女の子はベリーニがお好き
10杯め
バーテンダーは店のドアを解錠しようとあわててバッグの中をまさぐった。反対の手には仕入れたフルーツや野菜の入った袋を抱えている。開店の時間までもう40分を切っていた。
「あのぉ、落としましたよ」
声をかけられ、彼は反射的にそちらへ顔をむけた。
そこには親子と思しき女と園の年長さんくらいの女の子が手をつないで立っていた。大人のほうの逆の手には銀色のものがぶらさがり、差しだすようにバーテンダーに見せた。
彼は、あっ、と口を開いたが、それを受け取りながら、「すみません。落としたことにも気づかず・・・」いって、店の鍵ですとドアを指差した。
「八百屋さんのお会計のときに落とされたみたいで・・・。声をおかけしたんですが、ずいぶんお急ぎのようだったので・・・」間に合わなかったということだ。
彼の心情的にはお礼に何か彼女たちに店で振舞いたかったが、営業時間が差し迫っていること、女の子を酒場へ誘導すること、親らしき女への口上などどうすべきか瞬時に脳裏でうずまいたが、それはすぐに収束し結論はすぐに出た。
バーテンダーは深く腰を折ると、「わざわざ、ありがとうございます。ほんとうに本当に助かりました。ぼくは、この店を任されている者です」そういって女の子に笑顔を向けてから彼女に視線をもどした。名刺はあったがあえて渡さなかった。
女はかるく会釈すると、行こう、と、穏やかな表情で女の子の手を引いた。ちいさな彼女は10歩ほどすすんでバーテンダーを振り返りにこりとした。
それから2週間ほどが経った午後4時。
バーテンダーが店の前の掃き掃除をしていると、いつか見たふたりが服装だけを変えて先日と同じように歩いてくるのが見えた。
「こんにちは」彼は声をかけた。
女はビクリとしたようだったが、バーテンダーの顔を見ると得心して挨拶をかえした。アンパンマンのイラストシャツを着た女の子も、「こんにちはー」と、コクリと頭を下げたのにはバーテンダーも驚かされた。
「先日はほんとうにありがとうございました。前の日にシリーズものの映画を観てたら、もう止まらなくなってしまって・・・寝坊して仕入れに走り回った挙句があのざまです」
彼は女の子の耳を意識して特にやわらかい口調でいった。
女は少し緊張感が解けたような表情に変わった。「そうだったんですね」
「少々お待ちを」バーテンダーはほうきを店の扉脇に立てかけると、小走りに店内に消え、少しして戻ってきた。片手にフルーツを持っている。
じゃーん、といって女の子の前にかがんで、そのフルーツを目の前に出した。
「このフルーツ知ってる?」
女の子はそれを両手でつかんだ。「うん。ピーチ」
「せーかぁーい。このピーチすっごく美味しいよ。食べてもいいけど、お兄ちゃんが今日だけとっておきの飲み物にしてあげる。飲みたい?」
女が話の途中で何かいいかけたが、結局子どもの反応を待った。
女の子は白桃を持ったまま、バーテンダーを上目に見てちいさく頷くと、そのあと反応を伺うように女を見上げた。
「先日のお礼です。ぜひ」立ち上がりバーテンダーはそういって、手のひらを店内に向けた。
「この前の事は気にしなくていいんですけど・・・」と、 女は少し思案顔を見せたが、「じゃあ、せっかくなので」といった。
よかった、とバーテンダーは笑顔を見せ、どうぞ、とふたりを店内に促した。入口のドアは開けたままにした。
開店前の準備時間は調光は最大に明るくしてあるので、バー店内は営業中とは違った顔を見せている。女の子も女もバックバーに並ぶ、形状や色彩豊かなボトルの数々にしばし見とれていた。バーテンダーはカウンター席に座ってほしかったが、スツールの背が高く、女の子には危ないと考え、壁側はベンチシートとなっているテーブル席を勧めた。
手を洗い、白桃の皮をペティナイフで剥いて、容器に大ぶりにカットして落としていく。ハンドブレンダーでクラッシュすると、あっというまにジュースになった。フルートグラスにフリーザーから出した枝豆ほどのカットピーチをいくつか入れ、白桃ジュースをグラス1/3ほどで満たしてソーダアップ。かるくステアして最後にグレナデンシロップを少し落とした。
バーテンダーはトレイにのせたカクテルを、ふたりが待つテーブルへ運ぶと、女の子と女のコースターへ置いた。「お待たせしました。ノンアルコールの”ベリーニ”というカクテルです」
女は真紅とピンクでグラデーション鮮やかなそのカクテルを見たあと彼を見上げた。「ノンアルコール・・・」
女の子は瞳を輝かせて、これまで見たことがないであろう、気泡をたてフルーティーな桃が香る背の高いグラスをしばらく見つめていた。
ベリーニは1948年、イタリアはベネチアのハリーズバーのオーナーが考案。かのヘミングウェイも足繫く通った店としても有名だ。作中ではソーダアップとしているが、本来はイタリーのスパークリングワインであるプロセッコをピューレした白桃に合わせたカクテルで、グレナデンシロップやアイスピーチの有無は店によってさまざまだ。
女の子はちいさな両手でごくごくと、あっというまにグラスを空にした。その表情からすると気に入ったようだった。
「もう、そんなに一気に飲んだらダメだよ」
「だって美味しかったんだもん」
「じゃあ、お母さんのも飲んでいいよ」女はそういうと、もう一口だけ味わってから娘の空のグラスと自身のそれを置きかえた。
その様子をカウンターの中からバーテンダーは眺め、微笑ましく思った。ただ、これ以上は出しゃばらないほうがいいとも感じた。2杯のカクテル伝票は、彼のポケットマネーで切ってある。雇われマスターである以上、これをしないと過日禍根を残すことになる。
やがて二人は席を立ち、女がバーテンダーへ歩み寄った。
「あのぉ、ごちそうさまでした。すごく美味しいカクテルでした。ベリーニ?・・・でした?覚えておきます。お会計してください」
バーテンダーは笑みを浮かべ、胸の前で手を左右に振った。
「それはいいんです。これは返礼ですから、暑さしのぎと気分転換にもしも貢献させてもらえたなら、ぼくはそれで十分です」そういって女の子の目の高さに彼はひざを曲げた。「ピーチの飲み物、美味しかった?」
「うん、はじめて飲んだ。すごく美味しかった」
「よかったー、気に入ってくれて。ありがとう」
彼は手のひらを少女に向けた。そこに遠慮がちなハイタッチが返ってきた。
「ルリ、おっきくなったらまた飲みにくる。いーい?」
女とバーテンダーは顔を見合わせた。そしてうなずく彼としっかり者の娘を母親は微笑んで見つめた。