エピソード3:古傷と、旅立ちの兆し
データセンターでの発見は、「カラス」の心を深く抉った。
モニターに映し出された妻の顔と、見慣れない「R&D記録 最終報告書」という文字。
そして、娘のオルゴールと同じロゴマーク。
全てが、彼がこれまで信じてきた「災害による突然の別れ」という現実に、重い疑問符を突きつけていた。
妻は一体、何に関わっていたのか。
そして、娘は本当に、ただの巻き込まれ事故だったのか?
彼の心は、これまで感じたことのない種類の混乱と、新たな決意に苛まれていた。
立ち止まっている暇はない。
この場所から、さらに多くの情報を持ち帰る必要があった。
翌日から「カラス」は、憑りつかれたようにサルベージに没頭した。
データセンターの奥深く、瘴気獣が倒れた場所のさらに奥。
彼は、まだ手付かずの区画へと足を踏み入れた。
そこには、奇跡的に電力供給が保たれているのか、一部の機器がわずかに稼働している部屋もあった。
彼は、使い古したツールで慎重にサーバーラックからデータストレージを外し、破損していないかを確認する。
旧時代の通信機器や、解析できそうな電子部品、そして埃を被った医療キットも手に入れた。
それらを防水加工された丈夫なリュックに詰め込んでいく。
「まだ、足りない……」
彼の心は焦っていた。
手に入れた情報を解析するには、もっと専門的な知識や設備が必要になるだろう。
それを持つ者がいるシェルターへと向かうためにも、多くの物資が必要だった。
「カラス」は、周囲の瓦礫の中から、まだ使えそうな金属片や、旧時代の衣類、僅かな食料の残骸まで、徹底的に回収した。
まるで、これまで失われた時間を取り戻すかのように、無我夢中で作業を続けた。
疲労も、空腹も、彼の集中力を奪うことはできなかった。
彼の目に宿る光は、以前よりも強く、鋭くなっていた。
数日後、「カラス」は満身創痍で「フクロウの巣」へと戻ってきた。
リュックはパンパンに膨れ上がり、彼の体は極限まで疲弊している。
だが、彼の顔には、どこか満足げな表情が浮かんでいた。
これだけの物資があれば、当面の生活には困らないだろう。
そして、遠方への旅支度も始められるはずだ。
シェルターの物々交換広場は、今日も多くの人で賑わっていた。
「おう、カラスじゃねえか! 生きてたか!」
老人がいつものように声をかけてくる。
だが、彼の目に留まったのは、「カラス」の背中に背負われた、異様なまでに膨れ上がったリュックだった。
「おいおい、いったい何を拾ってきたんだい? 獲物が多すぎて、歩く瓦礫になってるぜ」
「カラス」はリュックを地面に下ろすと、中から回収した物資を一つずつ取り出した。
旧時代の医療キット、まだ使えそうな通信モジュール、精巧な工具セット、そして見たこともないデータストレージの数々。
老人の目が見開かれる。
「こ、これは……すごい! 大当たりじゃねえか、カラス! よくこんなものを見つけられたな!」
周囲のサルベージ屋たちも、その物資の量と質に目を見張った。
ざわめきが広場に広がる。
「特にこのデータストレージは、もしかしたら高値で取引されるかもしれんぞ!」
老人は興奮気味に言った。
「カラス」は無言で頷いた。
「……食料、それと、長距離移動に耐えうる水筒。それと、頑丈な靴、あと……煙草の葉を、できるだけ多く」
彼は必要なものを具体的に告げた。
老人は目を輝かせ、次々と物資を提案してきた。
物々交換はスムーズに進んだ。
彼の持ち込んだ大量の物資は、シェルターの住民たちにとっても貴重なものだったのだ。
交換が終わり、「カラス」は再び肉の缶詰と水を手にシェルターの隅へと向かった。
リュックの中には、これで旅を始められるだけの物資が詰まっている。
そして、何よりも貴重な、大量の煙草の葉。
彼は煙管を取り出し、贅沢にも多めに葉を詰める。
火をつけると、濃密な煙がゆっくりと立ち上り、彼の疲れた顔を包み込んだ。
「ふぅ……」
至福の一服だ。
安酒を傾け、喉の奥を焼く。
今日の酒は、いつもよりずっと美味しく感じられた。
(これで……行ける)
新たな旅の始まりを予感し、彼の胸に微かな期待が宿る。
家族の真実。
それは、苦しい道のりになるだろう。
だが、彼はもう、立ち止まることはできない。
その時だった。
「おい、そこのサルベージ屋ァ!」
甲高く、不快な声が響き渡った。
「カラス」は顔を上げた。
そこにいたのは、シェルターの自称「警備隊隊長」と名乗る男、ゴンザレスだった。
体格は良いが、腹が出ている。
いつも汚れた迷彩服を身につけ、旧式のショットガンを背負っているが、実際に野盗と戦っている姿を見た者は誰もいない。
彼はいつも、シェルターの安全を口実に、サルベージ屋から「通行料」と称して物資をかすめ取っていた。
「テメェ、随分と儲けたじゃねえか。その中から、警備隊への『協力金』を置いていけよ」
ゴンザレスは、ニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
その傍らには、数人の部下らしき男たちが立っている。
彼らもまた、戦うことよりも、弱者を脅すことに長けている連中だった。
「カラス」は、煙管をゆっくりと口から離した。
彼の目は、氷のように冷たい。
「……何のことだ」
低い声で、「カラス」が応じた。
「とぼけんなよ! このシェルターで稼がせてもらってるんだ。当然の礼だろ?」
ゴンザレスは一歩踏み込み、その巨体で「カラス」を威圧しようとした。
だが、「カラス」は微動だにしない。
「お前らが、何を守った?」
「カラス」の声は、静かだが、鋼のような響きを持っていた。
ゴンザレスの顔から笑みが消える。
「あァ? 何言ってやがる。俺たちがいるからこそ、このシェルターは安全なんだろうが!」
「冗談はやめろ」
「カラス」は、ゆっくりと立ち上がった。
彼の背後には、彼が必死で稼いだ物資を詰めたリュックがある。
それを、こんな輩に奪われるわけにはいかない。
「昨夜、野盗が襲ってきた時、お前らはどこにいた? 俺は、てめぇらの誰一人として、野盗と戦っている姿を見ていない」
その言葉に、ゴンザレスの顔が怒りで歪んだ。
周囲のシェルター住民たちも、固唾を飲んで見守っている。
彼らもまた、ゴンザレスたちの行動に不満を抱いていたが、逆らう勇気はなかった。
「てめぇ……!」
ゴンザレスは、背中のショットガンに手を伸ばそうとした。
だが、その動きは「カラス」には遅すぎた。
「カラス」の体が、一瞬にして消えたかのように動いた。
ゴンザレスがショットガンを掴む寸前、彼の腕がゴンザレスの脇の下へと滑り込む。
――相手の力を利用し、最小限の動きで制圧する。
「なっ!?」
ゴンザレスの巨体が、まるで操り人形のように浮き上がった。
「カラス」は、彼の腕をがっちり掴んだまま、その体勢をひるがえす。
ゴンザレスの体重と、彼自身が動こうとする力を利用し、そのままゴンザレスの体を、背負い投げの要領で宙に舞い上がらせた。
「うおおおっ!?」
ゴンザレスの体が、鈍い音を立てて地面に叩きつけられた。
シェルターの床が揺れ、土埃が舞い上がる。
彼は呻き声を上げ、背中を抑えて起き上がろうとするが、激しい痛みに身動きが取れない。
「隊長!」
ゴンザレスの部下たちが、慌てて飛び出してきた。
だが、「カラス」はすでに次の行動に移っていた。
部下の一人が、ナイフを抜き、無様に突進してくる。
「カラス」は、その直線的な動きを冷静に見切った。
ナイフを躱し、相手の腕を掴む。
そのまま流れるような動きで、男の背後へと回り込むと、その腕を逆関節に極めた。
「ぐああああああっ!」
男の悲鳴が響き渡る。
関節が軋む音が聞こえそうなほどに、腕が捻じ上げられる。
「カラス」は、その男を盾にするようにして、もう一人の部下へと向き合った。
その男は怯んで、動きを止めている。
「武器は使わせない」
彼は男の腕をさらに捻り上げ、その体を無防備な部下へと投げつけた。
「てめぇ!」
投げつけられた男がもう一人の部下に激突し、二人とももつれるようにして倒れ込む。
「カラス」は、倒れた二人の傍に、散乱していた古い消火器が転がっているのを見つけた。
彼はそれを拾い上げると、ゆっくりとゴンザレスの元へと歩み寄った。
ゴンザレスは、まだ背中を抑えて呻いている。
その顔は恐怖に歪んでいた。
まさか、このサルベージ屋が、ここまで強いとは。
「警備隊だと?」
「カラス」は、ゴンザレスの目の前に立ち止まった。
手に持った消火器が、月明かりを反射して鈍く光る。
「野盗からシェルターを守らない警備隊が、一体何になる?」
「カラス」の言葉は、静かだが、シェルター中に響き渡るほど重かった。
ゴンザレスは、その目に宿る純粋な怒りに、息を呑んだ。
それは、彼らがこれまで見てきた、力に屈服するサルベージ屋の目ではなかった。
「お前らが守るのは、自分の縄張りだけだ。だが、俺が守るものは……そこには、ない」
彼はそう言い放つと、ゴンザレスの意識を刈り取るように、消火器を振り上げた。
ごん、と鈍い音が響き、ゴンザレスはぐったりと意識を失った。
静寂が、シェルターを包み込む。
誰もが、口を開くことができなかった。
「カラス」は、消火器を地面に置いた。
そして、何事もなかったかのように、自分のリュックへと向き直った。
彼の背中に、老人の声がかけられた。
「カラス……あんたは、どこへ行くんだい?」
「カラス」は振り返らずに、答えた。
「……探し物だ」
彼の言葉は、シェルターの重い空気の中に、新たな風を吹き込んだかのように響いた。
彼の目は、もう過去の残骸には向けられていない。
未知の場所、そして彼の家族の真実が待つ、はるか遠くを見据えていた。
彼は静かにリュックを背負い直すと、シェルの出入り口へと向かった。
その足取りは、もはや迷いも、疲弊も感じさせない。
あるのは、ただ前へ進む、確固たる決意だけだった。
「待ってろ……」
今度は、はっきりとその声が聞こえた。
それは、彼自身の、そして家族への誓いの言葉だった。
評価して頂ければ幸いです。