プロローグ2
“この世界”において、精霊の森と呼ばれるエルフの生息域では、数多くの水路が張り巡らせられている。
それは、彼ら彼女らにとっての日々の糧を得るための狩場、そして生活の場でもある湿潤な大森林地帯を維持するインフラであると同時に、他種族においては高い壁で形成される防壁としての役割を果たしていた。
すっかり夜の帳も降りて久しく、先ほどまでポツポツと漏れ出ていた窓明かりも、櫓に焚かれていた見張り用の篝火もすべて消え去り、森の中は暗闇と静寂に包まれていた。
そんな森から少しばかり外れた、小高い丘の中ほどに一つの影が浮かび上がっていた。水路の水源となっている湧泉のほとりだ。
月にも似た、空に浮かぶ大小複数個の衛星から放たれている青白い光に照らし出されたその姿は、“この世界”には似ても似つかないガスマスクと、濃い緑色をした防護服を身にまとっていた。
「バートラムより各位、作戦推移を報告」
森の方に視線を向けたまま、マスク内のインカムに無機質な声を掛けた。
『ディミトリウス、間もなくガス散布終了』
『プロスペロー、同じく』
似たような声がヘッドセットに帰ってくる。
「了解」
精霊の森は、四方を丘陵や山岳に囲まれた盆地になっている。故に空気よりも重い気体はエルフたちの住む地域に滞留する。集住する性質を持つエルフたちを殲滅するには、化学兵器が効果的だ。
ガスマスクの男、バートラムも自分の仕事を始める。
足元に置いておいた液体ボンベの口を、こんこんと湧き出る湧き水に浸し、少しずつバルブを緩める。圧縮ガスと共に内封されていた枯葉剤が噴き出し、水と混ざりながら下流へ流れていく。やがては森林地帯の水路へと広がっていくだろう。
謹製の特別な薬剤だ。一両日もすれば、下流域に広がる湿潤な森林地帯に染み渡り、樹木の枯死を引き起こしていく。エルフ族らが神聖視している、精霊樹と呼ばれる樹木も例外ではない。
『バートラム、こちらのガス散布作業は終了した。そっちは?』
インカムから焼けたような、しわがれた男の声が聞こえた。同僚のプロスペローのものだ。防護服越しにマイクスイッチを押し、答える。
「こちらも、もう終わる」
ボンベの内容量を示すゲージの針がゼロを指し示していることを確認し、ボンベを水の中から引き上げ、口を封印する。
「カタリーナの方は? 報告がないようだが?」
プロスペローに同行させた、今回が初仕事の新人だ。本来ならば彼女からも定時連絡があるはずなのだが……。
『ああ……。過呼吸だな、息切らして突っ伏している』
周波数を彼女、プロスペローのマイクに割り振られているチャンネルに合わせると、全速力で走った後の様な呼吸音が聞こえた。呼吸音だけではない、必死に胃の底からこみあげてきているモノを抑える様な声も漏れ聞こえた。
もう一度周波数を切り替え、再びプロスペローにチャンネルを繋ぐ。
「仕方ない、そちらでフォローして連れて帰ってもらえるか?」
『了解した。ああチクショウ。新人のお仕事で、いきなり大量殺戮なんてロクなもんじゃない。こちらで連れて帰っておく。それじゃあ、本部で』
そういうとブツリと無線は切れた。
すっかり軽くなってしまったボンベを、バイオハザードシンボルが毒々しい色でプリントされたケースに仕舞い込む。漏れが無いようにしっかりと密閉されていることも確認した。
これで仕事は終わりだ。腕に装着していた情報端末を起動する。事前に登録してあったアカウントをタップし、無線に繋ぐ。画面に示されたアカウントマークが赤から緑へと変化した。回線が開かれたことを示していた。
「バートラムより本部、“門”の開放を要請」
一方的にそう言うと、間髪を入れずに『了解』とのテキストメッセージが送られてきた。
数秒ほどで、何もなかったはずの虚空に変化が訪れ始めた。空気が高温で熱せられたかの様にぐにゃりと歪んだかと思えば、そこまでそこには存在しなかったはずの“扉”が現れた。
少し古めかしいオフィスにあるような、回転ノブの付いた白い扉だ。扉を開けばその向こうには夜風に揺れる丘陵ではなく、白光に包まれた空間が広がっていた。
最後にもう一度、装具を点検。“この世界”に忘れ物でもしていないかと確認すると、その扉に足を踏み入れた。
無機質な音を響かせて扉が閉められると、出現したときの同じ様に忽然と扉は消え去っていった。
ぞっとするような静寂だけが残された。
風の音も、虫の声も、人の営みも、生命を感じさせるモノは、そこにはもう一つとして残っていない。