表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第6話「駆け引きの時間」

翌朝。

 美咲は通学路を歩きながら、昨日の放課後に交わしたやり取りを何度も思い返していた。

 ――佐藤陽向。

 彼が口にした「向こう側」という言葉。その意味、その意図。その全てが頭から離れない。

 教室に足を踏み入れると、そこにはいつも通りのざわめきがあった。机を囲んで笑い合う声、ノートを見比べる姿。

 その中に、彼もいた。

 陽向は取り巻きの友人たちと談笑し、冗談めかして肩を叩き合っている。まるで昨夜の緊張など存在しなかったかのように。

 ――だけど。

 ふとした拍子に、彼の視線が美咲と交差した。

 一瞬の出来事だったが、胸の奥に冷たい針を刺されたような感覚が走る。笑顔を浮かべながらも、視線の端だけで「こちらを意識している」のが分かった。

 (やっぱり……私を見ている)

 心臓が早鐘を打つ。

 それでも美咲は、机に鞄を下ろしながら何食わぬ顔を装った。

 だが、頭の片隅で囁く声が消えない。

 ――彼と私は、すでに互いを“知ってしまった”。

 ここから先は、ただのクラスメイトではいられない。


昼下がりの社会科の授業。

黒板には「戦国時代と戦術の変化」という文字が大きく書かれていた。

先生はチョークを指先で弄びながら、教科書をぱらりとめくる。

「じゃあ、この合戦が転機になった理由を説明できる人――」

当たり前の日常の一コマ。

けれど美咲にとっては、教室全体に流れる空気がどこか薄い膜のように歪んで見えていた。

(また……あの人は答えるのだろうか)

佐藤陽向。

昨日の放課後、意味深なやり取りを交わした相手。

彼が授業でどう振る舞うか――それが、今の美咲にとって最大の関心事だった。

教室は、ただの授業風景を装いながらも、美咲にとっては張り詰めた緊張の舞台に変わっていた。

教室の空気がふっと重くなった。

社会科の先生が黒板にチョークで「○○の戦い」と大きく書き、くるりとこちらに向き直る。

「さて、この戦の意義は何だったか――わかる人、いるか?」

問いかけが放たれた瞬間、教室はしんと静まり返る。

カリカリと鉛筆を走らせていた音すら止み、誰も目を合わせようとしない。

こういうときは、誰もが「誰か答えてくれ」と祈りながら俯くのが常だ。

だが、その沈黙を破ったのは一人だけだった。

「はい」

ためらいのない声とともに、すっと挙がる右手。

佐藤陽向。

迷いも逡巡もなく、まるで“答えるのが当然だ”と言わんばかりの挙手だった。

美咲の胸が一瞬、ざわりと揺れる。

(やっぱり……)

「この戦の意義は……確かに戦術の転換点とされています」

陽向の声は落ち着いていて、自信に満ちていた。先生が頷きかける――そこで彼はさらに続ける。

「でも、それだけじゃないんです。この時期には各大名の兵站制度が整い始めていて、補給線の確立こそが勝敗を分けた、と言われています。さらに、従来は農繁期の兵力動員に制約がありましたが、この頃には軍制そのものが変わりつつあったんです」

言葉は淀みなく、まるで何度も繰り返し語ってきた知識のように滑らかだった。

クラスの数人が「え、何それ」「また詳しいな」と小声を漏らす。先生すら一瞬、目を見張ってから「……なるほど、確かにそういう解釈もある」と感心したように頷いた。

美咲は胸の奥で心臓がどくりと鳴るのを感じながら、机の下でポケットのメモ帳をそっと開いた。

(やっぱり……普通じゃない。この人は……)

ペン先が走り、小さな字で“佐藤陽向――知識の深さ、やはり不自然”と書き加えられていく。

「また詳しいな」

「マニアかよ」

ぽつりぽつりとクラスのあちこちから囁きが漏れる。からかうような笑い声も混じるが、どこか本気で感心している空気もあった。

先生も少し目を丸くしたまま、腕を組んで陽向を見やる。

「そこまで知っているのは珍しいな。歴史オタクか? でも、いい視点だ」

クラス全体が和やかにざわつく。表面的には――“ただの歴史好きの優等生”という扱いで済まされている。

だが、美咲の胸は冷たい緊張で満たされていた。

(違う……これは単なる趣味や受験勉強の域じゃない。知識の積み重ね方が、普通の高校生じゃありえない)

彼女の指先は、無意識にポケットの中のメモ帳を強く握りしめていた。

「次は君、桜井さん。どう思う?」

先生の視線が美咲に向けられる。心臓がきゅっと締め付けられるように高鳴る。

頭の中には答えがすぐ浮かぶ。いや、浮かびすぎる。歴史の流れ、因果関係、細部の知識――すべて鮮明すぎるくらい。

けれど、美咲はぐっと息を飲む。

(ここで全部答えたら……陽向に気づかれる。絶対にダメ)

深呼吸して、わざとゆっくりと首をかしげる。

「えっと……うーん、確かに戦略の転換点だとは思いますけど……まあ、そんなところですかね」

声は平凡で、少し戸惑った雰囲気を漂わせる。教科書の内容だけをなぞっただけの、誰にでも言えそうな答えだ。

先生は軽く笑って首をかしげる。

「まあ、その答えでもいいでしょう。次!」

美咲は心の中で小さく安堵しつつも、目の端で陽向をちらりと見る。

彼は口元にわずかな笑みを浮かべており――まるですべてお見通しのように見えた。

美咲の胸は、冷たい緊張とほのかな勝ち誇った感覚が入り混じる。

美咲が平凡な答えを返し終えたその瞬間、視線の端に違和感を覚える。

チラリと目を向けると、陽向がこちらを見ていた。

唇の端に、ほんのわずかな笑み――軽く、しかし意味深な笑みを浮かべている。

その笑みには、言葉にできない確信が込められているように見えた。

(……やっぱり、見抜かれてる……)

胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

だが、表情は平静を装う。顔に動揺を出してはいけない――これは戦いの序章。

陽向の目が、まるで美咲の心を覗き込むかのようにじっと光を宿す。

その視線に、思わず息を整え、冷静さを自分に言い聞かせる。

(ここで慌てたら、すべてがバレる……!)

微かな笑みを返すことなく、ペン先をそっと握り直す美咲。

教室のざわめきの中で、二人だけに通じる“駆け引き”の空気が静かに流れた。

教室のざわめきは、他の生徒にとってただの授業の一場面に過ぎない。

だが美咲と陽向にとっては、静かな戦場のような時間が流れていた。

目線の交わり、微かな仕草、言葉の間――すべてが互いの正体を探る駆け引きの一部。

誰も気づかない裏の戦い。

美咲は胸の奥で小さく息をつく。

(これ以上、隙は見せられない……)

手に握ったペンを強く握り直し、心の中で決意を固める。

冷静さを保ちながら、次の一手を考え始める美咲。

教室の空気はいつも通りでも、彼女にとっては緊張の連続だ。



教室のざわめきがゆるやかに収まり、放課後の静けさが漂う。窓から差し込む柔らかな夕陽が、机の上のプリントや筆記具に淡い光を落としている。

美咲は自分の机に座り、ノートを開いて課題を確認していた。周囲の笑い声やペンの音は耳に入るものの、心は自然と集中している。紙に文字を書き込む手は、まるで時間の流れを少しだけ止めたかのように静かだ。

誰もが放課後の自由を楽しむ中、美咲だけが小さな観察者として、クラスメイトたちの一挙一動を淡々と見つめていた。

陽向は教室の奥から、ゆっくりと美咲の机へと歩み寄った。足音は控えめで、まるで周囲の空気に溶け込むかのように静かだ。声は穏やかで、まるで友達に話しかけるような軽さを持っている――だが、その目線は明らかに美咲を探っていた。

「さっきの答え、もっと深く話せたんじゃないか?」

口にしたその一言は、雑談のようでいて実は微妙な探り。美咲の胸の奥に隠された知識や、無意識に出る反応を確かめようとする、計算された問いかけだった。

美咲は手元のプリントに視線を落としたまま、ペン先で文字をなぞるように動かす。わざとらしくはならないよう、自然体を演じる。

「……勉強不足だから」

抑えた声で短く返す。表情は淡々と、あくまで何でもない会話をしている風を装って。だが内心では、心臓が高鳴り、鼓動が耳の奥で響いていた。背中にはじわりと冷や汗が流れ、喉がわずかに渇く。――それでも、顔には一切出さないように、自分を律するのだった。

教室のざわめきの中、二人の間だけが妙に張り詰めていた。

陽向は机に片手をかけ、軽く体を傾けながら美咲を見下ろす。その視線は柔らかくも、奥に探るような鋭さを潜ませている。まるで「君の正体はもう分かっている」と、声にせず告げているかのようだった。

美咲は視線を上げず、ノートの端を整える手を止めない。表面的には自然体を演じているが、内心では次の手をどう打つかを必死に考えていた。下手に言葉を漏らせば、すぐに踏み込まれる――そんな危機感が背筋を冷たく這う。

沈黙すらも会話の一部。互いに核心を避けながらも、探り合いの火花だけが小さく散っていた。

教室のざわめきは相変わらずだ。机を寄せ合って笑う声、プリントをばさばさと片づける音――そのどれもが「普通の休み時間」を演出している。

けれど、美咲と陽向のあいだだけは違った。

机を挟んで交わされる言葉は短く、笑顔を繕った表情も、他人にはただの雑談にしか見えないだろう。だが、その裏では目に見えぬ糸が張られ、どちらが先に踏み込むかを競う駆け引きが続いていた。

美咲は胸の奥で鼓動を押し殺しながら、自分に言い聞かせる。

(ここで隙を見せたら危ない……でも観察も止められない)

そう呟いた心の声は、彼女自身の決意を固める刃のように鋭く響いた。


陽向は美咲の「勉強不足だから」という淡々とした答えを聞いた瞬間、口角をわずかに引き上げた。

それは「納得しました」という素直な笑みではない。

どこか人を試すような、勝負の行方を楽しんでいる者だけが浮かべる余裕の笑み。

――まるで、「その言葉は嘘だ」と確信しているかのように。

美咲の胸が一瞬ざわつく。だが彼女は目線を落としたまま、あくまで自然体を崩さなかった。

陽向はそれ以上、言葉を重ねなかった。

ただ、机に片手を置き、美咲を見下ろすように立ち止まる。

ほんの数秒。けれど、その沈黙は異様に長く感じられた。

言葉がないからこそ、圧力が増していく。

視線だけで「お前は隠している」と告げられているようで、美咲の背筋に冷たい汗が伝った。

それでも彼女は顔を上げない。プリントに視線を落としたまま、平静を演じ続ける。

心臓の鼓動が、耳の奥でやけに大きく響いていた。

陽向の瞳は、穏やかな笑みを貼りつけながらも鋭さを帯びていた。

まるで「本当はもっと知っているだろう?」と心を抉るように問いかけてくる。

視線を逸らせば、その瞬間に“図星”を認めることになる。

だから美咲は――絶対に目を合わせない。

机上のプリントに視線を固定し、鉛筆を持つ指先に力を込める。

表情は淡々と、いつも通りを装いながらも、内心では(負けるわけにはいかない)と必死に自分を律していた。

沈黙の駆け引きは、授業よりもずっと重く、張り詰めた時間を刻んでいく。

教室の空気は、あくまでいつも通りの休み時間。

陽向はにこやかに笑い、美咲は淡々と「勉強不足」と答えただけ。

傍目には、ただの軽いやり取り――クラスメイトが気にするほどの場面ではない。

だが、二人の間に流れる空気は違った。

表面上は“笑っている男子”と“普通の女子”の会話。

その裏では――“知識を隠す転生者”と、“それを暴こうとする者”の静かな火花が交わっている。

美咲は沈黙を守りながら、自分の呼吸すら制御するように心を落ち着ける。

一方の陽向は、獲物を逃さない狩人のように、余裕の笑みの下で相手の反応を一つひとつ観察していた。

その瞬間――教室のざわめきとは裏腹に、二人だけの心理戦は緊張の糸を張り詰めていた。

陽向は数秒の沈黙を保ったあと、わずかに肩をすくめる。

「……ふん」

小さく鼻で笑い、深追いすることなく背を向けた。

その軽い仕草さえも、まるで「今日はこのくらいで勘弁してやる」と告げるようで。

机の上に残るのは、美咲の震えを隠した筆先と、張り詰めた心の鼓動。

(完全に……試されてる)

美咲は唇を噛み、胸の奥で冷たい予感を覚える。

周囲のクラスメイトは、何事もなかったようにおしゃべりを続けている。

だが美咲だけは知っていた。

――今の数分こそ、彼女の立場を揺さぶる“駆け引きの一手”だったのだと。

教室の空気は相変わらず平和そのもの。

笑い声やページをめくる音が飛び交い、誰の目にもさっきのやり取りは「ただの雑談」にしか映らない。

だが、美咲だけは知っていた。

――あれは言葉の裏に隠された、探り合い。

(ここで隙を見せたら危険……でも、観察をやめるわけにもいかない)

心の中で自分に言い聞かせるように呟き、手元のプリントに視線を固定する。

会話自体は自然に途切れた。けれど、陽向が去ったあとも、見えない糸のような緊張が二人の間に張りつめたまま残っていた。

まるで、次の一手を待つ将棋の盤面のように――。

教室にざわめきが戻る。

さっきまで張りつめていた空気は、美咲の机の周りだけを残して、すでに日常の喧噪へと溶けていた。

美咲は無言でプリントを重ね、端を揃える。まるでただの整理に集中しているかのように。

だが、心の内では別の声が囁いていた。

(……陽向だけが“怪しい”んじゃない。ほかにも、このクラスにはいるはず)

昼下がりの光が窓から差し込み、机の上に白い紙の影を落とす。

その柔らかい明るさを盾にするように、美咲は伏せたままの視線を少しだけ動かした。

机の端から、自然に。気づかれないように。

彼女の観察は、もう次の標的へと移りつつあった。

教室の一角から、明るい笑い声が弾んだ。

伊藤沙耶が女子グループに囲まれて、楽しげに話している。

「ほんとに? じゃあ次は――」

「そなたも心得よ、それは譲れぬことぞ!」

一瞬、会話のリズムが妙な音を立てた。

だが、友人たちはすぐに吹き出し、

「また沙耶の変な口癖~!」

「時代劇ばっか見てるんじゃない?」

と、笑って軽く流す。

沙耶も悪びれずに笑い、すぐに別の話題へ切り替えた。

……だが、美咲の耳にははっきりと残っていた。

(“そなたも心得よ”。“しかと見届けよう”……)

子供の頃からの癖だとすれば、あまりに自然すぎる。

何の違和感もなく口をついて出るその言葉に、美咲は小さく息を呑む。

机の下、ポケットに忍ばせたメモ帳へ指が伸びる。

記録するのは一瞬でいい。だが、彼女の頭の中にはすでに「要注意」の印が刻まれていた。

教室の後方、男子たちの騒がしい声が響いていた。

「なあ、昨日の試合見たか?」

「お前、あれ真似できんの?」

中村拓海は椅子から立ち上がり、笑いながら仲間とじゃれ合っている。机の間を軽くステップで避け、走り回る姿は、まるで犬っころのように無邪気だ。

その瞬間――。

ひゅ、と風を切って紙を丸めたボールが飛んできた。誰かがふざけて投げたものだ。

「おっと!」

拓海の腕が反射的に伸びる。

――パシィッ!

彼は一拍の余裕もなく、宙を舞うボールを片手で掴み取っていた。

「おおっ!」

「さっすが拓海!」

「運動神経バケモンだな!」

周囲の男子たちが歓声を上げ、拍手混じりの笑いが広がる。

拓海は得意げにボールを軽く放り上げ、「余裕余裕!」と豪快に笑って見せた。

……だが、美咲の眉はわずかに動いた。

(“運動神経がいい”……それだけで説明できる?)

その動きは速すぎた。

まるで、長年の訓練で叩き込まれた兵士の反射のように――迷いも無駄もなく、ただ正確に。

胸の奥に冷たい予感が広がる。

(やっぱり……拓海も、ただのクラスメイトじゃない)

美咲はノートにさらさらとシャープペンを走らせていた。

だが、そこに記されるのは授業の復習でも宿題でもない。

(やはり……伊藤も、中村も。“ただのクラスメイト”じゃない)

心の中で小さく呟きながら、視線は変わらず手元に落としたまま。あくまで「普通の生徒」を演じる。

伊藤沙耶の古風な口調。

中村拓海の常識外れな反射神経。

――それらは偶然の癖や才能として片づけることもできる。

だが、陽向の異常な知識と並べて考えれば……偶然にしては揃いすぎている。

美咲はプリントに走らせるペンの先に、自分の思考を重ねた。

(表には出せないけど、確実に“何か”を持ってる。私と同じ……あるいは、それ以上の)

机の上に差し込む午後の光の中で、彼女の表情はあくまで平静。

だが、胸の奥では冷たい警戒心がゆっくりと膨らんでいた。

美咲はプリントに視線を落としながら、心の中で情報を整理していた。

しかし、ふと背筋をくすぐるような気配を感じ、わずかに顔を上げる。

窓際。

そこに陽向が寄りかかり、何気ない素振りでクラス全体を見渡していた。

……だが、その視線の先を追って、美咲は息を呑む。

彼の目は、沙耶や拓海に向けられていたのだ。

(……やっぱり。彼も同じ相手を見ている)

偶然ではない。

陽向もまた、この教室の中に“異質”を探している。

それを悟った瞬間、美咲の指先から力が抜けそうになる。

だが彼女は必死に平然を装い、視線を再びプリントへ落とした。

内心の冷や汗を悟らせまいと、筆記具を持つ手を動かし続ける。

――同じものを見ている。

その事実が、彼女の緊張をさらに強めていった。

美咲はペン先を紙の上で動かしながらも、思考の深みに沈んでいった。

(……私だけじゃない。あの人も、同じものを見ている)

陽向の視線は確かに、沙耶や拓海を追っていた。

その鋭さは、偶然の好奇心なんかじゃない――意図を持った観察者の眼差し。

胸の奥がざわつく。

自分一人が“転生者”を探っているのだと思っていたのに、実際には隣に競争者がいた。

(どちらが先に掴むか……)

そう思うと同時に、喉がひりつく。

同盟者になり得る可能性を、どうしても否定できなかった。

(でも――協力しなければ危険かもしれない)

理性はそう告げるのに、直感は叫んでいた。

――彼に背中を預けるのは、あまりにも危うい、と。

筆記具を握る手にわずかに力がこもる。

柔らかな午後の光の下、机の上で記録を装いながら、美咲の心には一層張りつめた緊張が広がっていった。

放課後の教室。

夕陽が差し込み、机や椅子の影を長く伸ばしている。ざわついていたクラスも次第に静まり、残っている生徒はそれぞれ帰り支度に追われていた。

ノートを閉じ、鞄へと教科書をしまう美咲。その背後から、ふと気配が近づく。

「……伊藤や中村」

陽向の声は、他の誰にも届かないほど低く、わざと抑えられていた。

「どっちが先に尻尾を出すか、楽しみだな」

耳元に滑り込んだその囁きに、美咲の手が一瞬止まる。

だがすぐに、落ち着いたふりで鞄の口を閉じ、視線を彼に向ける。

「……見極めるのは、私よ」

淡々とした声。けれど瞳の奥に宿った光は、陽向の余裕を真正面から弾き返す強さを持っていた。

二人の間に交わされた視線は、まるで刃を打ち合わせる火花のように鋭く交錯する。

夕陽の赤がその緊張をさらに際立たせた。

(駆け引きの時間は、もう始まっている――)

美咲の心の声が、夕暮れの静けさに溶けていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ