

 自分の名前を呼ばれて面食らい、特に見ようともしていなかった少女の顔をまじまじと見詰めると、よく見知った人物であることに気付いた。

「何だ、冴子ちゃんか……」

 言いながら、ぐいと手を引っ張り立ち上がらせる。

 肩の所で切り揃えた真っ直ぐな髪のその少女は近所に住む幼なじみの木嶋冴子(きじまさえこ)だった。幼なじみといっても遊んだりしたのは小さい頃で、小学校の途中からは疎遠になっていたのだが、中学が分かれて学校でからかわれる心配が無くなったせいか、最近になってまた会うと立ち話くらいはするようになった。

 彼女は近くの公立中学の制服に身を包んでおり、学校帰りだということが分かった。

「リュウくんどうしたの? 顔色が……」

 勇気との口論で受けたショックが隠しきれずに表情に出てしまったらしい。

 慌てて笑顔を作ろうとしたが、焦りと動揺が邪魔して、いつものように上手く『夕真』になれない。

 不自然な沈黙に、冴子はそっと流磨の顔を覗き込んだ。

 苦しそうな、もどかしそうな表情。

 酷く狼狽している様子が窺えた。

「……何かあったの?」

 冴子は目を見張った。

 流磨は居心地悪そうに目を伏せ、一歩二歩と自宅へ向かう脇道に逃げ込もうとする。

「いや……何でもないんだ……学校、仕事多いから疲れてるのかも……」

「今、下から来たよね、川見てたの?」

 土手の下を覗く冴子の目に勇気の姿が映る。

 勇気はさっきの場所から一歩も動かずに、無言でこちらに視線を向けたままだった。

「あれ? あの子……」

「じゃあ、オレもう帰るから」

 呆然と勇気を凝視している冴子の隙をつく形で、流磨は逃げるように住宅街の細い脇道へ歩き去って行った。

 冴子は一瞬遅れて、「さよなら」と小さな声を追わせたが、もう既に流磨の背中は遠く、届いていないようだった。一人残された後も暫くその背中を眺めながら物思いに耽っていると、いつの間にか先程河原にいた少年がすぐ隣に立っているのに気付いた。

「あ……びっくりした」

 胸に手を当てて目を丸くしている冴子の反応に、勇気は決まりが悪そうに頭を掻いた。

「あは……ゴメン、オレってかなり影薄いらしいんだよね……」

 情けなさそうに苦笑する勇気を見て、冴子も安心したように少し微笑んだ。

「あなた、星凛生だよね? ……あ、私は木嶋冴子っていうの、この近くの岸波中学一年」

「オレは小葉勇気。星凛の一年」

「リュウくんの友達?」

 その質問に、勇気は困ったような顔をして間をあけてから

「ま、微妙だね……」

 とだけ言った。

「微妙……?」

 あまり深く詮索するのは失礼だと思いつつも、冴子はその答えに興味を持った。

 さっきの流磨の様子がどうしても気に掛かっていたからだ。

「オレ達、数日前に知り合ったって感じだし、それに……」

 感情に任せた言葉をぶつけて傷付けてしまった。

 もう、今までのように笑い合えなくなるかもしれない。

 流磨が道の奥で角を曲がり、その姿が消えていく。

 寂しかったが、自分の言ったことが間違っているとは思わなかった。

(このままいったら、きっとリュウは……)

 黙ったまま、目を伏せて唇を噛んでいる勇気を、冴子はじっと見ていた。

「ねぇ、あなたさ……」

 何かを考え込むような表情で小さく首を傾げながら続ける。

「どこかで……会った?」

「えっ……?」

 勇気は驚いて冴子を見返した。

「それってもしかして、逆ナン……?」

 その切り返しに一瞬目が点になる冴子。

 が、すぐに真っ赤になってうろたえた。

「ちっ……違うわよっっ!」

「なーんだ違うのかぁ……残念」

「あなたねー……」

 第一印象のキャラクターとの違いに、溜息を吐いて額の汗を拭く真似をする冴子。

 勇気は歯を見せて笑った。

「冴子ちゃんは? リュウとどういう関係?」

「え……私は」

「……彼女?」

「かっ……?」

 落ち着きを取り戻し掛けていた冴子の顔が再び真っ赤になる。

「そ、そんな訳ないでしょー! 小学校の時なんかほとんど口利いてなかったんだし」

 そこまで言って、冴子は何かを思い出したように表情を陰らせた。

 そうやって、何年も言葉を交わさないでいるうちに、流磨は不自然なくらい変わってしまった。小さい頃の内気で、二人の時は冴子の後ろを付いてきてばかりだった、それでいて無邪気で可愛らしかったあの流磨は、いつのまにかどこにも見当たらなくなっていた。一体、いつ頃から交流がなくなってしまったのか。

「あ……」

 改めて記憶の糸を手繰り寄せてみて、一つの理由が思い当った。

「……もしかして、お兄さんが亡くなってから……?」

 言葉にしてから、自らが出した答えにショックを受け、俯く冴子。

(リュウくん、まさか今でもお兄さんの事……)

 もしこの予想が真実だとしたら、どんなに途方もない苦しみだろう。自分の身に置き換えて想像しただけで胸に鋭い痛みが走った。

 ふと、側に赤の他人である勇気がいたことを思い出して、冴子は軽はずみな自分の言動を後悔した。何の反応も返してこない勇気を、気まずそうに見上げると、意外にも彼は地面の一点を睨んだまま、悔しそうに見える表情をして拳を握りしめていた。

「小葉君?」

 驚きの混じった呼び声に、はっとなる勇気。

「どうしたの……?」

 勇気は小さく息を吐いて、流磨の消えた道の向こうに遠い視線を投げた。

「……痛いんだ……」

 どう取ったらいいのか分からない一言に、冴子は沈黙した。ただ、言いようのない感情の塊だけが、勇気から伝わってくる。

「オレはね、冴子ちゃん……痛いんだ……すごく……でも、もっと……」

 悲しい色の瞳で何かを見詰めている勇気に、冴子は意味も分からず涙が零れそうになった。

 そのまま二人は一言も口を利かず、いつまでも流磨が消えた曲がり角に目を向けていた。

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