第十六章
第十六章
広い草原が目の前に広がっていた。
膝丈まで伸びた雑草の群れは、懐かしい夕暮れ色に染まり、静かな風に揺れていた。
――ここは……?
空は夕焼けと夕闇が溶け合った、絵の具では表せない不思議な透明色。
――あぁ……
涙が出そうな程の遠い思い出の匂いに、胸が押し潰されそうになる。
「リュウー! 早く早くっ!」
音の無かった世界に、不意に自分を呼ぶ声が響く。
それは良く知っている、大好きな人の声。
思い出した。
太陽が沈むのを見送る時間だ。
それでこの川原に来たんだ。
――もう見飽きちゃったけど、お兄ちゃんは何度見ても飽きないみたいだ。
ほんの少しだけ浮かない顔をしながら、急げと言わんばかりに大きく手招きする逆光の人影に向かって走った。
――あれ?
人影に近づくに連れて、違和感を覚えた。
「どうしたの? リュウ」
人影は優しく微笑み、ゆっくりと近付いてくる。
「なんだ、やっぱり勇気か……」
兄だと思った人影は勇気だった。
眼鏡を外し、少し髪型を変えているから一瞬気付かなかったが、笑うと目が三日月型になる表情でピンと来た。
「なんでこんなトコに居るんだ勇気? ……それに、お前随分背が伸びたみたいだな」
目の前までやって来た勇気は、見上げる程に背が高い。
勇気は何も聞こえなかったように、しゃがみ込んで顔を覗き込んできた。
「どうしたのリュウ? ……あ、もしかしてまーだスネてる?」
――スネる?
話が通じていないことに当惑していると、勇気は困ったように笑った。
「しょーがないだろぉ? 中学校って遠いし、入ったばっかで忙しいんだよぉ……リュウももう一年生じゃないんだから、そんなに泣いてちゃ笑われるぞ~? ね?」
心臓が一つ、跳ねた。
――な……んだ? これ……
これじゃ、まるで勇気が――。
頭の中が混乱して声を出せずにいると、突然体が宙に浮いた。驚いて辺りを見回すと、自分が勇気の肩の上に座っていることに気が付いた。
「ホラ、もう泣き止んでリュウ、今日は特等席で見せてあげるから……あっ、やーっと笑ったね! いい? しっかり兄ちゃんの頭につかまってるんだよ?」
赤紫色の太陽が、ゆっくりと水平線に沈んでいく。
太陽と同じ色に染まった川、橋、川原の草原が、ここからだといつもと違う場所に見えた。
この日のこと、覚えてる。
お兄ちゃんに肩車してもらって、嬉しくて涙なんか吹き飛んだ。
飽きた筈の景色が新鮮に見えて、太陽が沈み切るまで夢中で見入ってた。
頬を撫でていく風が、気持ち良かった。
この数日後、あの事故が起こる。
「……お兄ちゃん」
「うん?」
無意識に漏らした声が、今度は通じたようだ。
兄の優しい笑顔。
「ううん、何でもない……」
それを聞いて、兄はこちらを見上げたまま苦笑すると景色に視線を戻した。
どうして気付かなかったんだろう。
兄と勇気が同じ顔をしていたことに。
勇気の喋り方が兄と似ていたことに。
自分を呼ぶ時の声の響きが、同じだったことに。
――勇気……お前、お兄ちゃんだったのか……?
気が付くと、辺りが暗くなっていくのと同時に、兄の姿も、川原も太陽も無くなって、代わりにぼんやりとした天井が目に映った。
窓の外の雀の鳴き声が、朝を告げていた。
流磨はまだはっきりしない意識のまま、薄目を開けて宙を見た。
(夢……? でも……)
夢の中でお兄ちゃんは、勇気と同じ顔をしていた。
(まさか、勇気が……)
一瞬本気で考えてから、頭を振って自分に渇を入れた。
そんなことがある訳無い。
兄は六年前に紛れもなく死んでいるのだ。
それに、もし兄が生きていたとしても、もう十八歳で高校も卒業している年頃の筈だ。
恐らく遊園地であんなことがあったから、二人を混同するような夢を見たのだろう。
そう自分に言い聞かせながらベッドを降り、まだ鳴る前だった目覚まし時計のアラームを切った。
久し振りに、鬱屈感に苛まれることなく目覚めることが出来たが、代わりに不可思議な疑問がどうしても頭から離れなかった。
生きていたら十八歳の筈の兄。
しかし死んだのは今の流磨と同じ十二歳。
その事実が、この考えを馬鹿馬鹿しいと片付けようとする自分を阻んでいた。
(違う! そんなワケない……! だってオレの記憶の中のお兄ちゃんは、勇気とは全然違う! お兄ちゃんはもっと――)
現実を見ようとする頭が、非現実的な考えを否定しようと必死に記憶の糸を辿る。
そして、呆然となった。
兄の顔をはっきりと思い出せない。
優しく、強く、温かい手をした、いつでも自分を見守り、大切にしてくれた兄。
そういった、漠然としたイメージだけはいくらでも浮かんでくる。しかし兄がどんな顔をしていたか、どんな表情で笑い、自分を見てくれていたかを、どうしても思い出すことが出来なかった。そして、それを邪魔するように浮かんでくるのは、先程の夢に出てきた兄の顔ばかり。
流磨は愕然として、もつれる足で部屋を飛び出し、隣室である柊馬の部屋にノックもせずに駆け込んだ。
頭の上から発せられる、物をずらしたり落としたりする音に眠りを妨げられ、のろのろと体を起こした柊馬は、部屋の隅で押し入れを漁っている兄を見て素っ頓狂な声を上げた。
「……ちょ、ちょっと兄ちゃん? なにやってんの?」
「あぁ、悪い柊馬……少し邪魔してるぞ」
流磨は短くそう返事をするだけで、顔を上げもせず、取り憑かれたように押し入れの中を掻き回し続けている。
あの家族会議の夜から三日、家族とも必要最低限の会話なら少しずつ出来るようになっていた。それでもまだ、多少ぎこちない雰囲気が残っているのも確かだったが、今の流磨はそれどころではなかった。
(確か……この中に……)
「一体何探してるの? そこってガラクタしか入ってないでしょ、兄ちゃんの物なんてあったっけ……?」
「アルバム……」
兄の異様な行動にバッチリ目を覚まし、恐る恐る側までやって来た柊馬に、流磨は埃の舞う暗闇の奥に目を凝らしながら言い辛そうに呟いた。
「……アルバム? アルバムってリビングの棚にあるやつじゃなくて?」
「……そこには無いんだ」
リビングの棚にあるアルバムには、兄の死後に撮った写真しか入っていない。両親が、兄の写った写真を全部抜き取って、どこかに隠してしまったのだ。
唯一、小学校の卒業アルバムだけは、中学に進学した兄の気を引きたいが為に流磨が昔この押し入れの奥に隠して、それきり見付けられることもないまま兄は死に、兄の部屋であったここが柊馬の部屋になっても触れられることなく、ずっとそのままになっている筈だった。自己中心的な自分を象徴するかのようなその隠されたアルバムを、ずっと見ないように、考えないようにして六年間過ごしてきたが、結局忘れることは出来なかった。
そして今、目の前に横たわる大いなる疑問を晴らすには、大嫌いな昔の自分が隠した物が必要だった。
(……良い機会なのかもしれないな……)
もう、その大嫌いな自分から逃げることも許されないと思い知る為にも。
やがて押し入れの一番奥に、埃をかぶった低い木の棚が姿を現した。
昔父が日曜大工で作ったが、余りにもバランスが悪くて使い物にならず、物置直行になった代物だ。
「あった……」
棚の裏側から一冊の白い表紙のアルバムを取り出した流磨が緊張気味に溜息を漏らすと、学校へ行く支度を始めていた柊馬が、興味津々という面持ちで駆け寄ってきた。
「えっ! これが夕真お兄ちゃんが小学校の時のアルバム? へぇ、こんなトコに隠してあったんだ! 見して見して!」
感慨に浸る暇もなく柊馬に急かされ、流磨は恐る恐るアルバムを開いた。
「お兄ちゃんて何組だったの?」
「……確か、四組……だったと思う」
「じゃ、この次のページじゃん、早く早く」
流磨の声が固いことに気付く様子もなく、柊馬はあっけらかんと言った。
気を落ち着かせるように深呼吸する流磨。
――何、緊張してるんだ……思い違いに決まってるじゃないか……
現実的に、普通に考えればそうに決まってる。しかしそれでも、思い切ってページをめくったその瞬間は目をつぶってしまった。
「えっと……あっ、いたいた! へぇー、夕真お兄ちゃんてこんな感じだったっけ?」
その問い掛けに、ゆっくり開いた流磨の瞳に映ったもの、それは――
「なんかスッゴク優しそうな人だね……でも、オレが想像してたよりちょっと頼りなさそうな感じかな?」
物心ついてから、ほぼ初めて見た兄の顔に少し興奮しながら流磨の方を振り返って、そのただならぬ雰囲気に柊馬は言葉を失った。
流磨は無表情とも驚いているとも取れる、複雑だが何か強烈な感情を放っているのが分かる形相をして夕真の顔写真を凝視していた。
「兄……ちゃん?」
柊馬の訝しげな呼び声も、流磨の耳には届いていなかった。
現実のアルバムに載った、写真の中の兄。
少しくせっ毛の髪、三日月型の目をして、控えめに歯を見せて笑う優しい兄。
そこに映っていたのは、紛れもなく夢の中に出てきた兄だった。
勇気の顔をした、兄だった――
いつもより随分遅れてダイニングに降りると、少し顔を曇らせていた母が弾かれたように立ち上がり、明るく笑い掛けてきた。
「おはよう! 今日は遅いのね? 時間大丈夫なの?」
「……おはよう、母さん」
挨拶だけ返して、流磨は用意された朝食の前に座った。
まだ、頭が混乱している。
勇気と同じ顔をした兄。
兄と同じ顔をした勇気。
似ているどころではない、本当に同じ顔をしているのだ。
これをどう理解したらいいのか、明確な答えは出ていなかったが、一つの小さな可能性が流磨の心の中を占め始めていた。
「ねぇ、流磨聞いてる?」
気が付くと、母が目の前まで来て顔を覗き込んでいた。
「あ……ごめん、聞いてなかった……」
心ここにあらずといった調子で軽く謝罪すると、全く手を付けていなかった朝食をつつき始める流磨。
優葵は心配そうに首を傾げた。
「元気ないわね……何かあったの?」
流磨は箸を止めて少し考えた。
そして、徐に母の顔を見詰めると、再び抑揚の無い声で尋ねた。
「母さん、お兄ちゃんて……夕真お兄ちゃんて、どんな人だった?」
優葵は目を丸くして流磨の顔を見返した。
長い間、お互いがお互いに気を遣い合って滅多に出さなかった夕真の話題。しかも、一番夕真と仲が良かった筈の流磨からそんな事を訊かれるとは思ってもみなかった。
母の困惑したような表情を見た流磨は、後悔を覚えて朝食に意識を戻した。
母にこんな顔をして欲しくなかったから、今まで兄の話題を避けていたというのに。
しかし、少しの間呆然と佇んでいた母は、徐に流磨の向かいの席に座ると、テーブルに頬杖を付いて優しい眼差しを向けてきた。
「夕真はね、とっても優しい子だった……でも、その優しさ故の弱さも抱えていたわ」
母がこんなにもはっきりとした口調で兄の話をするのを見たことが無かった流磨は、意外そうに顔を上げた。
母は年齢より若く見える整った顔立ちを綻ばせ、懐かしそうに微笑んだ。
母の中でも、何かが変わり始めている。
そう感じさせる穏やかな表情だった。
「流磨の前では見せなかったかもしれないけど、夕真は小さい頃から内気な大人しい子で、友達もあんまり上手く作れなかったみたい。小学校一年生の頃は、学校から帰るとよく部屋で泣いてたのを見たわ」
「……お兄ちゃんが……」
兄が内気で消極的だったなんて少しも知らなかった。いや、優しく、自分を守ってくれる、頼りになる兄以外の兄を、あの頃は知ろうともしていなかったのかもしれない。
依存し切っていた自分が浮き彫りになり、流磨は顔を顰めた。
「そんなおっとりした子だったけど、流磨、あなたが産まれてから夕真は変わっていったわ……弟が出来て、しっかりしなきゃって思ったのもあるんでしょうけど、それだけじゃなかった……夕真は、流磨、あなたに自分を重ねているみたいだった」
「お兄ちゃんが、オレに……? そんなの嘘だよ」
間髪入れずに否定する流磨の目をじっと見て、優葵は構わず続けた。
「嘘じゃないわ流磨……だって夕真、あの頃よく私に話してくれたもの、リュウはぼくに似てるから心配だよって、ぼくの時みたいなイヤな思いリュウには絶対させたくない、リュウにはずーっとにこにこしてて欲しいな……って、そう言ってあの子、流磨の世話、焼き過ぎるくらい焼いて……」
そこまで言うと、母は人指し指で目尻に浮かんだ涙を拭った。
「ごめんなさい……ダメね、私……強くならなくちゃ……いけないのに……もう少し、時間をちょうだいね、流磨……」
必死に泣くのを我慢しようとする母に、流磨は無理しなくていいよと言わんばかりに微笑み小さく頷いた。
人間、そんなに突然変わろうとしたって変われるものではない。
それは自分自身でも実証済みだった。
そして、きっと兄もそうだったのだろう。
兄にも自分の殻を破れない苦しみがあった。決して完璧ではなかった。
だが兄は、弟を自分のことのように思いやる強さを持っていた。
(オレなんかに自分を重ねるなんて……勿体ないよ……お兄ちゃん……)
流磨の目からも、熱いものが滲み出す。
その時、何かが心に引っ掛かるのと同時に、脳裏に聞き覚えのある声が響いた。
兄とは正反対の位置にいると思っていた、頼りなくて、天然ボケで、すぐに泣いたり怒ったり驚いたりする、地味で目立たない少年。でも、流磨を心配する時だけは誰よりも真剣に、本気でぶつかってきてくれた、本当の優しさを持っている少年の声だった。
――余りにも自分と似てるリュウのこと、放っておけなかったのかも……
どうしてそんなに自分に構うのかと問うた時、そう答えた勇気の姿が、夢の中の兄と重なった。
――偶然……なのか……
頭の中で激しく波打ち、瞬く間に押し寄せてくる信じられない考えを、流磨にはもう止めることが出来なかった。
(まさか……まさか本当に勇気は……!)
そう心の中で叫びそうになった丁度その時だった、母の気を取り直したような声が耳に飛び込んできた。
「そうそう、今年も行くんでしょう? 夕真のお墓参り」
「お墓……参……」
流磨の目が愕然と見開かれているのに気付いた優葵は、意外そうに首を傾げた。
「あら? 忘れてたの流磨? 珍しいわね……夕真の命日、明日だったでしょう?」
また一つ、点と点が線で繋がっていく。
「そ……うだ……」
心臓の音が耳まで響いてくる。
持っていた箸は宙に浮いたまま、小刻みに震えていた。
勇気は何て言ってた?
――オレ、転校するんだ。
――近いうち、ゴールデンウィーク明けか……もっと早く。
(ゴールデンウィーク明け……)
兄の、死んだ日。
「流磨……?」
「ごめん、もう学校行くね……」
何が起こったのか全く把握していない母は、突然顔色を変えて立ち上がった流磨に驚きと不安の入り交じった声で呼び掛けた。
流磨はもう一度「ごめん」とだけ言うと、鞄を掴み玄関を飛び出した。
春の終わりを予感させる眩しい日差しの中を、感情に任せて走り抜ける。
今は一刻も早く確かめたかった。
勇気が行ってしまう前に。
勇気が、本当は誰なのかを――。
いつもより十五分遅れて教室に駆け込んだ流磨だったが、この時間既にいてもおかしくない筈の勇気はまだ来ていないようだった。
――最初に会った日は寝坊して遅れたって言ってた……きっと今日もそんな理由さ……
こちらの気持ちなんかお構いなしに神出鬼没にひょっこりと現れ、緊張感のない、目一杯の笑顔を惜しげもなく向けてくる。
それが勇気だ。
(だから今日だって、きっと……)
きっとすぐに、あのふやけた笑顔に会える。
そう思ってはみたものの、やはりじっとしていることは出来ず、鞄を自分の机に置くと人通りの少ない廊下に出た。
手始めに屋上に昇ってみたが、心地良い朝の風が吹いているだけで誰も居なかった。
まさかと思って例の幽霊非常通路にも行ってみた。またあそこで居眠りしているかもしれない。そんな淡い期待を胸に扉を開け、照明を点ける。が、出口の扉まで伸びる冷たい翡翠色の廊下に、望む存在を見付けることは出来なかった。
その後も流磨は、目の前に勇気が現れることを祈りながら学校中を歩き回った。
途中、生徒会室が目に入った流磨は、生徒会長との約束を思い出し、気まずそうに来た道を引き返した。
すぐにはっきりさせると言ったきり顔を合わせないまま、かなり日が経ってしまっている。まだ答えが出ていないどころか、全く考えていないと知ったら、生徒会長は呆れ、失望するだろうか。
それを恐れて逃げ出すように生徒会室の前を通るのを避けた流磨だったが、ふと疑問が頭をもたげた。一体、自分の何を失望されるのが怖いというのだろうか。『流磨』になろうとしている自分が、今までの偽りの自分のイメージを守ってどうするというのか。
再び堂々巡りの迷路に迷い込みそうになった流磨を、時間切れのチャイムが連れ戻した。
朝の喧騒が耳に戻り、途端に我に返る。
今はそれよりも大事なことがある。
自分というものに答えを出すのも、何をするのにも、全てはそれからだ。
勇気と会って話がしたい。
(この時間なら教室にいる筈だよな……)
流磨はいつの間にか生徒でごった返している廊下を、足早に突っ切った。
息を切らせて教室に駆け込むと、一瞬にして空気が張り詰めるのを感じた。どうやら先日の噂話の騒ぎが未だに尾を引いているらしく、流磨が怒鳴りつけた女生徒などは泣きそうな顔をしている。
気怠そうな溜息を一つ吐くと、流磨は構わず勇気の席に視線を投げた。
――瞬間、心臓を握り潰されるような痛みと衝撃が胸を貫いた。
(――いない?)
勢い余ってつんのめりそうになりながら勇気の席に駆け寄るが、鞄どころか机の中も藻抜けの殻だった。
膨れあがる悪い予感に呆然としている流磨に、春季と千空が近付き明るく声を掛けた。
「よっす! リュウ、どうした?」
「おはよー! リュウちゃん」
教室の雰囲気を少しでも良くしようとテンション高めを努めた二人だったが、振り返った流磨の顔を見て言葉を失った。
「リュウ? どうした……?」
二度目の、今度は真剣な春季の問い掛けに、流磨は遠のき掛けた意識を取り戻して何とか言葉を絞り出した。
「あ……ここの……勇気、どうしたか知ってるか?」
「小葉? いや、オレは知らんけど……え? 何かあったのか?」
春季は首を傾げて、隣にいる千空を見た。
「あたしも知らないよ? 普通に風邪で欠席とかじゃなくて? リュウちゃんなんか聞いてるの?」
千空も、何故流磨がそこまで狼狽えているのか分からないという顔で首を振った。
どうやら、クラスメイト達の中で他に誰も勇気の転校の話を知る者はいないらしく、流磨達の会話に聞き耳を立ててヒソヒソ話を始めている。
流磨は、頭の中で回り続ける様々な考えを落ち着けようと、唇を噛んで宙を睨んだ。
(風邪で休み……? でも……)
――ゴールデンウィーク明けか、もっと早く――
勇気の表情には欠片も嘘や冗談の色は見えなかった。見えたのは、少し寂しそうな瞳と元気付けようとしてくれる精一杯の笑顔。
(勇気はいなくなるんだ……本当に……)
涙が出そうになって、ここが教室だと思い出し、必死に堪える。
「おい、リュウ……ホントどうしたんだ? メチャクチャ顔色悪いぞ?」
春季は、肩を揺さぶっても放心状態から抜け出せないでいる流磨を、深刻そうに見詰めて廊下まで連れ出した。
人通りの少ないHR前の廊下にはひんやりとした空気が静かに流れていて、教室内のざわめきがやけに遠く聞こえた。
「リュウ!」
春季の怒ったような呼び掛けは、何もない暗闇を彷徨う流磨の心を無理矢理現実に引っ張り戻すだけの力があった。
漸く目の前の自分を認識してくれた流磨を見て、春季は溜息を吐いた。
「何があった?」
春季の真っ直ぐな視線を、どうしようもなく悲しい思いで見返す流磨。
「……勇気が、転校するって……もう、行っちゃったのかもしれない……」
「小葉が……? 何でまたそんな急に……全然聞いてないぞ、そんな話……」
流磨の震えの混じったその言葉に、春季も驚いた表情をして目を泳がせる。
「オレも、この前遊園地で聞いたんだ……理由とかは聞いてない……日取りもはっきり言わなかったし……でも、ゴールデンウィーク明けとかなんとか……きっと、もういなくなったんだ……」
「リュウ……」
迷子になった子供のような、不安と悲しみに押し潰されそうな流磨の様子に、春季は唇を噛んだ。
春季自身は勇気と特別親しかったわけでもなく、二、三回口を利いたことくらいしかなかった為、それ程寂しいとか悲しいという感情は、正直湧かなかった。しかし、流磨からは痛い程伝わってくる。流磨にとっての勇気という存在の大きさをひしひしと感じ、何と声を掛けていいのか分からなかった。
「……もう、会えないのか……?」
流磨は爪が食い込む程、拳を握り締めた。
何故かそんな気がした。
このまま幻のように消えて、二度と会えないようなイメージが、勇気にはあった。
いつの間にか流磨にとって掛け替えのない存在になっていた勇気。
絶対必要な存在になり掛けていた。
それなのに、まるで用意されていたかのような突然の別れ。
忘れていた兄の命日。
もう、会えない気がした――。
――勇気、お前は……お兄ちゃんだったのか……?
朝から心に引っ掛かっていた、一つの考えを心の中で唱えてみる。
あるわけない、ありえるわけない考え。
それでも、否定し切れない想い。
ただの願望に過ぎないだろう、想い。
しかし、それでも流磨は祈った。
――会いたい、会いたいよ……!
心の痛みを我慢し切れず、流磨の目から一粒、涙が伝った。
それを見て、今まで黙っていた春季が決心したような瞳を流磨に向けて強く言い放った。
「リュウ、そんな大事なもんなら簡単に諦めるな! 後悔すんぞ?泣いてる暇があったら何が何でも会いに行けって!」
はっとして春季を見る流磨。
「会い……に……」
「人間、本気になりゃー、出来ないことはない! ……と、死んだ兄貴が言ってた」
語尾で勢いを落とす春季。
流磨の目を見て笑った。
「心残りがあるなら後悔すんな、マジで」
少しの間沈黙して、流磨は春季に向かって頷いた。
勇気が何者なのか知りたい。
会ってちゃんと話がしたい。
そして、お礼を言いたい。
心残りなら山程ある。
「サンキュ、春季……お陰で正気に戻れた」
「おう! まぁ取り敢えず先生に聞いてみろ、まだ本当に転校かどうかだって分からないんだからな!」
流磨は駆け出し際、春季に決意の視線で答えると、勝手に走り始める足に身を任せた。
――このままお別れなんて嫌なんだ……絶対に……!
廊下に反響する自分の足音を聞きながら、流磨はもう一度、消せない想いを心に強く響かせた。