婚約破棄の前に足元をご確認ください
「貴様との婚約を、ここに破棄する!」
王太子殿下の声が、舞踏会場に高らかに響いた。
シャンデリアの光がきらめき、楽団の演奏がぴたりと止まり、招待客たちは一斉に息をのむ。
その中心に立つのは、公爵令嬢イザベラ。
銀の髪、紅玉の瞳、完璧な姿勢。
誰もが恐れる、王国随一の悪役令嬢である。
そして、王太子殿下の隣には、涙目の男爵令嬢ミミアが寄り添っていた。
「イザベラ! 君はミミアに嫌がらせをしたそうだな!」
「まあ」
イザベラは扇を開いた。
「どの件でしょうか」
会場がざわついた。
王太子は一瞬ひるむ。
「どの件、だと?」
「ええ。身に覚えが多すぎて」
「認めるのか!」
「認めるも何も、殿下の質問が雑ですわ」
イザベラは優雅に首を傾げた。
「ミミア様のドレスに泥をかけた件ですか?お茶会で砂糖と塩を入れ替えた件ですか?それとも、恋文を校内掲示板に貼った件ですか?」
ミミアが小さく震えた。
王太子は怒りで顔を赤くする。
「全部だ!」
「まあ、欲張り」
「ふざけるな!」
イザベラは扇の陰でため息をついた。
「殿下、先に申し上げますが、泥の件は私ではありません」
「嘘をつくな!」
「本当ですわ。あれは殿下です」
「私だと!?」
会場がさらにざわついた。
イザベラは侍女に目配せした。
侍女はさっと一枚の絵図を広げる。
「こちらが、当日の庭園の見取り図です。ミミア様はこの位置、殿下はこの位置、私はこの位置におりました」
「ふん、それがどうした」
「この時、殿下はミミア様の前で格好よく振り返ろうとして、噴水脇のぬかるみに足を取られました」
王太子の顔色が変わった。
「そ、それは……」
「その結果、泥が扇状に飛散。見事にミミア様のドレスへ」
「……」
「物理ですわ」
貴族たちが小さくざわめいた。
イザベラはさらに侍女へ合図する。
侍女は銀盆の上に、一枚の石膏型を差し出した。
「こちらは、当日ぬかるみに残っていた足跡の型です。王宮庭師が保管しておりました」
貴族たちの視線が、いっせいに王太子の靴へ向かう。
「殿下の靴底には、王家御用達の百合紋が刻まれております。そして足跡にも、同じ百合紋がくっきりと」
「そ、それは王族なら誰でも同じだ!」
「その場で格好よく振り返ろうとして、右足だけ深く沈んだ跡まで一致しております」
「なぜそこまで分かる!」
「ぬかるみは、正直ですわ」
ミミアが涙目で王太子を見上げた。
「殿下……あれ、殿下だったんですか?」
「いや、違う! 違わないが、違う!」
「だいぶ違わないですわね」
イザベラは次に、銀の小瓶を取り出した。
「砂糖と塩の件についても、私ではありません」
「では誰だ!」
「料理長です」
会場の隅で、料理長がびくっと跳ねた。
「料理長は新作菓子として、塩キャラメルをさらに攻めた“ほぼ塩キャラメル”を開発しておりました」
「ほぼ塩とは何だ!」
料理長が涙ながらに叫ぶ。
「甘さを限界まで削ぎ落とした、革新的な一品でございます!」
「それは菓子ではなく、調味料ですわ」
イザベラは静かに断言した。
「ただし、あのお茶会でミミア様だけが塩辛い焼き菓子を食べたのは、料理長が試作品を間違えてお出ししたからです」
料理長は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません! 焼き上がりの色が、通常のキャラメル菓子と酷似しておりまして!」
「味は酷似していませんでしたわね」
会場のあちこちから、こらえきれない笑いが漏れた。
王太子は悔しげに唇を噛む。
「で、では恋文を掲示板に貼った件は!」
彼は勝ち誇ったように叫んだ。
イザベラはにっこり微笑む。
「それは私です」
「やはり!」
「ですが、殿下」
イザベラはゆっくりと、掲示板から剥がされた恋文を取り出した。
「こちら、差出人をご覧くださいませ」
王太子は紙を奪うように受け取り、読み上げた。
「愛しのミミアへ。君の瞳は朝露のようで、君の笑顔は焼きたてパンのようで、君の存在は……ええと……」
彼の声が止まる。
「続けてくださいませ」
「君の存在は……王国財政における……希望的観測……?」
会場が静まり返った。
ミミアが首をかしげる。
「殿下、これ、本当に恋文ですか?」
イザベラは扇を閉じた。
「殿下が授業中に書かれた、恋文風の財政改革案ですわ」
「なぜ掲示板に!」
「赤字で添削して差し上げました」
掲示板に貼られていた紙には、びっしりと赤字が入っていた。
“焼きたてパンのような笑顔”
→ 比喩がやや庶民的。ただし親しみやすさはある。
“王国財政における希望的観測”
→ 恋文に財政を混ぜない。
“君を想うと予算が膨らむ”
→ 破滅の予感。
王太子は震えた。
「貴様……私に恥をかかせるために!」
「いいえ、殿下」
イザベラは真顔で言った。
「国を救うためです」
「恋文の添削で!?」
「殿下の文章力では、いつか外交文書で戦争が起きます」
会場の貴族たちが、深くうなずいた。
何人かは拍手しかけている。
王太子は追い詰められ、ついに叫んだ。
「とにかく、私はミミアを選ぶ! イザベラ、貴様は国外追放だ!」
「国外追放」
イザベラは少し考えた。
「どちらへ?」
「隣国だ!」
「まあ。温泉で有名な?」
「そうだ!」
「海鮮も美味しい?」
「そうだ!」
「税制も穏やかで、王族の文章力も高い?」
「……そうだ!」
イザベラはぱちんと扇を閉じた。
「承知いたしました。では明朝出立いたします」
あまりにあっさりした返答に、王太子が固まる。
「ま、待て。なぜそんなに嬉しそうなのだ」
「だって国外追放という名の長期休暇ですもの」
「罰だぞ!」
「温泉つきの?」
「罰だ!」
「海鮮つきの?」
「罰だ!」
「最高ですわ」
イザベラは晴れやかに微笑んだ。
その瞬間、隣国の大使が進み出る。
「では、イザベラ嬢には我が国の宰相補佐として来ていただきましょう」
王太子が目をむいた。
「なぜそうなる!」
大使はにこやかに答える。
「先ほどの財政改革案の添削、大変見事でした。特に“君を想うと予算が膨らむ”への指摘は的確です」
イザベラは優雅に一礼した。
「光栄ですわ」
王太子は慌てた。
「待て、イザベラ! やはり婚約破棄は……」
「殿下」
イザベラはにっこり笑った。
「破棄された書類は、再利用できませんわ」
会場に、とうとう笑いが広がった。
ミミアも少しだけ笑った。
料理長だけは、ほぼ塩キャラメルの改良案を必死に考えていた。
こうして悪役令嬢イザベラは、国外追放という名の栄転を果たした。
後日、彼女は隣国で温泉に浸かりながら、王太子から届いた謝罪文を読んだ。
そこには、こう書かれていた。
“君を失い、私の心は国家予算のように赤字です”
イザベラは赤ペンを手に取り、ひとこと添えた。
“まず比喩から離れましょう”




