序章 桜と潮騒のはじまり
海風に運ばれてくる潮の匂いと、校庭に舞う桜の花びらたち。
港町にある松亀工業高等学校に入学した桐原慧と同級生の和泉千秋が、『探偵部』を中心に巻き起こるちょっとした謎を解決していく、日常ミステリー小説。
(登場人物)
■桐原 慧
松亀工業高校の一年生。クラスは一年E組。
推理ものが好きで、思考に熱中すると周囲が見えなくなる。
合理的な理由から文系ではなく、理系高校へ進学を決めた。
■和泉 千秋
松亀工業高校の一年生。クラスは一年A組。
社交的で感受性豊か。直感的に物事を判断することが多い。
実家は小さな喫茶店。
春の朝、松亀駅のホームは行き交う人々の喧騒とともに淡い桜色の霞に包まれていた。港町の空気は潮の香りを帯び、わずかに湿ったような温度を含んでいる。短い乗り換え時間に急かされる桐原慧は、乗り込んだ路面電車の窓から港の風景を眺めていた。
車窓に映る海はまだ眠りの中にあるようで、朝日に反射して淡い銀色の光を放っていた。船のシルエットが波間に揺れ、停泊する港の静けさを引き立たせている。
桜の花びらが電車の窓ガラスに触れ、柔らかく震えた。通学する学生達の話し声や足音も、遠くに響く波音と重なり、春の朝独特の心地よい喧騒を生み出していた。
―― 理系高校を選ぶのは当然だ。
僕は心の中で静かに呟く。文系ではなく、流行や友人関係で進学を決めるのは非合理的だ。将来の進路を考えれば、今の自分には理系の道しかない。大学進学や就職の安定性を冷静に分析すれば、松亀工業高校は最も合理的な選択だった。周囲の新入生達は期待や不安で胸を躍らせているようだが、僕は感情に揺さぶられることなく、視線はどこか冷めている。
路面電車が終点の汐見駅に近づくと、背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。港町特有の潮の香りが鼻腔をくすぐる。駅を出ると、薬局や飲食店があり、そこそこ交通量の多い道路を進み、丘の上へと続く道が目に入る。
多くの新入生が歩くその道には桜の花びらが淡く影を落としていた。勾配がきつく息を切らしながら10分ほど丘の上へ歩みを進めると、松亀工業高校の校舎が現れる。校舎の白い壁は長年の風雨で少し黄ばんでいるが、春先にしては強めの太陽を受けて輝いている。校門をくぐると、広い校庭が目に入る。生徒達が歩き、笑い声がかすかに響く。
松亀工業高校はその名の通り理系に特化した進学校であり、生徒は皆、将来を見据えて勉学に勤しんでいる。しかし、僕の眼には、その努力も感情も、あくまで観察対象に過ぎなかった。興味を引くのは、合理的に分析可能な事象だけである。
登校初日は入学式とクラスでのオリエンテーションで終え、一年E組に配属となった僕は、クラス決めの方法について逡巡していた。クラス決めは通常、担当学年の教師達が中心となって、成績、男女比、人間関係、特別な配慮事項などを総合的に配慮して行われるのだそうだ。
新入生の場合は? 人間関係はゼロの状態なので、入学試験の成績、男女比、特別な配慮事項で決めるのだろうか。そんなことを考えていると、クラスでの初めてのオリエンテーションは終わりを迎えていた。
新入生は早めの下校時間となったが、特段帰宅を急ぐ理由もない僕は、散策がてら校舎内を周遊することにした。松亀工業高校は一学年三クラスあり、全校生徒五百名程度の規模である。校舎は三階建てで、一年生が一階に位置し、学年を重ねると上層へと昇る配置だ。
教室がある一般棟と隣り合っているのが、部活動の部室や工業高校よろしく実験室、その他に図書室や学生食堂が入っている別棟である。
僕は別棟の三階にある古びた部室の前を通りかかった。そこには、工業高校では珍しい、というか全国の学校でもそう聞いたことは無い部活名が表札に書かれていた。
「探偵部……」
部室前の掲示板に貼られた手書きの部活紹介の紙は、春の風に揺れ、埃をかぶっていた。どうやら部員は現在三年生が二人だけで、廃部寸前。
部室のドアは半開きで、中から微かな光と埃の匂いが漂う。机の上には資料や雑誌、古い顕微鏡や推理小説の切り抜きが無造作に置かれており、お世辞にも整頓されているとは言えない。
僕は立ち止まり、誰もいない部室内をゆっくりと静かに観察する。壁の地図にはマーカーで印がつけられ、机の上の資料には計算式や図形が走り書きされている。大量の資料の下には、使い古された定規やルーペが隠れていた。
五分ほど室内を見回して、そろそろ帰宅への帰路を考えはじめた頃合いに、部室の入口から声が掛けられる。
「おや、入部希望者かい? 興味があるなら……でも、この部、三年生が抜けたら廃部になるんだよ。」
そこには四十半ばほどの白衣姿の男が顔を出していた。
「いえ、僕は新入生で桐原といいます。帰宅前に校舎を見学していました。」
表情に疲れを見せながらも、どこか落ち着きを感じさせる男は続けて言った。
「ああそうか、失礼。私は探偵部顧問の山崎です。工業高校の中では奇天烈な部活だから、去年は入部者がゼロでねえ。活動実績もほとんど無いし」
そもそもなぜ探偵部なるものが存在するのか? という初歩的な疑問はこの際置いておくとして、見た限りこの顧問は部活動にあまり関心はなく、仕方なく顧問を務めているという印象だった。
「すみません。部活はまだ考えてなくて」
部活に入るかどうかは、一時的な感情で決めるべきではない。部活動で得られる経験、自身の能力を試す機会、その対価として成果が得られるかどうか、それだけが判断基準である。
「よかったら検討してみて」
僕の素っ気ない態度を察したのか、山崎先生はそそくさと部室をあとにした。
校舎から出た僕は校庭に目を向けた。春の光が柔らかく差し込み、潮風が桜の花びらを揺らす。港町ならではの静かな喧騒が耳に届く。
校庭の大半はグラウンドが占めており、体育系部活の活動がスタートしようとしている。片隅には工業高校を再認識させる観測器具や百葉箱が置かれている。僕はそれらの光景を、これからの高校生活を彩る舞台装置のように感じながら帰路についた。
小さな日常の中で、僕の新しい生活は静かに動きはじめた。




