『忘却の花嫁』~婚約破棄されたので記憶を失う灯籠流しの川に飛び込んだら、全部忘れたはずの私を竜人将軍が溺愛してくるんですが~
「セラフィーナ。お前との婚約を破棄する」
灯籠流しの夜だった。
レーテ川——通称『忘却の川』のほとりに、数百の灯りがゆらゆらと流れていく。年に一度、最も忘れたい記憶を一つ、この聖なる川が持ち去ってくれるという。幻想的な光景の中で、王太子ユリウスの声だけがやけに冷たく響いた。
「お前との記憶など、この川に流してしまいたいくらいだ」
金髪を夜風になびかせ、彼は隣に立つ少女の肩を抱いた。継妹のアメリア。聖女ギフト持ちともてはやされる、可憐で儚げな少女だ。
「地味で、暗くて、一緒にいて息が詰まる。お前は公爵令嬢の器じゃない」
周囲の貴族たちがくすくすと笑う。
わたし——セラフィーナ・フォン・レーヴェンシュタインは、その言葉を聞きながら、不思議なほど冷静だった。
(あ、これ。前世でもあったやつだ)
膨大な政務。徹夜の書類仕事。彼の失態の尻拭い。継妹の醜聞処理。全部、わたしが裏で片付けてきた。感謝の言葉一つない、無償労働の日々。
(無償労働で使い潰されて、いらなくなったら捨てられるパターン。前世の会社と同じじゃない)
過労死したブラック企業のOL・七海だった頃の記憶が、するりと蘇る。
ああ、そうか。国も世界も違うのに、わたしはまた同じことをしていたのか。
「何とか言ったらどうだ、セラフィーナ」
ユリウスが苛立たしげに言う。喚くと思っているのだろう。取り縋ると。
だからわたしは、淡々と微笑んだ。
「かしこまりました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「……は?」
「では、わたしも忘れさせていただきますね」
手にした灯籠に、そっと願いを込める。使い込んだ計算帳をいつも持ち歩くこの手で、けれど今夜だけは、灯籠を。
「あなたたちに関する記憶。全部」
川面に灯籠を浮かべる。
ゆらり、と灯りが流れ出す。
「はっ、負け惜しみか」ユリウスが鼻で笑った。「伝承なんて迷信だ。忘れたいのはこちらの方——」
その時。
流れた灯籠が、ひときわ強く輝いた。
川面にさざ波が立ち、聖なる光がわたしの胸を、すっと撫でていく。
(あら。川面が、光っている)
わたしは知らなかった。この夜、川が本当に願いを聞き届けたことを。
そして——遠く下流の砦で、一人の男がその灯籠を拾い上げることも。
◆
翌朝、目を覚まして最初に思ったこと。
(……なんか、すっごく爽快)
寝台の上で、わたしはぼんやりと天井を見上げていた。
胸のつかえが、きれいさっぱり消えている。長年こびりついていた重たい澱のようなものが、まるごと洗い流されたみたいに。
「おはようございます、お嬢さま!」
侍女のロッテが勢いよくカーテンを開けた。栗色の髪をきっちり結い上げた、そばかすの快活な娘。彼女はわたしの顔を見るなり、目を丸くした。
「……あら、なんだかとってもお顔が晴れやかで。前より十歳は若返ったみたいですよ!」
「そう? うん、確かに気分がいいわ。……ところでロッテ、ゆうべ金髪の男の人がわたしに何か言っていた気がするのだけど。あれ、誰だったかしら」
ロッテの動きが止まった。
「……えっ。王太子殿下ですけど。お嬢さまの、婚約者の……」
「婚約者? わたしに婚約者なんていたの?」
「い、いえ、正確には『元』ですけど……昨夜、公衆の面前で婚約破棄を……」
首を傾げる。金髪。婚約破棄。何かあったらしいのだけれど、まるで他人事のように霞んでいる。名前も顔も、思い出そうとすると靄がかかる。
(あ、そうか)
ゆうべ流した灯籠のことを思い出した。
忘却の川。伝承は本当だったのだ。
でも——おかしい。わたしは前世の記憶をちゃんと持っている。七海だった頃のことも、この国の内政も、薬草学も、経理も、危機管理の知識も、全部残っている。
消えたのは、たった一つ。
『あの二人に尽くして、我慢して、傷ついた記憶』だけ。
(つまり……トラウマだけ消えて、有能さだけ残ったってこと? これ、最強じゃない)
ベッドの上で、わたしは思わず吹き出した。
「お嬢さま……?」
心配そうなロッテに、わたしは満面の笑みを向けた。
「ねえロッテ。わたし、決めたわ。これからは、自分のために生きる。誰かの尻拭いなんて、もうしない。公爵領を——うんと豊かにしてやろうと思うの」
過労死した前世の分まで。今世は、わたしの好きなように。
ロッテはぽかんとした後、じわりと涙ぐんで、それからにっと笑った。
「いいですね、それ! あんな連中、こちらから願い下げですよ!」
◆
「セバスチャン。公爵領の帳簿を全部持ってきて」
朝食もそこそこに、わたしは執務室に籠もった。
老家令のセバスチャンが、涼しい顔で書類の山を運んでくる。白髪をきっちり整えた、慇懃無礼の権化のような老人だ。
「これはこれは。お嬢さまが自ら帳簿を、とは。……昨夜のことがおありでしたのに、ずいぶんとお元気そうで」
「昨夜? ああ、なんだか爽快なのよね。それより見て、この税制。ひどいわ。一律課税なんて時代遅れ。収穫量に応じた累進制に変える」
計算帳を広げ、羽ペンを走らせる。
「それと流通。この関所の重複した通行税、三つとも撤廃。物が動けば経済が回るの」
セバスチャンの片眉が、わずかに動いた。
「……お嬢さま。どこでそのような知恵を?」
「さあ、どこでかしらね」
前世で嫌というほど見た、ブラック企業の非効率と、税務と、物流のあれこれ。まさか異世界で役立つとは。
数週間後。
領内の農業は改良農法で収穫が倍増し、撤廃した通行税のおかげで市場は活気づいた。
さらに——
「お嬢さま、大変です! 東の村で流行り病が!」
駆け込んできたロッテに、わたしは顔色一つ変えなかった。
「井戸ね。汚染された水が原因。全村の井戸を煮沸消毒、患者は隔離、この薬草を煎じて配って」
薬草学の知識で調合したそれは、前世の知識と組み合わせた特効薬。三日で流行は収束した。
凶作の兆しには備蓄制度を。飢饉の噂には周辺領との穀物取引を。
危機が来る。片付ける。領地が潤う。
そのサイクルを、わたしは淡々と繰り返した。
半年後、レーヴェンシュタイン公爵領は王国一の繁栄を誇るようになっていた。
「……恐れ入りました」セバスチャンが、初めて深々と頭を下げた。「お嬢さまは、まるで別人のように生き生きとしておられる」
「あら。前のわたしは、そんなに死んだ顔をしていた?」
「……ええ。それはもう」
わたしは笑った。
何を忘れたのかは、もう思い出せない。でも、忘れてよかったのだと、なぜか確信していた。
◆
その男と出会ったのは、領地の視察に出た川辺だった。
下流の砦を守る辺境の英雄——竜人将軍ジークフリート・ドラッヘンベルク。
銀灰の髪。縦に裂けた竜眼。背には黒い竜翼。『冷酷無比』『笑わぬ死神将軍』と噂される長身の男が、川辺にひとり立っていた。
そして——大切そうに、一つの古びた灯籠を抱いて。
無表情のまま、静かに涙をこぼしながら。
「……あの」わたしは思わず声をかけた。「その灯籠、どうかなさったの?」
男はびくりと肩を震わせ、涙を拭うでもなく、じっとわたしを見つめた。
「……セラフィーナ嬢」
「わたしの名を?」
「この灯籠は」彼はぽつりと言った。「半年前の灯籠流しの夜、この砦に流れ着いたものだ。……君が流した、灯籠だ」
心臓が、とくんと鳴った。
「なぜ、それを」
「俺には、竜の力でレーテ川に流された記憶の断片を『拾う』ことができる」
彼は灯籠を、そっとわたしに差し出しかけ、けれど渡そうとはしなかった。
「君が流したのは——君が長年、あの男とあの娘に尽くして、我慢して、傷ついてきた記憶だ。誰にも感謝されず、地味だと嘲られ、それでも歯を食いしばってきた、痛みの記憶」
わたしは息を呑んだ。
覚えていない。でも——聞いているだけで、胸の奥が疼く。
「君は忘れた。それでいい。だが——君が忘れたがった痛みは、俺が全部覚えておく」
涙が、彼の頬を伝った。強面の死神将軍が、子供のように。
「なぜ、あなたがそこまで」
「……前世で、俺は君を助けられなかった」
竜眼が揺れる。
「過労で倒れた君を、救急隊員として看取った。間に合わなかった。ずっと後悔していた。だから今度こそ——今度こそ、君の痛みだけは、俺が引き受けたい」
前世。救急隊員。
わたしの中で、七海だった頃の遠い記憶が、かすかに共鳴した。
(あなただったの。あの時、最後まで手を握っていてくれたのは)
涙もろくて、口下手で、こんなに大きな体をして、灯籠一つを抱いて泣く男。
わたしは、思わず笑ってしまった。
「あなた、変な人ね。……でも、ありがとう」
◆
一方その頃、王城では。
「なぜだ……なぜ政務が回らない……! アメリア! お前の聖女ギフトで、なんとかならないのか!」
王太子ユリウスは、書類の山に埋もれて頭を抱えていた。
セラフィーナが抜けた途端、全てが崩壊した。税収は乱れ、陳情は溜まり、外交は滞る。彼はようやく気づいた。あの膨大な仕事を、彼女がたった一人で、しかも完璧に片付けていたのだと。
「え……あ……わたし、その……聖女ギフトが……発動しません……」
継妹アメリアは口ごもった。
彼女の『聖女ギフト』——それは他人の功績を吸い取り、自分のものと錯覚させる偽物だった。源泉であるセラフィーナが消えた今、彼女には何の力も残っていない。
王宮魔導師の鑑定により、真実は白日の下に晒された。アメリアの功績はすべて他人のもの。彼女が功績を語る時だけ不自然に饒舌だったのは、盗んだ手柄を必死に取り繕っていたからだ。
偽聖女は失墜し、修道院へ送られた。
そしてユリウスは——公爵領へと馬を走らせた。
「セラフィーナ! 頼む、戻ってきてくれ! 僕には君が必要なんだ!」
繁栄した領地の門前で、彼は必死に叫んだ。
わたしは、その男を静かに見つめた。
金髪の、整った顔の男。
(……誰だっけ、この人)
「あの、どちらさまでしょう?」
ユリウスの顔が凍りついた。
「な……セラフィーナ、僕だ! ユリウスだ! 君の……婚約者だった……」
「婚約者?」わたしは首を傾げた。「ごめんなさい、まったく覚えがなくて。ロッテ、この方のこと知ってる?」
「さあ? どこかの物乞いの方では?」ロッテがしれっと言う。
「そ、そんな……僕を、忘れたのか……!?」
怒りも、恨みも、湧いてこなかった。だって、覚えていないのだから。あなたに傷つけられたことも、尽くしたことも、全部。
(憎まれるなら、まだ関係が残る。でも、忘れられるということは——存在ごと、無かったことにされるということ)
わたしにとって彼は、ただの見知らぬ他人だった。
それこそが——最も残酷な報いだったのかもしれない。
背後で、セバスチャンが慇懃に頭を下げた。
「さようでございますか。お引き取りを。当家は多忙でございますれば」
膝から崩れ落ちるユリウスを残し、わたしは踵を返した。
爽やかな風が、頬を撫でていった。
◆
そして、また灯籠流しの夜が巡ってきた。
レーテ川のほとりに、数百の灯りがゆらめく。一年前、わたしがすべてを流したあの川。
隣には、竜人将軍ジークフリート。あれから彼は、何かにつけて公爵領を訪れるようになった。口下手で、必要最小限しか喋らないくせに、わたしのことになると不器用に饒舌になる、変な人。
「……セラフィーナ」
彼は静かに川面を見つめて言った。
「来年の灯籠流し、君は何を流す?」
一年前のわたしなら、迷わず何かを流しただろう。忘れたい痛みなど、いくらでもあった。
でも、今は。
わたしは、隣の大きな男を見上げた。
領地を立て直した半年。彼と過ごした半年。ロッテと笑い合い、セバスチャンに呆れられ、自分のために生きた、この一年。
「もう、流したい記憶なんてないわ」
わたしは微笑んだ。
「これからは——全部、覚えていたいの」
前世で使い潰され、過労死した七海。
今世で捨てられ、けれど忘却の川に救われたセラフィーナ。
痛みを忘れて、有能さだけを手に、自分の足で立ち上がった。もう誰かの尻拭いのために生きたりしない。この人生は、わたしのものだ。
ジークが、ぎこちなく手を伸ばした。竜の力で拾った、あの古びた灯籠を、わたしに差し出す。
「なら……これは、返す。君の記憶だ。君のものだから」
わたしは、その灯籠を受け取った。
でも、川には流さなかった。
「ううん。もう痛くないもの。……あなたが全部、覚えていてくれたから」
そっと、灯籠を胸に抱く。
忘れた痛みも、覚えている喜びも、全部ひっくるめて、わたしの人生。
「ジーク。来年もその先も、ずっと隣にいて。……今度は、あなたのことを覚えていたいの」
笑わぬ死神将軍が、ぼろぼろと泣き出した。
「あの、なんで泣くの」
「……嬉しくて」
「大の男が灯籠流しで号泣なんて、噂が台無しよ」
川面に、二つの影が寄り添って映る。
流れゆく無数の灯りの中で、わたしたちの灯籠だけが、流されることなく、静かに輝いていた。
——なお、王都では『失って初めて彼女の価値を知った』とうなだれる、とある金髪の元王太子の姿があったとかなかったとか。
でも、それはもう、わたしの知らないお話。
(了)




