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『忘却の花嫁』~婚約破棄されたので記憶を失う灯籠流しの川に飛び込んだら、全部忘れたはずの私を竜人将軍が溺愛してくるんですが~

作者: uta
掲載日:2026/08/11

「セラフィーナ。お前との婚約を破棄する」


灯籠流しの夜だった。


レーテ川——通称『忘却の川』のほとりに、数百の灯りがゆらゆらと流れていく。年に一度、最も忘れたい記憶を一つ、この聖なる川が持ち去ってくれるという。幻想的な光景の中で、王太子ユリウスの声だけがやけに冷たく響いた。


「お前との記憶など、この川に流してしまいたいくらいだ」


金髪を夜風になびかせ、彼は隣に立つ少女の肩を抱いた。継妹のアメリア。聖女ギフト持ちともてはやされる、可憐で儚げな少女だ。


「地味で、暗くて、一緒にいて息が詰まる。お前は公爵令嬢の器じゃない」


周囲の貴族たちがくすくすと笑う。


わたし——セラフィーナ・フォン・レーヴェンシュタインは、その言葉を聞きながら、不思議なほど冷静だった。


(あ、これ。前世でもあったやつだ)


膨大な政務。徹夜の書類仕事。彼の失態の尻拭い。継妹の醜聞処理。全部、わたしが裏で片付けてきた。感謝の言葉一つない、無償労働の日々。


(無償労働で使い潰されて、いらなくなったら捨てられるパターン。前世の会社と同じじゃない)


過労死したブラック企業のOL・七海だった頃の記憶が、するりと蘇る。


ああ、そうか。国も世界も違うのに、わたしはまた同じことをしていたのか。


「何とか言ったらどうだ、セラフィーナ」


ユリウスが苛立たしげに言う。喚くと思っているのだろう。取り縋ると。


だからわたしは、淡々と微笑んだ。


「かしこまりました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


「……は?」


「では、わたしも忘れさせていただきますね」


手にした灯籠に、そっと願いを込める。使い込んだ計算帳をいつも持ち歩くこの手で、けれど今夜だけは、灯籠を。


「あなたたちに関する記憶。全部」


川面に灯籠を浮かべる。


ゆらり、と灯りが流れ出す。


「はっ、負け惜しみか」ユリウスが鼻で笑った。「伝承なんて迷信だ。忘れたいのはこちらの方——」


その時。


流れた灯籠が、ひときわ強く輝いた。


川面にさざ波が立ち、聖なる光がわたしの胸を、すっと撫でていく。


(あら。川面が、光っている)


わたしは知らなかった。この夜、川が本当に願いを聞き届けたことを。


そして——遠く下流の砦で、一人の男がその灯籠を拾い上げることも。


◆


翌朝、目を覚まして最初に思ったこと。


(……なんか、すっごく爽快)


寝台の上で、わたしはぼんやりと天井を見上げていた。


胸のつかえが、きれいさっぱり消えている。長年こびりついていた重たい澱のようなものが、まるごと洗い流されたみたいに。


「おはようございます、お嬢さま!」


侍女のロッテが勢いよくカーテンを開けた。栗色の髪をきっちり結い上げた、そばかすの快活な娘。彼女はわたしの顔を見るなり、目を丸くした。


「……あら、なんだかとってもお顔が晴れやかで。前より十歳は若返ったみたいですよ!」


「そう? うん、確かに気分がいいわ。……ところでロッテ、ゆうべ金髪の男の人がわたしに何か言っていた気がするのだけど。あれ、誰だったかしら」


ロッテの動きが止まった。


「……えっ。王太子殿下ですけど。お嬢さまの、婚約者の……」


「婚約者? わたしに婚約者なんていたの?」


「い、いえ、正確には『元』ですけど……昨夜、公衆の面前で婚約破棄を……」


首を傾げる。金髪。婚約破棄。何かあったらしいのだけれど、まるで他人事のように霞んでいる。名前も顔も、思い出そうとすると靄がかかる。


(あ、そうか)


ゆうべ流した灯籠のことを思い出した。


忘却の川。伝承は本当だったのだ。


でも——おかしい。わたしは前世の記憶をちゃんと持っている。七海だった頃のことも、この国の内政も、薬草学も、経理も、危機管理の知識も、全部残っている。


消えたのは、たった一つ。


『あの二人に尽くして、我慢して、傷ついた記憶』だけ。


(つまり……トラウマだけ消えて、有能さだけ残ったってこと? これ、最強じゃない)


ベッドの上で、わたしは思わず吹き出した。


「お嬢さま……?」


心配そうなロッテに、わたしは満面の笑みを向けた。


「ねえロッテ。わたし、決めたわ。これからは、自分のために生きる。誰かの尻拭いなんて、もうしない。公爵領を——うんと豊かにしてやろうと思うの」


過労死した前世の分まで。今世は、わたしの好きなように。


ロッテはぽかんとした後、じわりと涙ぐんで、それからにっと笑った。


「いいですね、それ! あんな連中、こちらから願い下げですよ!」


◆


「セバスチャン。公爵領の帳簿を全部持ってきて」


朝食もそこそこに、わたしは執務室に籠もった。


老家令のセバスチャンが、涼しい顔で書類の山を運んでくる。白髪をきっちり整えた、慇懃無礼の権化のような老人だ。


「これはこれは。お嬢さまが自ら帳簿を、とは。……昨夜のことがおありでしたのに、ずいぶんとお元気そうで」


「昨夜? ああ、なんだか爽快なのよね。それより見て、この税制。ひどいわ。一律課税なんて時代遅れ。収穫量に応じた累進制に変える」


計算帳を広げ、羽ペンを走らせる。


「それと流通。この関所の重複した通行税、三つとも撤廃。物が動けば経済が回るの」


セバスチャンの片眉が、わずかに動いた。


「……お嬢さま。どこでそのような知恵を?」


「さあ、どこでかしらね」


前世で嫌というほど見た、ブラック企業の非効率と、税務と、物流のあれこれ。まさか異世界で役立つとは。


数週間後。


領内の農業は改良農法で収穫が倍増し、撤廃した通行税のおかげで市場は活気づいた。


さらに——


「お嬢さま、大変です! 東の村で流行り病が!」


駆け込んできたロッテに、わたしは顔色一つ変えなかった。


「井戸ね。汚染された水が原因。全村の井戸を煮沸消毒、患者は隔離、この薬草を煎じて配って」


薬草学の知識で調合したそれは、前世の知識と組み合わせた特効薬。三日で流行は収束した。


凶作の兆しには備蓄制度を。飢饉の噂には周辺領との穀物取引を。


危機が来る。片付ける。領地が潤う。


そのサイクルを、わたしは淡々と繰り返した。


半年後、レーヴェンシュタイン公爵領は王国一の繁栄を誇るようになっていた。


「……恐れ入りました」セバスチャンが、初めて深々と頭を下げた。「お嬢さまは、まるで別人のように生き生きとしておられる」


「あら。前のわたしは、そんなに死んだ顔をしていた?」


「……ええ。それはもう」


わたしは笑った。


何を忘れたのかは、もう思い出せない。でも、忘れてよかったのだと、なぜか確信していた。


◆


その男と出会ったのは、領地の視察に出た川辺だった。


下流の砦を守る辺境の英雄——竜人将軍ジークフリート・ドラッヘンベルク。


銀灰の髪。縦に裂けた竜眼。背には黒い竜翼。『冷酷無比』『笑わぬ死神将軍』と噂される長身の男が、川辺にひとり立っていた。


そして——大切そうに、一つの古びた灯籠を抱いて。


無表情のまま、静かに涙をこぼしながら。


「……あの」わたしは思わず声をかけた。「その灯籠、どうかなさったの?」


男はびくりと肩を震わせ、涙を拭うでもなく、じっとわたしを見つめた。


「……セラフィーナ嬢」


「わたしの名を?」


「この灯籠は」彼はぽつりと言った。「半年前の灯籠流しの夜、この砦に流れ着いたものだ。……君が流した、灯籠だ」


心臓が、とくんと鳴った。


「なぜ、それを」


「俺には、竜の力でレーテ川に流された記憶の断片を『拾う』ことができる」


彼は灯籠を、そっとわたしに差し出しかけ、けれど渡そうとはしなかった。


「君が流したのは——君が長年、あの男とあの娘に尽くして、我慢して、傷ついてきた記憶だ。誰にも感謝されず、地味だと嘲られ、それでも歯を食いしばってきた、痛みの記憶」


わたしは息を呑んだ。


覚えていない。でも——聞いているだけで、胸の奥が疼く。


「君は忘れた。それでいい。だが——君が忘れたがった痛みは、俺が全部覚えておく」


涙が、彼の頬を伝った。強面の死神将軍が、子供のように。


「なぜ、あなたがそこまで」


「……前世で、俺は君を助けられなかった」


竜眼が揺れる。


「過労で倒れた君を、救急隊員として看取った。間に合わなかった。ずっと後悔していた。だから今度こそ——今度こそ、君の痛みだけは、俺が引き受けたい」


前世。救急隊員。


わたしの中で、七海だった頃の遠い記憶が、かすかに共鳴した。


(あなただったの。あの時、最後まで手を握っていてくれたのは)


涙もろくて、口下手で、こんなに大きな体をして、灯籠一つを抱いて泣く男。


わたしは、思わず笑ってしまった。


「あなた、変な人ね。……でも、ありがとう」


◆


一方その頃、王城では。


「なぜだ……なぜ政務が回らない……! アメリア! お前の聖女ギフトで、なんとかならないのか!」


王太子ユリウスは、書類の山に埋もれて頭を抱えていた。


セラフィーナが抜けた途端、全てが崩壊した。税収は乱れ、陳情は溜まり、外交は滞る。彼はようやく気づいた。あの膨大な仕事を、彼女がたった一人で、しかも完璧に片付けていたのだと。


「え……あ……わたし、その……聖女ギフトが……発動しません……」


継妹アメリアは口ごもった。


彼女の『聖女ギフト』——それは他人の功績を吸い取り、自分のものと錯覚させる偽物だった。源泉であるセラフィーナが消えた今、彼女には何の力も残っていない。


王宮魔導師の鑑定により、真実は白日の下に晒された。アメリアの功績はすべて他人のもの。彼女が功績を語る時だけ不自然に饒舌だったのは、盗んだ手柄を必死に取り繕っていたからだ。


偽聖女は失墜し、修道院へ送られた。


そしてユリウスは——公爵領へと馬を走らせた。


「セラフィーナ! 頼む、戻ってきてくれ! 僕には君が必要なんだ!」


繁栄した領地の門前で、彼は必死に叫んだ。


わたしは、その男を静かに見つめた。


金髪の、整った顔の男。


(……誰だっけ、この人)


「あの、どちらさまでしょう?」


ユリウスの顔が凍りついた。


「な……セラフィーナ、僕だ! ユリウスだ! 君の……婚約者だった……」


「婚約者?」わたしは首を傾げた。「ごめんなさい、まったく覚えがなくて。ロッテ、この方のこと知ってる?」


「さあ? どこかの物乞いの方では?」ロッテがしれっと言う。


「そ、そんな……僕を、忘れたのか……!?」


怒りも、恨みも、湧いてこなかった。だって、覚えていないのだから。あなたに傷つけられたことも、尽くしたことも、全部。


(憎まれるなら、まだ関係が残る。でも、忘れられるということは——存在ごと、無かったことにされるということ)


わたしにとって彼は、ただの見知らぬ他人だった。


それこそが——最も残酷な報いだったのかもしれない。


背後で、セバスチャンが慇懃に頭を下げた。


「さようでございますか。お引き取りを。当家は多忙でございますれば」


膝から崩れ落ちるユリウスを残し、わたしは踵を返した。


爽やかな風が、頬を撫でていった。


◆


そして、また灯籠流しの夜が巡ってきた。


レーテ川のほとりに、数百の灯りがゆらめく。一年前、わたしがすべてを流したあの川。


隣には、竜人将軍ジークフリート。あれから彼は、何かにつけて公爵領を訪れるようになった。口下手で、必要最小限しか喋らないくせに、わたしのことになると不器用に饒舌になる、変な人。


「……セラフィーナ」


彼は静かに川面を見つめて言った。


「来年の灯籠流し、君は何を流す?」


一年前のわたしなら、迷わず何かを流しただろう。忘れたい痛みなど、いくらでもあった。


でも、今は。


わたしは、隣の大きな男を見上げた。


領地を立て直した半年。彼と過ごした半年。ロッテと笑い合い、セバスチャンに呆れられ、自分のために生きた、この一年。


「もう、流したい記憶なんてないわ」


わたしは微笑んだ。


「これからは——全部、覚えていたいの」


前世で使い潰され、過労死した七海。


今世で捨てられ、けれど忘却の川に救われたセラフィーナ。


痛みを忘れて、有能さだけを手に、自分の足で立ち上がった。もう誰かの尻拭いのために生きたりしない。この人生は、わたしのものだ。


ジークが、ぎこちなく手を伸ばした。竜の力で拾った、あの古びた灯籠を、わたしに差し出す。


「なら……これは、返す。君の記憶だ。君のものだから」


わたしは、その灯籠を受け取った。


でも、川には流さなかった。


「ううん。もう痛くないもの。……あなたが全部、覚えていてくれたから」


そっと、灯籠を胸に抱く。


忘れた痛みも、覚えている喜びも、全部ひっくるめて、わたしの人生。


「ジーク。来年もその先も、ずっと隣にいて。……今度は、あなたのことを覚えていたいの」


笑わぬ死神将軍が、ぼろぼろと泣き出した。


「あの、なんで泣くの」


「……嬉しくて」


「大の男が灯籠流しで号泣なんて、噂が台無しよ」


川面に、二つの影が寄り添って映る。


流れゆく無数の灯りの中で、わたしたちの灯籠だけが、流されることなく、静かに輝いていた。


——なお、王都では『失って初めて彼女の価値を知った』とうなだれる、とある金髪の元王太子の姿があったとかなかったとか。


でも、それはもう、わたしの知らないお話。


(了)

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