プロローグ1
決して広いとは言えない、丸太で組み上げられた教会の中で、一人の少女が祈りを捧げていた。
腰まで届く程に伸ばされた金色の髪は緩く編み込まれ、その肢体は貫頭衣にも似た、ゆったりとした服に包まれている。服の裾には幾何学的な文様が編み込まれ、それは彼女が跪く床の敷物にも同じものが見られた。
「森の精霊神よ、今日一日の収穫と安寧を感謝いたします……」
ほっそりとした手指を胸の前で組み、鈴のような声で紡がれる祈りの言葉が向けられた祭壇には、彼女らの信仰する森の神を象徴するシンボルが飾られている。
「まだ起きておったのか……」
そんな祈りを捧げる少女の後ろから、年かさのいった、しわがれた声が聞こえてきた。
少女が振り向くと、彼女と同じような服装をした小柄な老婆が、教会の扉を開けて彼女を見ていた。
「御ばば様、もう終わりますよ。御ばば様こそ眠られていらっしゃらなかったのですか?」
手早く残された祈りの文言を呟き、胸の前で服の裾に書いてある模様と同じ形を、空になぞる。
これで一通り祈りの儀式は終わりだが、彼女は最後に祭壇に置いてあったシンボルとはまた別の、小ぶりな木箱を愛おしそうに撫でてから、教会を後にした。
「……若い者たちと違ってね、わしらは夜の闇に未だ慣れん。この精霊の森も平和になって、魔の者たちの足音に怯えんでもよいと分かっていてもの」
少女が外に出ると、老婆は静かにそう呟いた。その顔にはどこか申し訳なさと一緒に恥じるような感情を浮かべている。
今では穏やかなる加護によって、皆が健やかに過ごすことの出来ているこの森も、ほんの少し前までは外界から襲い掛かって来る魔物たちによって脅かされることが日常だった。森の戦士たちは得意の弓を手に抗ったが、それでも犠牲が出ることは、避けては通れなかった。
しかしそれも昔の話だ。今では夜に魔物の遠吠えを聞くことなど無く、穏やかな水路のせせらぎと、奏でる様な鳥や虫の声が、静かに響くのみであった。
「それよりも、今夜は少しばかり冷えが早い。早く家へ帰んなさい」
老婆が言うように、季節外れの涼風、いやもう少しで寒風と言っていい温度の風が吹いていた。少女も、そして老婆も、その特徴的な尖った耳の先端が少しばかりかじかみ、赤みを持っていた。
老婆と別れ、欝蒼とした森の中を歩く。所々に教会と同じ造りをした丸太組みの家々が点在していた。先ほどの教会を中心として、水路や精霊樹をなぞる様に、彼女たちエルフはこの精霊の森に集落を築いていた。そのうちの一軒、木の根を利用した住処に彼女は入っていく。
「お姉ちゃんおかえりー」
そっと扉閉めた部屋の中から、幼さを持った声が聞こえた。
眠そうな目をこすりながら、少女ををいくぶんか幼くしたような子供が枕をつかんだまま、少女を出迎えた。彼女の妹だった。
「ごめんね、遅くなっちゃったね。すぐに寝ましょうか」
妹の手を引き、少女は寝室へと向かう。二人で一緒のベッドへと潜り込み、暖かな毛布をかぶる。
「ねぇお姉ちゃん」
扉から入ってきた外の空気を吸ったためだろうか、少しばかり目が冴えてしまった妹の方が、おずおずと口を開いた。
「なぁに?」
「昨日のお話、続きを聞かせて?」
「もう、明日も早いんだから少しだけよ」
目が冴えたと言っても、意識の半分はまどろみの中に沈めているようで、話を始めればすぐに眠りにつくだろうと少女は語り始める。
「ええと、昨日はどこまで話したかしらね……」
「えっとね、南の魔女が操る土人形を倒したところまでー」
「そうだったわね。南の魔女を倒して、魔王が住むお城の鍵を手に入れたところまでは覚えてる?」
「覚えてるー」
「魔王城の大きな扉を開けてね、お姉ちゃんは勇者様や騎士様たちと一緒に魔王の城に入ったの。魔王の城は絵本のように魔物が沢山いたんじゃなくて、魔王が一人ぽっちで住んでいたの」
小さな灯明でほの暗く照らされた室内で、昔を懐かしむ目をしながら語りは続く。
「魔王は私たちを見つけると、とてもとても怖い顔で私たちに襲い掛かってきたの。大きな声、泣きじゃくる子供のような声、色んなものが混じったような、怖い怖い声をしていたわ」
少し声を低く落としすぎたのか、妹の方は寝ぼけ眼をこすりながら真剣に彼女の話に聞き入っているようだった。それに気づき、声のトーンを元に戻し、そっと妹の頬を撫でる。
「魔王はね、とっても強かったわ。色んな魔法も、いろんな武器も試してみたけど……」
そう、エルフに代々伝わる高位魔法も、騎士たちが繰り出す斬撃も、魔王には通用しなかった、ただ一つ、ただ一つだけを除いて。
「私たちが動けなくなっていく中で、勇者様だけが戦い続けていたの。勇者様の剣だけは魔王に傷をつけられていたわ。それでもやっぱり分が悪かったのね、最後には自分自身を犠牲にする技を使ってね……」
哀しさを含んで紡いだ声は、穏やかな吐息で途切れた。話に夢中になっているうちに、いつの間にか妹は寝入ってしまっていた。その寝顔を見て彼女は優しく微笑んだ。
懐かしむ様に彼女は過ぎ去りし時を思い出す。初めて勇者がこの森に召喚された時の事。服を着替えさせ、言葉を教えた時の事。王都で、やがて恋敵となる最愛の友人たちと出会った事。
勇者様は魔王と共に消え去ってしまった。それでも、この世界に残していってくれたモノもある。勇者にもらった新たな命を感じながら、膨らんできたお腹をさすりながら、彼女もまた妹に続くように、まどろみの中に沈んでいった。
すっかり夜も更けてしまっていた。いつもであれば美しく奏でられている夜虫たちの鳴き声も聞こえず、静寂に包まれていた。