第3話「怪しい視線」
放課後の教室は、夕暮れのオレンジ色に包まれていた。
窓から差し込む光が机の上に長い影を落とし、その中で桜井美咲は自分のノートを開いていた。
ノートの一番後ろのページには、細かい字でびっしりと書かれた観察メモ。
そして、その末尾にまとめられた「転生者リスト」。
「……やっぱり、気になるのは――佐藤陽向」
小さく呟いた声は、静まり返った教室に溶けて消えた。
社会の授業で披露したあの妙に詳しい歴史知識。
何気ない会話の中でふと漏れる、古風すぎる言葉遣い。
普通の高校生なら到底持ち得ない、時代を超えた視点。
ページの上に記された「疑い:高」の三文字を見つめると、美咲の心臓が一段と高鳴る。
(彼は――間違いない。少なくとも、このクラスで最も怪しい存在)
ペンを握る手に力がこもる。指先にじんわり汗が滲むのを感じながら、美咲は深く息を吸った。
「まずは……彼から、確かめてみよう」
その決意は、夕焼けに照らされた文字のように鮮明で、重く、美咲の胸に刻まれた。
翌日の4限目、社会科の授業。
グループディスカッションのテーマは「戦国時代における戦術の変化」だった。
「――実は、あの合戦では鉄砲隊の配置だけじゃなく、裏で兵糧攻めの計画も同時進行していたんだ。城下町の水源を封鎖して、民衆の生活を根こそぎ奪う……そういう戦法が取られてた」
佐藤陽向の声が、教室にすっと響く。
淡々とした口調。それでいて、どこか確信を持った言い回し。
「えっ、そんなの教科書に書いてあった?」
「てか陽向、詳しすぎじゃね? マニアかよ」
クラスメイトの笑い声とひやかしが飛ぶが、彼は眉ひとつ動かさず、どこか誇らしげに微笑んでいる。
(……やっぱり)
美咲の胸がざわつく。
教科書どころか、専門書でもなければ出てこないような情報。普通の高校生が軽々と語れるわけがない。
しかも――発言を終えた直後、陽向の視線が一瞬だけ走った。
周囲を探るように、誰かが反応しないか確かめるかのように。
その瞬間、背筋に冷たいものが走る。
彼は自信ありげに微笑んでいる。けれど、その奥には「何かを隠している」影が確かに見えた。
(間違いない……佐藤陽向。あなたも、転生者――?)
ノートの隅に、素早く「再確認:高」と書き込みながら、美咲は目を逸らさずに彼を見据えた。
昼休み。
チャイムが鳴ると同時に、教室はお弁当を広げる音や笑い声で賑やかになる。
美咲は自分の席に腰を下ろしたまま、カバンから教科書を出すふりをしながら視線を走らせた。
ターゲットはただ一人――佐藤陽向。
(近づきすぎない……あくまで“観察者”として)
彼は数人の友人に囲まれて、何気ない雑談を交わしている。
だが、その言葉の端々が、美咲の耳を鋭く刺激した。
「まったく、あの教師め……言葉を尽くさねば理解できぬとは、無礼者だ」
「……え、なに? 無礼者? お前マンガの読みすぎだろ」
「いや、これは……殿、じゃなくて……な、なんでもない」
一瞬だけ、友人たちが笑い声をあげる。
陽向は慌てて誤魔化したが、美咲の目はごまかせない。
(やっぱり……言葉の選び方が不自然すぎる)
さらに決定的だったのは、彼が机の上に広げたノート。
授業の内容を写しているように見えたが、あるページの隅に、奇妙な記号が並んでいた。
アルファベットでも漢字でもない、独自の文字――暗号のように連なっている。
美咲は、息を呑みながら視線を逸らす。
心臓が早鐘を打つように脈打ち、ペンを握る指先が汗ばむ。
(これは……偶然じゃない。彼は普通じゃない……間違いない、“こちら側”の人間)
教室の喧騒の中で、ただ一人、彼女の世界だけが静かに軋んでいた。
室のざわめきの中、美咲は視線だけで佐藤陽向を追っていた。
ノートの端にペンを走らせるふりをしながら、耳を澄ませ、目の端で彼の挙動を盗み見る。
――その瞬間。
佐藤の視線が、不意にこちらへと向いた。
まるで矢のように鋭く、美咲の心臓を射抜く。
(――っ!)
息が詰まり、胸の鼓動が跳ね上がった。
思わずペン先が止まり、紙を掠める「カリッ」という音が、やけに大きく響く。
周囲の笑い声や雑談が遠ざかり、世界が一瞬、彼と自分だけに閉じられたかのようだった。
(見られた……? 私が“観察している”って、気づかれた……?)
背筋に冷たいものが走る。
ペンを握る手に力を込めながら、必死に平静を装う。
(いや……まだ。まだだ。落ち着け、桜井美咲。ここで取り乱したら本当に怪しまれる)
それでも額にじわりと汗がにじみ、背中を一筋の冷汗が伝っていく。
彼女は俯いたまま、机上のノートに目を落とし、何事もなかったかのように文字を連ねた。
だが――視線の残滓は、まだ肌の奥に焼きついて離れなかった。
放課後――。
ざわめいていた教室も徐々に静まり、帰り支度を整える生徒たちの声が遠のいていく。
美咲は鞄の中にノートをしまいながら、ふと、背筋をなぞるような視線を感じ取った。
ゆっくりと顔を上げる。
教室の後方――そこに立っていた佐藤陽向が、じっとこちらを見つめていた。
目が合った瞬間、美咲の鼓動が跳ねる。
そして彼は、何も言わずに口元に薄い笑みを浮かべた。
それは同級生がふざけ半分に見せるような笑顔ではない。
無邪気さを欠き、むしろ「お前の秘密に気づいている」とでも告げるような、意味深で、挑発めいた微笑みだった。
(――っ!)
胸の奥に冷たい緊張が走る。
だが同時に、美咲の中で確信が形を持った。
(このクラスには、私だけじゃない。確実に……“転生者”がいる)
握りしめた手の中で、リストの文字がくしゃりと歪む。
夕焼けが差し込む教室は赤く染まり、長い影が床に伸びていく。
美咲は小さく息を吸い、静かに震えながらその影を見つめ続けた。