第十一章
第十一章
「おぉーーっ、遂に来ましたよぉーー今話題のスタートリックワールド! ヤバイ何かオレドキドキしてきた!」
二時間の電車移動の後、バスに四十分揺られていたにも関わらず、春季は少しも疲れた表情を見せずに目を輝かせて真っ先にバスを降りていった。
それを見送る流磨と千空は、流石にそのテンションには付いていけず顔を見合わせた。
「……ったく、いくつよあいつは……小学生だってあそこまで喜んでないっつの」
「あぁ……ちょっと羨ましいな……」
気怠そうにそう言いながら荷物を下ろす流磨の横顔を、千空は唇を噛んで見詰めた。
電車の中でもバスの中でも流磨はこんな調子で、千空と春季のやりとりをただぼんやりと眺めていたり、話を振られても頷くだけで、自分から話題に入っていくことは無かった。
千空は千空で抱えているものがある。
明るく振る舞ってみても、実際のテンションは上がらなかった。
(サル連れてきてよかった……)
素でバカ騒ぎしてくれる春季に、今日ばかりは千空も感謝せずにはいられなかった。
「さ、あたし達も行こ!」
靄が掛かったような気分を振り払うように、千空は明るく流磨を促して、誰も居なくなった座席の間を降車口に向かって歩き出した。
「おっせーぞ二人とも! ホラ見てみろよ!」
見渡しきれない程広い駐車場に降り立つと、快晴の日差しが眩しい。
春季に急かされ、流磨も目を細めて指差された先を見上げた。
抜けるような青空の中を観覧車がゆったりと回っている。入口からかなり離れたこの場所まで歓声やざわめきが響いてくるようだ。
絶好の行楽日和。
流磨は大きく伸びをして、気持ちを整えるように目を閉じた。
(……懐かしい)
遠い昔、家族で遊園地に行った日と同じ空気が、ここには満たされている気がした。
「リュウちゃん?」
千空の声に、ゆっくりと目を開ける流磨。
その顔には、今まで無かった目の輝きと明るい表情があった。
「……よし、今日は楽しもう、思いっきり!」
数日振りに見た流磨の元気そうな姿に、千空も春季も安堵したように笑い、早速盛り上げ役に徹した。
「うおっし! 今日は乗って乗って乗りまくるぞぉー!」
春季の迷いの無い掛け声を合図に、さっきまでとは違う世界が目の前に広がっていくような気がした。
千空の強引な希望の元、三人はまず絶叫系をハシゴすることにした。人混みと喧騒の中を駆け抜け、長い列に並んでいる間は他愛もない会話で盛り上がり、皆、今を心底楽しんだ。
時間を忘れて絶叫マシーンを制覇し終えた頃には昼時を大きく回っていた。
「うぉ? もう二時じゃん! どーりで腹減るわけだよ……」
携帯の時計を見て、途端に覇気が無くなる春季。
「ホントだもうそんな時間か、あっという間だな……じゃ、その辺で飯にする?」
そう言いながら流磨が辺りを見回し掛けた時、突然千空が頭を抱え、嘆き声を上げた。
「ああぁぁ! しまったぁぁ」
流磨も春季も目を点にして千空を振り返る。
「? 千空、どうかしたのか?」
「何だよ、腹でも下したか? 便所ならそにあるぞ……ってででででででっ!」
春季の腕を力任せにつねりながら、千空は流磨に向かって神妙に頷いた。
「実は雑誌でチェックしておいたイイ感じの店紹介しようと思ってたんだ……だけどそこ予約制で、ホントはここ来てすぐ予約しておく計画だったのにすっかり忘れちゃってた」
「いっってえ~……ったく、可愛げのかけらも無い上に段取りまで悪ぃのかよ、救えねえな」
もう一度同じところをつねるのだけは忘れない千空だったが、段取り悪いの一言には何も言い返せず悔しそうに唇を噛む。
日頃の恨みからか、腕をさすりながらも更に文句を付けようとしている春季を制止し、助け船を出す流磨。
「まぁ、その辺にしとけって春季、誰だってうっかりすることくらいあるだろ? 他の所で食えばいいだけのことなんだからさ、千空もそんなの気にすんなよ」
流磨の優しい言葉に千空は目を潤ませた。
「ありがとうリュウちゃん! やっぱリュウちゃんはサル科とは種族が違うよ!」
「サル科ってオレのことかよ」
「でもこれはあたしのミス……あたしが責任持って今から予約してくるから、二人はもう一つくらい何か乗ってきていいよ! 一時間後にここで落ち合うってことで、それじゃあね!」
「……え? ちょっと千空……」
言うが早いか、千空は猛ダッシュでひしめく人混みの中に消えていった。
残された流磨と春季は、急な展開に置いてきぼりを喰らい、呆然とするしかなかった。
「……いや、出来れば今すぐどこでもいいから入って食べたいんだけど……」
さっきから鳴り続けている腹の虫の声が、悲痛に響く。
「……ありがた迷惑ってヤツだな」
春季は怒りを通り越したのか、力無く肩を落とし遠い目をしている。
暫し雑踏の中で微動だに出来ず、通行の邪魔になっていた二人だったが、あっち系のおにいさんにぶつかられ、取り敢えず通路の端まで自主移動することに。
「うあーマジかよ、あと一時間以上何も食えないってこと? 耐えらんねえよ!」
「オレも……」
後からやって来た怒りに身を任せる春季に、流磨も力無く相槌を打つ。
「先にどっかで食っちまう?」
「……それはちょっと……さすがに……」
「何でだよ? だって千空のヤツが勝手に先走ってんだぜ? 何でオレらがそれに付き合わなきゃいけないの? 可哀相じゃない? オレら?」
「……でもオレらって千空におごってもらってる身だし」
魂を込めた力説をさらりと崩され、ガックリと項垂れる春季。
「……じゃあどうすんの……? 何かもう一つ乗るか?」
「いや……オレはもうハードなのはいい……余計腹減りそうだし……動きたくない」
「……んじゃ、ここで待ってるか」
そのまま会話は途切れた。
楽しそうな親子連れやカップルの笑い声が行き交う中、死んだような目をして地面に座り込んでいる中学生二人は、端から見ると存在する次元を間違えているかのようだった。
しかし他人の目を気にする余裕すらない二人は、その状態のまま十数分を過ごした。
「……なぁ、リュウ……観覧車乗らねぇ?」
唐突に口を開いたのは春季の方だった。
「え……?」
流磨が怠そうに首だけ振り返ると、先程まで膝に額を当てて伏せていた春季が、じっと巨大な観覧車を見上げている。
「何で? 腹減るじゃん……」
流磨が難色を示すと、春季は口を尖らせて抗議した。
「だってさぁ、やっぱ時間が勿体ねぇよー! せっかく乗り放題だし、次はいつ来れるか分かんねぇんだぜぇ? なぁなぁ、乗ろうぜ乗ろうぜ~リュウーー!」
何故突然観覧車なのか分からないが、春季の駄々こね攻撃は猛烈にうるさかった。
行き交う人も喚き散らす春季を何事かと振り返っている。
「……分かった、分かったから静かにしろって! ……ったく、お前は恥ってモンを知らんのか」
「おっし、じゃあ行こうぜ! 早く行って来ないと千空が来るまでに間に合わねぇ!」
言い終わらないうちに駆け出す春季を見て、流磨は疲れたように溜息を吐いた。
「お前、千空のこと何にも言えないよ……」
鳴り続けるお腹の音を聞きながらの苦々しい流磨の愚痴は、既に見えなくなる程遠くまで行った春季の耳に届く筈もなかった。
「いやぁ~意外とすぐ乗れたな!」
少しずつ離れていく地面を窓越しに眺めながら、興奮気味に声を弾ませる春季。
「あぁ、意外とな……ま、王道だけど地味だしな、観覧車って……」
「まぁーな……でもオレは好きだぜ! このノンビリした感じがいいんだよ!」
「オレも好きだよ、どっちかって言うと絶叫系よりこっちのがいいよ、オレはね……」
窓枠が細く、殆どパノラマで四方向の景色を見渡せる仕様の観覧車だった。
小さく風の音が響き、少し揺れた。
先程までいた雑踏の中の喧騒がまるで嘘だったかのような静けさが、この小さな空間を支配している。
「うわぁ……迫力だなぁ」
まだ一番高い所の半分も来ていないというのに、人がアリのように小さく見える。
自然に、まだ幼かった頃、家族全員で観覧車に乗った時の映像と重なってしまう。
あの時はこんなに大きな観覧車ではなかったが、それでも相当に高く、唸り声のような風の漏れる音の不気味さもあって、今にも泣き出しそうになる流磨の手を兄は温かい手でしっかりと握っていてくれた。
思い出に満たされて、無言のまま唯々眼下に広がる景色に視線を預ける流磨。そんな、寂しさと哀しさが漂う流磨の横顔を、春季は普段見せることのない神妙な顔つきで眺めていたが、やがて、自分も窓の外に目を向けながら、ゆっくりと口を開いた。
「何か、思い出すよな……昔をさ」
「……えっ……?」
自分の心を見透かしていたかのような春季の言葉。
「兄ちゃんのこと、思い出してたのか?」
「……!」
一瞬、息が止まった。
春季を見る目が即座に険しくなる。
(そうだ……春季も知ってるんだっけ……)
一番、他人に踏み込まれたくないことを、不特定多数の人間が知り、好奇心で好き勝手に囁き合っている。自分の中でずっと大切にしていたものが、汚されていくような、この上ない不快感が流磨を襲った。例えそれが春季であっても、噂で聞いただけの知識で軽々しく兄のことを口にして欲しくなかった。
唇を噛み、不機嫌そうに口を閉ざしてしまった流磨を、春季はもう一度先程の神妙な目で見詰めると、徐に向き直り、思いもよらない言葉を発した。
「実はオレもさ、兄ちゃん死んでんだ」
春季の声は淡々とした静かなものだった。
「えっ?」
予想外の春季の告白に、思わず素っ頓狂な声を出す流磨。他のどんな慰め言葉を掛けられようと無視を決め込むつもりでいたが、見事に意表を突かれた。
もしかしたら冗談なのではないかと、春季の顔を覗き込む。しかし、春季はいつものおちゃらけ振りなど微塵も見せず、真っ直ぐな瞳で流磨の瞳を見返してくるだけだった。
「こーいうの乗ると思い出すんだよな、よく二人で乗ったからさ、兄ちゃんと……」
春季は懐かしそうに窓の外に視線を戻す。
何故、春季はこんなにも穏やかに話すことが出来るんだろう。流磨は何を思うよりも先に、まずその疑問が頭に浮かんだ。
「何で……」
そんなに冷静でいられる?
そう問うたつもりだったが、春季は別の意味に受け取ったらしかった。
「事故だよ、乗ってたバスが事故にあったんだ……オレが小四の時、丁度三年前かな……昨日のことみたいに思えるのに……いつの間にか兄ちゃんと同い年になってたんだな……」
この時、春季は初めて寂しそうに笑った。
平気なわけがない。
春季も寂しさを内に隠して、皆の前では明るく振る舞っていたのだ。
「そうか……オレの兄ちゃんと同じ歳だったんだな……」
流磨の兄、夕真も中学一年でこの世を去った。残され、生き続ける自分達弟はいつしか兄の年齢を追い越し、その距離は情け容赦なく開いていく。
もう、一緒に成長することはない。
それを実感するのは耐え難い苦しみだった。
「でも春季……何でお前はいつも、あんなに明るくいられる……?もう忘れたのか? 兄ちゃんのこと……たった三年でただの思い出に出来るものなのか……?」
流磨は少し責めるような目で、春季に率直な想いをぶつけた。
不安定に泳ぐ流磨の瞳を、春季はじっと見据えていた。
「忘れてねぇよ……忘れられるワケないじゃん、兄ちゃんのこと尊敬してたし大好きだった……その兄ちゃんが病院のベッドで死ぬ間際に言ってくれたんだ……『ずっと笑ってろ、ハルは笑顔がいいから』って……」
そこまで言って、当時を思い出したのか春季は唇を噛んで黙り込んだ。
しかしすぐに目の辺りを拳で擦り、鼻を一つすすると、いつもの笑顔になった。
「いつまでも泣いてたって、兄ちゃんは喜ばねぇよ! オレはあの言葉を思い出す度、あの頃のオレのままでいようって思うんだ。兄ちゃんがいいって言ってくれた自分を失くさないように、いつも笑ってようって……そうすりゃ兄ちゃんも天国で笑っててくれるってオレ……信じてんだ!」
春季の優しく、強い想い。
その眩しさに流磨は息を呑んだ。
春季の言葉を聞くと、如何に自分の考えが薄っぺらで自分中心であったかに気付かされ、恥ずかしかった。
自分を責め、真っ先に自分を消したかった。
自分、自分と、自分のことだけだった。
自分を守ってくれる存在だった兄がいなくなった恐怖だけで、春季のように兄の想いを考えたりしなかった。
――でも、考えたところでどう変わる?
少し離れた所から自分自身を観察するもう一人の自分が氷のように冷たい声で囁いた。
(そうだ……オレのお兄ちゃんは、春季の兄ちゃんとは違う……だってお兄ちゃんは事故じゃないんだ……オレが……殺したんだから……)
あの時、恨んだに決まってる。
もし死ぬ前に何か話せたとしても、恨みの言葉で罵倒されるだけだったろう。
だが、例えそうであったとしても、罵倒されたとしても、兄と最後に話したかった。
それさえも許さず、兄は逝ってしまった。
「ま、柄にもなく語っちまったけどぉ、よーするにオレが言いたいのは、オレ達は同類なんだから、気兼ねなく何でも言いたいことは言えってことだ! 分かったか?」
別世界から聞こえてきたような明るい声が、流磨を闇の迷路から引き戻す。
目の前には、『今』から目を逸らさず生きる、春季の光る笑顔があった。
「春季、もしかしてこの話する為に観覧車乗ろうって言い出したのか?」
「あぁ? ……んなワケねぇじゃん! オレがそんな気の利いたことすると思う? 何となくだよ、何となく!」
そう言いながら「一番イイトコ見逃したー」などと喚き、窓に張り付く春季は照れ隠しをしているようにも見えた。
流磨は微笑みを零すと、誰にも聞こえない小さな声で呟いた。
――ありがと、春季……
春季が自分を心配し、決して掘り起こしたくはないであろう過去を話してくれたということは、何も言わずとも流磨には伝わった。
そしてその想いは本当に嬉しかった。
だが、だからこそやはり春季に本当の自分を見せることは出来そうにもなかった。
――本当のオレは春季と同類じゃない……誰からも大切に想われるべきじゃない人間だから。
自分をさらけ出して痛い思いをするのはもう嫌だった。
勇気の時、みたいに――
「はい、お疲れ様でしたーーっ! 足下にお気を付け下さいね!」
勢い良く開かれた扉から、不自然に明るい係員の声と、遊園地独特の人々のざわめきが流れ込んで来た。
先に下りた春季は振り返り、生き生きとした笑顔で流磨を促した。
「よしっ! 走るぞリュウ! 千空待たせると後がウザイからな!」
その声に引っ張られるように、流磨の足も自然と前に出た。