エピソード17:地下深淵の呼び声、そして父の誓い
夜が明けると共に、「カラス」はレイラを連れて再び歩き始めた。
大阪の都市は、シェルターDでの一件以来、さらに危険な場所へと変貌したように感じられた。異形の気配は常に彼らの周囲を漂い、いつ襲われるとも限らない。
「パパ、どこに行くの?」
レイラの小さな声が、静かな廃墟に響く。
彼女は、まだ状況を完全に理解できていないが、彼の隣にいることで安心しているようだった。
「安全な場所を探す。そして、お前のママが何を残したのか、もっと深く知るためだ」
彼はそう答え、レイラの小さな手を握りしめた。
彼の心には、シェルターDの研究区画で見た、破壊された装置の残骸が焼き付いている。
あの装置は、レイラの能力を利用していた。
だが、妻はその能力を「守る」と言っていた。
その矛盾の答えは、一体どこにあるのだろうか。
その日の午後、彼らは奇妙な構造物を見つけた。
それは、地下へと続く、錆びついた巨大なハッチだった。
周囲は、厚いコンクリートの壁に囲まれ、まるで何かの隠された施設であるかのようだ。
ハッチの隙間からは、僅かに湿った空気と、微かな機械音が漏れ聞こえてくる。
「これは……軍事施設か?」
「カラス」の直感が告げる。
こんな場所なら、外界の異形からは身を隠せるかもしれない。
彼は、ハッチのロックを解除しようと試みた。
古びた金属が軋む音を立て、やがてハッチはゆっくりと開いた。
その奥には、真っ暗な縦穴が広がっている。
ヘッドライトを装着し、レイラを抱きかかえて、彼は慎重にハッチの梯子を降りていった。
地下深くへ降りるにつれ、湿気とカビの匂いが強くなる。
やがて、梯子の終点に着いた。
そこは、広大な地下通路だった。
壁はコンクリートで覆われ、天井からはケーブルが垂れ下がっている。
空気は重く、ひんやりとしている。
「ここは……」
「カラス」は、壁に設置された古い地図をヘッドライトで照らした。
そこには、「旧陸軍 大阪司令部地下施設」と記されている。
その文字に、彼の目が留まる。
旧政府……。
シェルターDの警備隊が背負っていた紋章が、脳裏をよぎる。
彼は、通路の奥から光が漏れているのを見つけた。
警戒しながら近づくと、そこは、辛うじて電力が維持されている地下シェルターだった。
中は、比較的新しく、簡易ベッドが並び、物資が保管されている。
どうやら、まだ誰かに利用されているようだ。
彼はシェルターの内部を検分した。
人の気配はしないが、最近まで誰かがいたような痕跡が残っている。
その中で、「カラス」の目に留まったのは、まだ中身の残っている食糧の缶詰と、ビニールで厳重に包まれた紙煙草のカートン、そして火をつけるためのライターだった。
幸運にも、湿気から守られていたようだ。
「これは……助かった」
彼は、それをリュックにしまうと、レイラを抱きかかえ、簡易ベッドにそっと寝かせた。
野営とは違い、壁と天井のある場所での休息は、心身に深く染み渡る。
疲労困憊のレイラは、すぐに深い眠りに落ちた。
「カラス」は、手に入れたばかりの缶詰を開け、レイラを起こさないように慎重に口にした。
味はしないが、体に必要な栄養が染み渡る感覚があった。
「パパも、食べて」
レイラが、眠りから覚めたのか、ぼんやりとした目で彼を見つめている。
彼女の気遣いに、彼の心が温かくなる。
「ああ、一緒に食べよう」
彼はそう言い、レイラの隣に座った。
二人で分け合う食事は、荒廃した世界での、ささやかながらも確かな幸せだった。
食事が終わると、「カラス」は手に入れたばかりの紙煙草を一本取り出した。
久々に触れる、懐かしい感触だ。
彼はライターで火をつけ、深く息を吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「ふぅ……」
煙がシェルターの天井へと吸い込まれていく。
その煙の向こうに、彼の知る世界とは異なる、もう一つの世界が広がっているように見えた。
彼は、懐から以前野盗から奪った粗悪な密造酒の小瓶を取り出し、一口飲む。
喉の奥を焼くような強烈な刺激が、彼の疲れた体にじんわりと染み渡る。
「……こんな場所にも、俺みたいな奴がいるのか」
彼はそう呟き、シェルターの壁に目を向けた。
そこには、何者かが描いたらしき、荒々しい落書きがあった。
異形の絵、旧政府の紋章、そして、意味不明な記号。
その時、シェルターの奥から、微かな物音が聞こえてきた。
それは、足音だ。
複数の足音。
そして、鉄が擦れるような音も。
「……!」
「カラス」は、即座に警戒態勢に入った。
レイラを背中に隠し、腰のパイプレンチを握りしめる。
闇の中から、ゆっくりと姿を現したのは、奇妙な集団だった。
彼らは、ボロボロの軍服を身につけ、旧時代の武器を手にしている。
その顔には、飢えと疲労、そして狂気が混じり合っていた。
彼らの手足は、不自然に肥大し、まるで異形のようにも見える。
それは、この地下施設に潜伏していた、旧政府の残党だった。
「お前ら……どこから入ってきた!」
残党の一人が、枯れた声で叫んだ。
彼らの目は、彼とレイラのリュックに、そして「カラス」の持つパイプレンチに、強欲な光を宿している。
「カラス」は、レイラを背後に隠したまま、ゆっくりと前に出た。
「今夜だけ、休ませてくれ。邪魔はしない」
彼の言葉に、残党たちは嘲笑った。
「邪魔しない? ここは俺たちの場所だ! その女と、持っているものを全て置いていけ!」
残党たちが、彼らに向かって一斉に襲いかかってきた。
彼らは、狂気に駆られており、その動きは予測不能だ。
残党の一人が、錆びついたナイフを振り回しながら、「カラス」めがけて突進してきた。
その動きは速いが、無駄が多い。
「カラス」は、その突進を冷静に見極め、体をわずかにずらした。
同時に、ナイフを振り下ろす残党の腕を掴み取る。
――相手の力を利用し、最小限の動きで制圧する。
彼は、残党の体を、そのままシェルターの壁へと叩きつけた。
ドォン!
鈍い音が響き、残党は壁に激突し、呻き声を上げて倒れ込んだ。
ナイフが、彼の掌から滑り落ちる。
だが、別の残党が、背後から彼へと飛びかかってきた。
その手には、旧時代の鉄パイプが握られている。
「カラス」は、その気配を察知し、素早く体をひるがえした。
鉄パイプが彼の顔を掠める寸前、彼はパイプを持つ腕を掴み取る。
そして、その腕をそのまま捻り上げ、鉄パイプを奪い取った。
「グアアア!」
残党が痛みに叫ぶ。
「カラス」は、奪い取った鉄パイプを、まるでバットのように振り回した。
残党たちの間を縫うように動き、その鉄パイプで、彼らの手足や関節を的確に叩き割っていく。
ガキン!メキッ!
鈍い音と、断末魔の叫びがシェルター内に響き渡る。
残党たちは、次々と体勢を崩し、倒れ込んでいく。
彼らの動きは、狂気によって増幅されているが、同時にその狂気は、彼らの冷静な判断力を奪っていた。
(レイラに、見せるわけにはいかない)
彼は、レイラに背を向け、娘にこの光景を見せないように戦っていた。
彼の動きは、より速く、より正確になる。
一体の残党が、地面に倒れた仲間から、旧時代の拳銃を拾い上げようとしたその時、「カラス」は、その男の背後へと回り込み、鉄パイプで男の頭部を的確に叩き割った。
グシャッ!
残党は微動だにしなくなった。
残る残党は数名。
彼らは、彼の圧倒的な戦闘能力に怯え、後ずさり始めた。
彼らの顔には、恐怖の色が浮かんでいる。
「さ、退がれ! 化け物だ!」
一人の残党が叫び、仲間と共にシェルターの奥へと逃げ出した。
彼らの足音が遠ざかっていく。
激しい戦いを終え、「カラス」は荒い息を整えた。
彼の体は、痛みと疲労で限界に達している。
彼は、血の付いた鉄パイプを地面に落とした。
「パパ……大丈夫?」
レイラの声が、彼の耳に届いた。
彼女は、彼の背後から、心配そうな顔で彼を見上げている。
「ああ。もう大丈夫だ」
彼はそう言い、レイラを抱きしめた。
彼女の温かい体温が、彼の心を癒していく。
彼は、レイラの顔を見つめ、静かに語りかけた。
「レイラ……お前は、ママが残した希望だ。そして、俺が命をかけて守るべき存在だ」
レイラは、彼の言葉を理解したのか、彼の胸に顔をうずめた。
「カラス」は、シェルターの奥へと続く通路に目を向けた。
旧政府の施設。
そして、シェルターDの存在。
その全てが、彼の知る世界の変容と深く関わっている。
彼は、レイラの手を引いて、シェルターの出口へと向かった。
ここには、もう長居はできない。
「行くぞ、レイラ」
彼の声は、疲労に震えていたが、その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。
外は、もうすっかり夜になっていた。
月が、瓦礫の街を静かに照らしている。
彼は、レイラを抱きかかえ、遠くの地平線を、静かに見つめた。
「真実……そして、希望……」
彼の旅は、まだ終わらない。
だが、彼はもう一人ではない。
彼の隣には、彼が命をかけて守るべき存在がいる。
その存在が、彼に新たな力を与えてくれる。
彼らは、静かに夜の闇の中へと消えていった。
評価して頂ければ幸いです。