プロローグ~第一章
幾千夜目のリアル
――お兄ちゃーん!
遠くに兄の背中を見つけ、ぱっと走り出す。
手を振っている兄。
大好きなお兄ちゃんに向かって必死に走る。
車の警笛が聞こえた。
鈍い音と、突き飛ばされたような衝撃。
気が付くと、目の前に大好きなお兄ちゃん。
そして、足下にはたくさんの赤い血。
目の前で倒れているのは、動かないのは――
自分の叫び声を聞いたような気がした。
目を開けると眩しい光が差し込んで、もう一つの現実に引き戻された。
第一章
今春中学に入学したばかりの少年華峰流磨はこの朝、いつにもまして深く溜息を吐きながら、大きな街道沿いにある私立星凛学園最寄りのバス停に降り立った。色素の薄い柔らかな髪が朝日に照らされ、より一層栗色に透けている。そして年齢より大人びて見える顔立ちは、それ相応の影を帯びているようだった。
流磨にとって元々朝というものはこれ以上ないほどに憂鬱な一時なのだが、今日は一段と重い、鉛のような気分を無理矢理動かして登校するに至っている。こんな気持ちは顔に出さないようにと気を付けたつもりだったのだが、母親や妹、出掛けに会った幼なじみの冴子にも、いつもと違うと見透かされ、余計な心配を掛けてしまった。喉元まで上がってくる空虚な痛みの代わりに、もう一度大きな溜息を吐く流磨。頭は靄が掛かったようにはっきりとせず、前向きな思考は微塵も生まれてこない。
ここまでこの少年の気持ちを沈めたのは朝方見た、夢という名の記憶だった。
六年前、自分が犯した過ちの落とす影。
大切な何かが、抉り取られた瞬間の映像。
流磨は歩みを止め、前方の街道、そしてその脇に見える白い外壁の学校に気怠そうな視線を投げかけた。
あの私立星凛学園は、死んだ兄、夕真が中学一年の春まで、たった一ヶ月間だけ通った学校だっだ。
そしてこの街道は――
流磨は苦しそうに唇を噛み、暫くそのまま佇んでいたが、やがて頭を強く振って気を取り直したように再び足を前に踏み出した。
きっと兄なら、こんな風にうじうじしたりしない。
理想だった兄が取りそうにない行動、考えそうもない思考はすぐにやめようとする癖がついていた。
やがて、車がやっと一台通れる程度の細い脇道の前までやってきた。このままこの広い街道を真っ直ぐ進めば校門までは目と鼻の先だった。しかし流磨はいつもこの脇道を行き、少し遠回りをして裏門から学校に入るルートを選んでいる。今日も迷わず両脇を小工場の塀に挟まれた人気のない道に入ろうとしたのだが、あることを思い出して思わず小さく声を上げた。
「あぁ! しまった今日は席替えの……」
自分の世界に入っていてすっかり忘れていたが、今日は数日前からクラスの皆が楽しみにしていた席替えの日だった。
クラス委員をしている流磨は、他のクラス委員のメンバーと今朝は早めに登校してHR前までに席替え時の段取りを決めたり、クジを作ったりしようと打ち合わせていたのだ。
普段は早朝、教室に誰もいない時間から登校している流磨だったが、今日に限って例の悪夢にうなされ、気がついたら寝坊をしていた。家を出たのがいつもより四十分も遅かったのを考えると、恐らくHRまであと十五分あるかないかだろう。明らかに手遅れ、遅刻だった。
しかしそう認識したあとも、時間に遅れた経験が滅多にない流磨は、開き直るどころか、とんでもないことをしてしまったという罪悪感に襲われ青くなった。
今すぐにでも教室に行って他の委員に謝罪し、早急に作業に加わらなければ。
そう思い立ち、夢中で駆け出そうとしたが、すぐに急ブレーキを掛けたように立ち止まった。
棒立ちになっている流磨の目には、車通りの多い街道と脇道との分岐点が映っていた。
急がなければいけない。
ここを真っ直ぐ行けば学校はすぐだ、早く走れ!
そう必死に自分に言い聞かせても、足の方は石のように動かなかった。こんな時でさえ迷ってしまう自分がいることに、正直驚いた。
そして、そのままどうすることも出来ず、歩道の真ん中で固まっている時だった。
「何してるの? 華峰君」
急に背後から不思議そうな声が掛けられ、はっとして振り返る。
そこには星凛学園独特の灰白色の制服を着、眼鏡を掛けた、タレ目気味の少年が笑顔で立っていた。
流磨の方には覚えがなかった。が、名前を呼ばれたので、向こうはこちらを知っているということなのだろう。
「今日席替え楽しみだよね、早く行こう」
にこやかにそう言って、流磨の腕を引っ張る少年。
この発言から、どうやらクラスメイトらしいことが分かったが、やはり流磨にはこの少年の名前が思い出せなかった。
まだ入学して一ヶ月、しかもクラス委員を任されて忙しく、周囲をゆっくり見回すこともなかった流磨。全員の顔は覚えていない。
どう反応すべきか迷い、気付かれないように、そっと隣を歩く同級生の顔を窺った。
優しそうというか穏やかそうな顔つきに、小さめのすっきりとした銀縁眼鏡を掛け、癖毛らしい焦げ茶の髪は、毛先が少し跳ねている。外見的にあまりパッとせず、地味な印象のその少年は、いかにもクラスの中で目立たなそうに見えた。
「えっと、ねえ君は……」
流磨は、呆然としながらも彼に名前を尋ねようとしてハッとなった。
周囲の景色を見渡して、立ち竦む。
いつの間にか少年に連れられて街道を直進していたのだ。
手が微かに震え始める。胸の奥が冷や汗をかいているように冷たいのに、鼓動の方は急激に速くなっていくのを感じた。
突然立ち止まった流磨を振り返り瞬きする少年。
声を掛けようとして、ただならぬ雰囲気を感じて躊躇した。
少年の目に映る流磨は、目を車道のある一点に釘付けにし、鬼気迫る形相をしていた。
(夢……の……)
ここはあの場所だった。
ここだけは未だに避け続けてきた。
今でも、昨日のことのようにあの時の映像が目の前に映し出される。
音の無い、ある一ヶ所以外色も無い映像。
足下に、たくさんの赤い血が広がっていく。
「……うっ……!」
叫びたい衝動に駆られ、引き剥がすように映像から目を背けて、流磨は逃げだした。
――気が付くと、教室の扉の前に立っていた。
どうやってここまで来たのか記憶が無い。
目覚めた時に似た、ぼんやりとした視界をゆっくりと周囲に巡らせてみる。
あの少年は……いない。
どうやらあの場所に置き去りにして来てしまったらしい。
いつの間にか手の震えも、鼓動も治まっていた。しかし気分の方は先程とは比較にならない程に重く、目の前の景色は全て色を失っているかのようだ。
流磨は幼い頃、心から慕っていた兄を目の前で失っていた。大好きだった兄は、流磨を助ける為に身代わりになって死んでいった。その直後だっただろうか、膨張し続ける悲しみと寂しさ、自分への憎しみで心が壊れそうになって、あることを思い付いたのは。
いなくなった兄の代わりに、自分が兄として生きればいい、と。
あれから六年、いつの間にか内気で気が弱かった流磨は誰の目から見ても大人びた、しっかりした少年に成長していた。ここ数年は欠かさずクラス委員を務めているが、これも兄が死ぬ前なら考えられなかったことだ。しかしどんなに皆に褒められ、ちやほやされても、悪夢やあの街道が頭から離れる気配は無く、それどころかさっきのような幻覚まで見る始末。
改めて実感させられた。
自分はまだ、兄にはなれていないと……。
そんな、どうにもならない混沌とした感情を持て余していると、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
「そこにいるの、華峰君だよね?」
振り返ると人影もまばらな廊下の向こうから、眼鏡を掛け、背筋をピンと伸ばした女生徒が歩いてくるのが見えた。
「生徒会長……?」
見覚えのあるその姿を確認すると、流磨は急いで重たい気持ちを心の奥に閉じこめ、何事もなかったような顔を作り上げた。
誰かの前に立つと、それが簡単に出来る。
だからこんな悩みは自分にとって大したことはない。
流磨はそう思いながら今まで生きてきた。そして、きっとこれからも。
「やあやあ! この前はオリエンテーション手伝って貰っちゃってありがとね」
近付いてくるなり、星凛学園現生徒会長の森江沙輝は外見からくるお堅いイメージからは想像できないような気さくな声でそう言った。
「オリエンテーション……ああ、この前の全学年顔合わせのですか」
生徒会長の言葉の意味を一瞬飲み込めず、少し間をあけて曖昧に頷く流磨。
「そう、キミ、手際イイからとっても助かっちゃったよ」
満面の笑みを絶やすことなく、弾むような口調の生徒会長を流磨は訝しげに見た。
手伝ったといっても、担任教師に言いつけられるままに、冊子配布などちょっとした雑務をこなしただけだ。他にも同じような仕事をした生徒はいた筈だし、流磨にだけこんな風にわざわざお礼を言いに来る彼女の真意が分からなかった。
「何でそんなこと言いに来るんだって顔してるね……ま、当然か」
何かを企むような不敵な仕草をする沙輝はさすがに生徒会長なだけあり、他の生徒より堂々として大人びて見える。
そんな生徒会長が、今度は真面目な顔に切り替えて身を乗り出してきた。
「ねぇ、キミさ、生徒会に入らない?」
周囲を気にしながら、囁くような低い声でそう切り出された。
全く予想していなかった言葉をサラリと言われ、流磨は一瞬頭が真っ白になった。それでも何とか冷静さを保ちながら聞き返す。
「生徒会に……?」
「そう、こっちは本気だよ! 実は書記二名のうち一人が突然転校してしまってね、その穴を埋めるのが意外と大変だった。で、他のメンバーからもブーイングが出たもんだから急遽ね」
突然の誘いにどう答えたらいいのか分からず返答に詰まる流磨を見る沙輝の目は、どこまでも真剣だった。
その瞳に、流磨は戸惑うしかなかった。
「何故、オレなんですか? オレなんかよりもっと適任な先輩がいくらでもいると思いますが……」
昨年の生徒会選挙は激戦だったと聞く、他に立候補した生徒に頼めばいいではないかと思えた。
しかし沙輝はその疑問に答えるように頭を振った。
「いやー、それが色々あってねぇ、落選した奴に当たってみても片っ端から断られちゃってさあ、補欠的に扱われるのはプライドが許さないみたいよ、まぁ真剣勝負した間柄なだけにちょっとした確執もあるしね」
苦い顔をしながら溜息を吐く生徒会長。
なるほど、確かに言われてみればそういう心理が働いてもおかしくないかもしれない。
沙輝の砕けた物言いに、最初に見た時のお堅い印象とは違う親しみやすさを感じた流磨だったが、この話に乗るかどうかというと、それはまた話が別だった。
「それで、どうしてオレなんですか?」
沙輝の目を見て、最初の質問をもう一度、静かな口調で繰り返した。
「……それよ」
沙輝はにやりとして顎に手を当てた。
「こうやって話をするまでは半信半疑だったけど評判通りだね、キミみたいに冷静に切り返してくる生徒は二、三年の中にだってそうそういないよ」
「そんなの、オレだっていつもそうとは限りませんよ」
この人は自分を理想的に見過ぎて、勘違いをしているのではないかと思えた。
しかし沙輝の方は感心したようになおも頷いた。
「決して自惚れず、自分自身を見詰めようとするその姿勢……聞いてるよ、学級委員としてクラスをまとめる力もあって、生徒からも教師からも人望が厚いそうじゃないか、他の候補を差し置いてでもキミを勧誘しに来るのには十分な理由になると思うけどね」
「買い被り過ぎですよ」
本気でそう思った。
自分が本当に目指しているものにはいつまで経っても届かない。必死に追いかけても少しも追い付けない……そんな自分に最近では嫌気がさし始めていた。
「ま、これは私の勘だけど、ゆくゆくはキミが次期生徒会長最有力候補になるんじゃないかなーと……」
「やめて下さい!」
思わず語調が強くなる。誤解されているようでいたたまれなかった。
沙輝は思いの外険しい表情をする流磨の様子に、まずいことを言ったかという顔をして黙った。
「……とにかくオレは」
この場で断ろうと思った。
自分には荷が重過ぎる。
(――でも、お兄ちゃんなら……)
不意に思い出の中の兄が頭に浮かぶ。
(お兄ちゃんなら断るだろうか)
いつも自分を支えてくれた優しく強い兄ならば、生徒会の仕事もそつなくこなせそうな気がした。
口を開き掛けて流磨は沈黙した。
廊下に面した北向きの窓からは日が差さず、朝だというのに教室前は薄暗い。もう殆どの生徒が登校し終え、それぞれの教室から漏れる三十人余りの話し声が騒音として、二人の居る空間を支配していた。
沙輝は何か言おうとした流磨の発言を待つように黙っていた。
(オレは……お兄ちゃんの代わりになりたいんじゃないのか?)
一つの想いが流磨の頭から離れなかった。
やがて、沈黙が破られることのないまま予鈴が鳴り響き、それと同時に教室のドアがガラリと音を立てて開いた。同じクラス委員の一人である植田が顔を出す。
「リュウ? お前何してんだよぉ」
目の前にいるのが流磨だと認識すると、植田は不満気な顔で、呆れたような声を上げた。
「クジはオレと赤地で作っといたぞ」
「あ……悪い、植田」
言われてやっと急いでいたことを思い出した。今日は朝から色々あり過ぎて頭が混乱している。
こんな姿、兄には見せられないなと溜息を吐いた。
「あ、ごめん! もしかして急いでたのに引き止めちゃった?」
「え、いえ……」
「返事はよく考えてからでいいから、でも気を悪くしないで前向きに考えてくれると嬉しいな! じゃまた来るからさ、よろしく!」
流磨が何か言おうとするのを遮るように、沙輝はマシンガンの如く捲し立てながら、そそくさと廊下の向こうへ走り去っていった。どうやら、沈黙する流磨の暗い表情を見て、返事は思わしくないと直感したらしい。
そんな生徒会長を呆然と見送る流磨の横で、今更になって植田が驚いていた。
「えっ? もしかして今の生徒会長? てっきりリュウの取り巻きか何かだと思ったら……なぁ、何話してたんだよ」
「ん……いや別に」
尋ねられて思わず口籠もる。この話はまだ伏せておくべきだろうと思った。どう返事をするか決めていない今の段階で下手に噂が広まったりしたら色々と面倒だ。
「んー? 何だ何だ? あっやしいなぁ」
「何がだよ、そんなことより席替え席替え! あ、そだ、今日は遅れてホント悪かったな、司会はオレがやるから許してくれよ」
にんまりしながら腕をつついてくる植田を軽くあしらって、教室に押し込む。
「えー何だよ気になるなー」と文句を言いながらも教室に戻って行く植田の後に続こうとして、廊下の突き当たりからさっき出会った少年が歩いて来るのをのを見つけた流磨は足を止めた。
流磨が待っているのを認めると、神妙な顔付きで走り寄って来る少年。その顔を見て、流磨は何となく、彼は生徒会長と自分の会話を聞いていたのではないかという気がした。
「もしかして、聞いてた?」
聞いていないことを祈りながら、ぶしつけにそう尋ねると、少年は済まなそうに頭を掻いた。
「ごめん、何か出て行き辛くてさ」
(やっぱり……)
流磨は顔を手で覆った。
まあ、恐らくこの大人しそうな少年なら皆に言いふらすようなことはしないと思うのだが。
「ねえ、それより大丈夫? さっき道路で……びっくりしたよ、真っ青な顔して走って行っちゃうから……」
少年が心配そうな顔で言った。
「あ……」
そうだ、あの時この少年も一緒にいたのだった。
当たり前のことに今更気付き、焦った。
(まずいところを見られたな……)
あんな情けない自分の姿、他人に見せたくなんかなかった。きっと兄なら、さっきのようなカッコ悪い行動を取ったりしない。
そう思うと、自己嫌悪で胸がムカムカしてくる。
「無理……しないで」
少年は悲しそうに流磨の顔を覗き込み、そう言い残すと、教室の入り口に向かった。流磨はその後ろ姿を不思議な気持ちで見送りながら、あることに気付き呼び止めた。
「君、なんて名前だっけ?」
「えっ」と声を上げ、振り返る少年。少し傷付いたような顔をしてから、苦笑して名を名乗った。
「小葉勇気」
そのまま教室内に消えていく。
(小葉……いたっけ?)
失礼なことを考えながら、頭にその名前を刻みつけ、流磨も一日を始める気合いを入れて教室に足を踏み入れた。
数年前に書いた長編です。
暗めの話ですが、流磨の魂の行く末を最後まで見届けて頂けたら幸いです。