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第5話「接触の兆し」

放課後。

クラスメイトたちの笑い声や足音が遠ざかり、教室は一気に静けさを取り戻していた。

美咲は自分の机に広げたプリントにペンを走らせながら、宿題を片付けていた。カリカリと鉛筆が紙を削る音が、やけに大きく響く。

(……静かすぎる)

ふと顔を上げると、誰もいないはずの教室に人影があった。

後方の窓際に、佐藤陽向が立っている。

彼もまたノートを広げているように見えたが、どこか自然すぎるほど自然にそこにいる姿に、美咲の胸はざわついた。

ざわめきの残響が完全に消えた空間に、二人きり。

その瞬間、言葉にならない緊張がじわじわと広がっていった。

(どうして……彼と二人きり?)

教室の空気が、日常からほんの少しだけズレていく。

胸の鼓動だけが、異様に速く響いていた。

――次の瞬間、何が起こってもおかしくない。そんな予感すら漂う沈黙だった。

「……残ってるのは、お前だけか」

ふいに後方から声が降ってきた。

佐藤陽向。

その言葉は、ただの何気ない一言のはずなのに――妙に落ち着き払った口調に、美咲の指先がぴたりと止まる。

(普段の彼と、違う……?)

視線を上げれば、陽向は机に肘をつき、こちらをじっと見ていた。

笑っているわけでも、冗談めかしているわけでもない。

探るような眼差し。

「そ、そうみたいだね。みんな部活とか、帰っちゃったし」

美咲は努めて自然体を装い、プリントに目を戻す。だが、心臓は早鐘を打ち、鉛筆を握る手が汗ばんでいた。

(この雰囲気……やっぱり、普通じゃない)

言葉は軽い。けれど、その奥に別の意味が潜んでいるようで、美咲は呼吸が浅くなるのを感じた。

――放課後の教室。

カーテン越しの夕日が斜めに差し込み、机の上に長い影を落としていた。

美咲は静かな教室で一人、残された課題に向かってペンを走らせていた。紙の上を掠れる音が唯一の生活音。

その時だった。

「……授業中の反応、俺には分かるぞ」

背後から不意に投げかけられた声に、ペン先がピタリと止まる。

振り返らずとも分かる。その声は――佐藤陽向。

唐突すぎる一言。課題の内容とはまるで関係のない、妙に含みを帯びた言葉。

美咲の胸の奥で心臓が跳ね、鼓動が耳を打つ。

(な、何を言って……どういう意味?)

けれど表情は崩さない。視線をノートに固定したまま、呼吸を整える。

顔に出してはいけない――そう強く自分に言い聞かせ、必死に平静を装った。

教室の空気は、わずかに張りつめていく。

美咲はわずかに呼吸を整え、止まったペンをもう一度動かした。

視線はノートの上――決して陽向の方は見ない。

「……何のこと?」

ほんの少し間を置いて、できるだけ淡々とした声で返す。

その響きは、ただの勉強に集中していた生徒が、不意にかけられた戯れ言を受け流すような自然さを装っていた。

だが――胸の内では冷たい焦燥が渦巻く。

(まさか……気づかれた? いや、そんなはず……)

紙の上に落とした視線は、震えそうになる瞳を隠すため。

絶対に悟られてはいけない。ここで「転生者」としての自分を露呈するわけには――。

美咲はあえて無関心を演じるように、ペン先で文字をなぞり続けた。

陽向はゆったりとした仕草で机に肘をつき、顎を軽く支えた。

その態度は授業中の快活なクラスメイトのそれではなく、何かを知っている者の余裕に満ちていた。

「お前も――“向こう側”の人間なんだろう?」

柔らかい声色。しかし放たれた言葉は、刃のように鋭く美咲の心を抉る。

“向こう側”。

それは決して、この世界のただの高校生が使うはずのない表現。転生者だけが知る、禁断の符丁。

美咲の手の中でペン先がかすかに震え、インクのしみを紙に作る。

(……言った。はっきりと、あの言葉を……!)

挑発にも似た言い回しは、明らかに彼女の反応を引き出そうとする意図的なもの。

教室の静寂に、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。

(やっぱり……陽向も。確実に、ただの人間じゃない)

胸の奥で冷たいものが広がり、背筋にじわりと冷や汗が伝う。

けれど、ここで視線を逸らすわけにはいかなかった。

――認めれば危険。

――完全に否定すれば、それこそ怪しまれる。

陽向の挑発めいた眼差しが、じりじりと彼女を追い詰める。

「どう受け答えするか」で、この先の関係が決まってしまう。

その緊張感が、空気を張りつめた糸のように教室を支配する。

美咲は唇を結び、目の前の笑みを浮かべる少年を正面から見据えた。

(――逃げ場はない。この一瞬で、全てが変わる)

美咲はわずかに唇を吊り上げ、曖昧な笑みを浮かべた。

「……意味が分からない」

軽く肩をすくめる仕草で流そうとしたが、声の抑揚や瞬間的な視線の泳ぎ――それらは彼女自身が思う以上に雄弁に、完全な無関係ではないことを物語っていた。

陽向はそれを逃さず、目を細めて彼女を射抜くように見つめる。

しばしの沈黙の後、鼻で小さく笑った。

「……ふん。まあ、いい」

言葉では興味を失ったふりをしながら、その瞳の奥には確信めいた光が宿っていた。

まるで「証拠はなくても、もう分かっている」と告げるかのように。

美咲の胸に冷たい緊張が残り、空気は静かに、しかし確実に変わっていった。

胸の奥に、氷を流し込まれたような冷たさが一気に広がった。

だが同時に――「やっぱり」という確信が、美咲の心を強く締めつける。

陽向は間違いない。彼もまた“こちら側”の存在。

だが、それを口にするわけにはいかなかった。

(……まだ正体は明かせない。ここで不用意に踏み込めば、相手に呑まれる)

自分の立場が危うくなる――そんな直感が、美咲の背筋を鋭く走る。

彼女は内心の動揺を必死に押し殺し、表情を整える。

冷静を装いながら、机上のプリントに視線を戻す。

だがペンを握る指先は、わずかに震えていた。

陽向はゆっくりと机に手を置き、木の板がわずかに軋む音が静寂に溶けた。

そのまま、美咲の方へと歩み寄る。距離が狭まるにつれて、空気が妙に重くなっていく。

「俺は隠す気なんてないさ」

低く落ち着いた声。挑発ではなく、むしろ確信に満ちた響き。

「いずれ、このクラスの連中も気づくだろう」

胸がひやりとする。――まるで宣戦布告。

美咲は息を呑んだが、視線を逸らさない。

指先が震えそうになるのを必死に堪え、凛とした声で返す。

「……だったら、あなたこそ気をつけた方がいい。

 誰に見られているか、分からないんだから」

その瞬間、教室に張り詰めた沈黙が落ちた。

夕暮れの光が差し込む窓から、埃が舞うのさえ、異様に鮮明に見える。

二人の視線が交錯する。

ただの同級生の会話ではない、鋭い刃を交えるような駆け引きだった。

陽向の口元がわずかに持ち上がり、静かな笑みがこぼれた。

その視線は美咲ではなく、窓の外――茜色に染まる空へと向けられる。

「……面白くなってきたな」

独り言のように低く洩れたその声は、夕暮れの静けさに吸い込まれていった。

けれど確かに、美咲の耳に焼きつく。挑発でも、余裕でもない。むしろ「遊戯の始まり」を告げる鐘の音のように。

美咲は机の下で拳を強く握りしめた。

冷たい緊張が全身を駆け巡るが、それ以上に胸の奥に熱が宿る。

(私は……絶対に負けない――)

決意を固めたその瞬間、窓から差し込む夕日が二人を照らす。

伸びた影が床に重なり合い、まるで互いの存在が否応なく絡み合っていく運命を示すかのように、長く長く伸びていった。

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