エピソード8:裏切りの砂、幻の煙草
「カラス」は、潮風の要塞で手に入れた情報と、妻が残したノートに記された「シェルターD」の座標を照らし合わせた。
そこは、かつて日本を代表する大都市の一つ、大阪の旧市街地にあるらしい。
東京から大阪。
その道のりは、これまで彼が経験したどの旅よりも長く、危険なものになるだろう。
だが、彼の心には迷いがなかった。家族が生きている。
それだけで、十分な理由だった。
旅は、想像を絶する困難の連続だった。
崩落した高速道路、水没した田畑、異形が跋扈する森。
彼は時に旧時代の地図を頼りに、時に動物の足跡を追って進んだ。
食料は尽きかけ、水は濁った川からろ過して得たものばかり。
身体は常に疲労困憊し、傷が絶えることはなかった。
ある日の夕暮れ、朽ちた橋のたもとで野営の準備をしていた時のことだった。
遠くから、助けを求めるようなか細い声が聞こえてきた。
「だ、誰か……助けて……」
警戒しつつも、「カラス」は声のする方へと向かった。
廃材の影から現れたのは、若い女性だった。
彼女はボロボロの衣服を身につけ、足を引きずっている。
その顔には、恐怖と疲労が色濃く浮かんでいた。
「お願い……野盗に襲われて……仲間とはぐれてしまって……」
女性はそう言いながら、彼の足元に崩れ落ちた。
その目は潤んでいて、弱々しい。
「カラス」は眉をひそめた。
この世界で、こんなに都合の良い出会いはありえない。
彼の脳裏に、これまでの経験が警鐘を鳴らす。
だが、その声があまりにも切羽詰まっていたため、彼は完全に無視することもできなかった。
彼は周囲を警戒しながら、女性に手を貸そうとした。
その瞬間だった。
女性の顔から、一瞬にして怯えの表情が消え去った。
代わりに浮かんだのは、冷酷な笑みだ。
「引っかかったな!」
女性が叫ぶと同時に、周囲の廃墟の影から、十数人の野盗たちが姿を現した。
彼らは錆びた金属製の武器や、旧式の銃器を構えている。
彼らのリーダーらしき、屈強な男がニヤリと笑った。
「その荷物、全部置いていけ! 大人しくすれば、命だけは助けてやるぜ」
完全に嵌められた。
「カラス」は冷静だった。
彼が手を貸そうとした一瞬の隙を突き、女性は素早く懐から、隠し持っていたナイフを取り出し、彼の喉元へと突きつけた。
「動くな! 動いたら、命はないと思え!」
リーダーが叫んだ。
だが、「カラス」は、その言葉の意味を理解する前に、行動を開始していた。
――相手の力を利用し、最小限の動きで制圧する。
女性がナイフを突きつけた瞬間の、彼女の体の微かな重心移動を読み切った。
彼は、喉元に迫るナイフを紙一重で躱しながら、その手首を掴み取る。
女性は驚愕に目を見開いた。
「なっ!?」
「カラス」は、女性がナイフを突き出した勢いを利用して、そのまま彼女の手首を捻り上げた。
女性は悲鳴を上げ、ナイフを取り落とす。
(利用させてもらう)
彼は、女性の体を盾にするように、野盗たちの方向へと押し出した。
女性はバランスを崩し、野盗たちの方へと倒れ込んでいく。
野盗たちは仲間を撃つわけにもいかず、一瞬、攻撃の手を止めた。
「撃て!」
リーダーの叫びが響き渡る。
だが、その命令は遅すぎた。
「カラス」は、瓦礫の山に身を隠した。
彼のヘッドライトが、暗闇の中で光る。
野盗たちは、彼の姿を見失い、焦り始める。
「散開して探せ! 逃がすな!」
野盗たちは散開し、彼の隠れた瓦礫の山へと近づいてくる。
「カラス」は、その動きを冷静に観察した。
彼らは数に任せて突撃する、典型的な野盗の動きだ。
まず、銃を持った野盗が、瓦礫の陰から顔を覗かせた。
「カラス」は、その男が銃口を向ける寸前、素早く瓦礫の中から飛び出した。
相手の予測を上回る速さで接近し、銃を構えた腕を掴み取る。
男は驚き、銃を発砲しようとするが、「カラス」はそれを許さない。
男の腕を捻り上げ、そのままその体を、別の野盗が隠れている壊れた車の残骸へと投げつけた。
ガシャアアッ!
男は車の残骸に激突し、鈍い音を立てて倒れ込んだ。
銃声が響き、車のボディに銃弾がめり込む。
だが、残りの野盗たちが、一斉に彼へと襲いかかってきた。
粗末な金属製の鈍器や、ナイフを構えている。
「カラス」は、複数の敵を同時に相手にする。
まず、金属バットを振り上げてきた男に対し、その動きを冷静に見切る。
バットが振り下ろされる寸前、彼は体を沈ませ、バットの下を滑り込むように潜り抜ける。
相手の懐に入り込んだ瞬間、「カラス」は、懐に隠し持っていた細い金属ワイヤーを取り出した。
ワイヤーを男の首に回し、そのまま流れるような動きで男の背後へと回り込む。
男は息を詰まらせ、バランスを崩した。
「ぐっ……!?」
その隙を突き、「カラス」はもう一人の、ナイフを構えた野盗へと向き合った。
ナイフの突進を、腕で受け止め、その勢いを利用して男の体を自分の方へと引き寄せる。
男の背後には、朽ちたドラム缶があった。
「カラス」は、引き寄せた男の体を、そのままドラム缶へと叩きつけた。
ガァン!
ドラム缶が激しく揺れ、男は呻き声を上げて倒れ込んだ。
(数を減らす)
「カラス」は、まだ首にワイヤーが巻かれたままの男を、まるで操り人形のように操り、残りの野盗たちへと投げつけた。
「うわあああ!」
男たちは互いにぶつかり合い、もつれるようにして砂埃の中に倒れ込む。
リーダーの男が、怒りに顔を歪ませて飛び出してきた。
手にしていたのは、見るからに重そうな巨大なスパナだ。
「てめぇ……よくもやりやがったな!」
スパナが唸りを上げて振り下ろされる。
「カラス」は、その一撃を寸前で躱し、同時にスパナを持つリーダーの腕を掴み取る。
そのまま、その腕を逆関節に極め、リーダーの巨体を地面へとねじ伏せた。
「ぐああああああっ!」
リーダーの悲鳴が、廃墟に響き渡る。
関節が軋む音が聞こえそうなほどに、腕が捻じ上げられる。
彼の体に、強烈な痛みが走るが、「カラス」は冷静に、さらに力を加えた。
(無力化する)
リーダーが完全に身動きが取れなくなったのを確認すると、「カラス」はゆっくりと立ち上がった。
彼の周囲には、呻き声を上げて倒れている野盗たちと、恐怖に怯える女性の姿があった。
「てめぇらが、何を奪おうとしていたか、分かっているのか?」
「カラス」の声は静かだったが、その中に込められた怒りは、野盗たちを震え上がらせた。
「俺が守るものは……お前らには、奪わせない」
彼はそう言い放つと、迷うことなく、野盗たちの武器を蹴散らし、彼らの足や腕の関節を的確に狙って攻撃を加えた。
鈍い音が響き、野盗たちは再び絶叫を上げる。
彼らが再び立ち上がることは、もうないだろう。
女性もまた、恐怖に顔を引きつらせ、動けないでいる。
野盗たちを制圧し、「カラス」は彼らが持っていた物資を回収した。粗末な食料、腐りかけの水を詰めた水筒、そして、数本の密造酒の瓶。
だが、彼の目に留まったのは、その中で唯一、異なる光を放つものだった。
それは、箱に入った、旧時代の紙煙草だった。
「……紙煙草、だと?」
彼は信じられないといった様子で、その箱を手に取った。
この世界では、煙管で吸う葉煙草は稀少だが、加工された紙煙草など、ほとんど存在しないはずだ。
おそらく、どこかの廃墟で奇跡的に見つかったものだろう。
彼は一本取り出し、火をつけた。
「ふぅ……」
煙管で吸う葉煙草とは違う、独特の香ばしい匂いと、軽い吸い心地。
それは、彼が失った「旧世界」の記憶を呼び覚ます、あまりにも懐かしい感覚だった。
「こんなものまで、持っていたのか」
彼はそう呟き、ゆっくりと煙を燻らせた。
その煙の向こうに、かつて家族と過ごした、平穏な日常が蘇るようだった。
そして、彼は食事の準備に取り掛かった。
野盗たちが持っていた、幾つかの缶詰と、奇跡的に見つけたジャガイモ。
焚き火を起こし、ジャガイモを灰の中に埋めて焼く。
缶詰は直接火にかけて温めた。
「カラス」は、焼けたジャガイモを熱い灰の中から取り出し、土を払ってかぶりついた。
ホクホクとした食感と、素朴な甘みが口いっぱいに広がる。
温かい食事が、冷え切った体に染み渡る。
「……悪くない」
彼はそう呟き、缶詰の肉をゆっくりと味わった。
そして、野盗たちから奪った密造酒を一口。
粗悪な味だが、今日の酒は、どこか勝利の味と、懐かしさが混じり合っていた。
食事を終え、「カラス」は再び旅路へと戻った。
夜の帳が降り始め、星が瞬く。
彼の背中には、新たな物資と、紙煙草の懐かしい香りが漂う。
(大阪……)
道のりは、まだ遠い。
だが、彼の心には、これまで以上の確固たる決意が宿っていた。
「待ってろ……必ず、辿り着く」
彼はそう呟き、夜の闇の中へと消えていった。
彼の足跡は、来るべき未来への確かな道標となるだろう。
評価して頂ければ幸いです。