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発見

 妙高は相変わらず大夢の調査を続けていた。これこそ彼女の真骨頂である。謎があるのにあきらめてたまるかの心意気である。

 そうしてようやく大夢の出産に立ち会った看護師を探しだす。やはり出産は大学病院で行われていたのだ。こうなると何か彼の出生に関して、秘密があるのは間違いが無いことになる。その看護師は以前と同じ大学病院にいた。

 正攻法で取材をしても、個人情報の観点から撃沈することは目に見えている。

 妙高は大学病院前の広々とした広場をうろうろしながら作戦を練っている。しばらく考えて犯罪ギリギリ、いや、レッドカードものの方法を思いつく。

 そして決意と共に病院の受付まで行く。

 さすがに地域随一の大学病院でもあり、一階フロアは実に広々としている。患者の受付窓口もなんと5つもある。ただ近年、病院のすみ分けも進み、大学病院受診可能な患者のみのため、昔ほど込み合ってはいない。すんなりと受付に話が出来る。

「文京区の職員をしております、妙高と申します。現在、過去の出生届の調査をしておりまして、平成25年度分に疑義が生じております。当時の看護師でした阿部翠様にお話を伺わせていただいたいのですが」

 何か資料を見ながら話すふりをすると、受付嬢はすんなりと信じ込んだようだ。すぐに担当者に確認の電話をしてくれる。

「今、参るそうです。そちらにおかけください」

 そういって近くの長椅子を勧める。

 緊張気味に待っていると、40歳後半の看護師が受付に顔を出す。受付嬢が妙高に向けて手を差し伸べ、立ち上がった妙高は挨拶しながら自己紹介する。

「文京区の戸籍住民課妙高と申します」

「阿部です。なんでしょうか?」顔には不信感がみなぎっている。

「はい、実はですね。文京区で保管しております平成25年度の出生届に紛失がありまして、現在、事後処理として当方で再作成を行っております」

「はあ」依然として怪訝そうな顔をする。

「戸籍簿には間違いなく、記載されているとは思っておるのですが、一部に疑義も生じておりましてその確認をさせてください。お時間は取らせませんので」

「わかりました。じゃあ、そちらのミーティングルームに行きましょうか」

 阿部は信じたようで、パーティションで区切られた部屋に案内される。まずは第一関門突破だ。

「文京区のほうでデジタル化を進めておりまして、過去の文書を電子化し、システムに入れ替えております。その際に一部、紛失があることがわかりました。それで確認の意味でこうして参っております」

 阿部はうなずく。ようやく怪訝そうな顔が無くなる。妙高は大夢の資料を阿部には見せないようにして確認する。

「平成25年度の出産で櫻井大夢様がこちらの病院で出産された記録があります」

「ああ、櫻井先生の息子さんですね」

「ご存じですか?」

「はい、櫻井先生はこちらの病院で勤務されていた方です」

「そうでしたか、では話が早いですね。それで父母の名前ですが父親は櫻井浩之で、母親は櫻井美野里で間違いないですね」

 ここで阿部が心もとない顔になる。「そういうことですか、確認されるということですね。それではこちらにある資料を持ってきます。少しお待ちいただけますか?」

「はい、大丈夫です」

 そういうと阿部は職場に戻っていく。妙高はガッツポーズを出したいくらいだ。うまくいった。

 少し待つと阿部が戻って来る。資料のようなものを持っている。

「お待たせしました。そうですね。奥様は美野里さんです」

「出産場所はこちらの病院ですね」阿部がうなずく。

「こちらの先生ということは、出産も先生が立ち会われたんですね」

「櫻井先生は産婦人科ではありませんが、ただ、当日は立ち会われたと記憶しています」

「そうですか」そうだったのか、産婦人科医だと思い込んでいた。「浩之さん43歳、美野里さんが39歳ですね」

 すると阿部が少し怪訝そうな顔になる。

「どうかされました?」

「いえ、そこまでお歳だったかしら」

「美野里さんですか?」妙高も資料を確認する。確かに39歳で間違いない。

「ええ、もっとお若いかと思ってました」

「そうなんですか?」

「ええ、私もこちらの病棟に来たばかりだったので、よく覚えてるんです。櫻井先生の奥様はずいぶんお若い方だなってみんなで噂してました」

「20歳ぐらいに見えたんですかね」妙高は何かに引っかかる。

「いえ、そこまでは、でも20代には見えましたよ」

「何か証明できるようなものはお持ちじゃないですよね」

「証明ですか、そこまでにはならないかと思いますが、実は当時の資料の中に写真が残ってました。記念撮影したものですけど」

「見せていただくことはできますか」

「いいですけど」そういって写真を出す。

 妙高は息が止まりそうになる。ベッドで赤ちゃんを抱いている写真の人物は美野里ではない。恐らくこの人は佐和子だ。写真にはあの屋敷で会った佐和子の面影がある。もしかすると姉妹がそっくりだということかもしれないが、年恰好から言ってこれは佐和子と考えるべきだろう。しかし、これはいったいどういうことなのだろうか。妙高は興奮が顔に出ないように気を付けながら話す。

「なるほど、となると出生届に不備があったんですかね。年齢を間違えたのかもしれませんね。確かに20代に見えますね」

 そこで阿部は当時の資料を見直す。「ああ、いえ、間違いないですね。美野里さんと記載されてますから、それに先生が奥様を間違えるはずがありませんから」

 この隙に妙高はスマホで写真を隠し撮りする。貴重な証拠だ。阿部が顔を上げると何食わぬ顔で話す。

「確かにそうですね。では年齢を間違われたんですかね」

 阿部はさらに資料を見て、「ああ、こちらの記録にも確かに39歳とありますね。不確かなことを言ってすいません」

 妙高は詳細を知るためにさらに質問をしてみる。

「私も高齢出産の歳になっています。美野里さんは当時39歳で初産ですよね。それなりに苦労されたんですかね」

 阿部が少し怪訝そうな顔になる。妙高はすかさずフォローする。

「ああ、すいません。個人的に参考にしたかっただけなんです。看護師のお話だと信用できるものですから」

「そうですか。39歳ですと確かに妊娠の可能性も低くはなりますね。櫻井先生もそれなりに不妊治療はしていたのかもしれませんね」

「そうですよね。でも先生は専門家ですから、その点では安心ですね」

「そうですね。櫻井先生の専門は生命科学だったかしら、それなりに医学知識はお持ちでしたから、対処は為されたとは思います。具体的にはわかりません」

「失礼しました。そうですか」さて、どうしようと妙高は考える。これ以上こんな感じで話を聞くのは不自然だ。何かないのか、聞ける話は、と突然、ひらめく。

「あと、確認ですが、美野里さんは翌年に死去されています。こちらについては何かご存じないですか?」

「ああ、そうでしたね。そちらにも疑義があるんでしょうか?」

「いえ、そういう意味ではないですが、お若いのに産後の問題でもあったのかと思いまして」

「病死だと聞いていますよ。ただ、密葬ということで我々は葬儀には参加していません」

「そうでしたか、こちらの先生の関係者でもあり、なおかつこちらでご出産されたのにね」

 これは妙高の賭けだった。阿部の年齢だと、自分も含め、こういう話題は話したくて仕方がないはずなのだ。むずむずするのだ。今の阿部もそう言った顔になっている。もう少しなのだ。何とか引き出せないか。

「密葬にする理由でもあったんですかね」

「あの頃の噂ですけど、自殺じゃないかって話もありましたかね」

「そうなんですか、あの当方で確認した限りは死亡診断書は病死になってます」

「ああ、まずかったかな。今の話は忘れてください」

「いえ、文書を修正すると言った話ではないのでそれは構いません。そうですか、自殺だったという噂ですね」

「そうですね」阿部は仕事に戻ろうという体制になっている。

「えーと、大夢さんはその後、町田佐和子さんの養子になっています」

 阿部が不思議そうな顔をする。「町田佐和子さんですか?」

「ご存じないですか?」

「ええ、知りません」

「櫻井先生が亡くなったのはご存じですよね」

「はい、存じてます」

「それで美野里さんの妹である佐和子さんが引き取ったんです。その時に町田姓になってます」

「そうでしたか、妹さんがおられたんですね」

「通常、姉の出産に妹さんが来られないのは不思議ですね」

「そうですね。まあ、姉妹でも色々ありますからね。あのよろしいですか?」

「はい、長々とありがとうございました。これでなんとか修正できます」

 それでは、と阿部は職場に戻っていく。

 妙高は先日石嶺から見せてもらった美野里の写真を確認する。確かに顔が違うのがわかる。しばし唖然とする話ではないか、大夢の母親は佐和子ということになる。それは何を意味するのだろうか、そしてなぜ美野里は自殺したのだろう。単に浩之が浮気したということなのだろうか、それなら離婚するとか、別の話になる気がする。どうやればその謎を解くことが出来るのか、妙高はどこから手を付ければいいのかを必死に考える。


 そしてまずは美野里の友人であった石嶺洋子に電話連絡をする。彼女も事の真相を知りたがっていたからだ。

「美野里さんが出産した時の看護師に話を聞きました」

『そうですか、何かわかりましたか?』

「ええ、大変なことがわかりました。実は大夢君の母親は佐和子さんだったようなんです」

 しばらく石嶺は無言だった。『どういうことですか?』

「看護師さんの持っていた写真を見せてもらいました。大夢君の母親としてそこに写っていたのは佐和子さんでした」

『それは間違いないですか?』

「ええ、先日、石嶺さんから見せていただいた美野里さんとは別人です。私、佐和子さんとは面識があるんです。恐らく間違いないと思います」

『そんなこと』再び石嶺は絶句する。

「美野里さんにお子さんが出来なかったことは聞きました。それと佐和子さんがどう絡んでいるのか」妙高は石嶺の答えを待つ。

『男女の話なので細かくはわかりません。ただ、私が知る限り、浩之さんは浮気だとかそういうことはできない人だと思います。まして佐和子さんは妹ですから』

「そうですか、つまりは美野里さんも了解していた事項だということですか?」

『もし、妙高さんがおっしゃるように佐和子さんが母親ということならば、そうだと思います』

「でもなぜそんなことになったんでしょうね」

 再び石嶺が黙りこむ。妙高は静かに待つ。

『まったく意味のない話かもしれません。美野里さんが亡くなった後、焼香に行ったんです』そういえば密葬だったと聞いた。石嶺は個人的に行ったということか。

『浩之さんと会って話しましたが、言葉は少なかったんですが、一言、悪いことをしたと言われていた気がしました。あまり細かい話は聞けなかったのですが、当時は何かあったのだろうな程度に思っていました』

「そうですか、浩之さんは後悔していたんですね」

『そうですね。この辺の事情は佐和子さんしかわからないのではと思います。もう生きているのは彼女だけですから』

「そうですね。わかりました。色々とありがとうございました」

 妙高は電話を切って考えをまとめようとする。大夢の出産に何かあったのは間違いが無い。ただ、その話を佐和子さんがしてくれるだろうか、今にして思えば先日会った佐和子さんは何かの重責を担って生きている、そんな印象を受けた。過去を背負って生きているような人間が簡単に話をしてくれるとは思えない。

 さて、どうしようと再び考え込む。妙高の悩みは尽きない。


 本日予定の聞き込みを終えた冷泉は久々に早めの帰宅となる。それでも周囲はすでに薄暗くなっている。この時間に帰宅できたのはいつ以来だろう、今回の帳場が立って2カ月になるが、おそらく初めてかもしれない。

 いつものシャワーではなく、今日こそは湯船につかろうと自宅に急ぐ。

 すると携帯が鳴る。表示を見ると珍しいことに『公衆電話』とある。

「はい、冷泉です」

『ああ、助けてくれ』声が切迫しているのがわかる。

「はい?どちら様ですか?」

『小田部だ。この前会っただろ』

 小田部は番地池事件で運搬係の情報を流した男だ。

「どうしました?」

『殺される。助けてくれ』ひどく慌てている。

「今、どこですか?」

『それは言えねえよ。これも盗聴されてるかもしれねえ』

「どういうことですか?」

『ほんとのこと言うよ。俺が番地池の運搬係をやったんだ。それで殺される』

 なんということだ。運搬係が小田部だったのか。「どうすればいいですか?」

『この前会った場所に来てくれ。そこで俺を保護してくれ』

 確か八王子のコーヒーチェーン店で会ったのだ。盗聴されているから具体的な場所が言えないというのか。

「わかりました。すぐ行きます。ただ、ここからだと1時間はかかると思うので、まず鮫島を行かせます」

『なんでもいい。とにかく早く来てくれ』電話が切れる。

 冷泉はすぐに鮫島に電話をする。鮫島は了解し、神保達とコーヒーチェーン店に急ぐそうだ。武蔵大和署からだと、30分では着くだろう。さらに保科にも連絡をし、自身は急いで電車にて現地に向かう。

 小田部自身が運搬係だったとは迂闊だった。なぜ、彼が言うことを簡単に信用してしまったのか、後手を踏んでしまった。保科も責めることはなかったが、内心同じことを思ったはずだ。口惜しさがこみ上げる。

 それにしても小田部が恐れる犯人はどういう人間なのだろうか。彼が言うように本当に盗聴などしているのだろうか。そしてそこまでのことが出来るというのか、にわかには信じ難いが、しかしあながちない話でもないかもしれない。保科が言うように組織的な動きをしている。これまでの動きからして得体が知れない連中だということは間違いが無いのだ。


 鮫島達、犯罪対策課が緊急車両で八王子に急ぐ。運転するのは鮫島だ。 

 佐藤係長が聞く。「鮫島、小田部ってのは情報提供者じゃなかったのか?」

「そう思ってました。だまされてました」

「まったく、冷泉と二人して抜けてるな」二宮がここぞばかり容赦のない非難を浴びせる。ただ、鮫島に返す言葉は無い。確かにその通りなのだ。どうして素直に信じてしまったのだろう。十分怪しい人物だったのだ。

 周囲は夜の様相を醸し出している。八王子駅前は帰宅を急ぐ通勤客でごった返している。サイレンを流しながら、車は八王子のコーヒーチェーン店前のロータリーに到着する。周囲の連中は何事かと大騒ぎになる。

 車から勢いよく鮫島が飛び降り走っていく。店は8階建てビルの2階になる。

 コーヒーショップはチェーン店ということもあり、この時間は客でごった返している。夕食を取る人間もいるようだ。

 真っ先に到着した鮫島が店内を見回すも小田部はいない。

 カウンター内にいる男性店員に声を掛ける。

「警察です。この男を見ませんでした」そう言って小田部の写真を見せる。

 作業中の店員がそれを見て言う。「ああ、おられましたよ。手前の席に座っていたはずですが」鮫島が確認するがそこには女子高生が数人いるだけだ。「あれ、いないな」

 鮫島はその女子高生グループに突進していく。

「君たち、この人見なかった?」

 いきなり飛んできた女にたじろぎながら答える。「あ、さっきまで居たけどどうしたのかな」

 すると隣の女子が答える。「何か、急いで出て行ったよ」

「出て行った?」

「なんか泡食ってそこから出て行った」

「後ろから」鮫島が見ると出口が入口とは反対側にある。すぐさまそこに急ぐ。

 鮫島が出口を出たところで古参連中が追い付いて来る。二宮はすでに息が切れている。

「鮫島、どうなった?」

「店を出たそうです」

 突然、悲鳴が聞こえる。恐らく非常階段のそれも上の方からだ。

 鮫島は再び脱兎のごとく階段に向けて走り出す。

 二宮たちはフロアーにあるエレベータに急ぐ。鮫島はエレベータには目もくれない。奥の非常階段から上に向かって、2、3段抜かしで駆け上っていく。ただ、もう悲鳴は聞こえない。ホシが登っていく音だけが聞こえる。それは上へ上へと向かっていく。この先には屋上しかないはずだ。間違いなく捕まえられる。

 エレベータ前で待つ残り三名は全く来ないエレベータに文句を言っている。確かに一基しかないうえに極端に遅い。さらに客も多いのか各階で停まる。ここは多目的ビルでもあり、店舗数が多いのだ。

 神保が言う。「階段で行くしかないな」

「マジですか?」二宮が言う。

「当たり前だ。鮫島をフォローだ」

 ようやくおじさんたちと若年寄一人が階段で登っていく。ただし、全員、鮫島の3倍は遅い。

 鮫島は8階フロアーまで来る。さらに階段は上に伸びており、屋上に抜ける扉があった。そして今やその扉は開け放たれていた。

 すばやくそこから屋上フロアーに出る。

 屋上はただのコンクリート敷きの状態だった。周囲には2m程度の金網フェンスがあり、点灯はしていないがライトもある。以前は料理でもしたのだろうかテントもあり、おそらくここではビアガーデンが行われていたらしい。ただ今は何もない。

 薄暗い屋上フロアーの奥にそいつは居た。

 ひさし付きキャップと目出し帽、さらにサングラスで顔がわからない。その上全身に黒い軍服のような服を着こんでいる。暗い中、黒しか判別できない。

 そしてそいつが片手で掴んでいるのは小田部のようだ。小田部の腰のベルトを右手一本で掴んでいる。ただ、小田部はすでにぐったりとしており、おそらく相当なダメージを受けている。

「観念しろ」鮫島が近づいていく。

 賊は何も言わずにただ、立っている。

 鮫島が間合いを詰めようとした段階で、賊が小田部を捨てて構える。

 鮫島ははっとする。こいつは出来る。格闘家の野生の勘で理解する。

 構えは鮫島と同様、マーシャルアーツ系のようだ。半身に構えて鮫島を待つ。

「抵抗するな」鮫島は決まり文句を言うが、無駄だとはわかっている。この賊から出る殺気はこれまでに感じたことのないものだ。いわば本物の殺人鬼が持つものだ

 鮫島が間合いを詰める間もなく、一瞬だった。鮫島は防ごうとした右腕に凄まじい衝撃を受け、さらに顔面にも打撃を受ける。これは腕を折ったうえに顔面までパンチが到達したことを意味する。ただ、その動きは全く見えなかった。この速度はいったい何なのだろうか、攻撃された事実さえわからないほどだ。

 その頃になってようやく、古参連中が屋上に集まって来る。

「鮫島!」二宮が叫ぶ。

 すでに鮫島は片足を付いて、防御姿勢しかできていない。

「動くな。撃つぞ」神保が拳銃を構えて威嚇する。

 賊はゆっくりと小田部を掴むと、いきなり金網を越えようとする。

「待て!」神保が叫ぶが、賊はそれを無視して、小田部を抱えたままフェンスを乗り越えていく。

 そして消えた。

 負傷した鮫島が必死で追う。そしてフェンス越しにとんでもないものを見てしまう。

 賊は小田部と一緒に下まで落下していく。そして地上に届く寸前に小田部を踏み台にし、上方に飛び上がる。落下速度と自身の上昇速度で衝撃を無効化しようとしている。

 小田部が鈍い音とともに地上に激突する。そして賊はその横に滑らかに着地する。まるで体操選手の着地だ。

 ここは8階建てなのだ。少なくとも20m以上はあるだろう。通常の人間業ではない。

 そして賊は何事も無かったかのようにそのまま裏通りを走り去っていく。

 刑事たちは為す術もなく屋上のフェンス越しにその光景をみていた。

 鮫島は痛む右腕を抱えるようにして、その賊が走り去るのをただ見ることしかできなかった。


 1時間後、小田部の遺体はブルーシートで覆われており、周囲はロープで囲われて立ち入り禁止となっている。その周辺は野次馬でごった返している。

 検視官が検死を終えて捜査員の所に戻って来る。

 鮫島は病院に行くのを拒んで現場に残っている。とにかく状況を確認したいのだ。見るも無残な姿で右手は完全に骨折しており、顔面は腫れあがっている。

 検視官が神保達に言う。「最初に首の骨を折られたみたいだ。即死だと思いますよ」

「落下の衝撃じゃないってことですね」神保が聞く。

「そう、落下の衝撃で他の部位も粉々だけどね」

「ホシの痕跡はないですかね」

「何もない。ここにあるのは小田部の部位だけだな」

 神保は屋上を見上げる。先ほど聞いた話だと屋上からは26mあるそうだ。あんなところから飛び降りて傷一つないとは恐れ入る。

 神保が鮫島に言う。「俺たちは人間専用の刑事だ。怪物用じゃないからな」

 鮫島は唇をかみしめる。まさに手も足も出なかったのだ。

「鮫島、ホシと対峙して何か気付くことは無かったか?」

「見た感じはそれほどの大男ではないと思いました。むしろ私と同じぐらいの体格だと油断したんです」鮫島は腕の痛みなのか、それとも敗北感からなのか苦痛の表情を浮かべる。

「ただ、動きはありえなかった。いまだかつてあの速度で攻撃を受けたことは無いです」

 そこに冷泉が到着する。ロープをくぐって近くに来る。

「遅くなりました」鮫島の様子を見て愕然とする。「ゆき、どうしたの?」

「駄目です。手も足も出ませんでした。ホシは屋上から飛び降りたんですよ。それも無傷で」

 冷泉が呆気にとられる。「どういうこと?」

 神保が答える。「おそらく、最初から飛び降りる気だったんだろ、小田部をクッション代わりにしてな。自分はそれで落下の衝撃を和らげる」

「本当に屋上から飛び降りたの?」

 鮫島が言う。「全員が見ました。地上に到達する寸前に小田部を下に蹴る要領で自身の衝撃を無効化したんです」

 神保が続ける。「この通りは、表通りとは違って人気が極端に少なくなる。それを見越してここに飛び降りたんだろ、そしてこの裏通りから逃げることは簡単だ」

 裏通りから少し行くと道路がある。そこに車があれば簡単に逃げることは可能となる。

「そこで誰かが待っていたんですかね」

「どうかな」

「防犯カメラはあるんですよね」

「ああ、数台ある。後で解析する」

 冷泉も屋上を見上げる。にわかには信じがたい話である。


 この事件を機に再び捜査本部は武蔵大和署に戻る。

 翌日、早速捜査会議が開かれる。鮫島は顔面は打撲だけだったが、右腕は骨折していた。今はギブスで固定されている。その三角巾が痛々しい。

 署長の音頭で会議が始まる。

「それでは昨夜の小田部真治殺害事件について報告をお願いする」

 佐藤係長が代表して報告する。

「武蔵大和署佐藤から報告します。昨夜18時に本庁捜査一課冷泉宛にマル被、小田部から電話が入りました。マル被は公衆電話を使ったようです。調査したところ、マル被はすでに携帯を処分したようです。理由については知人の話ですと、居場所がバレるのを恐れていたそうです」

 本部長が質問する。「それはどういうことだ?」

「携帯を使うことで居る場所が判明し、ホシが殺しに来ることを恐れていたようです」

「携帯を使うと居場所がバレるとはどういうことだ?」

「ホシはそういうことが出来るものだと思っていたようです。その根拠は不明です。さらに居場所も転々としていたようです」

「どうして小田部は殺害されると思い込んだんだ。警察にも番太池の運搬係についての情報を平気で流していただろう」

「そうなんですが、確かに最近になって急にそう思うようになったようです。その辺の事情はこれから掴んでいきます」

 本部長はあきらめる。「わかった。報告を続けてくれ」

「はい、マル被はホシに殺害される恐れがあることで、冷泉に自身の保護を依頼します。その時に初めて自分が番太池の運搬係であったことを話しています。冷泉は都内にいたことから武蔵大和署に対応を依頼します。マル被は待ち合わせ場所については、以前打ち合わせした場所とだけ話したようです。場所を具体的に言わなかったのは、盗聴されている恐れがあるとおびえていたようです。これは本人がそう言っているだけで確証はありません。

 私以下犯罪対策課4名で現場に直行しました。現着は19時30分です。その段階でマル被は待ち合わせ場所におらず、すでに逃亡しておりました。目撃者の話によると唐突にいなくなったそうです」

「理由は何だ?」

「ホシに遭遇したのではないかと思っています」

「いや、ホシは黒づくめだったんだろ、だったら周囲の人間も気づくだろう?」

「それについては現在確認中ですが、おそらくその段階ではそういった格好ではなかったのかもしれません。また、防犯カメラは店内、および廊下にもあるんですが、それらしい人物は映っていませんでした」

「どういうことだ。まあいい、もう少し解析が必要だな」

「了解しました。さらに解析を進めていきます。報告を続けます。その段階で悲鳴が聞こえました。非常階段の屋上周辺だと思われます。それで我々が屋上まで行ったところ、ホシに遭遇しました」

「つまりはホシがマル被を追って屋上まで行ったということだな」

「そうだと思います」

 ここで鮫島が手をあげる。

「いいぞ、話せ」

「はい、私が非常階段に入る前に悲鳴が聞こえました。あれはマル被のものだと思います。ですから屋上までは行っていない、もう少し下の階で殺されていたのではないかと思います」

「マル被はどうなったんだ?」

「おそらくホシが掴んで運んでいたと思います。屋上で見たときは右手一本で小田部を抱えていました」

「にわかには信じられんな。防犯カメラの映像は残ってないのか?」

 佐藤係長が話す。「ビル裏側の一階の非常階段入口付近にはカメラがあるのですが、それは破壊されてました」

「またか」

「防犯カメラの破壊の手口は白岡邸と同じです」

「異物をぶつけたというやつだな」本部長が頭を抱える。

「我々は屋上でホシに遭遇します。ただ、鮫島の報告にあったように小田部はすでに殺されていたようです。その際に神保が携帯でホシを撮影しております」

 前面のスクリーンにその画像が投影される。

 ホシが小田部のベルトを片手で掴んで仁王立ちしている。

「この画像からわかることは、後ろのフェンスと比較すると、身長は165~170だと思われます。同じ場所にうちの鮫島を立たせたところホシと同じぐらいでした。彼女は165㎝です。ただ、ご覧のように軍服のようなものを着ているために、姿態はよくわかりません」

「目出し帽とキャップ、サングラスだと目立つだろ、そんな恰好で駅前を歩いていたらすぐにわかる。目撃証言はないのか?」

「その通りなんですが、現在までに目撃証言は取れておりません。この時間は客も多いようでそれもあって気づかれなかったのか、あるいは途中までは服装が異なっていたのかもしれません。いずれにしろ、さらに捜査は続けます」

 本部長はあきらめたようにうなずく。佐藤が続ける。

「我々はホシに投降を求めましたが拒否されます。そして鮫島巡査長と格闘になります。鮫島は負傷しホシの確保には至らず、そのまま屋上から地上に逃亡します」

「その報告は受けたが、本当にそんなことが可能なのか?」

「科捜研の話ですと、理論上は可能だそうです。下向きの加速度に対して自身の反発力で衝撃を打ち消すという行為は出来なくはない。マル被の損壊状況からその可能性が高いことが示されています。ただ、そういった人間の存在は極めて稀だということです。それよりも現実に我々が目撃していますから」

「化け物だな」期せずして本部長が漏らした言葉がすべてを物語っている。これは化け物の仕業なのだ。


 会議終了後、保科と冷泉は武蔵大和署の連中に詳細を聞いている。

 保科が質問する。「みなさんが店に到着した時に気になる人物はいなかったんですね」

 神保が答える。「小田部の保護を優先していたからね。ただ、見た感じ不審な人間はいなかったと思う」

「小田部が席を離れてから、それほど時間は経ってなかったですか?」

 鮫島が答える。「はい、そこにいた学生に確認もしましたが、ほんの数分だということです。彼女たちは小田部がいなくなったのでその席に座ったらしいです」

「となると、小田部は何を見て、逃げ出したんだろう。店はガラス張りで、店内から廊下の様子は見えるんですよね?」

「はい、そうです」

「防犯カメラ画像を見た方がいいな。カメラは廊下と店内にあるんですよね」

「そうです。ただ、我々も何度も見ましたが、気になる人物はいなかったですよ」

「そうだと思います。つまりあまり気にならない人物を見て逃げ出したということかもしれません」

 神保は保科の意味不明な言葉に呆ける。

 鮫島が防犯カメラ画像をセットし、保科と冷泉が防犯カメラ画像を見始める。動画は店内の小田部を映したものと、廊下側の客の画像を同時にシンクロさせて確認する。

 小田部が廊下側を見て何かに気づいて動きだす。その時にそこを歩いている人間は数人いる。ただ、あの黒服の賊はいない。いるのはサラリーマン風が数人と女子学生が数名、あとは老夫婦がいるだけだ。

「確かに不審者はいないな。冷泉、どう思う?」

「顔はよくわかりませんが、明らかに不自然な人間はいないですね」

「ただ、小田部は気が付いたということか、あるいは勘違いか、いや、それはないな。恐らく襲った人間ではないがキーパーソンがここにいるはずだ。間違いなくこの中にいる」

 保科の確信めいた言葉を受けて、武蔵大和署の捜査員も画面を注視する。

 小田部が逃げ出す直前に廊下を歩いているのは、全部で6名いた。まずは女子高生2人組が店に入ろうとしている。続いて年配の夫婦らしき人物がいて、これらは奥のトイレにでも向かうのだろうか、さらにサラリーマン風の男が1人、これはエレベータにでも乗りそうだ。その後に眼鏡をかけた背広姿の男性が店に入ろうとしている。

 二宮が言う。「何かこの眼鏡の男が胡散臭いよな」

 鮫島もじっと画面を凝視している。

 保科が佐藤に進言する。「すみませんが、この画像にいる人物をすべて特定してください。素性も当って欲しいです」

「それは全員ですか?女子高生はいい様な気もしますが」

「そうですね。ただ、先入観にとらわれないほうがいいのかもしれません。全員当たってもらった方が良いと思います」

「そうですか、わかりました」

「それと小田部がホシに追われていると気付いた理由です。それが気になる。それまでは冷泉たちと平然と会っていたわけだよな」

「そうです。特に身の危険も感じていませんでした」

「何かがあって危険を感じ出したわけだ。それと盗聴にも異常に気を使っている。ホシがそういったことが出来る人間だと知っていたことになる」

「やはり何らかの組織の人間だということでしょうか?」

「確信はないんだが、おそらくそうだろう。ホシは警察が小田部と接触を持ったことを知ったということだ。それで小田部を抹殺しようとし、それに小田部が気付いた」

「そうなんですか?」佐藤は初めて聞く話に驚く。

「あくまで推測です。ただ、そう考えると辻褄は合うんです。小田部は危機が迫っていることを知って保護を要請する」保科は冷泉を見る。「小田部はそれをどこから知ったのかだ」

「はい、そのことなんですが、小田部には相棒がいたはずです。彼は番太池の運搬で初めて知り合ったようなことを言っていましたが、それも嘘だったのではないかと」

「なるほど、似顔絵があったな」

「はい、鮫島巡査長が書いたものがあります。あの相棒は旧知の仲だった。そして彼から危険が迫っている情報を得たと思います」

「そういうことだろうな。それでその相棒はどうなったんだろうな」

「わかりません」

「小田部の関係者に当たった方が良いでしょう。おそらくその相棒は小田部にとって関係が深い人物だと思います。そいつが何か知っているはずです」

 それに佐藤が応じる。「わかりました。その線でも聞き込みを続けましょう」

「よろしくお願いします」

 冷泉は考え事をしている。それを見た保科が聞く。

「どうかしたか?」

「いえ、その相棒は生きていますかね」

「どう思う?」

「確証はないですが、もう殺されているように思います」

 その話に武蔵大和署の連中は呆気にとられる。

 ただ、保科は納得の表情である。彼も冷泉と同じように思っているのかもしれない。


 妙高はいよいよ禁じ手に出る。それ以前の取材からすでに禁じ手なのだが、法的にまずいと言う点では今回はまさにそうなる。

 ついに大夢の出産担当医師を突き止めた。小名城徹という医師で元々、櫻井浩之の同僚で大学の後輩にあたる。現在、小名城は大学病院から都内の病院に移っていた。栄転というやつだろう。

 妙高は再び文京区の戸籍住民課を名乗り、出生届に疑義があるという話をした。小名城はその話を信じて面会の運びとなる。

 小名城の所属する病院の診察室で打ち合わせとなる。妙高は医師の前の椅子に座り、まるで患者のようでもある。小名城は40代だろうか、中年になりかけといった医師で縁なし眼鏡を掛けている。今日はこれから夜勤だそうで、その前に時間をとってもらった。

「電話で話しましたように、こちらで確認したところ、櫻井先生の息子さん、大夢君の出生届に疑義が生じています。その点について出産を担当された小名城先生に確認を取らせてください」

「それなんですが、電話でも話しましたが、事情がよくわかりません。いったいどういうことなんでしょうか?」

 妙高は電話では詳細を語っていない。いえば体よく断られる可能性が高かったからだ。とにかく会って話をしたいと突っぱねていた。

「ええ、出生届には母親が美野里さんとあるんですが、実際は佐和子さんだという話が出ておりまして、その確認になります」

 小名城の顔色が変わる。「そんなことあるわけないですよ。いったいどこから出た話ですか?」小名城は強気に出てくる。

「実は当時の写真を入手しました」

 妙高はそう言って先日、阿部から盗み撮りした画像を見せる。

「この方は佐和子さんですね」

 小名城はそれを見て黙り込む。恐らく図星だ。妙高は続ける。

「戸籍を修正する必要があると思いますが、どうしましょうか?」

 ついに観念したように小名城は話す。「いや、でもいまさらですよね」

「役所仕事なものですから、こういった点は厳正に行わないと上司に叱られます」

 小名城はしばらく考えてから話を始める。

「法的には問題が無いんです。美野里さんのお子さんなんですよ。ただ、佐和子さんには協力していただきました」

「協力ですか?」

「代理母です」

 妙高は話を聞いたことはあるが、その実態を知らない。代理母とは何だったろう。妙高が理解できないのを感じた小名城が補足する。

「体外受精はわかりますね」

「はい、卵子を体外で受精させるんですよね」

「そうです。美野里さんは母体に問題があった。それで出産には耐えられないことがわかりました。櫻井先生はそれでもあきらめきれずに代理母を選択したんです。幸い佐和子さんは快く同意してくれました」

「つまり卵子は美野里さんで母体は佐和子さんだということですか?」

「そうなります。日本では代理母はいまだグレーゾーンです。戸籍上は代理母の場合、出産した人間が母親になるようです。ただ、受精卵自体は櫻井夫婦のものです。ですから便宜上、美野里さんを母親として届けを出しました」

「そういうことですか」

「ええ、あまり杓子定規に考えることでもないと、そういう判断にしたんです」

「なるほど、わかりました。そういうことであれば、こちらもあえて対応しないことにします」

「そうしていただくと助かります」

 小名城はほっとするが、妙高はさらに情報を得ようとする。

「話は変わるんですが、当時の看護師の阿部様から美野里さんのことを聞きました。死因が病死だったのですが、自殺したのではないかと言われています」

 とたんに小名城の顔が曇る。

「それは根も葉もない噂ですよ」

「やはり病死ということですか」

「ええ、そうです。もうよろしいですか?」

 小名城はこれで終了とばかり、席を立とうとする。妙高は為す術もなく、わかりましたと答えるしかない。

 万事休すだ。

 仕方なく妙高は病院の入り口でタクシーを待っている。

 さてこれからどうするか、どう考えても最後は佐和子さんに聞くしかない。答えてもらえない可能性は高いが、謎を謎のままには出来ない。


 小田部の死から5日後、冷泉が予見したとおりに相棒らしき男の死体が多摩川に上がる。この段階で、相棒の素性はわかっていた。田中勝次30歳、小田部とは旧知の仲である。

 遺体はこれまででと同様に分断されており、まずは頭部と胴体部分が川に浮かんでいるのが見つかる。支流から流れついたようで徐々に他の部位も発見される。分割方法は同じで両足と両腕が切断されており、頭部は破壊されていた。

 遺体が小田部の相棒だという判断は、彼が言っていた小指の欠損が遺体に見受けられたことと、その後のDNA検査でも本人確認がなされた。

 捜査本部はさらに人員を増強することとなる。これで180名体制にまで膨れ上がる。すでに5名もの人間が惨殺されているのだ。


 そんな中、保科と冷泉は先日打ち合わせた宿河原教授の研究室に向かう。教授から参考になりそうな文献が見つかったというのだ。冷泉は再び通訳として参加する。

 挨拶もそこそこに保科が話を始める。

「先生の方で関連しそうな文献を見つけていただいたそうで、ありがとうございます」

「あまり参考になるかはわかりませんがね。一応、連絡までと思いまして、これになります」教授は紙の束を見せる。「論文を印刷したものです。差し上げますよ」

 礼を言って保科が受け取る。

「中国の研究者による文献なんですよ。もう20年以上も前のものです。米国の学会で発表した内容のようですが、ほとんど話題にもならなかった。私の記憶にもなかったです。貴方から言われて検索したら出てきたものです」

 表紙には『遺伝子変化による自律神経への影響』とある。ただ、中身は英文だった。保科は数ページ見るとそのまま冷泉に渡す。

 宿河原がそれを見て笑みを浮かべながら話をする。「私の方で簡単に解説します」

 保科が感謝のお辞儀で応える。

「これを書いたのは北京医科大学の鄧偉トウイという教授です。面識は無いのですが医学博士で米国への留学経験もある方のようです」

「家族性自律神経失調症という病気があります。これはユダヤ人種で頻度が高い遺伝病です。先天的に遺伝子そのものに異常があり、自律神経に影響を及ぼすものです。この教授は遺伝子組み換えを研究されていたようで、その実験過程で失調症を発症させる因子をみつけたということです」

「因子」冷泉がぽつりと言う。

「動物実験では65%もの発生率で遺伝子異常が起こったそうです。具体的には心筋ベータミオシン重鎖遺伝子に作用するものだそうです。これは先程の家族性先天的遺伝子異常と同じ遺伝子になります。それにより心室細動を起こすということです」

 冷泉が質問する。

「専門外でおかしな質問かもしれませんが、遺伝子を変化させる物質などあるんですか?」

「もちろんありますよ。それを遺伝毒性物質と言います。放射線や紫外線、その他化学物質などが該当します。人間は新陳代謝で細胞分裂を起こし続けますよね。その際にも遺伝子、DNAの欠損が起きたりします。生物にはそれを修復する機能が備わっているんですが、何かの拍子にそれが効かなくなったりします。よく知られた例で言うと、がんもそういう遺伝子の異常です。がん細胞が正常な細胞にとってかわることで起きます」

「ああ、そうですね」

「遺伝毒性物質で遺伝子情報は変化するんです」

「つまりその論文によると、自律神経の遺伝子を変化させるものがあったということですね」

「論文上はそうなります。ただ、それを見たものもいませんし、その後、この因子が話題に上ることは無かったです。まあ、必要ないものですからね」

「ということは、これを利用した人間がいるかもしれないということか」保科が言う。

「可能性は低いですが無いとも言い切れませんね」

「この教授についてご存じないですか?」

「知りません。おそらくもう引退されているのではないかと思います。この論文以降に表舞台には出てきていません」

「専門は遺伝子工学になるんですか?」冷泉が質問する。

「そのようです」

「中国だとコンタクトは難しいな」保科が言う。冷泉もうなずく。

「わかりました。警視庁でこの件を揉んでみます。ただ、わかる人間がいるかどうか」

「そうですね。日本でも遺伝子を研究されている学者は大勢います。私もその一人ですが、各人が専門分野ごとに研究していますからね。同じような内容で研究を続けているものがいればお知らせしますよ」

「はい、ありがとうございます」

 話を終え二人は駅に向かう。

「本当にそんな遺伝子異常を企ててるものがいるとすれば、まさしくテロだな」

「そうですね。私のほうで論文を読んでみます」

「英文だぞ、大丈夫か?」

「はい、辞書があればなんとかなります」

「つくづく冷泉はもったいない人材だな」

「そこまでではないですよ」

「話は変わるが、やはり白岡事件がキーポイントのような気がする」

「私もそう思います。あの事件だけが他と違い、異質です。他は闇バイトの口封じですが、白岡がそういったことに加担していたとは思えません」

「そうだな」

「そしてあの事件だけ、突発的に起きたように思えます」

「どういうことだ?」

「死体の遺棄方法も後から考えたように思えるんです。それ以外は計画的におこなっています」

「なるほどな。白岡周辺で気になる人物はいなかったのか?」

「ええ、今の所はいないんです」

「そうか」

 冷泉は何か考えている。それを見て保科が言う。

「事件を見る時には一方向だけから見ない方がいいぞ。固定観念というやつが邪魔をする。そういったものを捨てて、俯瞰して見ると見えてくるものもあるかもしれない」

「はい、わかりました」

「今日の話を下林先生にも話してみる。それで動物が死んだ理由も見えてくるかもしれないからな」

「はい」


 鮫島は二宮から散々いじられたが、多忙な捜査の合間にリーのデビューコンサートに来ていた。リー自らが鮫島にチケットを送ってくれたのだ。行かないわけにはいかない。働き方改革で警察官にも余暇を楽しむ権利があるのだ、と開き直る。

 ただ、残念なことに手を振れない。右手の三角巾が恨めしい。サイリウムを振り回したい気持ちもあるのだが、リーのコンサートに関してはそういうものでもないようだ。

 会場は渋谷にある3000人規模の会場で、用意してくれた席は2階席、関係者席のようだ。ただ、会場は満席で話によると転売も行われたようで、それは数倍の値段になったと聞く。

 コンサートは開始前から異常な盛り上がりを見せていた。話題が話題を呼び、リーは今や世間の注目となっていた。鮫島も連日、彼女のアルバムを聞きまくっており、聞けば聞くほど彼女のとりこになっていた。

 鮫島がコンサートに来たのはいつ以来だろう。思い起こすと高校時代が最後かもしれない。当時の推しアイドルのコンサートに行った。あれだと10年ぶりか、胸が異常に高鳴る。席にいるだけで会場の雰囲気による緊迫感もある。

 今は会場にSEが流れている。これはリーが選曲したのだろうか、日本の80年代の歌謡曲で歌っているのは台湾の歌手だと思った。彼女に敬意を払う意味なのか。

 舞台全面に白い暗幕があり、舞台はよく見えない。どういった仕掛けになるのだろうか、考えただけで心臓が高鳴る。

 すると開始の案内があり、会場の照明が徐々に暗くなる。これで観客のボルテージはいきなり最高潮に上がる。

 衝撃音とともにステージが明るくなり、暗幕の後ろにポーズを取った影が見える。今や観客は総立ちだ。

 ビートの効いた音楽が始まるとともに、暗幕が一気に落ち、ステージ真ん中にいるリーが踊り始める。観客はその動きに驚く。まさに最先端のダンスである。曲はアルバムの1曲目ロック調のビートの効いたナンバーではあるが、リーの踊りは一流のダンサーに引けを取らない。いや、むしろそれ以上だ。そして踊りながら華麗に歌う。歌声はいつものリーだ。

 こういったナンバーでもリーの歌声は心に染みわたる。アルバムで聞くよりも数倍はいい。身体が一緒になって踊りだす。鮫島は心から幸せだと思う。自分は今、生きている。この素晴らしい歌声ですべてが浄化される気分である。

 それからはずっと夢心地だった。アルバムで聞いていた曲が、生で歌われるとその数倍もきらめいて心に届く。演奏も生バンドでさすがはプラチナシードだ。一流のメンバーを集めたようだ。

 2時間近いコンサートはアンコールを含め、あっという間に終わる。持ち歌以外にも日本の80年代の懐かしい歌謡曲も歌っていた。それがまるで元々リーの曲だったように感じるのだ。鮫島は涙を流し続けていた。彼女はまさに本物の歌姫だ。歌うために生まれてきた人類なのだ。

 観客は徐々に帰途についているが、鮫島はしばし座ったまま呆然としていた。すると後ろから声がかかる。

 振り返ると西城マネージャーがいた。にこやかに話す。

「鮫島さん、どうでしたか?」

 鮫島は顔の涙を三角巾でぬぐいながら、「最高でした。なんてすばらしい歌手なんですか、ありえないです」と涙声だ。

「そういってもらえると光栄です。リーも喜ぶでしょう。どうですか、リーと会われますか?」

「え、いいんですか?」思いもかけない提案に鮫島は驚く。

「はい、少しの時間なら大丈夫です。リーもあなたに会いたがってますから」

 鮫島は開いた口がふさがらない。リーが会いたがってるって。

 西城に連れられて夢心地で楽屋まで来る。

 あたりは花でいっぱいになっている。まるで花園のようだ。それだけリーに期待する人間が大勢いるということか。そしてその中にリーがいた。彼女はその場にいることが誇らしい表情で満ち足りていた。鮫島に気づくと駆け寄ってくる。

「鮫島さんどうしました」鮫島の三角巾を見て心配そうにする。

「ちょっと転んだの。それよりも最高だったよ。私、生きててよかった」

 リーは心から嬉しそうな顔をする。「そういってもらえるとうれしいです」

「リーさんは踊りもすごいんだね。驚いちゃった」

「日本の先生のおかげです。色々教えてもらいました」

「そう、でもあそこまで踊れるのは貴方の力だよ」

「ふふ、ありがとう」

 西城が話す。「会場が小さすぎました。これから追加公演を計画するんですが、武道館でもキャパが足りない感じです」

「それはすごい」鮫島は心底驚く。そして気が付く。「あ、そういえばチケットのお礼を言ってなかった。ほんとにありがとうございました。でも次からは自分で買いますから」

 西城は笑顔だ。「じゃあ、ファンクラブに入ってくださいね。優先権もありますから」

「はい、実はもう入ってます」

「そうでしたか、ありがとうございます」

 リーもお辞儀する。「鮫島さんこれからもよろしくね」

「もちろんだよ」

「私、日本ってもっと怖いところかと思ってた。みんな優しい」

「そうだね。ああ、でも気を付けないと悪い人はどこにでもいるんだからね」

「その時は鮫島さん助けてください」

「まかせといて」と言って三角巾を振り回す。とたんに顔をしかめる。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫」

 楽屋に笑い声が広がる。


 ついに妙高は町田宅を訪れる。

 というのも何度連絡しても佐和子に電話がつながらないのだ。大夢はどうやって生まれてきたのだろうか、とにかく事の真相をはっきりさせないと気になってしょうがない。

 いつものようにタクシーで山間の屋敷まで来る。

 そしてチャイムを鳴らすが、中からは一向に応答がない。今日も不在なのだろうか。それにしてもここまで不在が続くのは気になる。

 思い切って門を開けて中に入ってみる。そして自宅の入り口まで来る。

「町田さん、おられますか?佐和子さん!」

 扉をたたくが家の中からは何の返事も無い。いや、むしろおかしい。生活感がまるでない。

 扉に手を掛けるも、鍵が掛かっているようで開かない。

 妙高は意を決して裏手に回る。この家には縁側もあり、庭から中が見える昔ながらの日本家屋だったはずだ。

 ゆっくりと庭に出る。やはりそこから見ても人の気配はない。

 この家は元々明かりの類が少なく、部屋の中は暗い。窓越しに大夢と面会した12畳の部屋をのぞいて何かに気づく。妙高の血の気が引いた。窓を大きく叩いて呼びかける。

「佐和子さん!」

 居間の隅にうつ伏せになって倒れているのはおそらく佐和子だ。そしていくら呼び掛けても彼女は動かない。

 妙高は急いで警察に電話を入れる。


 静かな郊外の住宅街が騒然となっている。家の周りはロープで囲われ、立ち入り禁止処置がとられている。そして邸内は鑑識や検視官が作業を続けていた。

 家の前で保科と冷泉が妙高に話を聞いている。さすがに妙高の顔色も悪い。

 冷泉が質問する。「妙高さんが佐和子さんに連絡を取った時期を教えてください」

「三日前に連絡を入れました。その時にはもう応答が無かったです」

「三日前には亡くなっていたということか」保科が言う。

 妙高が逆質問する。「死因はわかったんですか?」

 冷泉が首を振る。「まだ、何とも、おそらく殺されたのは間違いないです」

「いったい誰が、それと大夢君はどうなったんでしょう?」

「家にはいないようです。我々も全力で行方を追っています。ちょうど夏休みが始まったところで、学校も休みになってました。それもあって誰も気づかなかったようです」

 妙高は考え込む。

 ここで保科が妙高に話をする。

「ところで妙高さんはここにはどんな用事で来られたんですか?」

「ああ、取材です」

「具体的にはどういった取材ですか?」

「大夢君の能力についてもう少し聞いてみたかったので、そういうことです」

「なるほど、彼はイタコでしたよね」

「そうです」

 保科は少し考えてから慇懃にお辞儀する。「わかりました。ありがとうございました。もう帰られてけっこうです。何かありましたら、こちらから連絡します」

 妙高は後ろ髪をひかれる思いで現場を後にしようとする。そこに冷泉が話しかける。

「妙高さん、また、連絡します」

 妙高はうなずく。

 妙高がいなくなってから、保科が冷泉に話しかける。

「妙高さんは取材と言ったが何を聞きに来たんだろうな。後で聞ければ聞いといてくれ」

 冷泉からの返事がない。見ると冷泉は真っ青な顔になっている。

「どうかしたか?」冷泉は心ここにあらずといった雰囲気で何故か震えている。「大丈夫か?」

 ここで初めて自分が呼ばれていることに気づく。

「ああ、すいません」依然として肩が震えている。

「どうした」

「許せません。誰がこんなことをするのか」

「ああ、確かにな」

 ここで保科は気付く。冷泉は子供を気にしているのだ。

 確かに子供がいなくなった理由がわからない。はたして生きているのだろうか。保科はゆっくりと冷泉に質問する。

「それでどう思う。この事件」

「私は同一犯だと思います」

「連続殺人だというんだな」

「そう思います」

「理由は?」

「ここでイタコをやったのかもしれません。おそらく小田部の行方を捜すためです」

 保科はうなずく。

「ホシはどうしてなのかはわかりませんが、警察の情報に精通しているようです。ここにいる少年にイタコの能力があることを知った。小田部の相棒田中はすでにホシに拉致されていたんでしょう。ただ、小田部の居場所は知らないという。それで田中を使ってイタコをすることを思いついた」

「それで?」保科が促す。

「大夢を使って小田部の居場所を知りました。結果、八王子での殺害を実行しました」

「少年のイタコが小田部の居場所を見つけ出したというわけか」

「そう思います」

「男の子はどこに行ったんだろうな」

 そこに検視官が顔を出す。「保科警部補、死因がわかりました」

「何だった?」

「ショック死だと思います。詳しくは別途司法解剖が必要です」

「ショック死?」

「過度な精神性のショック状態に陥ったのかな。それと顔面に打撲もあります」

「他には何かあるか?この家には子供がいたようなんだが」

「いえ、他には何もありません。ホシが痕跡を残さないようにしたようです」

「やはり同じホシというわけか」

「この先には多摩川の支流もありますから、例の川で見つかったバラバラ死体はこの近くで殺害されたんでしょう」

「そういうことだな。周辺の捜索が必要だな」

「まったくうんざりしますね」

「まったくだ」

 すると保科の携帯が鳴る。その相手と話をしたかと思うと冷泉に言う。

「冷泉、悪いが俺は宿河原先生に呼ばれた。何かわかったようなんだ。ほんとはお前にも来てほしいんだが、ちょっとこっちの用事を頼まれてくれるか?」

「何でしょうか?」

「実は下林先生にも依頼を掛けていて、その結果が出たと言うんだ。お前が先生の所に行ってそれを聞いてきてくれるか?」

「はい、大丈夫です。例の植物の件ですか?」

「そうなんだ。結果が出たようだ」

「わかりました」

 民家の先には樹海のような森が続いており、夏の盛りにセミが勢い良く鳴いている。今年の夏はいやに蒸す。保科は肌にまとわりつく空気をそう感じる。


 その日の夜、下林との打ち合わせを終えた冷泉が捜査一課に戻って来る。下林からもらった資料は謎に迫る貴重なものだった。保科に良い報告が出来そうだ。

 すると冷泉を見た宮本が声を掛ける。

「冷泉、保科さんがお前宛に資料を置いて行ったぞ」

「え、そうですか。保科さんはどこに行かれたんですか?」

「俺も戻ってきたばかりでよくわからないんだが、何か急ぎで出かけたらしい」

 何だろうと自席を見る。そこには宿河原教授からの資料があった。これが保科の行動のきっかけとなったのだろうか。

 最初、冷泉はその内容に特に不自然さを感じなかった。はたしてなぜ、保科がこれで行動を起こさなければならなかったのか、そしてしばらく考え、何かに気づく。捜査資料を見返してみる。まさか、そんなことが、さらに調べる。徐々に冷泉の顔がこわばる。

 さらに先日の小田部殺害の防犯カメラ映像を確認する。ああ間違いない。これこそ保科が出かけた理由だ。

 冷泉の様子を見た宮本が声を掛ける。

「どうした。何かあったのか?」

「保科さんがどこに行かれたか、まったくわかりませんか?」

「わからないな」そう言うとパソコンで何かを確認する。「まじか、拳銃を持っていってるぞ」

 それを聞くと何も言わずに冷泉は走っていく。

「冷泉、どこに行くんだ?」

「保科さんをフォローします」

「いや、だからどこだって!」

 宮本の声がむなしくフロアーに響く。冷泉の姿は消えていた。


 冷泉は緊急車両を運転しながら、ハンズフリーで保科に電話をする。

「保科さん冷泉です。今、どこですか?」

『ああ、悪いな。どこだかわかるか?』

「日野ですよね」

『正解だ。冷泉も気付いたか』

「無茶しないでください。ホシは殺人マシンですよ」

『わかってる。ただ、早く子供を助けないと』冷泉は黙り込む。『悪いが冷泉の過去を調べさせてもらったよ。弟がいたんだな。写真を見たがどことなく大夢君と似ている』

 この人はなんでもお見通しなのだ。「私が行くまで待っててください」

『そうしたいが、ホシが待っててくれるかどうか、とにかく子供の救出が先だ』

「手順がおかしいです。まずは捜査本部の確認を取って、令状を取って逮捕に向かわないとだめです」

『そうしたいが確信がない。本部が信じてくれるかも不透明だ。まさに荒唐無稽な話だからな』

「今、どこですか?」

『もうすぐマンションに着く。おそらく奴らがいるだろう。まずは職質をかける。とにかく大丈夫だから。電話を切るぞ』

 言うが早いか、電話が切れる。

 冷泉は次に鮫島に電話する。彼女はどこにいる。ただ、電話に出ない。留守電にメッセージを入れ、仕方なく武蔵大和署に電話をする。

「冷泉です。犯罪対策課の人達はいますか?」

『今、全員、町田邸周辺の聞き込みで出払ってます』

 なるほど、そういうことか。とにかく冷泉が現場に急ぐしかない方法はないのだ。


 中央高速を走っていると鮫島から電話が入る。

『三有さんどうしました』

「今、どこにいるの?」

『町田邸周辺です。聞き込みを続けてます』

「ホシがわかった」

『え、ほんとですか?誰なんですか?』

「リームーチェン」

 鮫島が絶句する。『うそでしょ』

「正確には彼女は殺し屋だと思う。裏で糸をひいているのが彼女の祖父、トウウェイ」

『大学の先生?』

「表向きはそう、だけど実態はおそらく中国の諜報員だと思う」

『意味が分からない』

「今、保科さんがそれを確認にトウの自宅に向かっている。大夢君もそこにいるはず。ゆきのほうが日野に近いでしょ。応援に行ってほしい」

『わかりました。犯罪対策課の連中も一緒に行きます。でも、ここからだとけっこう時間がかかるかもしれません』

「なるべく早く行って」


 冷泉は筋読みをした。それは保科から教わった手法だ。

 宿河原教授の進言は論文を発表した教授が日本にいるかもしれないという内容だった。

 その名前は星天大学の鄧?(トウウェイ)である。彼の論文も数点資料として置いてあった。ただ過去に発表された自律神経失調の論文の執筆者は鄧偉トウイとなって名前が違っている。宿河原教授は似たような文字で勘違いし、同一人物だと判断した。ただ、保科にはそれがピンポイントで事件を浮かび上がらせることになる。

 たしかに日本にいるトウ教授は、台湾出身ということになっている。論文を書いたトウは中国出身だ。この点は違うのだが、二人とも同じ遺伝子工学を専攻している。この共通項は見逃せない。そしてもし同一人物とするとどういうことになるか。トウも自身の素性が名字だけでバレることは無いと思っていたのかもしれない。そのため同じ名前のトウで来日した。そう考えると台湾出身は偽装であり、中国本土から何かの工作目的で日本に来た諜報員の可能性が高いのではないか。そして彼の孫であるリーが今回の事件を起こした殺人マシンと考えると、白岡の殺人事件や一連の事件、さらに動物の死亡事件がすべてつながることになる。

 最終的には大学のリストにあるトウの顔写真と、小田部の防犯カメラに映った老人が似ていることから判断できた。防犯カメラで夫婦と思った老人はトウ単独だったのだ。恐らく防犯カメラを意識したトウが、夫婦のふりをしたのかもしれない。つまり小田部はトウを見て逃げ出した。こうなると高確率で彼が黒幕とみなせる。

 次に事件を考える。まず白岡の事件は偶発的に起こった事件と判断する。

 リーはレッスンか何かで白岡の自宅を訪れた。そこで何があったかは定かではないが、結果リーは白岡を殺害してしまう。我に返ったリーはトウに連絡する。

 これまでもリーはトウの指示で動いていたはずだ。トウは現場に駆けつけて指示を出す。防犯カメラや殺害現場の処置も含めてだ。そしてゴミ箱に遺体を詰める。

 以降は闇バイトで小田部たちを動かす。これは万一、遺体の運搬が見つかった場合の保険の意味もある。トウたちが廃棄処理をするリスクは大きすぎるのだ。また、トウはこの地域に土地勘もあり、番太池に沈めれば発見されることはまず無いだろうとの目論見だった。ところがここに落とし穴があった。このところの異常気象で想定を超える雨が降ってしまったのだ。さらに遺体の処置にも不備があり、一部が発見され事件が発覚した。

 当初、トウは搬送係の小田部たちについては、発覚することは無いと思っていたはずだ。ところが闇バイトの情報が警察側に漏れる。トウが警察情報をどうやって掴んでいたのかはこれからの捜査によるが、とにかくその情報を得る。そして小田部たちの口封じを行った。

 そして問題はトウが日本で何をやろうとしていたかである。気球を使って何かを行ったのは間違いが無い。東北の西部地区で何をやろうとしていたのか、これについては先程受領した下林の報告書が参考になる。

「保科さんはこれにも気づいていたのか」

 緊急車両はサイレンと共に中央高速を国立府中インターで降りる。

 

 武蔵大和署の強行班係もトウのマンションに急ぐ。運転は鮫島だ。二宮が先ほどから何度も同じ話をしている。

「どうしてリーなんちゃらが犯人なんだ?」

「だ、か、ら、私にもわからないんですって」

「いやいや、だって鮫島はそいつに腕を折られたんだよな。それでも気が付かないのか?」

 鮫島は黙り込む。実際その通りなのだ。あの殺し屋と対峙したのは鮫島なのだ。でもあれがリーだったとは思えない。あんな綺麗な歌を歌う彼女に限って、そんなわけがあるはずがない。きっと何かの間違いだ。

 緊急車両はサイレンを鳴らしながら走るが、如何せん通勤時間帯にかかっている。ましてや工事渋滞や近頃は緊急車両を無視する車も増えている。注意深く運転する必要があるのだ。もし事故でも起こしたのなら、マスコミの格好の餌食となる。


 冷泉がトウのマンションに到着する。8階建ての煉瓦状の壁を持つマンションだ。

 入口から半ば強引に管理人室に駆け込む。

「警察です。708号室の鍵を貸してください」

 冷泉の勢いに驚いた初老の管理人が言う。「先ほど刑事さんが持っていきました」

 保科は用意周到に鍵まで持って部屋に行ったのか。

 冷泉がエレベータ前で待っていると、いきなり銃声音が2発響く。思わず声が漏れる。だめ。

 エレベータは想像以上にゆっくりとしか上昇しない。

 扉が開くのももどかしく、トウの部屋まで走る。

 部屋の扉は開いたままになっていた。冷泉が中に駆け込むと10畳ほどのリビングに3人いた。手前側にもんどりうってうつ伏せに倒れているのがリーだろう。顔が見えないのでよくわからない。先ほどの銃声で倒れたのだろうか。さらに奥の壁を背にした保科がいた。そして老人が一人ソファに座っている。彼がトウなのだろうか、平然として笑みまで浮かべている。

「保科さん!」冷泉が駆け寄る。保科は首が歪に曲がっている。さらに顔色は紫に近い。まずい。

 保科は何かつぶやくがほとんど声にならない。目も虚ろな状態だ。ただ、冷泉に向かって銃を構える。

「保科さん私です。冷泉です」

 保科は冷泉を認識していない。銃を冷泉に向けている。保科さん、冷泉が叫ぶが、ついに銃を撃つ。ところが弾は冷泉を外れる。保科はもう判断がつかないのかと思っていると、後ろで倒れる音がする。

 倒れたのはリーだった。まだ息があったようで、最後の力を振り絞り冷泉に向かっていたのだ。

 ただ、この銃弾でついに倒れる。呼吸も停止したようだ。

「保科さん」冷泉が駆け寄る。

 保科が笑ったように見える。ただ、顔はうまく動かない。それでも最後の力を振り絞り話す。

「冷泉も気が付いたんだな。後は任せるぞ」

「保科さん、今、救急車を呼びます。頑張って」

「冷泉、うちの家族によろしく言ってくれ。これで警部になるから退職金も増える」

 冷泉は言葉が無い。いやだ。こんなのはごめんだ。

「奥の部屋に大夢がいる。まだ生きている。よかったな」

 保科は徐々に消え入りそうな言葉を話し、それが最後となる。

 冷泉は泣き叫ぶ。それこそ、ここまで泣くのは彼女が小学生以来だ。あのときから感情は抑え続けてきたはずだった。ただ、もう堪えられなかった。まるで初めて泣いた子供のように泣き続ける。

 ようやく強行班係の面々が到着する。そしてその現場に唖然とする。

 鮫島はリーを見る。そして腰から砕け落ちる。

 リーは、あの天使の声を持つ歌姫は頭から血を流し、息絶えていた。


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