エピソード11:大阪の境界、迫る影
長きにわたる旅の果てに、「カラス」はついに大阪の境界に到達した。
疲弊しきった体を引きずりながらも、彼の目は、遠くに見える巨大な都市の残骸をまっすぐに見据えていた。
そこには、娘の「シェルターD」がある。
そして、妻が託した「次元転移理論」の真実が。
大阪の入り口は、想像を絶する光景だった。
かつての主要な交通路は、地盤沈下によって大きく陥没し、巨大なクレーターと化している。
その周囲には、崩壊したビル群が、まるで巨大な墓標のように立ち並び、空気は常に重く、淀んでいた。
異形の気配が、これまでになく色濃く感じられる。
この都市が、もはや人間が住む場所ではないことを、肌で感じ取れた。
「……ここが、大阪か」
彼はそう呟き、リュックを背負い直した。
足元の瓦礫を踏みしめる度に、疲労が全身を襲う。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
彼は、旧時代の地図と携帯端末のデータを照合しながら、最も安全と思われるルートを探した。
データによると、「シェルターD」は、旧市街地にある、かつての地下鉄の駅と直結した大規模な施設らしい。
しかし、そこへ至る道は、様々な危険区域に指定されていた。
その日も、彼は朽ちたビルの屋上を伝って移動していた。
視界は開けるが、同時に周囲からの奇襲にも晒されやすい。
日差しが照りつけ、乾いた空気が喉を焼く。
水筒の中の水は、もうほとんど残っていない。
彼は、崩れた屋上の一角に身を寄せ、わずかな食事をとることにした。
リュックから取り出したのは、硬くなった保存食と、昨日サルベージで手に入れた、原型を留めていないビスケットの残骸。
味気ない食事だが、体に必要な栄養を補給する。
「ふぅ……」
食事が終わると、彼は愛用の煙管を取り出した。
煙草の葉を丁寧に詰め、火をつける。
ゆっくりと煙を燻らせる。
煙が空に溶けていく。
その煙の向こうに、娘の笑顔が、はっきりと見えた気がした。
「必ず、辿り着く……」
彼はそう呟き、煙を深く吸い込んだ。
再び、大阪の廃墟の中を歩き始めた時だった。
遠くから、何かを叩きつけるような鈍い音が聞こえてきた。そして、人の悲鳴のような声も。
「……!?」
「カラス」は警戒し、音のする方へと慎重に近づいた。
崩れたデパートの陰に身を隠し、覗き込む。
そこにいたのは、複数の野盗たちだった。
彼らは、旧時代の鉄骨や金属板で即席の「盾」と「剣」を作り、武装している。
そして、その野盗たちが囲んでいたのは、異形だった。
それは、これまで彼が遭遇したどの異形とも違う、奇妙な姿をしていた。
その異形は、全身を光沢のある黒い外皮で覆われ、まるで人間のような二本の腕と二本の足を持つ。
しかし、その頭部は歪んでおり、両腕からは鋭い刃のような爪が伸びている。
その動きは、人間のように俊敏でありながら、どこか機械的で予測不能だ。
それは、かつての「斥候型」や「硬殻の守護者」とは異なる、より進化し、知性さえ感じさせるかのような異形――「模倣者」だった。
「キィィィィ!」
模倣者が甲高い奇声を発し、野盗の一人に飛びかかった。
その鋭い爪が、野盗の即席の盾を容易く切り裂き、そのまま男の体を両断する。
「ひぃっ!」
野盗たちは怯え、後ずさり始めた。
模倣者は、一体ではない。
その背後から、さらに数体の模倣者が現れ、野盗たちを一方的に蹂躙し始めた。
「模倣者……」
「カラス」は息を呑んだ。
データチップの断片的な情報の中に、この「模倣者」に関する記述があった。
それは、次元の歪みから現れ、環境に適応し、進化を続ける異形。
通常の攻撃では、その硬質な外皮に阻まれ、効果がないとされていた。
野盗たちは、次々と模倣者の餌食になっていく。
彼らが持っていた物資も、模倣者によって貪り食われていく。
(放っておくか……?)
彼の脳裏に、その選択肢がよぎった。
野盗たちを見捨てることは、彼の旅には何の支障もない。
しかし、模倣者の存在は、彼の進む道を塞ぐ。
そして、この模倣者たちの姿は、どこか妻の「次元転移理論」と深く関わっているような、不吉な予感を抱かせた。
その時、模倣者の一体が、デパートの屋上に隠れていた「カラス」の存在に気づいたかのように、その赤い目を向けた。
「キィィ……」
模倣者が、彼めがけて飛びかかった。
その俊敏な動きは、まるで空気を切り裂くかのようだ。
――相手の力を利用し、最小限の動きで制圧する。
「カラス」は、模倣者の飛びかかりに対し、微動だにせず、その軌道を冷静に見極めた。
模倣者の鋭い爪が彼の顔を掠める寸前、彼は体をわずかにずらした。
同時に、模倣者の跳躍の勢いを利用して、その体を掴み取る。
模倣者は驚き、体勢を立て直そうと暴れるが、「カラス」はそれを許さない。
彼は、模倣者の体をそのまま屋上の崩れた鉄骨の柱へと叩きつけた。
ガシャアッ!
硬質な外皮が鉄骨に激突し、鈍い音が響いた。
模倣者は呻き声を上げるが、その体はすぐに起き上がろうと蠢く。
しかし、「カラス」は追撃の手を緩めない。
彼は、その体に全体重を乗せ、模倣者の腕の関節を逆方向に捻り上げた。
メリッ!
不快な音が響き、模倣者の腕が不自然な方向に曲がる。
異形は甲高い悲鳴を上げた。
その外皮は硬いが、関節部は、鍛えられた「カラス」の技には耐えられなかった。
だが、残りの模倣者が、次々と彼へと迫ってきた。
その数は、4体。彼らは、まるで闇に溶け込むかのように、瞬時に距離を詰めてくる。
「数が多い……」
「カラス」は、屋上の崩れたアンテナの残骸へと目を向けた。
アンテナは、腐食しているが、まだ頑丈な金属製だ。
彼はそれを掴み取ると、次の標的へと向き直った。
まず、一体の模倣者が、彼の足元を狙って鋭い爪を振るってきた。
「カラス」は、その攻撃を、アンテナで受け流す。
金属が擦れる音が響き渡る。
その反動を利用し、アンテナをまるで棒高跳びの棒のように地面に突き立て、大きく跳躍した。
彼は、空中で体をひるがえし、模倣者の頭上へと着地した。
その勢いのまま、手にしたアンテナの先端を、模倣者の頭部と首の接続部分の、外皮の隙間へと、渾身の力を込めて突き刺した。
グシャッ!
異形の甲高い悲鳴が響き渡り、模倣者は痙攣しながら地面に倒れ伏した。
残るは3体。
彼らは、仲間の死に動揺したのか、動きがわずかに鈍った。
「カラス」は、その隙を逃さない。彼は、倒れた模倣者の体に足をかけ、まるでスプリングボードのように跳び上がる。
そして、屋上の分厚いコンクリートの破片へと飛び乗った。
「キィィィ!」
模倣者たちが、彼めがけて飛びかかってくる。だが、その動きはまだ鈍い。
「カラス」は、コンクリートの破片を、まるで巨大な投石機のように足で蹴り飛ばした。
コンクリートの破片が、勢いよく模倣者たちへと飛んでいく。
ガシャアアッ!
コンクリートの破片が、模倣者の一体に直撃し、その体を地面へと叩きつけた。
異形は、激しい音を立てて倒れ込む。
残るは2体。
彼らは、完全に戦意を喪失し、闇の中へと逃げようとする。
だが、「カラス」はそれを許さない。
彼は、パイプレンチを構え、逃げる模倣者たちを追い詰める。
一体の模倣者が、瓦礫の隙間へと逃げ込もうとしたその時、「カラス」は、その背後からパイプレンチを振り下ろした。
狙いは、脊椎の最も弱いと思われる部分。
ドゴン!
模倣者の体が大きく跳ね上がり、そのまま動かなくなった。
最後に残った一体は、完全に怯えきっていた。
彼は、模倣者の目をまっすぐに見据え、ゆっくりとパイプレンチを構えた。
模倣者は、怯えるように後ずさり、やがて瓦礫の陰へと逃げ込んだ。
「……」
「カラス」は追撃しなかった。
彼の目的は、討伐ではない。
激しい戦いを終え、「カラス」は荒い息を整えた。
全身に疲労が押し寄せるが、彼は野盗たちが残していった物資へと目を向けた。
使い物にならないものも多かったが、幾つかの食料と、わずかな水、そして、まだ使える旧時代の小型無線機を見つけた。
彼は、無線機を手に取り、電源を入れた。
ノイズが響くが、僅かに通信が可能なようだ。もしかしたら、シェルターDとの連絡手段になるかもしれない。
「カラス」は、瓦礫の山に腰を下ろし、手に入れた食料を口にした。
味はしないが、疲弊した体にエネルギーを補給する。
そして、愛用の煙管を取り出した。
煙草の葉を丁寧に詰め、火をつける。
煙がゆっくりと、空へと吸い込まれていく。
その煙の向こうに、娘の笑顔と、妻の真剣な表情が浮かんでくる。
「……もう少しだ」
彼はそう呟き、煙管を深く吸い込んだ。
大阪の深部へ。
シェルターDへ。
彼の旅は、まだ続く。彼の目に宿る光は、決して消えることはなかった。
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