第6話「駆け引きの時間」
翌朝。
美咲は通学路を歩きながら、昨日の放課後に交わしたやり取りを何度も思い返していた。
――佐藤陽向。
彼が口にした「向こう側」という言葉。その意味、その意図。その全てが頭から離れない。
教室に足を踏み入れると、そこにはいつも通りのざわめきがあった。机を囲んで笑い合う声、ノートを見比べる姿。
その中に、彼もいた。
陽向は取り巻きの友人たちと談笑し、冗談めかして肩を叩き合っている。まるで昨夜の緊張など存在しなかったかのように。
――だけど。
ふとした拍子に、彼の視線が美咲と交差した。
一瞬の出来事だったが、胸の奥に冷たい針を刺されたような感覚が走る。笑顔を浮かべながらも、視線の端だけで「こちらを意識している」のが分かった。
(やっぱり……私を見ている)
心臓が早鐘を打つ。
それでも美咲は、机に鞄を下ろしながら何食わぬ顔を装った。
だが、頭の片隅で囁く声が消えない。
――彼と私は、すでに互いを“知ってしまった”。
ここから先は、ただのクラスメイトではいられない。
昼下がりの社会科の授業。
黒板には「戦国時代と戦術の変化」という文字が大きく書かれていた。
先生はチョークを指先で弄びながら、教科書をぱらりとめくる。
「じゃあ、この合戦が転機になった理由を説明できる人――」
当たり前の日常の一コマ。
けれど美咲にとっては、教室全体に流れる空気がどこか薄い膜のように歪んで見えていた。
(また……あの人は答えるのだろうか)
佐藤陽向。
昨日の放課後、意味深なやり取りを交わした相手。
彼が授業でどう振る舞うか――それが、今の美咲にとって最大の関心事だった。
教室は、ただの授業風景を装いながらも、美咲にとっては張り詰めた緊張の舞台に変わっていた。
教室の空気がふっと重くなった。
社会科の先生が黒板にチョークで「○○の戦い」と大きく書き、くるりとこちらに向き直る。
「さて、この戦の意義は何だったか――わかる人、いるか?」
問いかけが放たれた瞬間、教室はしんと静まり返る。
カリカリと鉛筆を走らせていた音すら止み、誰も目を合わせようとしない。
こういうときは、誰もが「誰か答えてくれ」と祈りながら俯くのが常だ。
だが、その沈黙を破ったのは一人だけだった。
「はい」
ためらいのない声とともに、すっと挙がる右手。
佐藤陽向。
迷いも逡巡もなく、まるで“答えるのが当然だ”と言わんばかりの挙手だった。
美咲の胸が一瞬、ざわりと揺れる。
(やっぱり……)
「この戦の意義は……確かに戦術の転換点とされています」
陽向の声は落ち着いていて、自信に満ちていた。先生が頷きかける――そこで彼はさらに続ける。
「でも、それだけじゃないんです。この時期には各大名の兵站制度が整い始めていて、補給線の確立こそが勝敗を分けた、と言われています。さらに、従来は農繁期の兵力動員に制約がありましたが、この頃には軍制そのものが変わりつつあったんです」
言葉は淀みなく、まるで何度も繰り返し語ってきた知識のように滑らかだった。
クラスの数人が「え、何それ」「また詳しいな」と小声を漏らす。先生すら一瞬、目を見張ってから「……なるほど、確かにそういう解釈もある」と感心したように頷いた。
美咲は胸の奥で心臓がどくりと鳴るのを感じながら、机の下でポケットのメモ帳をそっと開いた。
(やっぱり……普通じゃない。この人は……)
ペン先が走り、小さな字で“佐藤陽向――知識の深さ、やはり不自然”と書き加えられていく。
「また詳しいな」
「マニアかよ」
ぽつりぽつりとクラスのあちこちから囁きが漏れる。からかうような笑い声も混じるが、どこか本気で感心している空気もあった。
先生も少し目を丸くしたまま、腕を組んで陽向を見やる。
「そこまで知っているのは珍しいな。歴史オタクか? でも、いい視点だ」
クラス全体が和やかにざわつく。表面的には――“ただの歴史好きの優等生”という扱いで済まされている。
だが、美咲の胸は冷たい緊張で満たされていた。
(違う……これは単なる趣味や受験勉強の域じゃない。知識の積み重ね方が、普通の高校生じゃありえない)
彼女の指先は、無意識にポケットの中のメモ帳を強く握りしめていた。
「次は君、桜井さん。どう思う?」
先生の視線が美咲に向けられる。心臓がきゅっと締め付けられるように高鳴る。
頭の中には答えがすぐ浮かぶ。いや、浮かびすぎる。歴史の流れ、因果関係、細部の知識――すべて鮮明すぎるくらい。
けれど、美咲はぐっと息を飲む。
(ここで全部答えたら……陽向に気づかれる。絶対にダメ)
深呼吸して、わざとゆっくりと首をかしげる。
「えっと……うーん、確かに戦略の転換点だとは思いますけど……まあ、そんなところですかね」
声は平凡で、少し戸惑った雰囲気を漂わせる。教科書の内容だけをなぞっただけの、誰にでも言えそうな答えだ。
先生は軽く笑って首をかしげる。
「まあ、その答えでもいいでしょう。次!」
美咲は心の中で小さく安堵しつつも、目の端で陽向をちらりと見る。
彼は口元にわずかな笑みを浮かべており――まるですべてお見通しのように見えた。
美咲の胸は、冷たい緊張とほのかな勝ち誇った感覚が入り混じる。
美咲が平凡な答えを返し終えたその瞬間、視線の端に違和感を覚える。
チラリと目を向けると、陽向がこちらを見ていた。
唇の端に、ほんのわずかな笑み――軽く、しかし意味深な笑みを浮かべている。
その笑みには、言葉にできない確信が込められているように見えた。
(……やっぱり、見抜かれてる……)
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
だが、表情は平静を装う。顔に動揺を出してはいけない――これは戦いの序章。
陽向の目が、まるで美咲の心を覗き込むかのようにじっと光を宿す。
その視線に、思わず息を整え、冷静さを自分に言い聞かせる。
(ここで慌てたら、すべてがバレる……!)
微かな笑みを返すことなく、ペン先をそっと握り直す美咲。
教室のざわめきの中で、二人だけに通じる“駆け引き”の空気が静かに流れた。
教室のざわめきは、他の生徒にとってただの授業の一場面に過ぎない。
だが美咲と陽向にとっては、静かな戦場のような時間が流れていた。
目線の交わり、微かな仕草、言葉の間――すべてが互いの正体を探る駆け引きの一部。
誰も気づかない裏の戦い。
美咲は胸の奥で小さく息をつく。
(これ以上、隙は見せられない……)
手に握ったペンを強く握り直し、心の中で決意を固める。
冷静さを保ちながら、次の一手を考え始める美咲。
教室の空気はいつも通りでも、彼女にとっては緊張の連続だ。
教室のざわめきがゆるやかに収まり、放課後の静けさが漂う。窓から差し込む柔らかな夕陽が、机の上のプリントや筆記具に淡い光を落としている。
美咲は自分の机に座り、ノートを開いて課題を確認していた。周囲の笑い声やペンの音は耳に入るものの、心は自然と集中している。紙に文字を書き込む手は、まるで時間の流れを少しだけ止めたかのように静かだ。
誰もが放課後の自由を楽しむ中、美咲だけが小さな観察者として、クラスメイトたちの一挙一動を淡々と見つめていた。
陽向は教室の奥から、ゆっくりと美咲の机へと歩み寄った。足音は控えめで、まるで周囲の空気に溶け込むかのように静かだ。声は穏やかで、まるで友達に話しかけるような軽さを持っている――だが、その目線は明らかに美咲を探っていた。
「さっきの答え、もっと深く話せたんじゃないか?」
口にしたその一言は、雑談のようでいて実は微妙な探り。美咲の胸の奥に隠された知識や、無意識に出る反応を確かめようとする、計算された問いかけだった。
美咲は手元のプリントに視線を落としたまま、ペン先で文字をなぞるように動かす。わざとらしくはならないよう、自然体を演じる。
「……勉強不足だから」
抑えた声で短く返す。表情は淡々と、あくまで何でもない会話をしている風を装って。だが内心では、心臓が高鳴り、鼓動が耳の奥で響いていた。背中にはじわりと冷や汗が流れ、喉がわずかに渇く。――それでも、顔には一切出さないように、自分を律するのだった。
教室のざわめきの中、二人の間だけが妙に張り詰めていた。
陽向は机に片手をかけ、軽く体を傾けながら美咲を見下ろす。その視線は柔らかくも、奥に探るような鋭さを潜ませている。まるで「君の正体はもう分かっている」と、声にせず告げているかのようだった。
美咲は視線を上げず、ノートの端を整える手を止めない。表面的には自然体を演じているが、内心では次の手をどう打つかを必死に考えていた。下手に言葉を漏らせば、すぐに踏み込まれる――そんな危機感が背筋を冷たく這う。
沈黙すらも会話の一部。互いに核心を避けながらも、探り合いの火花だけが小さく散っていた。
教室のざわめきは相変わらずだ。机を寄せ合って笑う声、プリントをばさばさと片づける音――そのどれもが「普通の休み時間」を演出している。
けれど、美咲と陽向のあいだだけは違った。
机を挟んで交わされる言葉は短く、笑顔を繕った表情も、他人にはただの雑談にしか見えないだろう。だが、その裏では目に見えぬ糸が張られ、どちらが先に踏み込むかを競う駆け引きが続いていた。
美咲は胸の奥で鼓動を押し殺しながら、自分に言い聞かせる。
(ここで隙を見せたら危ない……でも観察も止められない)
そう呟いた心の声は、彼女自身の決意を固める刃のように鋭く響いた。
陽向は美咲の「勉強不足だから」という淡々とした答えを聞いた瞬間、口角をわずかに引き上げた。
それは「納得しました」という素直な笑みではない。
どこか人を試すような、勝負の行方を楽しんでいる者だけが浮かべる余裕の笑み。
――まるで、「その言葉は嘘だ」と確信しているかのように。
美咲の胸が一瞬ざわつく。だが彼女は目線を落としたまま、あくまで自然体を崩さなかった。
陽向はそれ以上、言葉を重ねなかった。
ただ、机に片手を置き、美咲を見下ろすように立ち止まる。
ほんの数秒。けれど、その沈黙は異様に長く感じられた。
言葉がないからこそ、圧力が増していく。
視線だけで「お前は隠している」と告げられているようで、美咲の背筋に冷たい汗が伝った。
それでも彼女は顔を上げない。プリントに視線を落としたまま、平静を演じ続ける。
心臓の鼓動が、耳の奥でやけに大きく響いていた。
陽向の瞳は、穏やかな笑みを貼りつけながらも鋭さを帯びていた。
まるで「本当はもっと知っているだろう?」と心を抉るように問いかけてくる。
視線を逸らせば、その瞬間に“図星”を認めることになる。
だから美咲は――絶対に目を合わせない。
机上のプリントに視線を固定し、鉛筆を持つ指先に力を込める。
表情は淡々と、いつも通りを装いながらも、内心では(負けるわけにはいかない)と必死に自分を律していた。
沈黙の駆け引きは、授業よりもずっと重く、張り詰めた時間を刻んでいく。
教室の空気は、あくまでいつも通りの休み時間。
陽向はにこやかに笑い、美咲は淡々と「勉強不足」と答えただけ。
傍目には、ただの軽いやり取り――クラスメイトが気にするほどの場面ではない。
だが、二人の間に流れる空気は違った。
表面上は“笑っている男子”と“普通の女子”の会話。
その裏では――“知識を隠す転生者”と、“それを暴こうとする者”の静かな火花が交わっている。
美咲は沈黙を守りながら、自分の呼吸すら制御するように心を落ち着ける。
一方の陽向は、獲物を逃さない狩人のように、余裕の笑みの下で相手の反応を一つひとつ観察していた。
その瞬間――教室のざわめきとは裏腹に、二人だけの心理戦は緊張の糸を張り詰めていた。
陽向は数秒の沈黙を保ったあと、わずかに肩をすくめる。
「……ふん」
小さく鼻で笑い、深追いすることなく背を向けた。
その軽い仕草さえも、まるで「今日はこのくらいで勘弁してやる」と告げるようで。
机の上に残るのは、美咲の震えを隠した筆先と、張り詰めた心の鼓動。
(完全に……試されてる)
美咲は唇を噛み、胸の奥で冷たい予感を覚える。
周囲のクラスメイトは、何事もなかったようにおしゃべりを続けている。
だが美咲だけは知っていた。
――今の数分こそ、彼女の立場を揺さぶる“駆け引きの一手”だったのだと。
教室の空気は相変わらず平和そのもの。
笑い声やページをめくる音が飛び交い、誰の目にもさっきのやり取りは「ただの雑談」にしか映らない。
だが、美咲だけは知っていた。
――あれは言葉の裏に隠された、探り合い。
(ここで隙を見せたら危険……でも、観察をやめるわけにもいかない)
心の中で自分に言い聞かせるように呟き、手元のプリントに視線を固定する。
会話自体は自然に途切れた。けれど、陽向が去ったあとも、見えない糸のような緊張が二人の間に張りつめたまま残っていた。
まるで、次の一手を待つ将棋の盤面のように――。
教室にざわめきが戻る。
さっきまで張りつめていた空気は、美咲の机の周りだけを残して、すでに日常の喧噪へと溶けていた。
美咲は無言でプリントを重ね、端を揃える。まるでただの整理に集中しているかのように。
だが、心の内では別の声が囁いていた。
(……陽向だけが“怪しい”んじゃない。ほかにも、このクラスにはいるはず)
昼下がりの光が窓から差し込み、机の上に白い紙の影を落とす。
その柔らかい明るさを盾にするように、美咲は伏せたままの視線を少しだけ動かした。
机の端から、自然に。気づかれないように。
彼女の観察は、もう次の標的へと移りつつあった。
教室の一角から、明るい笑い声が弾んだ。
伊藤沙耶が女子グループに囲まれて、楽しげに話している。
「ほんとに? じゃあ次は――」
「そなたも心得よ、それは譲れぬことぞ!」
一瞬、会話のリズムが妙な音を立てた。
だが、友人たちはすぐに吹き出し、
「また沙耶の変な口癖~!」
「時代劇ばっか見てるんじゃない?」
と、笑って軽く流す。
沙耶も悪びれずに笑い、すぐに別の話題へ切り替えた。
……だが、美咲の耳にははっきりと残っていた。
(“そなたも心得よ”。“しかと見届けよう”……)
子供の頃からの癖だとすれば、あまりに自然すぎる。
何の違和感もなく口をついて出るその言葉に、美咲は小さく息を呑む。
机の下、ポケットに忍ばせたメモ帳へ指が伸びる。
記録するのは一瞬でいい。だが、彼女の頭の中にはすでに「要注意」の印が刻まれていた。
教室の後方、男子たちの騒がしい声が響いていた。
「なあ、昨日の試合見たか?」
「お前、あれ真似できんの?」
中村拓海は椅子から立ち上がり、笑いながら仲間とじゃれ合っている。机の間を軽くステップで避け、走り回る姿は、まるで犬っころのように無邪気だ。
その瞬間――。
ひゅ、と風を切って紙を丸めたボールが飛んできた。誰かがふざけて投げたものだ。
「おっと!」
拓海の腕が反射的に伸びる。
――パシィッ!
彼は一拍の余裕もなく、宙を舞うボールを片手で掴み取っていた。
「おおっ!」
「さっすが拓海!」
「運動神経バケモンだな!」
周囲の男子たちが歓声を上げ、拍手混じりの笑いが広がる。
拓海は得意げにボールを軽く放り上げ、「余裕余裕!」と豪快に笑って見せた。
……だが、美咲の眉はわずかに動いた。
(“運動神経がいい”……それだけで説明できる?)
その動きは速すぎた。
まるで、長年の訓練で叩き込まれた兵士の反射のように――迷いも無駄もなく、ただ正確に。
胸の奥に冷たい予感が広がる。
(やっぱり……拓海も、ただのクラスメイトじゃない)
美咲はノートにさらさらとシャープペンを走らせていた。
だが、そこに記されるのは授業の復習でも宿題でもない。
(やはり……伊藤も、中村も。“ただのクラスメイト”じゃない)
心の中で小さく呟きながら、視線は変わらず手元に落としたまま。あくまで「普通の生徒」を演じる。
伊藤沙耶の古風な口調。
中村拓海の常識外れな反射神経。
――それらは偶然の癖や才能として片づけることもできる。
だが、陽向の異常な知識と並べて考えれば……偶然にしては揃いすぎている。
美咲はプリントに走らせるペンの先に、自分の思考を重ねた。
(表には出せないけど、確実に“何か”を持ってる。私と同じ……あるいは、それ以上の)
机の上に差し込む午後の光の中で、彼女の表情はあくまで平静。
だが、胸の奥では冷たい警戒心がゆっくりと膨らんでいた。
美咲はプリントに視線を落としながら、心の中で情報を整理していた。
しかし、ふと背筋をくすぐるような気配を感じ、わずかに顔を上げる。
窓際。
そこに陽向が寄りかかり、何気ない素振りでクラス全体を見渡していた。
……だが、その視線の先を追って、美咲は息を呑む。
彼の目は、沙耶や拓海に向けられていたのだ。
(……やっぱり。彼も同じ相手を見ている)
偶然ではない。
陽向もまた、この教室の中に“異質”を探している。
それを悟った瞬間、美咲の指先から力が抜けそうになる。
だが彼女は必死に平然を装い、視線を再びプリントへ落とした。
内心の冷や汗を悟らせまいと、筆記具を持つ手を動かし続ける。
――同じものを見ている。
その事実が、彼女の緊張をさらに強めていった。
美咲はペン先を紙の上で動かしながらも、思考の深みに沈んでいった。
(……私だけじゃない。あの人も、同じものを見ている)
陽向の視線は確かに、沙耶や拓海を追っていた。
その鋭さは、偶然の好奇心なんかじゃない――意図を持った観察者の眼差し。
胸の奥がざわつく。
自分一人が“転生者”を探っているのだと思っていたのに、実際には隣に競争者がいた。
(どちらが先に掴むか……)
そう思うと同時に、喉がひりつく。
同盟者になり得る可能性を、どうしても否定できなかった。
(でも――協力しなければ危険かもしれない)
理性はそう告げるのに、直感は叫んでいた。
――彼に背中を預けるのは、あまりにも危うい、と。
筆記具を握る手にわずかに力がこもる。
柔らかな午後の光の下、机の上で記録を装いながら、美咲の心には一層張りつめた緊張が広がっていった。
放課後の教室。
夕陽が差し込み、机や椅子の影を長く伸ばしている。ざわついていたクラスも次第に静まり、残っている生徒はそれぞれ帰り支度に追われていた。
ノートを閉じ、鞄へと教科書をしまう美咲。その背後から、ふと気配が近づく。
「……伊藤や中村」
陽向の声は、他の誰にも届かないほど低く、わざと抑えられていた。
「どっちが先に尻尾を出すか、楽しみだな」
耳元に滑り込んだその囁きに、美咲の手が一瞬止まる。
だがすぐに、落ち着いたふりで鞄の口を閉じ、視線を彼に向ける。
「……見極めるのは、私よ」
淡々とした声。けれど瞳の奥に宿った光は、陽向の余裕を真正面から弾き返す強さを持っていた。
二人の間に交わされた視線は、まるで刃を打ち合わせる火花のように鋭く交錯する。
夕陽の赤がその緊張をさらに際立たせた。
(駆け引きの時間は、もう始まっている――)
美咲の心の声が、夕暮れの静けさに溶けていった。