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婚約破棄の前に足元をご確認ください

作者: くるみ
掲載日:2026/05/16

「貴様との婚約を、ここに破棄する!」


王太子殿下の声が、舞踏会場に高らかに響いた。

シャンデリアの光がきらめき、楽団の演奏がぴたりと止まり、招待客たちは一斉に息をのむ。


その中心に立つのは、公爵令嬢イザベラ。

銀の髪、紅玉の瞳、完璧な姿勢。

誰もが恐れる、王国随一の悪役令嬢である。

そして、王太子殿下の隣には、涙目の男爵令嬢ミミアが寄り添っていた。


「イザベラ! 君はミミアに嫌がらせをしたそうだな!」


「まあ」


イザベラは扇を開いた。


「どの件でしょうか」


会場がざわついた。

王太子は一瞬ひるむ。


「どの件、だと?」


「ええ。身に覚えが多すぎて」


「認めるのか!」


「認めるも何も、殿下の質問が雑ですわ」


イザベラは優雅に首を傾げた。


「ミミア様のドレスに泥をかけた件ですか?お茶会で砂糖と塩を入れ替えた件ですか?それとも、恋文を校内掲示板に貼った件ですか?」


ミミアが小さく震えた。

王太子は怒りで顔を赤くする。


「全部だ!」


「まあ、欲張り」


「ふざけるな!」


イザベラは扇の陰でため息をついた。


「殿下、先に申し上げますが、泥の件は私ではありません」


「嘘をつくな!」


「本当ですわ。あれは殿下です」


「私だと!?」


会場がさらにざわついた。

イザベラは侍女に目配せした。

侍女はさっと一枚の絵図を広げる。


「こちらが、当日の庭園の見取り図です。ミミア様はこの位置、殿下はこの位置、私はこの位置におりました」


「ふん、それがどうした」


「この時、殿下はミミア様の前で格好よく振り返ろうとして、噴水脇のぬかるみに足を取られました」


王太子の顔色が変わった。


「そ、それは……」


「その結果、泥が扇状に飛散。見事にミミア様のドレスへ」


「……」


「物理ですわ」


貴族たちが小さくざわめいた。

イザベラはさらに侍女へ合図する。

侍女は銀盆の上に、一枚の石膏型を差し出した。


「こちらは、当日ぬかるみに残っていた足跡の型です。王宮庭師が保管しておりました」


貴族たちの視線が、いっせいに王太子の靴へ向かう。


「殿下の靴底には、王家御用達の百合紋が刻まれております。そして足跡にも、同じ百合紋がくっきりと」


「そ、それは王族なら誰でも同じだ!」


「その場で格好よく振り返ろうとして、右足だけ深く沈んだ跡まで一致しております」


「なぜそこまで分かる!」


「ぬかるみは、正直ですわ」


ミミアが涙目で王太子を見上げた。


「殿下……あれ、殿下だったんですか?」


「いや、違う! 違わないが、違う!」


「だいぶ違わないですわね」


イザベラは次に、銀の小瓶を取り出した。


「砂糖と塩の件についても、私ではありません」


「では誰だ!」


「料理長です」


会場の隅で、料理長がびくっと跳ねた。


「料理長は新作菓子として、塩キャラメルをさらに攻めた“ほぼ塩キャラメル”を開発しておりました」


「ほぼ塩とは何だ!」


料理長が涙ながらに叫ぶ。


「甘さを限界まで削ぎ落とした、革新的な一品でございます!」


「それは菓子ではなく、調味料ですわ」


イザベラは静かに断言した。


「ただし、あのお茶会でミミア様だけが塩辛い焼き菓子を食べたのは、料理長が試作品を間違えてお出ししたからです」


料理長は深々と頭を下げた。


「申し訳ございません! 焼き上がりの色が、通常のキャラメル菓子と酷似しておりまして!」


「味は酷似していませんでしたわね」


会場のあちこちから、こらえきれない笑いが漏れた。

王太子は悔しげに唇を噛む。


「で、では恋文を掲示板に貼った件は!」


彼は勝ち誇ったように叫んだ。

イザベラはにっこり微笑む。


「それは私です」


「やはり!」


「ですが、殿下」


イザベラはゆっくりと、掲示板から剥がされた恋文を取り出した。


「こちら、差出人をご覧くださいませ」

王太子は紙を奪うように受け取り、読み上げた。


「愛しのミミアへ。君の瞳は朝露のようで、君の笑顔は焼きたてパンのようで、君の存在は……ええと……」


彼の声が止まる。


「続けてくださいませ」


「君の存在は……王国財政における……希望的観測……?」


会場が静まり返った。

ミミアが首をかしげる。


「殿下、これ、本当に恋文ですか?」


イザベラは扇を閉じた。


「殿下が授業中に書かれた、恋文風の財政改革案ですわ」


「なぜ掲示板に!」


「赤字で添削して差し上げました」


掲示板に貼られていた紙には、びっしりと赤字が入っていた。


“焼きたてパンのような笑顔”

→ 比喩がやや庶民的。ただし親しみやすさはある。


“王国財政における希望的観測”

→ 恋文に財政を混ぜない。


“君を想うと予算が膨らむ”

→ 破滅の予感。


王太子は震えた。


「貴様……私に恥をかかせるために!」


「いいえ、殿下」


イザベラは真顔で言った。


「国を救うためです」


「恋文の添削で!?」


「殿下の文章力では、いつか外交文書で戦争が起きます」


会場の貴族たちが、深くうなずいた。

何人かは拍手しかけている。

王太子は追い詰められ、ついに叫んだ。


「とにかく、私はミミアを選ぶ! イザベラ、貴様は国外追放だ!」


「国外追放」


イザベラは少し考えた。


「どちらへ?」


「隣国だ!」


「まあ。温泉で有名な?」


「そうだ!」


「海鮮も美味しい?」


「そうだ!」


「税制も穏やかで、王族の文章力も高い?」


「……そうだ!」


イザベラはぱちんと扇を閉じた。


「承知いたしました。では明朝出立いたします」


あまりにあっさりした返答に、王太子が固まる。


「ま、待て。なぜそんなに嬉しそうなのだ」


「だって国外追放という名の長期休暇ですもの」


「罰だぞ!」


「温泉つきの?」


「罰だ!」


「海鮮つきの?」


「罰だ!」


「最高ですわ」


イザベラは晴れやかに微笑んだ。

その瞬間、隣国の大使が進み出る。


「では、イザベラ嬢には我が国の宰相補佐として来ていただきましょう」


王太子が目をむいた。


「なぜそうなる!」


大使はにこやかに答える。


「先ほどの財政改革案の添削、大変見事でした。特に“君を想うと予算が膨らむ”への指摘は的確です」


イザベラは優雅に一礼した。


「光栄ですわ」


王太子は慌てた。


「待て、イザベラ! やはり婚約破棄は……」


「殿下」


イザベラはにっこり笑った。


「破棄された書類は、再利用できませんわ」


会場に、とうとう笑いが広がった。

ミミアも少しだけ笑った。


料理長だけは、ほぼ塩キャラメルの改良案を必死に考えていた。


こうして悪役令嬢イザベラは、国外追放という名の栄転を果たした。



後日、彼女は隣国で温泉に浸かりながら、王太子から届いた謝罪文を読んだ。

そこには、こう書かれていた。


“君を失い、私の心は国家予算のように赤字です”


イザベラは赤ペンを手に取り、ひとこと添えた。


“まず比喩から離れましょう”

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― 新着の感想 ―
改善しようとした王子の詩文力が夏休みの課題ポスターの標語みたいなのはヤバい
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