第三章
第三章
辺りはすっかり暗くなり、街灯と家々の明かりが灯るだけの静かな住宅街を歩く流磨。
点々と続くぼんやりとした白い光を懐かしそうに眺めていると、背後から軽やかな足音が近づいて来ることに気付いた。
「兄ちゃーん」
「柊馬、今頃学校帰りか?」
聞き慣れた声を掛けてきたのは二つ下の弟、柊馬だった。流磨にはもう一人三つ離れた妹がいて、今は三人兄弟の一番上ということになっている。
五十メートル程の距離を一気に走ってきて、少し息を切らせながら柊馬は笑った。
「まさかぁ、友達と遊びに行ってたんだよ」
「そっか、そうだよな、もうこんな時間だもんな……ってあれ? お前門限六時じゃなかったっけ?」
流磨は腕時計をしていなかったが、教室を出た時間から計算するともう既に六時半を過ぎていると思われた。
「あ……はは、そう……ちょっとサッカーにハマっちゃってさぁ、気付いたらこの時間」
「母さん心配してるぞ、きっと」
苦笑して頭を掻く柊馬を見て、流磨はやれやれとばかりに腕を組んだ。
そして、自分が小学生の時に一度だけ、門限に一時間も遅れて帰った日のことを思い出した。
家のドアを恐る恐る開けると、玄関には顔色を失った母、優葵が途方に暮れたように座り込んでいて、流磨が帰って来たのを見ると安堵して涙を流した。その後勿論こっぴどく叱られたが、幼い流磨にとってはそれよりも母の涙の方が遙かに大きな衝撃だった。
母は兄が死んでから驚く程神経が過敏になってしまったのだと、その日初めて思い知らされた。そしてその日を最後に、流磨は一度も門限を破らなかった。もう絶対に母にあんな顔をさせたくなかったし、見たくなかったからだ。
「母さんって門限にはすごいうるさいんだよね、この前なんか五分遅れただけなのに結構怒られたもん」
あれはひどいよなぁと口を尖らせる柊馬。
母の気持ちが分かる流磨はどう反応したらいいのか分からず、寂しそうに少し微笑むだけだった。
「ま、覚悟はしといた方がいいな」
「そ……そうだよね」
味方になって励まして貰えることを期待していた柊馬は、兄の厳しい一言に肩を落とした。
家の前まで来て大きく深呼吸する柊馬の姿を見て、中学生になって門限が七時に延びている流磨まで少し緊張してきた。
まだ三十分ちょっと遅いだけだしあの日程のことはないだろうと自分に言い聞かせながら、ゆっくりドアを開き、並んで家に入った。
「ただいまー……」
そこで二人の目に飛び込んできたのは、血相を変えて玄関を覚束ない足取りで歩き回る母の姿だった。そして、二人が帰ってきたことに気付くと、心の底から安堵したように力無くその場に座り込んだ。
「……あぁ……もう心配させないで……!」
肩まで伸びた柔らかい髪は乱れ、視線の定まらない瞳には涙さえ浮かべている。いつもの明るく優しい、親しみやすい母親の面影はなく、得体の知れない怪物に怯える少女のように身を強張らせていた。たった三十分遅れただけで……。
「ごめん母さん」
そんな母の姿を見て戸惑った柊馬は慌てて謝った。いつもはここで説教が飛ぶところだが、母は再び青い顔をして流磨と柊馬に詰め寄った。
「ねえ梨歌は、梨歌を知らない?」
「えっ、梨歌まだ帰って来ないの?」
流磨は母の意外な発言に驚いた。
梨歌とは柊馬より更に一つ下の妹の名前だった。
柊馬がちょくちょく門限破りをしては怒られているのを見たことはあったが、流磨の知る限り、まだ小学四年生になったばかりの梨歌が門限を破ったことなど一度もなかったように思う。
「お母さんね、みんな……みんないなくなっちゃうかもしれないって思ったら…………」
耐えられなくなって母は涙を流した。手に持ったハンカチを目元に当てる。
今にも壊れてしまいそうな母を見て、流磨はどうしようもない胸の痛みを感じた。
あの日と……同じだった。
柊馬も、いつもの母との余りの違いに言葉を失っている。
「ちょっとオレその辺見てくる」
その場にいたたまれなくなって、流磨が出て行こうとすると母が必死で止めた。
「やめて! 折角二人が無事に帰ってきてくれたのに……行かないで!」
母の精神状態は普通ではなかった。
そんな母の様子にどう対処したら良いのか分からず、流磨も柊馬もただ黙って立ち尽くすことしかできなかった。
そのまま無言の時がどれくらい流れたのか、流磨にはとてつもなく長く感じられた。
聞こえるのは母のすすり泣く声だけ。
静寂を破ったのは、この空気に耐えることが出来なくなった十歳の柊馬だった。
「オレ……部屋戻るね」
呆然としているようにも、泣きそうになっているようにも見える表情をして靴を脱ぎ、母の方を見ないようにしながら廊下の奥の階段を上って行く。相当のショックを受けたであろうことが、強張った声から感じ取れた。
後ろ姿が数年前の自分と重なる。
段々遠ざかる柊馬の足音を聞いているうちに、多少冷静さを取り戻すことが出来た流磨は目を閉じて考えた。
(こんな場合、お兄ちゃんならどうするだろう……)
どんな時でも流磨の行動は『兄なら』から生まれる。そうやって想像できる兄の行動をそのままなぞることで『兄そのもの』になろうとしてきた。そして、長い年月を経て段々とそれが癖になり、今では流磨の中で当たり前のこととなっていた。
「母さん、落ち着いて……大丈夫だよ、梨歌はすぐ帰ってくるから」
ゆっくり、優しく声を掛け、元気付けるように軽く母の肩を叩く。
「でも……梨歌がこんなに遅いなんて……」
ハンカチを目に当てたまま、母は微かに震えていた。その姿を見て流磨の心の痛みは更に耐え難いものになっていったが、決してそれを表面に出すことなく、母を安心させる為の笑顔を作った。
「たまにあるんだよ、遊ぶのに夢中で時間忘れちゃうってことがさ」
この胸の痛みも、自業自得。
そう思うのが一番楽だった。
そしてその後、梨歌が七時を回った頃に漸く帰宅するまでの間、流磨は数分経つ毎に情緒不安定になる母を宥め続けた。
怒られることを覚悟したように俯きながら恐る恐る玄関に入ってきた梨歌を、母は泣きながら抱きしめ、それに驚いた梨歌も一緒に泣き出してしまった。
家族全体に刻まれた深い傷を物語るような、その異様な光景を、流磨は目を逸らさずに見詰めた。
これが、自分の犯した過ちの結果なのだと、自分で自分を罵りながら――。
結局その日お説教は無く、母は夕飯だけ作ると、元気がないまま疲れたからと先に寝てしまった。父親は小さな貿易商の社長で、最近は仕事が忙しいからと家に帰らない日も多い。今日も夕方頃、徹夜になると電話があったらしく、それが余計に母の不安と寂しさを募らせてしまったのかもしれない。
子供三人で囲む食卓はいつになく暗く、重苦しいものだった。
年上の自分がしっかりしなければと流磨だけは明るく盛り上げようとしてみたが、二人の反応の薄さを見て無駄な努力なのだと悟ることになった。するといつしか誰も言葉を発しようとしなくなり、味のしない食事を黙々と口に運ぶだけの作業が続いた。
「ごちそうさま……」
殆ど料理に手を付けないまま、梨歌は唇を噛み締めて葬儀場のように静まりかえったダイニングを出て行った。去り際、涙が頬を伝っていた様に見えた。
長兄、夕真が死んだ頃まだ幼稚園児だった柊馬と梨歌は、両親や流磨程、死んだ兄への執着というものが無い。二人にとっては、ぼんやりとしか顔も思い出せない遠い昔に死んだ兄の事よりも、その所為で深く悲しむ家族の姿を見ることの方が、ずっと辛いのだ。
それが分かってるだけに、その悲しみの根元である自分に二人を励ます資格はない。
苦しげに一番小さな妹の背中を見送る流磨に、不意に今まで一言も喋らなかった柊馬がうわごとのように切り出した。
「夕真お兄ちゃんて……何で死んだりしたんだろう」
「え……」
目を見開く流磨。
ぎゅっと拳を握って心臓の痛みに耐える。
「夕真お兄ちゃんが死ななかったら、みんな幸せだったんでしょ……? こんな苦しくなくて済んだんでしょ……?」
柊馬はいつの間にか憤りの表情を浮かべていた。
流磨はどう反応したらいいか分からず、ただ無表情に弟の顔を凝視していた。
柊馬も梨歌も、夕真が流磨を庇った為に命を落としたという事実を知らない。当時からそのことについては禁句で、未だに触れてはならないというのが家族内での暗黙のルールになっているのだ。
しかし今、柊馬は感情のバランスを崩し、自分で自分をコントロール出来なくなっていた。ずっと言いたくても言えなかった本音をぼろぼろと吐き出してしまっている。
「みんなが悲くて嫌な気持ちになるのは夕真兄ちゃんのせいだ! ……全部……全部!」
出てくる涙を服の袖で拭う柊馬。その涙と言葉は鋭い刃となって流磨を切り刻んだ。
まるで、自分に向けられた言葉のようだった。
「夕真お兄ちゃんは悪くないんだよ、柊馬」
声が震えそうになるのを抑えながら、静かに言い聞かせる。
「嫌だよ……もうたくさんだよ……!」
柊馬は強く頭を振り、溢れてくる感情を必死で抑え込むようにそれだけ声を絞り出すと、足音荒く部屋を出て行った。
一人残された流磨は、時が止まったかのように動かなかった。
動けなかった。
何も考えられず、ただ何処からかくる痛みを感じながら、無意識に皆が食べ残した料理を台所に運んだ。そして次に気付いた時、流磨は薄暗い自室で窓の外を眺めていた。
流磨の部屋は二階にあるが、窓からは近所の家の明かりしか見えない。
この家からは失われてしまったものが、きっとあの明かりの下にはある。
あそこには幸せを奪う者がいないのだから。
ふと浮かんだその意味を深く考えようとしてみたが、突き刺すような頭痛に遮られた。
電気も点けていない暗い部屋を見回し、目に付いたベッドに体を投げ出す。
天井を見詰めた。
――もうたくさんだよ……
柊馬の今までに見たこともないような苦しそうな表情が、耳鳴りと共に蘇った。
耳を塞ぎ、寝返りをうつ。
泥沼の底に沈んで身動きがとれないような感覚。
表面まで押し寄せてくる熱い感情を再び押し戻すために、息が止まる程、強く強く歯を食い縛った。
――華峰流磨なんて消えればいい
――お前の所為だ、早く消えろ
――消えろ――――!
時々頭に響くこの声が、自分の声なのか、父か母か弟達か……それとも死んだ兄の声なのか、分からなかった。
全員のような気もした。
(オレ……いつまでこうやって生きてくんだろ……)
暫く自分の中でその絶望的な問答を繰り返してみたが、今日一日の精神的な疲れが出た為か、答えを見付けることの出来ないまま、いつしか深い眠りに落ちていった。
この夜も夢を見た。
昨日と同じ夢だ。
手を振る兄の元へ一生懸命走る自分。
訳が分からないまま突き飛ばされて倒れる自分。
足下に転がった――血まみれの死体。
それを呆然と見ている、自分。
狂ったような自分の叫び声で目が覚めた。
ほんのり光を漏らした水色のカーテンが視界に入る。
自分が発したように聞こえた叫びは、窓の外で鳴くカラスの声だった。
耳障りな程に鳴き続ける電線上の休憩者に苛立ちを感じながら、自分があのまま眠ってしまったことに気付く。時計を見ると午前四時三十分。外はまだ薄暗く、叫びに似たその鳴き声が余計に薄気味悪い。まるで、いつもより更に重い、死にたくなるような朝の始まりを告げているようだった。
体の底から込み上げる、絶望が膿んだような痛みを、ベッドに腰掛け宙を見詰めて、ただ耐える。毎朝のことだが、この気分をやり過ごす一時は何度経験しても永遠のように長く、慣れるとが出来ない。
結局、まともに思考回路が働くようになったのは六時を過ぎた頃で、普段起きる時間とそれ程変わらなかった。
学校へ行く準備を整え、台所に降りると母が迎えてくれた。
「昨日はごめんなさいね、びっくりさせちゃって……お母さんちょっとどうかしてたわ」
バツが悪そうに苦笑する。
いつも通りだった。
母は時々昨夜のように取り乱す事があるのだが、大体一晩経つとほとぼりが冷め、「昨日はどうかしてた」と笑う。
「別に、気にしてないよ」
これも流磨のいつもの返事。
本当に気にしていないかのように自然に、笑顔で返す。普段より手のこんだ朝食を何事もなかったように食べ、会話し、いつも通りに家を出た。
朝日が眩しい河原沿いを歩きながら、確かに胸の奥に穴が空いたままなのを感じていた。
この穴の名前を流磨は知っている。
いくら無視しても、自分の人生に必ずつきまとってくる感情の名前。
しかし流磨は、いつものように徹底的に知らない振りを決め込んだ。そうしなければ、今まで積み上げてきたものが一気に崩れ去ってしまうような気がしたから。
(さて、今日も一日がんばろう)
『前向き』になろうとすることで、いつもの余裕が戻ってきた。大きく深呼吸して目を開くと、とても清々しい気持ちになれた。
これで……今日もがんばれる。
昨日と違い普段通りのバスに乗ることが出来た流磨は、七時四十分に学校最寄りのバス停に降り立った。
(やっぱこの時間じゃないと落ち着かないな)
最初は兄に合わせただけだったこの少し早めのバスの時間も、今やすっかり肌に馴染み始めている。
学校まで一直線の見通しの良い歩道を歩いていると、前方五〇メートル程の地点でこちらに背を向け、ボーッと立ち尽くしている男子生徒の姿が目に入った。少しずつ近付いていくうちにそれが勇気であることに気付く。
「おーい……」
普通に挨拶しようとして、勇気の様子に少し戸惑った。
勇気は学校の方をジッと見詰め、鞄を胸にしっかりと抱きかかえて石のように動かない。
流磨の位置からは後ろ姿しか見えないので、どんな表情をしているのかは分からなかった。
「勇気……?」
もしかしたら別人かもと、勇気の前に回り込み顔を覗いた。
「わっ! リ、リュウ?」
「やっぱ勇気だよな? お前どうしたの」
一瞬、勇気がいつもの彼とは思えない程、厳しい顔で何かを睨んでいたように見えた。
思わずその方向に目をやってみる。
「何でもないよ、行こうリュウ」
勇気は焦ったように先に歩き出した。
その方向に特に何も見付けることが出来なかった流磨も仕方なく歩き出す。
「お前、何で今日はこんなに早いんだ?」
昨日出会った時刻と今の時間差を疑問に思い、尋ねる。
「リュウに合わせた」
「はっ? 何で?」
その真意が読めずに驚いて聞き返す流磨に、勇気は冷たい視線をぶつけて溜息を吐いた。
「ウソだよ……昨日はただの寝坊」
「何だそっか、お前もいつもこんなに早く来てるのか?」
「って言うかさー……オレは登校中リュウのことよく見掛けたし、あの数人しか来てない教室でいつも一緒じゃん……絶対覚えてくれてると思ったから昨日も声掛けたのにさぁ」
勇気はかなりの深さまで落ち込んでいる。
「えっっ……! マジ……?」
冗談抜きで流磨は今初めてそれを知った。
我ながら、自分の注意力の無さに呆れる。
記憶力はあるつもりの頭を必死に巡らせて、朝の教室メンバーを思い出そうとしてみたが、ぼんやりとしか浮かんでこなかった。
「あ、あぁ……うん、そうだ、確かお前もいたな教室に。思い出したよ、ハハ……」
「いいよ……無理しなくて」
なかなか浮上してこない勇気にフォローを入れているうちに、いつもの脇道の前までやって来ていた。
「じゃあ、オレこっちの道から行くから」
そそくさと一人脇道に反れる流磨。
それを見て一瞬キョトンとする勇気だったが、すぐに流磨の後を追った。
「じゃあオレも行くよ、でも何で? 完ペキ遠回りだよね? こっちって」
「この道好きなんだ」
笑顔で自然に言ったつもりだったが、勇気の言葉を遮るような形で声が出てしまった。
「……そうなんだ」
勇気が、少し複雑な表情をして俯いているのを見ない振りをしながら、流磨はわざと明るい声で取り繕った。
「……ほら、こっちって公園とか見えるだろ? 何かこうホッとするって言うかさー」
更に突っ込んで尋ねたそうな顔をする勇気だったが、流磨の態度から何かを察したのか、それ以上のことを聞き出そうとはせず、軽い調子で話に乗ってきた。
「そうそう! あの道から見える公園の桜、すっごいキレイだよね」
こうして何気ない会話が始まり、流磨は胸を撫で下ろした。
そして勇気の優しさが嬉しかった。
勇気とは何だか長い付き合いになりそうな、そんな予感のする朝だった。