進展
この章が長めです。細かく番号を振ってますので途中で止めやすいように考慮しています。
がんばって読んでくださいね
1
出版社の向かいにある老舗の喫茶店。店内には静かなムード音楽が流れ、コーヒーの心地よい香りとともに自然な明かりで落ち着く雰囲気である。
妙高がカウベルとともに入店する。奥の席にいる老人は加藤探偵社の人間だ。妙高とは顔なじみで、手を上げて笑顔で出迎えている。
「どうもご無沙汰です」相変わらず煙草を吸い続けているのか、前に座っただけでヤニの臭いがする。
妙高はさっそく本題に入る。「それでどうでした?」
禿散らかした頭を手でぬぐうようにしながら、「いやあ、難しかったですよ」と黄ばんだ歯を見せる。確か、もう70歳近いはずだ。この老人は年金暮らしとはいかないのだろうか、などと余計なことを考える。田舎の父親も同じぐらいだったか、どこか哀れに思えてくる。
「出版社の限界ですかね。私の方でも調査してみたんですが、通りいっぺんしかわからなかったんです。それでそちらにお願いしました」
「普通はそうですよ」そう言って封筒に入った書類を妙高に渡す。「依頼された内容については網羅していると思います」
妙高は封筒の中身を開けて見る。
調査資料は、松田大夢11歳、イタコの少年についてである。
イタコの取材以降、どうにも気になって仕方が無いのである。いったい、どうしてあんなことが出来たのか、あの少年は何者であの能力はどこから来ているのか、そういった謎を少しでも解いてみたい。ジャーナリストとしての妙高の本質がそれを望んでいる。
妙高も少しは調べてみた。ところが戸籍上はわかるのだが、彼に関するこれまでのいきさつが良くわからない。両親はすでに亡くなっているとしても、叔母に引き取られたときの状況だとか、また、櫻井家や町田家そのものの経歴についても不明点が多く、仕方なく探偵事務所に調査を依頼したのだ。
「妙高さんの依頼は町田家と櫻井家の経歴と、大夢君の生い立ちを含めた身上ということでしたね」
「そうです。ありがとうございます」
「町田家はまあ普通の家庭ですね。実家は神奈川県の三浦半島にあります」
「そうなんですか、あれ、でも今は多摩に住んでますよね。古い家でしたが豪邸でしたよ」
「あれは父方の櫻井家のものなんです」
「ああ、そうなんですか」
「その書類に詳細を書いてますけど、櫻井健三って日本画家をご存じないですか?」
「ああ、知ってます。第一人者ですよね。昭和の著名な画家ですね」
「そうです。それで今、町田大夢が住んでいるあの家はその健三のアトリエでした」
「アトリエ」
「健三は都内に自宅を持っていたんですが、晩年はあのアトリエで創作活動をしていたらしいです」
「彼が亡くなった後に櫻井浩之さん、大夢の父親が家を引き継いで、さらにそれを町田佐和子さんが譲り受けたという形になります」
「けっこう複雑ですね」
「そうですね。あまりないことかもしれません。それで浩之さんが亡くなったのは50歳の時ですから、当時大夢君は6歳です。佐和子さんは大夢君の世話をするために、あの屋敷を譲り受けたというわけです。大夢君はその時に戸籍上も佐和子さんの息子になっています。佐和子さんが38歳の時ですね」
妙高は書類を確認し、佐和子の経歴の部分に疑義ありとあるのに気づく。
「佐和子さんは町田邸の前は三浦半島に住んでいたんですよね」
「正確には三崎市ですね。戸籍上はそうなってます。ただ、どうもその前からあの屋敷に住んでいたようなんです」
「そうなんですか?」
「あの辺りは隣の民家も離れているし、それほど近所付き合いもあるわけじゃないので、はっきりしない部分もありますが、そういう噂があります」
「いつ頃からなんですか?」
「それがよくわかりません。大夢君が小さい頃からいたという人もいます」
「そうなんですか」
「ええ、それで佐和子さんの経歴に疑義ありと書いてあります」
なるほど、そういうわけか。でも疑義の詳細については調べていないのか。
「その頃、おじいさんの健三さんは亡くなってたんですよね」
「そうです。彼は大夢君が生まれる前に亡くなっています。アトリエも空き家の時期があったということです」
妙高は再び書類を見る。次に大夢の母親の項目である。旧姓町田美野里。櫻井浩之とは30歳で結婚している。
「美野里さんは三崎市の実家を出て、大学の頃から都内で暮らしています。そして結婚後、櫻井さんの家に入っています」
妙高はその家の住所を確認する。「これは櫻井家の本邸になるんですか?」
「いえ、健三さんのご自宅は死後、売却されてます。この家は浩之さんご本人の自宅です。大学の近くに住んでいたようですね」
浩之の自宅は武蔵野市になっている。
「それで浩之さんが43歳、美野里さんが39歳の時に大夢君が生まれています」
「えーと、最初の子供ですよね」
「そうです。それ以前にお子さんが生まれた記録はありません。よって初産ですね」
「しばらく子供が出来なかったんですかね。となると不妊治療でもしたのかな」
ここで探偵は黄ばんだ歯を見せて、にやりとする。
妙高がその様子に気づく。「何かあるんですか?」
「いえ、よくはわかっていません。ただ、通常は高齢出産ですからそうだろうとは思いますよ」
何か含みを持った言い方である。「何か掴んだんですか?」
「一応、妙高さんはご贔屓さんですから少しサービスしますね。ここからは噂です。ですから信ぴょう性はないですよ」
妙高は男の言葉を待つ。
「出産の記録がどこか変なんですよ」
「変というと?」
「自宅で出産したことになっています」
「はあ、そうなんですか、それが何か」
「高齢出産でもあるし、通常は産婦人科で産むと思うんですがね」
「確かにそうですね。どういうことなんですかね」
「普通じゃないとは思いますよ。ああ、でもこれ以上は調査範囲を超えてるんでわかっていません。でも、どこか不自然だとは思います。妙高さんのほうで調べてみれば何か出てくるかもしれませんね」
なるほど、依頼範囲を考えると、探偵社だとすればそこまでだろう、それ以上の調査となると倍以上の費用を請求されそうだ。そしてどうもそれを期待している節がある。
続いて浩之の経歴を確認する。
都内の国立大学医学部で教授として仕事をしている。つまりは学生からそのまま研究者の道を歩んだということだ。役職を見ても順当に出世している。むしろ教授になるのは早い方だと思う。
「医学部で何を研究されてたんですかね」
「さあ、そこまでは調べてませんね」
「順調に出世してますよね」
「そのようです」
そして美野里は出産後、一年で亡くなっている。40歳の若さである。死因は病死とある。
「美野里さんは何か持病があったんですか?それとも産後のトラブルですか?」
「はあ、それもよくわかっていません。ただ死亡報告書には病死とありますね」
まあ、これも調査範囲内ではある。
さらにそれから5年後に浩之も亡くなっている。これも同じく病死とある。50歳の若さである。何か不自然さを感じる。
「二人とも早死にしてますね」
「そうなんですよ。ただね。何かあったのではと思ってます。関係者がその部分で口ごもる気がしてます」
「そうなんですか」
「ええ、なんとなくですよ。探偵業をやってるとそういう勘みたいなものは働きます」
「調査範囲外ですからね」
男はにやりとする。「そうなります。あとは妙高さんのほうで調査してみると良いと思いますよ。おそらく何か出てくる気もします」
この探偵は追加の調査をという申し出を待っている。確かにそうなのだが、予算が気になる。自腹を切るのは辛過ぎる。ただ、どう考えても不自然な点が多すぎる。元々町田大夢を調査したいと思ったのは彼女の勘である。これまでもそういった勘どころでジャーナリストとして特ダネを上げてきている。
「そちらで関係者の連絡先はわかりますか?」
「学生時代の名簿は別料金になりますよ」キタっとばかり老探偵は笑みを見せる。
妙高は考える。追加費用を編集部が出してくれるのか、ただ、今言った資料が要るのは間違いない。
「いいけど、いくらかかります?」
「そうですね。えーと両親の分ですよね。大学だけでいいですか?」
「美野里の高校もいるかな。あと社会人時代の仲間もいるな」
「けっこう増えましたね。となると10万円ぐらいかな」
「えー高いよ。5万円にしてよ」
「いや、それは相場からしても安すぎますよ」
「いつも贔屓にしてるじゃん、負けてよ」妙高がウインクして拝む。
「仕方ないな。じゃあ5万円でやりますよ」
「ありがとう、名簿はデータでいいから送ってよ」
「それで、ここまでの調査料をいただけますか?」
「そうだね。じゃあこれ」そういって封筒に入った現金を渡す。
老人はうれしそうにお札を確認する。
「名簿はいつごろ手に入るかな?なるはやでほしいな」
「1週間いただけますか」
「了解、じゃあよろしくね」
妙高は足早に店を後にする。やはり何か気になる。あきらかに大夢の生い立ちは不自然だらけだ。
2
新潟に残った保科はマル被の捜査を続けていた。
冷泉の替りに来た同僚の宮本淳と、協力を仰いだ秋田県警の結城とともに聞き込みを続けている。宮本は31歳だが若いくせに太り肉でやせ気味の保科とは対照的だ。後ろ姿を見るとどっちが上司かわからない。こういった外回りで少しはやせればいいのにと思うが、一向にやせない。むしろ太ってきている。外回りで食欲が増し、やせるどころではないらしい。こういった能天気さがうらやましくもある。所轄の結城は保科と同年代、44歳とのことである。
保科たちの担当範囲は殺されたマル被の身元を明らかにすることだ。そして新潟から秋田に捜査範囲を移している。保科は下林教授が調査した場所を同じように探ることにしたのだ。マル被が同じルートをたどっているのでは、という勘みたいなものである。ただ清水も保科の推測を認めてくれた。
それで秋田の白神山地から徐々に南下していくルートをたどり、今も聞き込みを続けている。季節は7月を迎えようとしており、どこもかしこも田んぼの稲が勢いよく育っていく。ただ東北もこの時期は異常に暑い。今や日本のどこにいても熱帯地方のようである。
秋田に来てすでに三日は経過しているが、いまだに何ら情報を得てはいない。
今もあぜ道を歩いては、作業を続けている農家の人を見つけて聞き込みを続けている。宮本はそんな保科の行動に半信半疑である。
「保科さん、何か思い違いじゃないんですかね。こんな場所にマル被が来たんですか?」
「そうだな。思い違いかもしれないな。でもいい景色だろ、日本の原風景だよ」
宮本がタオルで汗をぬぐう。「いやいや、観光ですか、でも日本とは思えない暑さです」
結城が言う。「ここも昔は涼しかったんですよ。今は東京よりも暑くなる日もあります」
「俺がいる時だけは勘弁してほしいよ」
ちょうど稲田で一人作業をしている老人がいる。田んぼの雑草取りだろうか、いまやこう言った高齢の方ばかりである。これまでの聞き込みでも同じような高齢者を数多く見ている。
保科が声を掛ける。「すみません。警察なんですが、お話良いですか?」
老人は耳も遠いのか気付かない。相変わらず作業を続けている。仕方なく宮本が大声で声をかける。
「お父さん!話いいかな!」宮本はお腹周りだけではなく声も大きい。
老人はようやく気付くと何事かと言った顔をして、近づいて来る。
保科が優しく話をする。「お忙しいのにすみません。警察なんですが少し話を聞かせてください」
「はあ、何だすか?」汗だくの老人が不思議そうな顔で言う。
「少し前になりますけど、この辺りにあまり見かけない若者二人組が来ませんでしたか?」
老人は首をひねる。宮本が小声で言う。「これじゃあ昨日のことも覚えてないな」
「ちょうど2カ月ぐらい前かもしれません」
「若ぇ連中がね」老人は少し考えている。
「そうです。男性の二人組だと思います」
「どうがな。そういえばうぢの婆っちゃがそんたごど言ってだがな」
「奥さんですか?」
「んだ」
「お話聞けますか?」
「さっと待ってたんせ」
三人で老人の作業が終わるのを待つ。宮本はあぜ道に座り込む。
そして作業を中断した老人と彼の家まで行く。
古くからある平屋の一軒家でこちらも日本の原風景を思わせる。
おじいさんは家の中に声を掛ける。「かっちゃ、お客様だ」
すると家の中からお婆さんが顔を出す。「あら、めずらしい」
「警察のふとだって、話聞ぎでゃそうだ」
保科がお婆さんに声を掛ける。「お母さんが2カ月間ほど前に見かけない若者を見たという話をきいたんですけど、詳しいことを教えてもらえますか?」
「2カ月前、さてどうだったがな」お婆さんは考え込む。
宮本はまた同じことを言う。「やっぱり昨日のことも覚えてないな」
「とにがぐおぢゃ出すす。さっと待ってたんせ」お婆さんはそう言うと家の中に引っ込んでいく。
おじいさんは残った三人を家の縁側に連れて行く。
保科はその縁側に腰を掛け、辺りを見回す。
家の離れには納屋があり、倉も建っている。木々が家の周りを囲み、その隙間には稲田が広がっている。
そういえば自分の田舎もこんな感じだったことを思い出す。子供の頃に祖父の実家に顔を出した。あれは小学生の頃だったか。今やその祖父も鬼籍に入っている。
保科がお爺さんに話しかける。「田んぼの世話はお一人でされているんですか?」
「今時は雑草取りだんて、おいと婆っちゃでやってら。だども。田植えは手伝ってもらってら」
「大変ですね」
「んだ。身体が続かね。もうやめるべで思ってら」
「今、おいくつですか?」
「75だ」
保科はうなずくしかない。確かにその歳で農作業を続けるのには無理がある。今回の聞き込みでも思ったが、この地域も高齢化が進んでいるようだ。農作業をやっているのは老人が多い。自分に置き換えても果たしてその歳まで働けるのかは甚だ疑問だ。
家の中からお婆さんがお盆にお茶を載せて現れる。
三人で礼を言ってありがたくいただく。
コップの周りに水滴が付くほどの冷たい麦茶だ。まさに生き返る飲み物だ。
お婆さんが話だす。「2カ月前さ男の子ふたりだよね」
「ええ、そうです」
「そういえば、おらが山菜取りさ行ってた時、何がの風船みだいなものたがいで歩いでだ」
保科と宮本は意味が分からず。結城を見る。
「風船みたいなものを持っていたみたいです」
「風船ってどういったもの?大きさは?」
「大ぎがったよ。子牛ぐらいあったがも」
「それだと気球だな」宮本が言う。
確かにその大きさだとそうなる。それにしてもなんでそんなものを持ってうろうろしていたのだろうか。
「山ってどの辺ですか?」
「その先の裏山だ」
お婆さんが指さす先には山がある。ここからだと1㎞ぐらい先になる。
「若い男でしたか?」
「若がったな。武ぐらいがな」
結城がお婆さんに質問する。「武って孫かな?」
「んだ」
「今、いくつ?」
「いぐづになったがな」そう言って指を折って数を数える。それを見たお爺さんが助け舟を出す。
「23じゃろ、成人式やったんが、おどどしやったが」
「そんなに若かったですか、二人組ですよね」
「んだ」
はたしてその二人組がマル被なのだろうか、ただ、初めてそういった目撃情報が出た。マル被の推定年齢もそのぐらいだった。
「話はしましたか?」
「んでねぁ、何が逃げるように走っていった」
「それはどっちの方角でしたか?」
「山の奥だったがな。よぐは覚えでねな」
しかし、ここで初めて新しい情報を得ることが出来た。この地域に見かけない若い男たちがいたことが分かった。それも何か気球のようなものを持っていたという。何かのヒントにはなるかもしれない。それにしても何をしていたのだろうか。
「他に誰かその若者を見た人間はいないですかね?」
「いねで思うす。他のふとからそんた話は聞いでね」
「そうですか、その裏山ですよね」
「んだ」
保科が二人に話す。「山まで行ってみるか」
「まじですか」宮本は尻込みしている。
保科はご夫婦にお礼を言ってそこを後にする。
三人で裏山に向かう。
未舗装の山道が続いていて、それほど歩きづらいことも無い。それよりも周囲が木に覆われており、太陽が遮られるので暑さがしのげるのが助かる。
しばらく歩くと山の上に出た。さらに道は続いているが、ひとまずここが頂上のようだ。
保科は黙って山から地上を見る。農地が広がっているのがわかる。ここも米どころのようだ。一面の稲田が稲穂の育ちを待っている。
保科はその場所からぐるりと周囲を見回す。
「ここで気球を上げたのかな。それで誰も気づかなかったのかな」
「どうですかね。でも今も人がたくさんいるわけじゃないですよね」
「結城さんこの辺りで田植えの時期はいつ頃ですか?」
「そうですね。大体が5月の中旬ですかね」
「保科さん田植えがどうかしましたか?」
「ちょうど田植えの時期になるよな。人がたくさん作業していただろう、そういった気球を見た人はいなかったのかな」
結城が答える。「ちょっと気球に話を絞って聞いてみますよ。署内でも見た人間がいたかもしれません」
「そうですね。よろしくお願いします」
宮本は気球にこだわる保科を不思議そうに見ていた。
3
冷泉と鮫島は、番太池死体遺棄事件で殺された白岡隼人の関係者を当たっていた。これは元芸能人である冷泉の顔を利用する形での捜査となる。
さすがに冷泉がこの世界から引退して7年も経つと、それなりに業界も新陳代謝しており、顔が効くといったことも少ない。それでも冷泉を知っている昔の関係者は軒並み協力的な姿勢を取ってくれる。当時の冷泉が現場でも評判が良かったことが伺える。
ただ、白岡隼人については関係している人間が多すぎる。いまやヒップホップ業界で最大の売れっ子でもあり、連日、色々な人間との折衝が続いていたようだ。そのためすべての人間に当たるのに相当な時間が必要となり、警視庁の捜査員も総出で聞き込みをしていた。さらにその中に殺人にまで発展するような事例は見つかっていなかった。よって冷泉たちの聞き込みでも新たな発見はないままとなっていた。
本日、冷泉と鮫島は白岡の生徒を中心に聞き込みを続けている。彼のスクールは市ヶ谷にあり、その日のダンスレッスン終了後に生徒たちから話を聞いていた。
今は夜の部で、もっぱら生徒たちは高校生以上の年代であった。5人が残ってスタジオ脇の休憩室にいる。さすがにこの年代で冷泉こと茉莉華を知っている者はいないようだが、ただ、みんなお姉さん綺麗だから芸能界に入ったらとか勧めていた。
「白岡先生がいなくなって困ってるのかな?」
男の子が答える。「そうでもないかな。以前からめったに指導には来なかったから、基本、今いるトレーナーが教えてたよ」
「そうなんだ。先生はどのくらい顔を出してた?」
もう一人の女の子が言う。「月に1、2回かな」
鮫島が質問する。「先生が来るときはどういう時だった?」
「トレーナーと打ち合わせするのが殆どかな。今後の進め方とかそういう話だと思う」
ここでもう一人の男の子が言う。「それとこれはという生徒を見つけに来ていたのかもしれない」
「ああ、それはあるかも」
「それはどういうことかな?」
「早い話、ものになりそうな生徒を見つけるっていうのかな」
「プロになれそうな人材ってこと?」
「そう、ダンスの大会もあるから、そこで優勝すればスクールの手柄にもなるでしょ」
「なるほど、今はそういう生徒はどうなってるのかな。君たちもその候補なんでしょ?」
5人が顔を見合わせる。
「どうかな。うちらはそこまでは無理かもしれない。もっと若い子だよ。小学生ぐらいの」
「そんなに若い子がいるの?」
「いるよ。けっこう有望な子もいるみたいだよ。そのぐらいから仕込まないとものにはならないんだって」
冷泉が質問する。「白岡先生の自宅に行くような子もいるの?」
「生徒で?」
「そう」
「いないんじゃないかな。確かに自宅にもスタジオみたいな施設はあるらしいけど、そこまで行くような生徒はいなかったと思う」
「それは明が知らないだけじゃないの」そういって女の子がからかうように言う。
「そういった子のことを聞いたことあるの?」
「まったくない訳じゃない、みたいなことは聞いたことがある」
「具体的に名前はわからない?」
「そこまではわからないな。トレーナーに聞いてみたら?」
「そうなんだけどね。口が重いみたいで」実際、トレーナーにも話を聞いてみたが、そんな話は出なかった。隠している訳でもないのだろうが、あまり話したくないようでもある。
「噂だとそういう子が自宅に行ってるかもしれないってことかな」
やはり5人が顔を見合わせる。
「君たちが言ったって言わないから言ってみて」冷泉が優しく誘う。
「噂だし見たわけでもないけど、そういうこともあるとは聞いたことがあるよ」
「具体的には知らないわけね」
みんなうなずく。まあ、こういった話はどこにでもあるわけで、必ずしも真実とは言えないだろう、それでも噂があるということなら調べる価値はある。とにかく当日、誰かが白岡の自宅に顔を出していることは間違いないのだ。
聞き込みを終えて、冷泉と鮫島は帰途につく。鮫島は武蔵村山の自宅に戻り、冷泉は捜査一課に顔を出すという。市ヶ谷駅までの道を歩きながら、明日の予定を確認する。
「もう一回、白岡のマネージャーに話を聞こうか」冷泉が言う。
「何か出ますかね、もう他の捜査員が何回も聞き取りやってますよね」
「そうだね。でも我々は初めてだし、ちょっと視点を変えて聞いてみようと思ってる」
「視点ですか」鮫島は不思議そうな顔をする。
「うん、この世界にいた人間としてのメリットを生かす方法とでも言うのかな」
「へーなんか期待できそうですね」
「まあ、わらをもつかむ感じかな。どこまでできるかはわからないけどね」
「わかりました」
明日の待ち合わせ場所と時間を確認して別れる。
4
妙高は探偵からもらった名簿をもとに、ようやく美野里の知り合いを見つけることができた。彼女が亡くなってすでに11年も経過しているのだ。関係者の数も徐々に少なくなっており、細糸を針に付けるような作業だった。
美野里は大学卒業後、製薬会社に勤務する。そこでは一般職の営業事務をしていた。そして大学病院で勤務していた浩之と出会う。その辺のいきさつについては当時の同僚から話を聞けた。よくある仲間同士の紹介から結婚にまで至ったようだ。浩之が33歳で美野里が30歳の時である。美野里は結婚を機に退職し、専業主婦となった。一方の浩之は大学病院で研究を続けている。この辺はよくある話で疑問の余地はない。
美野里は退職後は同僚との付き合いも徐々に減っていく。それこそ年賀状のみのあいさつになったようだ。よって詳しい事情はわからないが、結婚後の話題として子宝に恵まれないことは聞いたそうだ。こういった事実は浩之の同僚からも聞く話で、二人とも子供が欲しかったことは間違いがないようだ。
そしてさらにさかのぼって大学から高校時代までの友人を当たっていく。そこからが大変だった。今時は詐欺事件も多く、信用されるまでの労力が半端ない。確かに高校時代ともなると30年以上も昔の話となる。今頃、何を聞きたいのかと胡散臭い匂いしかしない。妙高が逆の立場でも同じように思うだろう。至極まともな対応でもある。
それでもなんとか高校の親友ともいえる友人を見つける。彼女は石嶺洋子という。社会人になっても年に一度は必ず会って旧交を温めていたそうで、現在は親の介護があるため、三浦市に戻っているそうだ。現地で会うことを条件に取材に応じてもらえた。なんとなく、謝礼も出せますと言った部分が効果的な気もした。
妙高は電車を使って終点の久里浜駅まで出向く。石嶺さんにはそこまで出てもらい、駅前のコーヒーショップで面会する。ここはよくある大型のチェーン店である。ちょうどこれから昼時ということで、店内はそこそこ込み合っている。
同級生ということなので現在は51歳となるはずだ。プライベートな話をしても仕方が無いので聞かなかったが、なんとなく伴侶はいない気がした。既婚か未婚かも当然聞けない。どうやら親の介護のために田舎に戻ったようだ。会ってみると確かにやつれた雰囲気があり、見た目は年齢以上に老けている。高齢の親を持つ妙高にとって明日は我が身といった危機感を覚える。
「わざわざすいません」そういって妙高は自分の名刺を提示する。
「週刊ジャーナルの記者さんですか」
「そうです。電話でいきなり雑誌名を言うと余計に胡散臭いでしょ」
石嶺はようやく笑顔になる。「そんなことないですよ。ちゃんとした出版社ですから」
「きわどい記事も多いんですけど、ああ、今回はそういったことではないんです」
「はあ」
「実は最近、美野里さんのお子さんと会う機会がありまして、その関係で彼女について知りたいと思いました」
「お子さんですか、確かもうすぐ中学生かしら?」
「そうですね。今は11歳です」
「そうですか、大きくなりましたね」
「お会いになられたことはないんですね」
石嶺の顔が曇る。「ええ、ないです」
なるほど、美野里が亡くなったのは大夢が1歳の時だ。そうすると会う機会もないのか。
「高校時代の親友だったとお聞きしました」
「そうですね。仲良くしていました」
「どんな方だったんですか?」
「おとなしかったかな。とにかく自己表現が上手く出来ないとよくぼやいていました。他人との距離感もわからないって言ってましたね」
「それでも仲良くなられた」
「そうですね。当時、家も近所で一緒に帰ることも多かったからかな」
「竹馬の友といった感じですね。えーと大学は一緒ではないんですね」妙高は資料を見ながら話す。
「はい違います。ただ二人とも都内の大学に行って、学校は違ったんですが、よく会っていました。バイトも一緒にすることが多かったです。当時住んでいたアパートも近かったし、頻繁に会ってました」
「美野里さんの写真はお持ちですか?」妙高は予め石嶺に聞いていた。
「はい、持ってきました」そう言ってバッグから写真を出してくる。
大学生の頃の写真だろうか、ディズニーランドに行ったようだ。シンデレラ城の前に嬉しそうな二人が立つ。
「大学の頃ですかね」懐かしむように石嶺が話す。
「スマホで撮らせてもらってもいいですか?」
「どうぞ」妙高はその写真をスマホで撮る。
「その後、社会人になってもそういった関係は続いていたんですね」
「そうですね。お互いなんとなく一年に一回は会おうみたいには思っていました。実際、その程度では会っていましたね」
「石嶺さん以外に美野里さんに親しいお友達はいなかったですか?」
「どうかな。ただ、私ほど長く付き合った人間はいなかったのかもしれませんね」
「美野里さんが結婚されたのは紹介からだったと聞きしましたけど、実際のところはどうなんでしょう」
「そうですよ。彼女の職場の同僚が大学病院で勤務している浩之さんと知り合って、その関係で紹介されたと聞いてます」
「それまではお付き合いした方はいなかったんですかね」
「さあ、どうかな。まったくと言うことも無いと思います。それなりでしたけど。結婚を意識したのは浩之さんが初めてだったかな」
「当時は相談されましたか?」
「いえ、そこまでは無かったかな。結婚が決まったと連絡はもらいました」
「結婚式もやられたんですよね」
「はい、浩之さんは資産家ですよね。彼女、けっこうその辺で気を使ったかもしれません。式も豪華でしたよ」
なるほど、当時は櫻井家の両親も健在だったから、さぞ豪華な披露宴だったのだろう。
「ここからは話しづらいかもしれませんが、言える範囲でけっこうです」
石嶺の顔が少しこわばる気がした。
「しばらくお子さんが生まれなかったようですね。その辺の事情は何かご存じないですか?」
「ああ、結婚して何年かはそういった話もしましたね。二人とも子供は欲しかったようで、うまくいかないもんだとかぼやいていました」
「それでもできなかったんですよね」
「こっちからそういう話はできませんからね。しなくなりましたね」
「そうですね。わかります。ただ、10年目でようやく出来たんですね」
石嶺が口ごもる。はて、いったいどういうことなのだろう。
「何かありましたか?」
「あの、実はその頃から美野里さんとは会わなくなったんです」
「そうなんですか」
「ええ、こっちから連絡しても会えないことが続いて結局、会っていません」
「それまでは毎年会っていたんですよね」
「そうですね。ただ、色々あるから仕方が無いのかなとは思っていました」
「当時、石嶺さんはどこにおられたんですか?」
「私は東京にいました。こっちに戻ったのはごく最近なんです」
「そうでしたか、でもどうしたんですかね。それだけ欲しかったお子さんが出来たというのにね」
石嶺はさらに考え込むようにうつむく。「あまりこういうことは言いたくないんですけど、何かあったとは思いますよ。もしわかったのなら逆に教えてほしいと思ってます」
「そうですか、確かに不思議な話ですよね。親友である石嶺さんには真っ先に話をしたいと思いますよ。それ以降も会われていないということですか?」
「そうです。結局、その後は一度も会えずじまいでした」
「そうでしたか。じゃあ亡くなられたと聞いた時はショックでしたね?」
「ええ、青天の霹靂でした」
「ご病気だったんですよね」
「そういった話も聞いてないんです。唐突に亡くなったと連絡をもらいました」
「そうだったんですか」
「はい、なにか腑に落ちない気がしています」
「亡くなった理由を聞いていないということですか?」
「そうです。まあ、あまり突っ込んで聞けるものでもないですけど、病死としか聞かされなかったです」
「何かあったのではということですか?」
「わかりません。もし何かわかれば教えてほしいです。そのために妙高さんとお会いしたいと思いました」
そういうことか、謝礼とか勘ぐって申し訳なかった気がする。たしかに親友の死はショックだったと思う。
「何でもいいんですけど、その時期に何か気になるようなことは無かったですか?」
石嶺は再び考え込むが、何も出てこないようで首を振る。
「そういえば今現在、息子さんと一緒に暮らしているのは美野里さんの妹さんになります。佐和子さんをご存じですか?」
「そうなんですか、佐和子さんはわかります。こっちにいる時はまだ小学生だったかな。歳が離れていたんで、覚えているのは一緒に遊んであげたことぐらいかな」
妙高は資料を確認する。「そうでしたね。7歳違いです」
石嶺が何か思い出したような顔になる。「そういえば、その頃ですよ。佐和子さんが東京に出てきたのは」
「その頃というのは?」
「会えなくなった時期です。会えない理由が妹が上京するとか言ってた気がします」
「そうなんですか?」
「はっきりしないですけど、美野里さんから佐和子さんが東京に来る話を聞いた気がします」
「そうですか」
それから、美野里さんとの高校時代の話を聞く。妙高は自身の高校時代を思い出す。そうだった、田舎にいた時はこういう生活だったと懐かしくなった。
そして最後に謝礼を渡す。通常の取材費で車代といった意味合いで2万円とした。中身を確認して石嶺は安心したような顔になる。そして自身の話になる。
「妙高さんのご両親はご健在ですか?」
「ええ、田舎は長野なんですが、二人ともぴんぴんしてます。帰って来いってうるさく言われます」
「そうですか、元気がなによりです。うちは両親とも弱ってしまって」
「そうですか」
「母親が認知になってまして、家事全般が出来ません。そうなると私しか頼りになるものがいないもので」石嶺の疲労の理由がわかる。「お金があれば有料の施設に入れられるんですけどね。やっぱりお金はあったほうがいいですね。今更ながらそう思います」
「そうですね。実際、私もそこまでの蓄えは無いですから」
「私の残りの人生が親の介護になってしまいます」
妙高は言葉が無い。そういった人は多いのだろうとは思う。そして自分の番になると面倒をみてくれる人間もいなくなる。これからどうなるのだろうか。
聞き取りを終えて帰宅する。帰りの車中はそんなことを考え、暗い気持ちになった。ただ、取材としては有意義だった。櫻井家で何かがあったことは間違いが無い。次の一手を考える。
5
気球という一風変わった情報を掴んだ保科はそれをヒントに捜査を続ける。すると同じように気球を見たといった話が何件か出てきた。言い換えればこれで動物の死と気球が関連しているのがはっきりする。
それと気球を使ったということであれば、間違いなくマル被は運搬用に車を使ったことになる。
「保科さん、レンタカーで間違いないんですかね」宮本は半信半疑だ。
「間違いないだろう、気球だぞ、ライトバンぐらいは必要だ。それとあの二人組は誰かに雇われた。気球を使った仕事にだ」
「何かの宣伝ですかね。気球にのろしでもつけて」
「そんなわけあるか、だったら人に見られて逃げたりしないだろ」
「じゃあ、何ですかね」
保科は黙る。それがわかれば事件は解決することになるのだろう。
宮本がこういって渋る理由は、彼に電話確認を手伝わせているからだ。本部の捜査員を動員してまで、調べるまでの確証がない。気球とマル被が直接つながってはいないわけで、そんな中で調査を依頼する手続きが面倒なのだ。
秋田から新潟地方に移動しながら、時間を見つけてはレンタカー店に確認の電話を入れている。今も宿に戻ってから電話をしている。
「もう、2週間になりますよ。あらかた電話し終わったんじゃないかな」
「ぶつぶつ言うな。どこまで電話したんだっけ」
「秋田と山形は終了、新潟もあらかた終わりました」
「やはり東京あたりからレンタカーを借りたのかな。となると借りっぱなしになってるはずだから、すぐにわかるな」
「都内だと大手かな。手分けしてやりましょうね」
そして二人で手分けして電話を繰り返しかける。都内にもレンタカー店は多いが、概ねチェーン店になっている。つまり大元に電話をかければことが足りるのだ。
そうしてようやく狙い通りレンタカー屋を見つけることが出来た。
保科の声が躍る。「ライトバンを乗り捨てられたんですね」
『そうです。結局、新潟で見つかりましたよ』
「魚沼ですか?」
『よくご存じですね。そうです南魚沼で見つかりました』
ビンゴだ。借りた時期や移動場所の特定もできた。間違いなく、マル被が借りた車になる。これで事件が再び動き出す。
保科は早速、この情報を捜査本部に進言する。マル被につながる重要事案だ。すぐに本部も了解し、捜査が進展する。
すると様々な情報が出てくる。まず借主だがレンタカー屋に登録されたのは偽造免許証だった。当然マル被の特定は出来なかったが、ただ免許証は巧妙に偽造されていたようで、その製作ルートを別途探らせている。また乗り捨てられたレンタカーのドライブレコーダは取り外され、車内に指紋なども残っていなかった。これはホシの仕業だろう。マル被殺害前後で証拠隠滅のためにドライブレコーダなどを処分した。
ただ、車だけは特定できたため、防犯カメラやNシステムを使ってのマル被の足取りが明確になってくる。情報として大きかったのは防犯カメラ画像だ。マル被が立ち寄ったコンビニや飲食店などから画像が確認でき、それを元に捜査員はマル被に関する聞き込みを続けていく。
そしてレンタカー発見から1週間たって、ついにマル被が特定される。
新潟魚沼署の捜査本部ではその報告会が行われていた。捜査一課清水班長が都内捜査員からの情報を上げている。
「マル被の一人目は鳥飼翔太24歳橋本市在住。二人目、光本真23歳こちらは立川市在住です。両者は知り合いではなく、この事案で出会った模様です。近年流行りのネットで集められた闇バイトだと思われます」
保科の想定通りだ。上座に座る幹部連中が苦虫をかみつぶしたような顔になる。こういった犯罪は始末が悪い。犯罪を指示する上部組織の存在が見えてこないのである。特定に関する捜査は困難を極める。犯罪組織が海外に拠点を持つ場合が殆どとなり、外交的な駆け引きまでもが要求される。
清水が続ける。
「ただ、こういった犯罪で使われる通信システムからの情報が掴めておりません。マル被の通信履歴をもとにサイバー犯罪対策課で通信元を当たっていますが、そういった形跡がないようです」
本部長が質問する。「どういうことだ。何らかの通信手段がいるだろう」
「おそらくホシが別途、依頼後に秘匿可能な通信手段を与えたものと思われます。さらに最初に接触した際は出会い系アプリか、もしくは最初から面会だったのかもしれません。具体的な接触の履歴は無かったです」
「その根拠はあるのか」
「ホシのプロファイルで知能が相当に高いことがわかっています。さらに偽造免許証が精巧に作られています。実に用意周到です。また、直接面会が会ったのではという点については、番太池事件についても闇バイトを雇った形跡があり、そこから考えるとホシは地域的に多摩地区に土地勘があると思われます」
「ホシについての推測はわかったが、実際の所、ホシにつながる情報は皆無ということか?」
「残念ながら今の所はそういうことになります。ただ、マル被の友人から得た情報があります。両者とも近々大金が入ることを言っていたようです。さらに2カ月ぐらいは都内を離れるということも話しています」
「それでもホシについての情報は無いのか?」
「そうなります。口止めされたことは間違いないですが、それにしても徹底してますね」
その後も各部署から報告がなされるが、有意義なものは無かった。事件について捜査に進展はみられるもののホシの姿が見えてこない。そういった犯罪である。
会議後、廊下で清水と保科が打ち合わせしている。
「保科の次の一手は?」
「まだまだ、序盤ですからね。実際、敵の囲いは強烈ですよ」保科は将棋ネタで答える。
「確かにな」
「捜査員はマル被周辺から情報を集めることに専念しろってことでしたが、私は別ルートを当たってもいいですかね」
「構わんが、具体的にはどこを当たる?」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よですよ。自分は気球側の思惑を当たってみようと思います」
「しかし、気球については目撃情報もあまりないだろう、そういったものを作れるところを当たっているが、今の所情報は無い」
「いえ、気球そのものではなく、その目的です。動物の死体が出た箇所と気球を上げた箇所が一致しています。その関連性から当たってみようと思ってます」
「当てはあるのか?」
「新潟で会った大学教授とコンタクトを取ってみます。そこからですかね」
「わかった。保科に任せる」
保科は東京に戻ることになる。
6
冷泉たちは渋谷にいた。冷泉にとって渋谷は、芸能人だった学生時代から勝手知ったる街である。一方の鮫島は渋谷にはあまり縁が無い。地元の武蔵村山からだと精々新宿や中央線沿線までしか行く機会が無い。
「若者が多いですね」
「そうね。学生も多いのかもしれない。学校も多いからね」
「なんか圧倒されるな。今日は芸能事務所に行くんですよね」
「そう、実は私が所属していたところなの」
「え、そうなんですか?プラチナシードにいたんですか?」
「7年間ね」
「じゃあ白岡と同じだったんですね」
「白岡はプラチナとマネジメント契約を結んでいて、事務所には経理や契約関係を主にやってもらっていたみたい」
「マネジメント契約って何ですか?」
「そういった仕事をやってもらう代わりに、契約金を歩合で支払う形になるのかな。そういった契約ね」
「茉莉華もそうだったんですか?」
「茉莉華は違うの、専属契約で事務所に入って、そこからお給料をもらう形だった。実を言うと当時はバイト感覚だったの」
「バイト?」
「あの頃はバイトしても自給1000円ぐらいでしょ。それがモデルだとありえないほどもらえるって言われてね」
「そうなんですか」
「だから大学までって決めてたの」
「そうか、でももったいないな。時給数千万じゃないんですか?」
「そんなにもらえるわけないよ」
鮫島は疑いのまなざしを向ける。当時の茉莉華は億を稼いでいたはずだ。冷泉は話を変える。
「白岡ぐらい実力者だと仕事も多いし、その割り振りも大変になる。だからそういった整理をプラチナシードにしてもらう目的ね」
「なるほど」
冷泉たちは道玄坂の先にある20数階建てビルの前に立つ。
「ここがプラチナシード」
「このビル全部ですか?」
「全部じゃないよ。でも私がいた頃よりはフロアー数は増えてるみたい。昔はワンフロアーだったのが、今は3つも使ってる」
鮫島はそのビルを感慨深く見上げている。
エレベータで最上階まで行く。
降りると壁に大きくプラチナシードと表示がある。さらにその奥に入口がある。
ガラス張りの扉を開けるとそこに受付があった。ただ受付に人はいない。呼び出しの電話機があるだけだ。冷泉はそれを使ってアポイントがあることを説明する。
中から若い女性が出てくる。冷泉を見て少しびっくりしている。
「えーと、オーディションで来られた方ですか?」
「いえ、警視庁の冷泉と申します。今日は藤井社長と面会の約束を取ってあります」
「え、貴方が刑事さんですか?」
冷泉がにっこりと笑い。うなずく。
「ああ、すいません。じゃあ、こちらにどうぞ」
そういうと応接室に案内される。
「こちらでお待ちください。今、藤井を呼んでまいります」
鮫島はソファの具合を確認している。ふかふかのようだ。
「三有さんを芸能人と間違えたんですね」
「今さらなんだけどね」
「私なんか目もくれてなかったですよ。マネージャーとでも思ったのかな」
「もしくはボディガードかな」そう言って笑う。鮫島も何故かうれしそうだ。
そこに勢いよく男が入って来る。満面の笑みだ。
「茉莉華!久しぶり」
「藤井さん茉莉華は無しで」
「そういうなよ。懐かしいな。いつ以来だ?」
「まだ1年ですよ。柳沢さんの送別会兼藤井さんの社長就任式以来です」
「そうだっけ、でも相変わらずの美しさだな。刑事をやめてこっちに戻ってこないか」
「またですか、その気はありませんって。今日はちょっと藤井さんのお力を借りに来ました」
とたんに藤井の顔が曇る。「白岡の件だよね」
冷泉がうなずく。「こちらは同僚の鮫島になります」
鮫島が藤井と名刺交換をする。藤井が話を始める。
「白岡さんとはマネジメント契約でね。うちとは3年前からの契約になる」
「どんな方でしたか?」
「元々はダンサーだったからな。マネジメントは出来ないのかと思っていたけど、経営感覚も持っていたよ。ダンススクールもやってたし、海外との契約も個人でこなしていたからね」
「でも活動範囲を広げて多忙になったから、プラチナシードと契約したんですよね」
「そうだね。スクールだけじゃなくて、芸能関係の振り付けもやってたしね。それと個人の活動も継続してたからね。もう忙しくてどうしようもなかったみたいだよ」
「仕事の内容はプラチナ側で把握していたんですよね」
「そう。こっちで仕切りもやってたからね。彼の要望を聞いてこっちでスケジューリング、それを確認してもらう形かな」
「具体的に聞きたいのは、この2カ月間でどういった仕事内容だったかです」
「それについては警視庁から依頼が来て資料を渡してあるよ」
「はい、それはいただいています。その詳細について確認したいんです」
「詳細か」藤井は少し考える。「まあ、茉莉華の頼みじゃ断れないな。ちょっと待ってて担当を呼んでくる」
藤井が離籍する。鮫島は名刺を見ながら、「社長さんなんですね」
「私がいる頃はマネージャだった。でもやり手でね。前の社長も一目置いてたな」
「まだ、若いのにすごいですね」
「芸能事務所の収益ってすごいんだよ。プラチナシードも大手になってきたから年間300億以上は売上てると思う」
「そんなにすごいんですか」
「上場企業並みだよね」
藤井がもう一人の男性を連れてくる。まだ若い30歳そこそこに見える。藤井が紹介する。
「こちらは木村です。茉莉華ね」
冷泉が慌てて訂正する。「違います。冷泉と申します。こちらは鮫島です」
木村が笑顔で返す。「木村義徳です。柳沢さんの引退式でもお見かけしたんですが、話は出来なくて」
「そうでしたか、それは失礼しました」
「いえ、こちらこそ」
「白岡さんの話を聞きたいそうだ」
「この度は残念なことになりました」木村は本当に残念そうに下を向く。
「それで白岡さんのスケジュール表は見せてもらったんですが」冷泉たちはもらったスケジュール表を机の上に出す。亡くなる前2カ月間のスケジュールが記載されている。「すでに警察に話をしているとは思いますが、もう少し突っ込んだ話を聞かせてもらいたいと思ってます」
「はい、わかりました」
「この2カ月で何か気になる出来事は無かったですか、2カ月というか直近1カ月でもいいんですが」
木村は少し考えに耽る。そして話す。「いえ、特には無かったです」
名簿には仕事内容と面会した人間について記載がある。それを見ながら鮫島が質問する。
「この中でプロレスラー並みの腕力を持った人はいないですか?」
木村が不思議そうな顔をする。「プロレスラーですか?」
「ええ、名簿に名前が無くても関係者にそういう人物はいないですか?」
木村も名簿を覗き込む。「そういう人はいないですよ」
冷泉がフォローする。「じゃあ運動神経がずば抜けてるでもいいんですけど」
「運動神経か、いや、特に記憶にないな」
冷泉がふと目を止める。「この方、中国の方ですか?」李沐宸という字を指す。
これに何故か鮫島が食いつく。「三有さん、リームーチェンですよ。みうさんも知ってるはずです」
「ああ、あの歌姫か」
これには藤井がうれしそうな顔で答える。
「台湾から来た歌姫だよ。先月から積極的にメディアに露出させてるんだ。その前はネット中心にね」
鮫島が言う。「新曲がすごくいいですね。あれも自作曲ですよね」
「よくご存じで、ああ、そういう意味だとリーは天才ですよ。そういえば運動神経もよかったな。確か陸上大会で優勝したって聞いたよ」
鮫島が驚く。「そうなんですか、ずいぶん華奢に見えますけど」
「そうだね。小柄だけどばねはすごいよ。ああ、でもプロレスラー並みじゃないよ。見た目のまま華奢だしね」
「この人は白岡さんに何を教わってたんですか?」
これには木村が答える。「これから売り出すんで可能性を探るという意味です。ダンスがどのくらい出来るのかとか、音感はどうかとかね。今や歌姫でも少しは踊れないと厳しいです。そういった振り付けもしないとね」
「それでどうだったんですか?」
「白岡さんは驚いてたよ。ダンスは初めてだったらしいんだけど、すぐに何でもこなすらしい」
もう一度冷泉がスケジュール表を確認する。「指導はひと月前に1回だけですね」
「そうだね。白岡さんもスケジュールがいっぱいでそれだけになってる。もっと彼に教えて欲しかったよ。その点は残念だよ」
冷泉が少し言いにくそうに話をする。
「私もこの業界にいたのであえてお聞きします。白岡さんは女性の扱いはどうでしたか?」
木村が藤井の方を見る。確認をしているのだろうか。それを見て藤井が話す。
「それはずばり女癖ってことかな」
「はい、そうです」
「事件に関係するのかな。まあ、いいか、あえて言うほどの癖はないよ。それこそ、この業界の一般的な対応かな」
「特に問題があるようなことはしていなかったということですね」
「そう」
「でも、あれですよね。興味があるのは女性と言うことでいいんですよね」
「それはそうだな」
鮫島は意味がわからないのか、きょとんとして一人蚊帳の外である。
それから冷泉たちは白岡のスケジュールの詳細を裏も含めて確認を取る。
「どうも長々とありがとうございました」一通り話を聞き終えて冷泉が礼を言う。
「今度は仕事抜きで一杯やろう」藤井が嬉しそうに言う。
「はい、よろしくお願いします」
プラチナシードから繁華街に出る。渋谷はすでに陽が落ちて、辺りは夜街の様相となっている。
鮫島が話す。「三有さんこれから一課に戻りますか?」
「まだ、宵の口だからね」
「そうですか」鮫島は残念そうだ。「そういえば三有さん、リーに興味があるみたいでしたね」
「そうね。リーはわかってたんだけどね。漢字までは知らなかった」
「彼女、ネットでもすごい人気ですよ。動画の再生回数も半端ないです」
「そうなんだ。だめだな。そういうところには疎くなって」
「見てみますか?」鮫島がスマホを出そうとすると、冷泉のスマホが鳴る。
「はい、冷泉です」
鮫島はまた事件なのかと緊張の面持ちだ。しばらく冷泉が話をしてスマホを仕舞う。
「事件ですか?」
「違う、知り合いが飲みに来ないかってお誘いなんだ」
鮫島は少しほっとする。「行くんですか?」
「ゆきも来ないかって」
「いいんですか?」
「女子会だよ。妙高さんっていって出版社の人」
「行きます」鮫島はうれしそうだ。
7
新宿の副都心。高層ビル街の地下にある居酒屋である。妙高はいつもこの安いチェーン店を利用する。吐くまで飲んでもお金は何とかなる。
生ビールを一口飲み、妙高は大きなため息をつく。大夢の調査は全くの暗礁に乗り上げていた。手掛かりすらつかめていないのだ。冷泉と会うのも大夢の情報を何かつかめないのかというところになる。
「妙高さん、こんばんは」顔を上げると冷泉がいた。冷泉の隣にいるのが、今の相棒なのか、小さいがずいぶんがっしりした印象を受ける。本人には言えないが豆タンクといった感じだ。
「初めまして鮫島ゆきといいます」
「こちらこそ、初めまして妙高ちとせです」
その後、簡単な挨拶兼人物紹介を済まし、飲み物がいきわたって乾杯をする。
妙高は大夢調査の話をする。
鮫島が感想を言う。「記者さんはどうやって情報を得たりするんですか?」
「色々かな。私は何でもありかもしれない」
冷泉が話す。「調べているのは大夢君の謎ですか」
「大夢君って誰なんですか?」鮫島が聞く。
「例のイタコの少年。誘拐事件の解決に貢献してくれた」
「ああ、あの少年ですか」
生ビールをぐぐっと飲んでから妙高が言う。「そう、私もあの少年が気になってね。だってあんな能力信じられないでしょ、何かあるはずなんだよ。それでその背景を探ってたんだ。でも何かあるのは間違いなくて、どこから手を付ければいいのかがよくわからないんだ」
冷泉は何も言わない。それを見て妙高が鎌をかける。
「冷泉さんは何か知ってるんじゃない?」
「大夢君ですか、いえ、何も知りませんよ」
「そうなんだ」妙高はがっかりする。
鮫島が何かを思い出したように話す。「そうだ。イタコの少年で思い出しました。今までプラチナシードにいたんですけど、あそこが売り出しを掛けてるリーって歌姫がすごいんです」嬉々としている。
妙高がびっくりする。「今までプラチナシードに行ってたの?」
冷泉がつなぐ。「この前亡くなった白岡さんはプラチナシードとマネジメント契約をしていたんです」
「ああ、白岡って番太池事件だったよね。そうなんだ。その関係でか。ああ、そうそう今、話が出たリーだけど、私も取材したんだよ」
「そうなんですか」鮫島の目が輝いて、一段とボルテージが上がる。
「この前、実際に歌ってるのも取材したんだけど、あの娘はすごい。これまで聞いたことが無い歌い手だよ」
「やっぱりそうなんですか、私も生歌聞きたいな」
「天賦の才能だよね。確かにすごい」
冷泉が質問する。「どこが違うんですか?」
「言葉で説明できないんだよ。聞いてみればわかる」
すると鮫島がスマホを使ってリーが歌ってる映像を見せる。
冷泉がしばらくそれを凝視している。その場にリーの歌声が響く。
「確かにいいですね。どこか懐かしくもある」
「そうなんだよね。心に響いて来る歌声だよね」
「これも才能ですね」
「そう思うな」
「リーは今度、コンサートをやるらしいよ」
「知ってます。でも即日完売でしたよ。こっちは仕事中なんですよ。休み時間に予約しようとしたけど、手も足も出なかった。刑事が転売を使うのも問題だし」
「そりゃそうでしょ、取り締まる側だし。でもすぐに完売だったみたいだね。会場の規模が小さかったからもったいないよね。あれだとスーパーアリーナでも十分集客できるんじゃないかな」
「そうなんですよ。私も行ってみたかったな」鮫島は羨ましそうな顔をする。
冷泉が話題を変える。「そうだ。妙高さん、ゆきは格闘技の達人なんですよ」
「空手をやってるの?」
「そうです。正確に言うとマーシャルアーツになります」
「軍隊がやってるやつね。すごいな。それは警察に入ってからなの?」
「いえ、中学からです」
「わお、それはすごい。じゃあ10年以上もやってるってことだよね」
鮫島は照れる。
冷泉が言う。「頼りになるでしょ」
「そういえば、鮫島さんは武蔵大和署だよね」
「そうです」
「私はあそこの神保さんとは仲良しなんだ」
「そうなんですか?」
「二宮君も知ってるし、彼らは飲み仲間だよ」
「そういえば、前に妙高さんの話が出た気がします。私はあんまり飲み会に参加しないほうなので」
「じゃあ、これから私が神保さんを誘ったら一緒に来てね」
「はい、わかりました」
ここで妙高は仕事モードに入る。いつもこんな感じだ。「白岡さんの事件はどうなの?犯人のメドはついた?」
来たかと言う顔で冷泉は慎重に話す。「まだです」
「まったく見えてないってこと?」
「そうです。広域捜査になって余計に難しくなってます」
「ああ、新潟の事件もあるのか、でもなんであんなことしたのかな?」
「そうですね。白岡さんの事件と言い、犯人側の目的がよくわかりません」
「恨みだけじゃないよね」
「そうですね」
「プラチナシードに行ったってことは、白岡さんと接触した人間を洗っていくのかな?」
「そうですね。私とゆきはその担当ですから」
「リーにも会うのかな?」
鮫島はどうなのか聞いてないので冷泉を見る。
「そのつもりです」とたんに鮫島の顔が輝く。
「そうか、じゃあ妙高がよろしくって言っといて、覚えてるかわからないけど」
「わかりました」
鮫島はその後もルンルンで飲んでいた。
8
保科は独自に捜査を続けていた。事件の発端にあるものは動物の不自然自然死だと思っているのだ。
今はその調査を続けている下林教授の研究室に顔を出している。
歴史のある大学でもあり、郊外に緑豊かな広いキャンバスがあり、学生もどこかのんびりしているように見える。
保科はレンタカーの走行履歴と自然死の分布が一致している点について質問している。下林が履歴を見ながら話をしている。
「確かに見事に一致していますね。そこで気球を上げた可能性があるということですね」
「そうです。先生の方で何かわかりませんか?」
下林は唸る。そして考える。
「例えばですよ。気球から何かを散布するとします。それにより動物が心不全になるようなことがあれば、それは薬物が原因です。ところが死骸や土壌からはそういった薬物の反応は無かったんですよ」
「確かにそういうお話でしたね。となるとこれは素人考えなんですが、薬物反応が無い新しい薬品なんて作れないんでしょうか?」
「化学の進歩はすさまじいものがありますからね。今まででは考えられなかったようなことも起きる。ただ、化学的反応が無い薬物などは無理ですよ。必ず何らかの化学的組成はあるので痕跡は残るはずです」
「なるほど、そうですか」
「ただ、ここまで分布が一致しているのは奇妙です。何か関連はあるのかもしれませんね。少しそういった観点でこちらも考えてみます」
「ありがとうございます」
そう言いながら下林は何かに気づいたような顔になる。
「これはあまり根拠のない話なんで学者の戯言と思って聞いてください。例えばそのままでは無害な物質で、我々も気にならない。ただ、時間経過とともに何かに作用を起こさせるようなものを散布するとします。それを動物が食べて自然死するとかはあるのかな。いや、無理だな」
「無理ですか」
「無理ですね。病理解剖しても普通の植物しか出てこなかったからな」
それでも保科は今、下林が言った話をメモする。時間経過で作用、心不全を起こすもの。
「あと気球で何かを散布することはできるんですかね」
「そうですね。私も専門外なのでよくはわかりませんが、クラウドシーディングという方法があります。それは気球を使って人工的に雲を作って雨を降らせる方法です。そういったことで気球を使うことはありますよ」
「なるほど、ありがとうございます」
保科はそれもメモする。この事件だけでメモ帳は一冊終わりそうな勢いだ。
9
冷泉たちは受領した白岡のスケジュール資料を元に、この2カ月に彼と面会した人間から話を聞いている。都内在住者が多く、その点は助かる。海外の人間との接触もあったが、殺害前後には日本国内にいない事が分かっていたので、それは除外した。
順次、話を聞いていき、そして鮫島がお待ちかねのリームーチェンへの聞き取りの順番となる。担当チーフマネージャーは西城だが、現在はサブマネージャーの緋文字薫が主体で見ているらしい。冷泉は緋文字とは面識がない。
現在はコンサート準備のためにスタジオでバンドと音合わせをしている。
冷泉たちはスタジオ手前の休憩場所でその緋文字と話をしている。緋文字は前社長の柳沢から冷泉(茉莉華)の話は聞いていたようで、別の意味で感激していた。
「冷泉さんのお話は柳沢から何度も聞いていました。今のプラチナがあるのは茉莉華のおかげだって」
冷泉は恐縮する。「柳沢さんはオーバーに言いすぎるんです。あまり本気にしないでください」ただ鮫島は目を丸くして本気にしている。
冷泉が本題に戻す。「それでリーさんについてです。白岡さんとはどういった関係でしたか?」
「ええ、リーの曲にはロック調のものもあるんです。それにダンスを入れようということになって振り付けをしてもらいました」
鮫島の目が輝く。「アルバムに入ってました。自作曲ですよね」
「はい、彼女は曲も書くんですけど、そういったビートの効いたのも多いです」
「そう思います。ほんとにすごい才能ですね」
「才能の固まりみたいな女性ですよ」緋文字はうれしそうだ。
冷泉が話を戻す。「それでダンスレッスンをしたんですか?」
「そうです。白岡さんも時間が取れないっていうんで、結局3時間ぐらいでしたかね」
冷泉がスケジュール表を確認する。
「6月の23日午後3時から夕方までですね」
「その頃ですね」
「白岡さんとリーに何かトラブルは無かったですか?」
その質問に緋文字は不思議そうな顔をする。
「トラブルはないですよ。それよりも白岡さんは驚いてましたよ。リーの呑み込みの早さとダンスの能力に」
再び鮫島が身を乗り出す。「そうなんですか?」
「そうです。それで振り付けもどんどん変えて、私もよくはわからないんですけど高難度のものになったみたいです」
「それでも3時間で終了したんですね」
「そうです。白岡さんがケツカッチン、次の仕事があったものでそうなりました」
「でも振り付けは終わったんですね」
「そうです」
「何曲かやったんですか?」
「メイン曲、コンサートの1曲目だけですね。他の曲は白岡さんのお弟子さんが見てくれました」
鮫島がまた違う質問をする。「今度のコンサートでやるんですか?」目がらんらんと輝いている。
「ええ、やります」
冷泉は少しあきれ顔で聞く。「緋文字さんが見ても二人は変な関係ではなかったんですね」
「はい、むしろ白岡さんはリーを気に入ったみたいでしたよ」
「話は変わりますが、リーの関係者で怪力の人間はいませんか?」
「怪力?いえ、彼女にそういった人はいないです」
「日本に知人はいないんですか?」
「ああ、そういう意味では彼女の祖父が日本にいます。大学教授です」
「ああ、聞いてます。星天大学の鄧伟教授ですね。多摩地区にある私大ですよね」
「そうですね。リーも休暇が取れると彼に会いに行くようです」
「休暇があるんですか」
「もちろんです。昔のようなことはありません。あ、すいません」そう言って緋文字が冷泉に謝る。
「大丈夫です。私も学業優先でしたから」冷泉は笑顔で答える。
「トウさん以外に知人はいないんですね」
「ええ、おりません。友人もいないみたいでその点は少しかわいそうですね」
そこにリーが姿を見せる。鮫島は顔がこわばって仕事も忘れ、純粋に感激している。
冷泉は初めて見るリーに驚く。写真で見るよりも美しい、むしろ麗しいと言った印象である。それでいて幼さを残している。なるほどプラチナシードが全精力を掛けるだけはある。
冷泉たちを見てリーは少し緊張気味だ。
冷泉と鮫島は立ち上がってリーに握手する。
「警視庁の冷泉と鮫島です」
「リームーチェンです」硬い感じで挨拶する。鮫島は増々顔が紅潮している。
「今、我々で白岡さんの事件を担当しています。それで彼と生前面識があった方にお話しを聞いているところです」
リーがうなずく。
「リーさんは日本語はどの程度理解できますか?」
「はい、会話は大丈夫です。話している内容は大体わかります。でも敬語は難しいです」
「日本に来られて1年ですよね。すごいですね」
「ほんとは10カ月ぐらいです。でも外国語は好きなので色々勉強しました」
緋文字が付け加える。「リーはいわゆるギフテッドです。台湾でも飛び級で大学生になっています。外国語も英語やスペイン語もできるようです」
リーは笑顔だ。
冷泉が話す。「白岡さんを知ってますよね」
「はい、もちろんです。今回は残念でした」
「ダンスを教えてもらったんですよね」
「はい、曲のコレオグラフィー、日本語でなんて言うんでしたっけ」
「振り付けですね」
「振り付けです。それをしてもらいました。今度のコンサートのオープニングで披露します」
鮫島はたまらず言う。「見たかったな」
その言葉にリーが笑顔で反応する。「そうなんですか?」
鮫島はしまったという顔だが、そのまま話す。「チケットが取れなかったんです。一瞬で売り切れてしまって」冷泉は苦笑いだ。
するとリーは真剣な顔で緋文字に話す。「招待客用のチケットが残ってませんか?」
緋文字は虚を突かれた顔をする。鮫島は我に返って、「すいません。そんなつもりじゃなかったんです。けっこうです」大仰に手を振り断る。
リーは笑顔で「鮫島さん来てください。ファンは大事です」
緋文字は苦笑いだ。「鮫島さんリーもそう言ってますので、後でチケット送りますね」
「駄目です。そんなことできませんよ。だってリーさんのコンサートを見たい人はたくさんいるのに私だけずるいです」
リーは声を出して笑う。「ずるいですか、面白い。そんなこと言う人初めてです」
冷泉が助け舟を出す。「ゆき、好意に甘えたら」
「いいんですか?」冷泉はうなずく。リーも笑顔だ。
鮫島が言う。「新曲、すごくいいです。あれを聞くと涙が止まらないんです」
リーは真剣に聞く。「そうですか」
「私が変なのかもしれないんですけど、母親を思い出してしまいます」
するとリーは不思議そうな顔をする。「お母さん?」
「ええ、もう私の母は亡くなってしまったんですけど、何故かあの歌を聞くと母が浮かびます」
「そうですか、確かに歌詞には出てこないんですけど、私も親を思って作ったところもあるんです」
「そうなんですか?」
「ええ」
「それとあれは故郷を想った歌ですよね」
「そうです」
「私には広大な光景が浮かぶんです。行ったこともないのに変ですよね」
「どんな景色なんですか?」リーが聞く。
「大きな川が流れていて、そこで色んな家族が生活しているみたいな光景です」
緋文字がリーに聞く。「台湾にも川はあるでしょ?」
「あります。淡水河とか」
「それをイメージしたのかな?」
「イメージでいうとそうです」
冷泉が話を戻す。「そういえばおじいさまが日本におられるんですね」
「そうです。大学で研究しています」
「たまには会われるんですか?」
「休暇になるたびに会いに行きます」リーは嬉しそうだ。
「そうですか、おじいさまのご自宅はどちらですか?」
「はい、日野市です」
星天大学は多摩地区にある総合大学だ。日野市も近いのだろう。
「おじいさまは日本は長いんですか?」
「はい、もう10年になります。だからわからないことは彼に聞けば大抵わかります」
「そう、ご両親は台湾におられるのよね?」
「そうです。でも仕事が忙しくてこっちにはめったに来られません。彼らもお爺さんがいるので安心しきってます」リーが笑う。
「じゃあ、おじいさまが親代わりってところね」
「はい、そうです」
緋文字が時間を気にしている。「冷泉さん、これぐらいでいいですか?」
「はい、すいません長々と話をしまして」
そういうと二人が離れていく。
鮫島はまだ茫然と夢心地のようだ。
冷泉たちは次の聞き込みへと向かう。
10
唐突に冷泉の目の前で手が振られる。はっとして前を見ると保科がいた。
「どうした、考え事か?」
「声を掛けられました?」
「朝の挨拶程度だけどね」そういっていつもの笑顔を見せる。
冷泉は捜査一課の自席にて、報告書を見ながら物思いに耽っていた。
「どうした?」
「白岡の関係者を当たっていたんですが、これといった容疑者が出てきません」
「そうか、白岡ルートだけは他と違って異質な感じがするんだがな。そこに何も出てこないとなると厳しいな」
「そうですね。どこかに見落としがあるような気はしてるんですが」
保科も少し考え込む。
そこで冷泉が気付く。「保科さん、新潟はもういいんですか?」
「一通り、現場は抑えたし、マル被の身元もわかったからな。後はこっちで捜査をする」
「報告書を見ましたが、気球ですか」
「ホシは何をしていたんだろうな。それがわかれば事件に迫れるんだが」
「動物の死体との関連も気になりますね」
「動物を殺すために気球を上げたのかな。それに何の意味があるのかだな」
「事件の裏にあるのは怨恨だと思ってるんですが、それが見えてきません。もしくは金銭的なものか、過去の因縁とかなのかな」
「今回のホシは普通とは違う気がするな。動きにしても組織的だと思う」
「組織ですか?」
「ああ、手口があざやかだ。闇バイトの形をとって証拠を残さないし、もしそれが割れそうになると完全につぶしにかかる」
「バイトの殺害ですか」
保科はうなずいて、冷泉を見て心配そうな顔になる。「ところで冷泉、ちゃんと寝てるか」
「大丈夫です」
「無理するなよ。午後から出かけようと思うが付き合えるか?」
「どこですか?」
「大学の先生に会うんだ。俺は学が無いから冷泉に通訳をお願いしたい」
「通訳?外国人ですか?」
保科が笑顔を見せる。「日本人だ。でも学者は専門用語が多くてよくわからないからな。下林先生も何を言ってるか、半分ぐらいしか理解できない」
冷泉も笑顔で答える。「わかりました。私でお役に立てるかわかりませんが」
「俺よりは十倍はましだ。下林先生からの紹介で相手は医学部の教授だ」
「医学部ですか」
「ああ、気球で撒いたものについてヒントをもらおうと思ってる」
地下鉄を使って大学最寄り駅で降りる。
階段を登って地上に出ると、季節は夏を迎えて日差しが厳しい。
「冷泉はどこの学部だったんだ?」
「法学部です」
「そうか、検事にでもなればよかったのにな」
「無理ですよ。司法試験に受かりません。そういえば保科さんはどこの学部ですか?」
「どこだと思う?」
「さて、経済ですか?」
「そんなはずないだろ。計算は苦手だしな。実は文学部だ」
「文学部ですか」
「二流大学だから文学部とはうたってなくて文化学科だな」
「そうですか、でもわかります。そんな感じです」
「クラブばっかりやってたな」
「そうなんですか。何をやられてたんですか?」
「恥ずかしいんだが、演劇部だ。ああ、もちろん裏方だけどね」
「でもわかります。保科さんはそういった雰囲気があります」
「主に演出と脚本をやってたよ。まあ素人だからそれなりだけどな」
「素敵ですね。見たかったな」
保科は少し照れる。「冷泉は茉莉華だっけ、芸能部だったんだろ」
「ああ、そうですね。実際、クラブ活動のノリでやってました」
「そうか」
さすがに医学部を持つ大学は大きい。大学病院も隣接するようで高層ビルになっている。
「面会する先生はどういった方ですか?」
保科は資料を冷泉に渡す。「名誉教授なのかな。年配の方だ」
資料には医療学部教授宿河原誠68歳とある。
宿河原は初老の紳士で白髪、度の強い黒縁眼鏡を掛けていた。
お互い挨拶をして話が始まる。
「下林先生からの紹介でお話を伺いに来ました」
「お力になれるかわかりませんが」そういって笑顔を見せる。話しやすそうな先生のようで助かる。
「現在、下林先生が調査されているのは東北地方で起きた動物の自然死事件です。我々が聞きたいのは、その原因についてなんです。現在まで同時期に何者かが気球を使っていたことが確認されています。素人考えなんですが、例えば、気球から何かを散布したとしてそれで自然死を発生させるようなことは可能でしょうか?」
「下林先生さんからも少し相談を受けましたが、死体から不審な物質は検出されなかったようですね。聞きたいのは検出されないようなもので、動物を死に至らしめることができるかということですね」
「ええ、そうなります」
「可能性の話で言えば、出来なくはないです」
保科が前のめりになる。「出来るんですか?」
「ですからあくまで可能性の話です。現実でやれるかというと難しいと思いますがね」保科のテンションが少し下がる。「ただ、現実に動物が死んでるんですから、何らかの要因があるでしょう」
教授は眼鏡の真ん中を手で持ち上げてから話始める。これはこの人の癖のようだ。
「まず、動物が死んだ原因から考えてみましょうか」保科たちがうなずく。
「心不全というのは色々な要素が考えられます。それこそ死因でよく出るワードでその実態は様々です」
保科はその通りだと思う。警察でも検視官は心停止の場合、理由には心不全という判定を下すことが多い。
「専門的な話になります。今回の死因を心室細動とします。おそらくそうだとも思っています。心室細動は、多くの無秩序な電気刺激が発生することで、心室が協調を失い非常に速くふるえてしまいます。それが原因で心臓の収縮がみられなくなり、最終的には不整脈現象で死に至ります。心室細動を起こした場合は数秒のうちに意識を失います」
冷泉は録音とメモを取りながら聞いている。保科もそれに期待している。すでにこの段階で翻訳が欲しいぐらいだ。
「この心室細動の原因なんですが、色々あります。例えばストレス、アルコールの過度な摂取などね。心不全という突然死の要因が、心室細動だと言っても過言ではないでしょう」
この段階で冷泉のみがうなずく。教授は冷泉主体に話を続ける。
「心臓は脳からの指令を元に、洞房結節が電気信号を出すことで動いています。言い換えれば心室細動は脳が異質な指令を出すことで起きます。そういった状態を作り出せばいいわけです」
「先生、心臓を動かすのは自律神経がおこなっているんですよね」冷泉が質問する。
「そうです。今の脳からの指令と言うのは自律神経の働きになります」
「自律神経を誤動作させることができるんですか?」
「出来ますよ。更年期障害もその一種ですよね」
「ああ、なるほど、そう考えるとそれほど難しくもない気がします」
「ええ、ですからそういったことを起こすものが出来れば可能となります」
保科も質問してみる。「そんなものを作り出せるんですか?」
「私が知る限り、聞いたことはありません。ただ、今や医学の進歩はすさまじいものがあります。DNA、遺伝子ですが、そう言ったものの研究はここ数年で著しい進歩を遂げました。ここまでの進化は想定を超えるものです。私自身も驚きの連続なんですよ。山中伸弥教授の万能細胞もそうです。ああいったものを作り出せるなどといったい誰が思ったでしょうか。人類はここ数年で何百年にも匹敵する進歩を遂げたんです。だから誰かがそういったものを作り出せないかというと、否定しかないですね。出来なくはないとね」
「すいません。話を戻します。気球を使って何かを散布したとします。下林先生によると薬物は検出されなかったと聞いています。それでもそう言ったものがあったんでしょうか?」
「それについては何とも言えませんが、何もなかったとして、どうやって先ほどの心室細動を起こしたんでしょうかね。よって結果を見ると、あったと考えた方が理にかなっているとは言えませんか」
冷泉が言う。「検出されなかった。あるいは検出されないものを作ったということですね」
「そう思います」
冷泉は少し考えてから質問する。
「素人考えですが、狂牛病はBSEブリオンが要因で起こる病気と聞いています。人間にも感染するということで懸念されたんですが、今回も獣から人間に染るようなことはないですか?」
「どうですかね。無いとは思いますが、如何せん原因が特定されてませんからね。今、狂牛病と言われましたが、あれもBSEブリオンが原因ではないかと言われていますが、完全に特定されたわけではないんですよ。依然として低い確率ですが、ブリオン未摂取で狂牛病にかかる患者は存在しますしね。そういう意味では未知の病原体、また、伝染経路も未知なのかもしれません。ただ、貴方が言ったように死んだ獣は食べない方が良いでしょう」
「例えば、あの地域にいる生きている家畜はどうなんでしょうか?食しても大丈夫なんですか?」
「それも難しい質問ですね。何とも言えないというところでしょうか。こういうことを言って世間を不安にさせたくは無いのですが」
保科は唖然とする。つまり言い換えればこれは日本を狙ったテロということにならないのか。
「今、先生が言われたような未知の物質について、詳しい方はおられないですかね」
この質問に宿河原は考え込む。そして再び眼鏡を上げて言う。
「私が知る限り、日本にはいないと思います」
「そうですか」保科は肩を落とす。
「ただ、世界には色々な研究者がいます。海外の論文なども見てみましょう。少し検討させてください。私もあなた方が言うようなことが本当に起きれば、安穏とはしていられませんからね」
「ありがとうございます」
帰途についた二人は無口になる。最寄りの地下鉄駅まで来ると、冷泉が話し出す。
「保科さんが言うように、もし本当にこれが日本を狙ったものだとしたらテロですよね」
「そういうことだな。だから敵は一筋縄ではいかないということだよ。とてつもない頭脳を持っていて、さらにとんでもない身体能力を持ち合わせていることになる」
「そうですね。私が気になったのは死んだ動物が何を食べていたのかということです。検出されないとしても、同じものを食べていたとしたらヒントにはなる気がします」
保科はそれを聞いて何かに気づく。「確かにその通りだな」スマホを出すと「下林先生に聞いてみよう」と電話を掛け出す。
下林と通話を終え、冷泉に話す。
「通常の植物だけだったそうだ。ただ、こっちの事情は理解してもらったから、再確認してくれるそうだ。なにせ検出されないものだからな」
「この件は清水さんに上げますか?」
「まあ俺から話はするが、あまりに荒唐無稽だからな。どうなるか」
意図せずに二人ともが空を見上げる。当然、そこに気球はない。