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八木橋は、みなそこ区の南側にある自宅に向かっていた。最近は体を鍛えることをしていないせいか、体が重い感覚がある。昨日飲んだ酒の酔いがまだ残っていた。しっかりしない足どりで、自宅マンションのカードキーを受付の機械に差し込む。電子音がして、自動ドアに向かう。
306号室。エレベータに乗る途中で子ども連れの人妻とすれ違う。服の上から透けて見える柔らかな肉付きのいい臀部を見て体が熱くなる。
部屋に着いた瞬間、尻ポケットの財布を入り口の棚に置いて、ドタドタと足音を立てながら廊下を歩く。リビングの真ん中に位置するソファに大の字になってダイブして、深呼吸をする。我ながら子供っぽいことをしていると思いながら、苦笑する。
八木橋は天井を向いて一息つく。シーンと静まり返った午前中の部屋は静かだ。寝ようと思い、外国から取り寄せている睡眠剤を2錠テーブルの上にあったペットボトルの水で押し流す。
車に何十人もの死体が積み重ねられている。
それらは茶色の布のようなバスタオルで身体を包まれていて、縄でぐるぐると縛られている。
運転手の中年くらいの男が八木橋に話しかけてくる。肩幅が広く、筋肉質の男だ。業者の男のように見える。
「死体を乗せたから、乗ってくれ」
男はそう言うと、3トントラックの運転席へ乗車して、八木橋にも乗るように言ってきた。
八木橋も流れに続くように助手席に乗る。
車内は静かだった。2人で無言になる。
何か話そうと思ったが、言葉が浮かばない。
運転席の男が、車を止めてドアを開けて外に出る。フロントガラスを眺めると、死体の山に手を付けていた。
「ここに埋めるぞ」
男は八木橋の助手席の近くに向かい、とんとんとガラスを叩いてから、ガラス越しに言った。
外に出ると、周りは雑木林の山深い森林地帯だった。湿ったにおいがする。車の前の地面には3メートル四方の穴が空いており、そこにこの死体を落とせということらしかった。
死体を2人で運んで、穴の中に放り投げる。
途中、べったりと血糊が手についたり、服についたりした。それを手でこするが、汚れが広がるだけだった。血と生臭い匂いが鼻に充満する。いつもの匂いだ。この匂いとともに何年生きてきただろう。身近な死の匂いが八木橋を包んでいる。
十数体の死体を穴に入れたとき、男は最後は一人で運んでほしいと八木橋に言ってきた。了解の返事をして、その死体を持っていくと、途中で身体に纏っていたタオルがはだけた。血で汚れた白いワンピース姿の女だった。タオルを再びたぐり寄せて、一緒に持っていくと、首元で声がした。
「どうして殺すの」
絞り出すような震えた高い声だった。驚いて、死体の顔を見ると、殴られて歪んだ鼻筋と片目だけ真っ赤に充血した瞳と目が合った。
「娘は助けてくれると言ったじゃない」
あの女だ、と思った瞬間、目を開けていた。荒い呼吸になっている。汗が体中に纏わりつくように流れていて、顔も濡れていた。
汗をぬぐって、再び深呼吸をする。あの夢は初めて見た夢だった。血なまぐさい匂いが鼻に残る。
気をそらせるために淫らな事を考える。そう、昨日の性行為のことだ。滑らかな曲線を描く乳房、先端に出っ張った桃色の乳首、シーツを濡らす女の膣。
女の色っぽい低い唸り声、高らかな嬌声。落ち着いてきた。チャックをおろし、ボタンを外して、男根をあらわにして、激しく上下に刺激する。
自分は病気なのかもしれないと思ったのはずっと前からだった。おかしな夢を見ると同時に、気を紛らわすために始めたことが癖になった。している時だけ、没頭できて、忘れることができる。ぼーっとしていると飲み込まれてしまう感覚があった。罪悪感だろうか。自分にはこの仕事しかない。生きる方法を選んでいる暇はなかった。利用されてると分かっているが、生きるしかない。
快楽が昂ってきて、思わず声が漏れる。手にあふれた精液がまんべんなく手のひらに纏わりついている。近くにあったテーブルの上にあるティッシュだ拭って、ゴミに捨てた。
ため息をついて、ソファに横になる。頭がぼーっとして、身体は弛緩していた。
人生を間違えてしまった感覚はあった。大切な自分の人生。ほかの人間の人生はそう思うが、自分の人生はそうは思えなかった。どうでもいい人生、生きるだけで特に何の希望もない人生。死はコインの裏表を答える感覚で訪れる。どうやったら普通に生きれるかを考えたことがあるが、自分にはもう遅いと思い、考えるのを辞めた。
何か強い刺激で、この感覚を消し去りたい。この繰り返しだった。
何人もの人とセックスをしては、焦燥感を消し、没頭するように何度も腰を振ってきた。そのときは死を感じないほどに快楽が生を味あわせてくれたが、それまでだった。終わってしまえば、それ以上の焦りを感じる。何度やっても変わらない。
最近は死を近く感じる。あの死体の匂いが目の前になくても感じるようになった。八木橋は思う。自分も帰還兵のようなトラウマの症状が出始めているということに。自分には祖国を守るという誇りもなければ、ただ生き残るためにこの殺し屋というフリーランスの仕事をしていて、プライドなど一つもないが、人を殺すという境界を越えてしまった人間は確実に何かが壊れていくことを身を以て体験してしまった。昨日の女、アスミはまだ境界に入っていない女だった。感覚で分かる。自分と同じような状態ではなかった。それがどれほどうらやまむべきことなのか、あの女はまだ知らないのだ。
昨日の夜、アスミのスマホの暗証番号をその視線の動きから予想して入力をとき、電話番号を自分のスマホに登録した。電話をかけていた。どこか沈んだ返事が返ってきた。
「もしもし」
「あー、アスミちゃん。俺俺、八木橋だけどさ」
電話をきられると思ったが、はいと返事がきて思わず嬉しくなる。
「君のスマホに俺の連絡先いれたから、呼びたいとき呼んでよね。っていっても、今は俺が君を呼びたいんだけどさ」
「今は行くつもりありません。ちょっとそういう気分じゃないし、あなたはわたしを脅してレイプした人だし」
「まあ、そうかもしれないね。俺は君が選んでそうしたって思ってるけど。」
「わたし今気分がわるいんです、切ってもいいですか」
「あぁ、ごめんごめん。謝るよ。少し声が聞きたかったんだ」
彼女は怒ってるだろうと思いながら、少しの希望を持つ。少しだけでも話せるならいいんだ。女性と話していたい。
「あの後帰ったんですか?」
不機嫌な様子でアスミが尋ねる。気になったのか、話を惰性で続ける気なのか、きっと後者だろう。
「あの後帰ったよ。君が帰っちゃったし、俺の目的は目黒さんからお金をもらうことだったしね」
「それできてたんですか」
「報酬金目当てってわけ。君の様子も気になってたけどね」
「昨日のことは忘れてください。私はもうあんなことしませんから」
決然とした声だった。八木橋とは関わりたくないというしっかりとした意思を感じる声だ。一気に希望が朽ち果てる。言葉を探すが、都合のいい言葉が浮かばなかった。
「そうか…」
声が弱々しくなっていく。自分でもこんな情けない声をだした気がしなかった。自分の声にびっくりする。何か声を出させねば、彼女の声が途切れてしまう。
「八木橋さん、なんだか変ですよ」
アスミの心配した声音が聞こえる。やっぱり動揺が伝わったのかと思ってしまう。頭を抱えて電話にすがる自分が滑稽に感じた。
「アスミちゃん、しばらくなにか話しててくれないか。君の声が聞きたいんだ、何でもいい、俺の愚痴でもいいから何分かずっと話しかけてくれない?」
「なんでですか?」
怪訝な声でアスミが尋ねる。変だよなと思いながらも、もたつく言葉を振り絞った。
「あって間もない君に言うのは変だと思うけど、やばいんだ。のまれそうで。なにかに。君と話さないとなにかしでかしてしまいそうで」
なんと無様な自分だろうか…。八木橋は冷や汗が流れる背中をゆっくりとなでて、身体を落ち着かせる。こんな事を言ったら、普通の人間は気味が悪くて逃げてってしまうだろう。
「大丈夫ですか」
アスミは心配していた。声音で分かる。生返事ではなく、ちゃんとした感情のこもった声だった。八木橋は彼女が優しいことを痛感した。
「アスミちゃん、お願いだ。
しばらく付き合ってくれない」
「いいですけど、何なんですか?昨日から。
ほんと病気みたいですね、病院行ったほうがいいですよ」
「そう思うかい?」
「うん」
「病院に行って治るものじゃないんだ。きっとこれはずっと続くものなんだ」
「きっと昨日みたいなことするからバチが当たったんですよ」
「そんなもんじゃないよ、あれは君も同意した上じゃないか。あれはまた違うよ」
「殺し屋の仕事が精神的にきつくなってるんじゃ」
思ってたことを付かれてしまった。きっと心では反対していても本心はきつくなっているんだ。
「そうだとしても俺に今更できる仕事なんてないんだ。それに今更人殺しを悔いたところで遅い」
きっと答えは死ぬしかない。これだ。
死ぬしかないなら、この先だってそう思って生きるしかないだろう。
お願いだ、少しの間だけでも、何かにすがりたい。
「わかっててやってるならしょうがないと思います」
「そうだよね、ねえアスミちゃん、暇ならうちに来てよ。みなそこ区の◯の◯番地にあるでかいマンションの306号室。俺が迎えに行くからさ」
「嫌です、昨日あんなことしたくせにまだ言うんですか」
「来てほしくて。昨日みたいなことはしないよ。
いてくれるだけでいいんだ」
自分にはこれしか言える言葉がなかった。後は相手に委ねるだけ。
「手を出さないならいいですよ」
幸運の女神が舞い降りた瞬間だった。