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八木橋が言ったマンションの一階にいた。高級マンションらしく、みなそこ区の一等地にあった。入り口から物々しい雰囲気で、重厚な装飾が出入り口を飾っている。


入り口のカードキーの機会にいくと、昨日のシャツを着た八木橋が待っていた。


「やあ。来てくれるとは思わなかったよ」


先ほどの苦しげな声とは思えないハツラツとした笑顔で出迎えてくれた。


(なんだ…。弱ってると思っていたのに)


アスミは八木橋が精神的ダメージを受けていて、危険な状態にあることを声で察した。縋るものが欲しいような、心細い声だった。以前にも聞いたことがある。あの感覚。人間は弱くなると誰かを利用して苦痛を軽くしようとする。


「変なことしないでくださいよ」


のこのことこんな男について行く私は馬鹿だと思ったが、それ以上にこの男がどこまで不安定な精神状態なのか興味があった。殺し屋をなりわいにしている男のもろさに興味があったと言っていい。やはり人間、人間を殺す仕事をしてれば精神がおかしくなるという証拠がこの男を観察すれば得れる気がした。


「しないよ、行こう」


306号室にエレベーターで向かう。2人きりになったが、2人は無言のまま部屋に向かった。


室内はモデルルーム並みの広さと家具が揃っていた。中央に位置するダブルソファとテーブル。黒の基調で合わせられたキッチンテーブルとイスも傍らにあり、別々に分けられたシステムキッチンが奥にある。

テレビカウンターの上の52型のテレビと簡素なゴミ箱があった。


部屋数は3部屋だと分かった。リビングの左側に位置するドアノブが見えた。


「何かのむかい?」


ソファに勧められるまま座っていると、八木橋が気を使って、飲み物を飲むか聞いてきた。

来てやったからこれくらいいいだろうと思って、お茶が欲しいと伝える。


「はい、どうぞ」


目の前に氷の入ったアールグレイティが置かれた。

八木橋が隣に無理くり座って手を握ったままくっついてきた。


「ちょっと!やめてください」


「ごめん。この態勢でいていいかな」

アスミの握った手を自身の顔に触れるように固定してじっとしている。

この男は何がしたいのだ?


「何してるんですか」


「こうすると落ち着くんだ」


「人肌が落ち着く?」


「そうだね。だからセックスが好きなんだけど、君はしたくないって言うからしないよ。ただこうやって人肌というか、ぬくもりを感じていたいんだ」


「ほんとに病気みたい」


「ああ、病気だよ。何回も言ってるだろう」


八木橋は真剣な顔をして、じっとその体勢を続けている。しびれが出てきて、アスミは手をぱっぱっと振り払った。


「痺れが来たんです。ちょっと解放してください」


「君はあの仕事が好きかい?」


八木橋が突然尋ねてきた。


「好きなわけない」


好きなような顔をしていただろうか。ただただ金欲しさにしているだけだ。それは八木橋も同じだろう。


「俺昔さ、両親が離婚して、母方のほうについてったんだけど、親が仕事しなくてね。男とばっかり遊んでた母親なんだ。父親の方もアル中のDV野郎でもう一家破滅型みたいな家族だったんだ。そんな俺ができる仕事なんてなくてさ。気づいてたら、ただ頼まれて人殺してた。案外、人殺しても見つからないもんでさ。それも他人ならなおさらで。いつの間にかこうして生き延びてた」


八木橋はアスミに両親のことを話してきた。自分に親近感を抱いているのだろうか。心が弱くなってしまって、話さずにはいられないのだろうか。


「中途半端に整った顔してるから昔はもっと嫌なことしてた。

男娼っていうの?オヤジたちの相手すんの。昨日の君みたいに」


はっとした。この男は体を売っていた男なのか。


「男と寝てた時だった。そんな生活もう嫌だと思って、脅したんだ、相手を。そうしたら、そいつが自分から殺されに来たんだ。不思議な感覚だった。初めて人を殺したのはその時だった。そのとき、知り合っていた目黒さんに助けてもらって、売りはやめた。でも今度俺のできる仕事はなかった。だから殺し屋を始めたんだ」


「それしか仕事ができないの?」


「できないと思ってる。だって普通の人間と住んでる世界が違いすぎる」


「それでもやっていくしかない」


「君もわかってるだろう。外れたやつは外れたところでしか生きれないんだ」


痛々しいほどの事実だった。殺し屋なんてしてきた人間が次の日からスーパーの店員としてなじめるわけがない。一般から外れた挙動や顔つきは目につきやすい。一般の生活を過ごすことがどれくらい難しいことなのか分かってるつもりだったが、自分の問いが考えなしに発せられたものだと再確認した。


「それじゃあ一生殺し屋でやっていくの?」


「ああ、そうだよ、それしかないんだから」


小さくぽつりという八木橋は痛々しかった。狭まれた場所でしか生きるしかない人間は、個人の責任なのか。理不尽な世の中を理不尽な思いで暮らす人間の八木橋は、その怒りをぶつけるように人殺しをし、それでもらった金で生きていく。見つかるかもしれない恐怖と普通に暮らせない彼の精神的負荷は強力だろう。この男がセックス依存になるのもそんな弱い立場を必死で繕っているからなのかもしれない。

アスミは彼の右手に触れる。冷たく、長い指だった。

八木橋は少し動揺して、彼女を見つめる。青い目がなにかに魅入られたように色香を見せている。その長い睫毛が瞬きするたびに揺れる。2人は見つめ合っていたが、それは長い沈黙の中の一瞬だった。この時が永遠のように感じられる。2人の中で何かが繋がったようだった。


「君はわかってくれると思ったよ。優しいから。

それにこっちの人間だしね、手を汚す側のほう」


沈黙の中で八木橋はさっぱりした調子で言った。アスミと八木橋は同じ職のようなものだった。アスミは殺人を犯していないだけで、それに近い嫌がらせなどは個人的に頼まれればするくらいで監視や尾行はしょっちゅうだ。


「私は人を殺してません、まだ」


「君はこっちにこないほうがいい」


八木橋はぽつりと言う。収入が多くなるが、人間としてやってはいけない境界を越えることになる。人にやったことは必ず返ってくる、そんな言葉がアスミに直撃する。


「君は優しい子だから、そんなことしたら絶対に心が持たないよ。俺でもこんな状態なんだから、君の精神じゃすぐ駄目になる。俺が目黒さんに言ってくよ、君には殺しなんかさせるなって」


「今はお金に困ってないのでやりませんよ」


八木橋の手に力が入る。


「絶対だよ。君がどんどん弱っていく姿なんて見たくないんだ」


「どうしてそこまで言ってくれるんですか」


アスミが躊躇しながら尋ねると、八木橋はうーんと唸りながら言った。


「君は特別だから。俺とセックスしたんだから、もう君は俺の彼女みたいなものなんだ。だから病んでほしくないし、俺みたいになってほしくないんだ」


「他の女性にも言うんですか」


「言ってると思うならそう思いなよ。でも、君はこんな仕事をやってる珍しい女の子なんだ」


「私はそんなに綺麗じゃないです」


アスミは小声で言った。過去のことが一気に記憶として噴出してきた。嫌な記憶が頭の中に充満する。


「俺とセックスしたから?そんなこと気にすることない。全部俺のせいにすればいい。俺が襲ったから君はそれに対抗できなくて、されるがままになったんだ」


「そんなことない」

アスミの声に力が入った。まぶたがピクピク震える。


「そういうのを嘘っていうんです。本当に嫌だったら、あなたを殺そうとしたはず。でもしたんだから、私は受け入れたってこと」


八木橋は彼女の肩を抱き寄せぎゅうっと抱きしめる。

肩に顎を乗せ、温かな温度が体を通して伝わってくる。


「そんなこと考えなくていいんだよ。人間、不幸になるようなことを考えなくていいんだ。自分の楽しいことだけ見てればいい。それだけで幸せになれるんだから」


「あなただってそういいながらできてない」


思わず感情が高ぶり、アスミは泣いていた。嫌な記憶がどんどん彼女を襲ってくる。堰を切ったように感情の嵐が彼女に降りかかる。


「俺はもう戻れるレベルじゃないから、開き直るしかないんだよ。君はまだまだやり直せる。女の子は笑ってたほうがかわいいんだから。今でもかわいいけど」


「かわいくなんかない。ただそこだけ恵まれてただけ」


「女の子は容姿がいいだけで得するからね。男が作った価値観が優先されるんだ。君はその価値観の中で静かに暮らすのがいいよ、君が静かにしてても誰も文句なんか言わない。君は綺麗なんだからそれだけで価値がある」


アスミは複雑な気持ちでその話を聞いていた。この男が、私を相手するのは綺麗だからだろうか。ただそれだけのためにこんな言葉をかけてくれるとしたら、この男はそうじゃない人間にはそんな言葉もかけないのだろう。昼間会った勅使河原が頭に浮かんだ。彼は雑なところがあるが誰に対しても、同じ様な態度で接していた。彼には美という基準に左右されない、何か特別な考えのもと人と接しているのだろう。少女を助けるのも自分が無職な身分で時間があるからかもしれないが、普通ならそこまで首を突っ込もうとは思わないはずだ。こんなにも人間には違いがあるのか。


アスミは八木橋のもとから離れた。2人に気まずい雰囲気が漂う。おちゃらけた明るい声で、八木橋が冗談を言う。


「アスミちゃん、よかったら俺とまたセックスしてよ!ほんとムラムラして大変なんだって」


明らかに場を盛り上げようとした行為だった。それも拒否されるのを承知で話したことだ。アスミは笑って、拒否する。


「嫌です、昨日襲われたので」


「ちぇっ、やっぱりだめかぁ。残念だなあ。せっかくいい雰囲気だったのに」



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