エピソード6:地下迷宮の記憶、そして響く声
ドレッドから手に入れた地下構造の地図を頼りに、「カラス」は旧時代の研究所へと足を踏み入れた。
湾岸の風が錆びた鉄骨を震わせ、崩壊したビル群が不気味なシルエットを落とす。
地図に記された研究所の「地下アクセスポイント」は、瓦礫と植物に覆われた、まるで地球の傷跡のような裂け目の奥に隠されていた。
「……ここか」
「カラス」はヘッドライトを装着し、ゆっくりと闇の中へと降りていく。
冷たい、湿った空気が肌を刺す。
ここには、これまで遭遇してきた野盗や異形とは異なる、未知の脅威が潜んでいるかもしれない。
彼の家族の真実、そしてこの世界がなぜこうなったのか、その答えがここにある。
地下は、まさに迷宮だった。
いくつもの通路が複雑に絡み合い、崩れた壁や天井が、行く手を阻む。
彼のヘッドライトの光が届く範囲だけが、かろうじて現実として存在し、それ以外は深い闇に包まれていた。
足元には、旧時代の機器の残骸や、用途不明の配線が散乱している。
彼は地図と照らし合わせながら、慎重に進んだ。
耳を澄ませ、微かな物音も聞き逃さない。妻の姿が、娘の笑顔が、彼の心の中で、この闇を照らす唯一の光だった。
「どこだ……」
地図に示された「隔離区画」を目指す。
そこには、あのオルゴールのロゴマークが手書きで記されていた。
妻がそこにいた、あるいはそこに何かを残した、そう信じるしかなかった。
数時間歩き続け、疲労が体を蝕む。
水筒の水も残り少ない。
彼は壁にもたれかかり、乾いたレーションを口に運んだ。
味はしないが、疲弊した体にエネルギーを注入する。
食事を終え、彼は愛用の煙管を取り出した。
「ふぅ……」
煙が闇の中へゆっくりと消えていく。
この静寂は、まるで世界が呼吸を止めているかのようだ。
煙の向こうに、娘の笑い声が聞こえたような気がした。
「……諦めるわけには、いかない」
彼はそう呟き、煙管の煙を深く吸い込んだ。
再び歩き始め、さらに奥へと進むと、空気の質が変わったことに気づいた。
湿度が上がり、どこか生臭いような、奇妙な匂いが漂い始める。
そして、微かに、粘液質の音が聞こえ始めた。
床には、乾いた粘液の跡のようなものが、べったりと残されている。
「……異形か」
彼の警戒心は最高潮に達した。
この匂い、この気配は、これまで遭遇したことのない種類の異形だ。
その時、彼のヘッドライトが、通路の先に奇妙な光景を捉えた。
壁一面に、緑がかった粘液が張り付き、まるで脈打つかのように蠢いている。
そして、その粘液の中から、複数の影がゆっくりと現れた。
それは、「影這い(シャドウ・クリーパー)」だった。
細く長い四肢と粘液質の体を持つ、人型に近い異形。
瓦礫の隙間や暗闇に潜み、素早く移動して獲物に襲いかかる。
皮膚は頑丈で銃弾を弾くこともあるが、光に弱いという特徴を持つ。
かつての人間の細胞が、異変を遂げて誕生したと噂されている。
「キィィィ!」
影這いの一匹が、甲高い奇声を発し、通路の闇から彼めがけて飛び出してきた。
その動きは、まるで影が滑るように速い。
「カラス」は冷静だった。
影這いの直線的な突進に対し、彼は無駄な動きを一切せず、体をわずかに傾けた。
――相手の力を利用し、最小限の動きで制圧する。
影這いの細長い腕が、彼の顔を掠める。
その勢いをいなし、「カラス」は影這いの腕を両手で掴み取った。
影這いは驚き、腕を引き抜こうと暴れるが、「カラス」はそれを許さない。
その腕の勢いを利用して、そのまま影這いの体を地面へと叩きつける。
ズシャアッ!
粘液質の体が、床に鈍い音を立てて激突した。
影這いは呻き声を上げるが、その体はすぐに起き上がろうと蠢く。
だが、「カラス」は追撃の手を緩めない。
彼は、地下通路の壁から突き出した鋭利な鉄骨の破片に目を留めた。
影這いの粘液質の皮膚は頑丈だ。しかし、この鋭利な鉄骨なら……。
彼は、倒れた影這いの腕を捻り上げ、その体を鉄骨の破片へと叩きつけた。
ブチッ!
影這いの腕が、鉄骨に突き刺さり、緑色の粘液が飛び散った。
異形は苦しそうに体をよじり、もはや動けない。
だが、残りの2匹の影這いが、左右から同時に「カラス」に襲いかかってきた。
彼らは連携を取り、獲物を挟み撃ちにする。
「カラス」は冷静に状況を判断した。
右から迫る影這いの鋭い爪を、寸前で体をひねって躱す。
同時に、左から迫る影這いの腕を、パイプレンチで受け止めた。
ガキン! と鈍い金属音。
パイプレンチが弾かれるが、その衝撃を「カラス」は利用した。
パイプレンチの反動を利用して、その影這いの腕を自分の体へと引き寄せる。
「キィィッ!」
影這いがバランスを崩した瞬間、「カラス」は、地下水道の天井を支える太い配管へと飛び上がった。
その配管に足をかけ、そのまま体を回転させる。
まるで舞うような動きで、もう一体の影這いの頭上へと着地した。
そして、配管から剥がれ落ちていた破損した電気ケーブルの束を拾い上げた。
ケーブルは先端が剥き出しになり、いくつもの銅線が露出している。
彼は、そのケーブルを振り回し、影這いの最も脆弱な部分――首の付け根の関節へと叩き込んだ。
バチィン!
ケーブルの衝撃が影這いの粘液質の体に伝わり、異形は激しく痙攣した。
脆弱な部分を叩き割られた影這いは、バランスを崩し、その体をよじらせながら地面に倒れ込んだ。
残る影這いは一体。仲間が次々と倒される光景に、その動きに迷いが見える。
「カラス」は、倒れた影這いの傍に転がっていた、鋭利なガラスの破片を拾い上げた。
そして、ゆっくりと最後の影這いへと歩み寄る。
影這いは、怯えるように後ずさり、闇の中へと逃げようとした。
だが、彼の行く手は、瓦礫の山で塞がれている。
「カラス」は、逃げ惑う影這いの背後に回り込んだ。
そして、影這いの首筋、特に粘液質の皮膚が薄くなっていると思われる部分へと、ガラスの破片を突き立てた。
ブシュッ!
ガラスが粘液質の皮膚を貫通し、影這いは全身を激しく痙攣させた。
その体から、大量の緑色の粘液が吹き出し、異形は泡を吹くようにして、やがて動かなくなった。
激しい戦いを終え、「カラス」は荒い息を整えた。
全身に疲労が押し寄せるが、その目は光を失っていない。
彼は目的の「隔離区画」へと、さらに奥へと進んだ。
そして、ついにその場所に辿り着いた。
古びた鉄扉が、重々しく閉ざされている。
その扉の表面には、泥と埃に塗れながらも、確かにあのオルゴールの意匠と同じロゴマークが刻まれていた。
「……ここか」
彼の心臓が、激しく高鳴る。
扉に手を触れると、冷たい鉄の感触が伝わってきた。
ここが、妻の過去と繋がっている。
彼は扉を開けようと試みるが、鍵がかかっているのか、びくともしない。
すると、彼の足元に、小さな端末が埋もれているのを見つけた。
旧時代のセキュリティシステムだろう。
埃を払い、電源を入れると、奇跡的に起動した。
画面には、パスコードの入力が求められる。
何を入力すればいい? 妻に関係のあるものか? 娘の誕生日? 彼らの結婚記念日?
彼は様々な数字を試したが、どれも違った。
焦りが募る。
その時、彼の脳裏に、あの日の光景が蘇った。
娘が、初めてオルゴールを手にし、興奮して駆け寄ってきた日。
そして、妻が優しく微笑みながら、娘のオルゴールに、ある言葉をそっと語りかけていた記憶。
「……『希望の歌』」
彼は、その言葉を、かつて妻が娘に語りかけた「希望の歌」という言葉を、パスコードとして入力した。
ピピピッ。
認証完了。
鉄扉が、重々しい音を立ててゆっくりと開いていく。
その奥には、薄暗い空間が広がっていた。
空調がまだわずかに機能しているのか、他の場所よりも空気が澄んでいる。
「カラス」はライトを点け、中へと足を踏み入れた。
そこは、小さな実験室のような空間だった。
いくつものモニターが並び、中央には、奇妙な形状の装置が置かれている。
そして、その壁の一角に、彼は見覚えのあるノートを見つけた。
それは、妻が使っていたものとそっくりだった。
彼は恐る恐るノートに手を伸ばし、ページをめくる。
そこには、びっしりと文字が書き込まれていた。
研究記録、データ、そして、妻の手書きの日記。
「……これ、は……」
彼はページを繰り続けた。
そこには、彼が知らなかった妻の「顔」があった。
研究者としての彼女。
そして、彼女が関わっていた「R&D記録」の真実。
ノートの最終ページには、震えるような文字で、短いメッセージが記されていた。
『もし、この記録が誰かの目に触れるのなら……。私は、娘を……【シェルターD】へ避難させた。どうか、この真実を、あなたに託す。そして、あの子の父親に伝え……』
そして、そのメッセージの下には、彼の娘が描いたと思われる、家族三人の拙い絵が貼られていた。
絵の中の娘が、彼を見上げて笑っているように見えた。
「カラス」の手にしていたノートが、震え落ちた。
娘は生きていた。
妻が、命がけで娘を別のシェルターへ避難させていたのだ。
そして、「シェルターD」という具体的な場所まで。
彼の目に、熱いものが込み上げてきた。
それは、絶望ではなかった。
希望だ。そして、妻が託した「真実」。
彼は、周囲に広がる実験室を見回した。
ここが、この世界の秘密と繋がっている。
妻は、何を彼に伝えたかったのか。
「……待ってろ。必ず、迎えに行く」
彼はそう呟き、娘の絵が貼られたノートを、宝物のように胸に抱きしめた。
彼の旅は、まだ終わらない。
いや、ここからが、本当の始まりなのだ。彼の目の奥には、決意と、そして微かな希望の光が宿っていた。
評価して頂ければ幸いです。