エピソード16:静かな夜、揺れる決意
大阪のシェルターDを後にした「カラス」とレイラは、再び荒廃した外界へと戻った。
レイラを抱きしめた腕には、彼女を取り戻した喜びと、彼女が背負うであろう「真実」の重みが宿っていた。
夕闇が迫る中、彼らはシェルターの喧騒から離れ、人目につかない場所を探した。
崩れた高速道路の高架下、辛うじて雨風をしのげそうな場所を見つけた「カラス」は、そこに簡単な野営地を設営した。
持っていたシートを広げ、リュックから最後の食料を取り出す。
「レイラ、これだけだが……」
彼は、少しだけ残っていた固形の栄養剤と、水筒の水をレイラに差し出した。
レイラは、静かにそれを受け取り、ゆっくりと口にした。
シェルターDでの「実験」の疲労なのか、彼女はまだどこかぼんやりとしている。
「カラス」は、レイラの小さな手を優しく握った。
「もう大丈夫だ。パパが、そばにいる」
レイラは、彼の言葉に、小さく頷いた。
その目には、まだ少し不安の色が浮かんでいるが、彼の存在が、彼女に安堵を与えているようだった。
食事を終えると、「カラス」は愛用の煙管を取り出した。
最後の煙草の葉を丁寧に詰め、火をつける。
深く息を吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「ふぅ……」
煙が夜の闇へと溶けていく。
周囲の瓦礫が、月の光に照らされて、不気味な影を落としている。
かつてこの場所を埋め尽くしていたはずの車の音や人々のざわめきは、今や遠い過去の残響でしかない。
彼は、懐から以前野盗から奪った粗悪な密造酒の小瓶を取り出し、一口飲む。
喉の奥を焼くような強烈な刺激が、彼の疲れた体にじんわりと染み渡る。
「……こんな味だったか」
彼はそう呟いた。
シェルターDで取り戻した記憶の中の、妻との穏やかな日々。
あの頃には、こんな過酷な酒を飲むことなど、想像もできなかった。
だが、この荒廃した世界で、この酒だけが、彼の心を僅かに麻痺させてくれる。
レイラは、彼の隣で、小さな体を丸めて眠っていた。
その寝息は、規則的で穏やかだ。彼女が安らかに眠っているのを見て、「カラス」は安堵した。
彼は、眠るレイラの顔を、じっと見つめた。シェルターDでのあの光景が、脳裏に焼き付いている。
装置の中で光を放ち、空間を歪ませていたレイラの姿。そして、白いローブの男の言葉――
「共鳴体」
「次元への親和性」
(一体、……何なんだ)
彼には、まだレイラの「能力」の全てが理解できていなかった。
妻が残した「次元転移理論」のデータは、彼には専門的すぎた。だが、レイラの体が、この世界の変容と深く関わっていることだけは、確かな事実として彼の目の前に突きつけられていた。
この荒廃した世界で、彼女の持つ「能力」は、希望となるのか。あるいは、さらなる災厄を招くのか。
彼の心には、未だ答えの見つからない問いが渦巻いていた。
彼は、煙管の煙を深く吸い込んだ。
これから、どこへ向かうべきか。
娘を連れて、どこへ行けば、彼女を安全に守れるのか。
この世界に、本当に安全な場所などあるのだろうか。
「……」
彼は、静かに煙を吐き出した。
彼の脳裏には、妻が残した研究の断片と、白いローブの男の言葉、そして、この世界の変容の光景が、ぐるぐると巡っていた。
その時、遠くの夜空で、微かに異形の咆哮が聞こえた。
それは、この世界の厳しい現実を、彼に突きつけるかのようだった。
「まだ、戦いは終わらない」
彼はそう呟き、煙管をゆっくりと灰皿代わりに使っていた錆びた缶に置いた。
娘を守るため、そして、妻が託した「真実」を完全に理解するため、彼の旅はまだ続く。
夜は更け、月は瓦礫の街を静かに照らしていた。
「カラス」は、眠るレイラの傍らで、静かに夜空を見上げていた。
彼の心には、不安と決意が入り混じっていたが、その手は、しっかりと娘の小さな手を握りしめていた。
その温かい感触だけが、彼を支える唯一の光だった。
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