エピソード2:錆と記憶の残滓
朝の光が、瓦礫の隙間から細く差し込んでいた。
シェルターの薄暗い通路にも、夜が明けたことを告げる微かな光が届く。
「カラス」は、壁にもたれかかるようにして、短い眠りから覚めた。
全身に倦怠感が残っている。
昨夜の野盗との戦闘で、幾つか打ち身も作ったようだ。
だが、こんな痛みは日常の一部だ。
「……腹、減ったな」
思わず口から出た言葉は、誰に聞かれるでもなく、静かな空間に吸い込まれていった。
手元には、昨夜の物々交換で手に入れた肉の缶詰の残りと、少量の水。
彼はそれをゆっくりと口に運んだ。
味などしない。
ただ、生きるための燃料を補給する作業だ。
それでも、この行為が、彼を「人間」として繋ぎ止めている唯一の証のような気がした。
食事が終わると、愛用の煙管を取り出す。
煙草の葉は、もうほとんど残っていない。
それでも、指先に残る僅かな葉を慎重に煙管に詰め、火をつけた。
「ふぅ……」
細く吐き出された煙が、朝日の中に溶けていく。
あの災害の朝も、こんな空だっただろうか。
娘の小さな手が、彼の指を握っていた記憶が蘇る。
温かくて、柔らかい、小さな手。その記憶は、彼の疲弊した心に、ほんの僅かな温もりをもたらす。
(今日も……行くか)
「カラス」は立ち上がった。
埃だらけの作業着を払い、腰のツールポーチに使い慣れた工具を収める。
彼の鋭い目は、すでに廃墟の彼方を見据えていた。
今日の目的地は、かつて政府の重要施設があったとされる区域だ。
旧時代のデータや医療品が残されている可能性が高いと、以前、他のサルベージ屋から耳にしたことがあった。
だが、同時にそこは「瘴気獣」の生息域でもある、という噂も。
瘴気獣は、体から微量の汚染物質を含んだガスを放出し、近づくものを昏倒させる巨大な異形だ。
鈍重だが、強靭な筋力と再生能力を持つ。
シェルターを出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
かつての幹線道路は寸断され、アスファルトはひび割れ、草木が生い茂っている。
足元にはガラスの破片や瓦礫が散乱し、一歩踏み出すたびに注意が必要だ。
「カラス」は慎重に進んだ。
耳を澄ませ、風の音、遠くで聞こえる金属音、そして何かの気配に集中する。
彼の集中力は、戦闘だけでなく、感覚を研ぎ澄ませ、危険を察知するためにも役立っていた。
数時間歩き、目的の区域に差し掛かった。
そこは、他の廃墟とは一線を画していた。
崩れたビルの表面には、黒いカビのようなものが付着し、空気は重く、鉛のように肌にまとわりつく。
微かに、甘く、それでいて吐き気を催すような異臭が漂っていた。
これが、瘴気獣の放つガスなのか。
「……きついな」
彼は作業着の襟元で口元を覆い、呼吸を浅くする。
こんな場所で長く活動すれば、体力を消耗するどころか、命に関わる。
早急に目的のものを探し出し、撤退する必要があった。
目的の建物は、かつてのデータセンターだったようだ。
半壊した入り口を潜ると、内部は薄暗く、埃とカビの匂いが充満していた。
ところどころでケーブルが垂れ下がり、腐食した機器が散乱している。
「カラス」は、一つずつ部屋を丹念に調べていく。
旧時代のPCやサーバーの残骸、錆びついた記録媒体。
彼の目は、微かな希望を探していた。
家族の手がかりになるようなものはないか。
その時だった。
奥の部屋から、微かな「音」が聞こえた。
それは、何かがゆっくりと、だが確実に動くような、重々しい足音だった。
そして、異臭が明らかに強くなる。
(来たか……)
「カラス」は音のする方向に目を向けた。
通路の奥から、巨大な影がゆっくりと姿を現す。
それは、噂に聞いていた瘴気獣だった。
鈍い緑色の皮膚は分厚く、苔むした岩のよう。
二本の太い足でゆっくりと歩き、全身からガスを放出している。
まるで、この場所そのものが生命を得たかのようだ。
瘴気獣は、「カラス」の存在に気づくと、ゆっくりと首を傾げた。
その目が、濁った色で彼を捉える。
戦闘を避けるべきか。
だが、この建物の奥に、まだ手付かずのデータサーバーがあるかもしれない。
家族の手がかりが、そこにあるかもしれない。
「……厄介だな」
「カラス」は覚悟を決めた。
瘴気獣は正面からぶつかって倒せる相手ではない。
その強靭な皮膚は銃弾すら弾くという。
彼は、再び周囲を見渡した。この環境で、どう戦うか。
瘴気獣が、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
一歩一歩、その巨体が床を揺らす。
ガスがより濃くなり、視界がぼやけてきた。
「動きは鈍い……だが、一撃でも食らえば終わりだ」
「カラス」は、床に散乱する太い通信ケーブルの束に目を留めた。
それは金属のワイヤーが何重にも巻かれた、頑丈なものだ。
そして、天井からぶら下がった、今にも落ちそうな換気ダクト。
瘴気獣が、巨体を揺らしながら、数メートルまで接近してきた。
その口から、低いうなり声が漏れる。
「カラス」は動いた。
瘴気獣の鈍重な動きを見切り、その巨体の下を潜り抜けるように、素早く横に滑り込む。
瘴気獣の太い足が、彼がいた場所を叩きつけるように振り下ろされる。
床が大きく揺れる。
(やはり、力は尋常じゃない)
彼は身を低く保ちながら、通信ケーブルの束を掴み取った。
想像以上に重い。
そのまま、ケーブルの先端を換気ダクトに投げつける。
狙いは正確だった。
ケーブルはダクトの金属部分に絡みつき、しっかりと固定された。
瘴気獣が、再び「カラス」を追い、体を反転させる。
その隙を突き、「カラス」はケーブルを掴んだまま、一気にダクトへと飛び上がった。
「ぐおおおおっ!」
瘴気獣が、怒りの咆哮を上げた。
届かない獲物に対し、その巨体を鈍く動かす。
「カラス」はダクトの上に身を隠し、瘴気獣の動きを観察する。
そして、ダクトが建物の中央へと伸びていることを確認した。
「よし……」
彼はダクトの上を、音を立てないように進む。
瘴気獣は、彼を見失ったのか、鈍い足取りで周囲をうろつき始めた。
「カラス」は、ダクトの終点付近に、壊れた制御盤があるのを見つけた。
そこから、無数のケーブルが床へと垂れ下がっている。
彼はダクトから飛び降り、制御盤の裏へと身を隠した。
瘴気獣が、彼の気配を感じ取ったのか、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
異臭が強烈になり、頭痛がしてきた。
(これが……最後のチャンスだ)
「カラス」は、制御盤から剥がれた太い電線を掴み取った。
先端が鋭利に剥き出しになっている。
感電の危険もあるが、今はそんなことを考えている場合ではない。
瘴気獣が、すぐ目の前まで迫る。
その巨大な足が、彼の隠れている制御盤を破壊しようと振り上げられた。
その瞬間、「カラス」は制御盤の陰から飛び出し、電線を瘴気獣の最も柔らかいと思われる部位――足の関節の隙間へと突き刺した。
「ぐぅっ……!?」
瘴気獣の巨体が、一瞬、硬直した。
電線が通電し、内部で何かが破壊されたかのような音が響く。
鈍重な獣が、まるで初めて痛みを感じたかのように、バランスを崩し始めた。
「カラス」は追撃の手を緩めない。
関節を破壊された瘴気獣は、その巨体を支えきれず、前のめりに倒れ込む。
床が激しく揺れ、瓦礫が舞い上がった。
そして、その巨大な体が倒れ込んだ場所は、偶然にも天井からぶら下がっていた巨大な送風ダクトの支柱だった。
ダクトが悲鳴を上げ、金属の軋む音が響き渡る。
「カラス」は、素早く倒れた瘴気獣の背中に駆け上がった。
そして、その巨大な送風ダクトの支柱に、残っていた通信ケーブルを何重にも巻き付けた。
彼の狙いは、この送風ダクトを落とすことだ。
瘴気獣は頑丈だが、これほどの質量が上から落ちてくれば、致命的なダメージを与えられるかもしれない。
「いっけえええっ!」
彼は渾身の力で、ケーブルを引いた。
支柱がさらに軋み、ついに限界に達した。
轟音とともに、巨大な送風ダクトが瘴気獣の真上から落下した。
ドオオォォォン!!
地響きが起こり、埃と瓦礫が舞い上がった。数秒後、全ての音が止んだ。
「カラス」は、崩れたダクトの陰から、ゆっくりと瘴気獣の方を見た。
異形の巨体は、完全にダクトの下敷きになり、もはや動く気配はない。
異臭も、少し薄れたように感じられた。
死闘を終え、「カラス」は再びデータセンターの奥へと進んだ。
体中の痛みを無視し、呼吸を整えながら、倒れたサーバーの山を乗り越えていく。
そして、彼は目的の部屋に辿り着いた。
そこには、まだ稼働している形跡のある、旧時代のサーバーラックがあった。
埃を被っているが、幾つかのモニターには、かすかに光が灯っている。
「……これか」
彼は慎重にサーバーを調べ、電源が入っているものを探した。
そして、一つの端末に目を留める。
奇跡的に、まだデータが残っているようだ。
「カラス」は、震える手でキーボードを叩いた。
断片的なデータ、ファイルの羅列。
その中に、彼は求めていたものを探し始めた。
災害時の避難経路、生存者の記録、そして……。
検索窓に、無意識に「家族」という言葉を入力した。
指が震える。
心臓が高鳴る。
もし、ここに何かの情報が残っていたら。
もし、家族がどこかのシェルターに避難していたとしたら。
彼の目に、一つのファイル名が飛び込んできた。
「R&D記録 最終報告書」
そして、そのファイルの中に、いくつかの写真データが埋め込まれていた。
それは、かつての政府や研究機関の人間たちの顔写真だった。
その中に、見覚えのある顔があった。
いや、見覚えがある、では済まされない。
それは、彼の妻の顔だった。
だが、彼女は写真の中で、白い研究着を纏い、真剣な表情で何かを議論している。
その傍らには、別の研究者が数人。
そして、彼らの背後には、彼が家族を探す手がかりとしてきた、娘が身につけていたはずの小さなオルゴールと同じ意匠のロゴマークが、かすかに映り込んでいた。
「……嘘、だろ……?」
「カラス」は言葉を失った。
混乱が、彼の思考を支配する。
なぜ妻が、こんな場所に。
なぜ、この「R&D記録」の報告書の中に。
そして、このロゴマークは一体……?
彼の手が、震えながら画面を撫でた。
そこに映し出された妻の顔は、彼が記憶する優しい表情とは全く異なっていた。
彼女は一体、何に関わっていたのか。
そして、娘は?
脳裏に、かつて耳にした不気味な噂が蘇る。
「あの災害は、単なる天災ではなかった」――そんな都市伝説のような話。
あるいは、「旧世界の科学者が、何かを隠している」という根も葉もない噂。
「カラス」は、自分が足を踏み入れた場所が、単なる旧時代のデータセンターではないことに気づいた。
ここは、この世界の変貌に何らかの形で関わる、隠された情報の一端が眠る場所だったのだ。
彼の家族が、この情報の中心にいる可能性が浮上した瞬間だった。
喜びでも、悲しみでもない、複雑な感情が彼の胸を締め付ける。
(お前は……一体、何を……)
彼は、その場で呆然と立ち尽くした。
評価して頂ければ幸いです。