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 夜になり、冷泉は捜査一課第三係の自席に戻る。すでにけっこうな時間だが同僚たちは依然として勤務中である。冷泉もこの時間は必要書類等の整理に追われる。

 戻った冷泉を見て保科が話しかける。

「お疲れ。冷泉、例の栃木県警新村さんと話が付いた」

「いつですか?」

「金曜だ。確か冷泉は休日だったよな」

「ああ、大丈夫です」事も無げに冷泉が答える。

「そうか、悪いな」

 冷泉が席に付く。出かける前に片づけたはずだが、机上にはさらに書類が増えている。これだと今夜も遅くなりそうだ。

 保科が続ける。「誘拐事件の捜査資料は読んだか?」

「はい、一通り読みました」

「で、どう思う?」保科は冷泉の誘拐事件の把握度を確認している。「冷泉が思うことを言ってみてくれ」

 冷泉は少し考えてから、事件について自分なりに筋読みしたことを話す。しばらく聞いていた保科が感想を言う。

「なるほど、良い線いってるな」

「そうですか」冷泉は半信半疑だ。

「俺も思うところはある。まあ細かい話は現地でするよ」

 保科の筋読みであろうか、彼はある程度見通しが立っていると冷泉は思った。


 そして金曜日。保科と冷泉は水戸市の茨城県警まで来ていた。県警は県庁舎内にあり、水戸駅からは直行バスが出ている。

県警捜査一課には連絡を入れていたため、すんなりと新村との面会になる。保科たちが県警の会議室で待っている。

 行きの電車では保科はほとんど寝ていた。冷泉は資料の確認と現地での対応を検討していたが、それでも後半はぼんやりとしていた。さすがにこのところの業務繁忙で寝る時間も取れていない。

 二人とも目がとろんとした状態でいると、会議室の扉が開き、初老の男性が入ってくる。年恰好は雁里と同じぐらいだろうか、同じくたたき上げ感が滲んでいる。

「お待たせしました」

「警視庁の保科です」「冷泉です」

「県警捜査一課の新村です。わざわざどうも」

 保科は時候の挨拶をすると早速本題に入る。「それで電話でも話したように水戸市スーパー誘拐事件に関して新情報を得ました」

 新村は軽くうなずいて「そう言う話でしたね」あまり乗り気ではない雰囲気が滲む。「まあ、これまでも市民から情報は入ることはあったんですよ。ただね。うまくいかんのですわ」

「それはどういうことで?」

「思い違いや不審者情報に毛が生えたようなものが多くてね。時間を掛けて調べた挙句、捜査は振り出しに戻ります」

「なるほど」

「事件発生から8年もたってますから、こっちもなんとかしたいんですがね。だから本音を言うとわらをもつかむですわ」

「わかります」

 新村がこちらから送った資料を見ている。彼にとってはわらをもつかむ程度の資料なのか。

「チャイムと塔か、どうなのかな」

 冷泉は埒が明かないと見て、あらかじめ県警から受け取っていた資料について話を振る。

「これまで市内の不審者情報などから、犯人の絞り込みを行われたようですが、疑義のある人物はいなかったということですか?」

「スーパーからの誘拐方法と、その後の逃走手段を見ても土地勘のある人間なのは間違いないんですわ。さらに同時期に犯行未遂もあった」

 冷泉は似顔絵を出す。「この人物ですね」

 新村はそれをさっと見て、「子供の印象だから本当にそんな目だったのかはわかりませんがね。絵にあるようにある程度の年齢だったと思いますよ」絵を見ると少し目じりにしわがある。

「市内でも有数の大型スーパーですよね」

「そうです。ここらへんだと一番大きいかな」

「母親が一瞬目を離した隙に誘拐されたということですね」

「誘拐未遂の子供の話だと、母親が呼んでいるからと声を掛けて外に連れ出したということです。未遂で済んだのは外に出ようとしたところを、子供の知り合いが見かけて声を掛けたらしいです。男はすぐに何食わぬ顔でいなくなったそうです」

「資料を見ると、その時の知人の証言もあいまいですよね」

「そうです。最初は店舗の人間と思ったらしくてね。つまりは従業員と同じような服を着ていたらしいんです。帽子とマスクで顔もはっきりとは見ていない」

「防犯カメラの解析はどうだったんでしょう?」保科が質問する。

「スーパーの外にもあるんですがね。あまり映っていない。うまい具合に避けている。子供は映ってるんですが、犯人はうまく避けてるんですよ」

「逃走経路もわからないということですか?」

「車で来ているのは間違いないと思うんですよ。ところがスーパーの駐車場には行ってない。近くに車を置いていたみたいです」

「となると車種の特定も出来ていないということですね」

「そうです。何台かその時間に移動した車に当りを付けて、追尾してみたんですがね。犯人にはたどりつけなかった」

「それは特定はできたが、犯人ではなかったということですか?」

「概ねそうなります。残りは車種の特定まで至らなかったものになります」

 保科はその説明で理解する。付近には国道50号線もあり、そこでの車種の特定は気の遠くなる作業だったに違いない。まさにしらみつぶしに車を当たったのだ。さらにホシは周到に計画している。誘拐後は子供をトランクに入れるなどして、カメラからは隠しているのかもしれない。

「後は地域の不審者情報になりますか?」

「そうです。予備軍も入れて該当しそうなやつらを根こそぎ当たりましたが、とにかく数が多いんですよ」

 保科はそれも納得する。実際、幼児に対する性的な犯罪は多い。2022年の警察庁の犯罪統計でも10代以下の強制性交等罪の認知件数は600件を超え、強制わいせつは800件近い。実にこれだけの子供が被害にあっているのだ。さらにそれは表に出た数だけである。泣き寝入りや未遂を含めると、少なくともこの倍以上はあるだろう。さらにその数は年々増加傾向にある。

 冷泉が資料を見ながら話す。「当時、捜査本部が作った犯人のプロファイルを見ると、水戸市、および近郊に土地勘がある人物で年齢は20歳から40歳。知能は高く、高卒以上の学力を持ち、車を所持しており、独身で独り住まいとなっています」

「それなんですがね。該当者が多すぎるんだな。ここら辺はみんな車を持ってるからね。家族一人に一台ってとこもある」

「犯人候補と言うか、可能性の高い者もいなかったということですね」

「何人かはリストアップしたんですけどね。みんなシロでした」

 保科は新村がこの事件について、もはやなんら期待も出来ないようだと理解する。あえてこちらの情報について話を振る。

「それで新村さん、どうですか、今回の情報と照らし合わせてみて」

「えーと塔ですか。まあ、水戸市で有名なのは水戸芸術館のシンボルタワーですか、その辺かな。ただ、水戸市でも開けてる地域だから、子供を監禁することは難しいと思いますよ。すぐにばれるでしょう」

 保科はここら辺が潮時と考え、自身の考えを振ってみることにする。筋読みの保科の本領発揮である。

「こちらで調べてみたんですよ。まずはチャイムです。茨城の防災無線でチャイム、おそらくウエストミンスターの鐘だと思います。あれは学校のチャイムそのものですから。それが夕方に鳴る地域は限られます。東茨城郡茨城町、水戸市、古河市、ひたちなか市、桜川市です。桜川は15時なので夕方というのはどうかと思っています」

 新村が少し呆気にとられた顔でうなずく。「それで?」

「次に子供が見て塔だと思う建物です。当然、今言われたシンボルタワーもそうだと思います。ただ、新村さんが言われたようにあまりに都心部です」再び新村がうなずく。

「となると塔とは何かです。子供であってもビルなどの高層建築物を塔とは思わないでしょう。それでこちらで子供が塔だと思うものを調べてみました。すると1ヵ所それらしい物が見つかりました」新村が驚いたような顔をする。

「ひたちなか市にG1TOWERという日立のエレベータ試験塔があります。地上213mです。そしてひたちなか市の防災無線はウエストミンスターの鐘です。ご丁寧に昼と夕方の2回鳴っています」

 新村がつぶやく。「ひたちなか市か」

「そうです。水戸市とは隣町です。さらにタワー周辺は住宅地です。犯人が潜んでいる可能性は高いと思います」

「なるほど、確かにそうかもしれないな。まあその情報が確かとすればになりますがね」

「そうです。ただ、調べる価値はあるとは思いませんか?」

 新村は少し考える。そして話し出す。「わかりました。もう一回周辺を洗いなおしてみますか」ただ、完全に信じ切ってはいない雰囲気がある。おそらくこの周辺も何度も捜査したのだろう。

「ありがとうございます」保科が頭を下げる。

「それにしても保科さんはなかなか鋭いですな。実際、うちもひたちなか市は怪しいとは思っていたんですよ。ローリングもかけた。でも見つからなかった。もう一回原点に戻って再調査してみますよ。タワーが見える場所を重点的にね」

 保科はうなずいて、さらに言葉を付け加える。

「それとプロファイルですが、独身で一人住まいと言う部分が気になっています」

「それはどういうことですか?」

「家族と同居も候補に入れるべきだと思うんですよ」

「いや、それはないでしょう」

「最近の例で言えば、家の中心に子供がいる。それこそ親が子に支配されているといった間違った家族関係も得てしてありがちです。となると親は子供に従うしかない。これまで見つけられなかったことも考慮すると、家族がいる家庭も洗いなおしてみるべきかと思います」

 新村はふたたび考え込む。そして言う。「どうも我々は固定観念にとらわれ過ぎたのかもしれませんな。確かに最近はありえないことが起きるのかもしれない」新村が顔を上げて保科を見る。「わかりました。そこも考慮してみましょう」

「ありがとうございます」保科が深々と頭を下げる。

 隣に座っていた冷泉は唖然としている。改めて保科と言う人間の能力に舌を撒いている。この刑事の底知れぬ洞察力には感心しかない。


 番太池の遺体の身元が判明し、捜査本部は捜査範囲を絞っていくことが出来た。よって殺された白岡の関係者と、殺害日近辺の行動の洗い出しを中心に進めていく。

 ところが問題もあった。事件当日の白岡邸周辺の関係者の行動分析に支障があったのだ。作業は防犯カメラの解析が基本なのだが、捜査を進めた結果、自宅の防犯カメラが破壊されているだけではなく、近傍のカメラも破損している事が分かった。それも白岡邸から近い場所のカメラだけである。

 最後に残されていた画像は事件当日の夜、犯行時刻近くであることから、ホシが証拠隠滅を図ったものと推測されるが、カメラの破壊方法が不明なのである。自宅のカメラはまだしも、近傍のカメラは電柱の上部に設置されており、どうやって破壊に至ったのかがわからない。わざわざ登って破壊したとなると、目撃情報やそこまでの画像が残っているはずなのである。

 武蔵大和署の鮫島と二宮は、残った周辺の防犯カメラ画像の確認作業を行っていた。こういう作業は若手が担当する。年配者は老眼だなんだと理屈をつけて敬遠するのだ。昨日からすでに10時間以上は画面と格闘していた。

 鮫島が画面から顔を上げると案の定、二宮は画面を見るふりをして寝ている。

「二宮!」鮫島が神保の声真似をする。

「す、すいません」寝ぼけ眼で二宮があたふたする。そして辺りをきょろきょろする。鮫島がそんな二宮に小言を言う。

「寝てる場合じゃないですよ」

「あれ、神保さんは」相変わらず半分寝ぼけている。

 鮫島も寝てないのだが、こうやって先輩をからかうことでなんとかなっている。

「同じような画面ばかりで眠くなりますね」

「そうなんだよな。こういった作業もAIがやれると思うんだよ。ここは警視庁だぞ。金に糸目は付けないはずなんだ」

「防犯カメラの確認システムはすでに出来てますけど、最終確認は人間ですからね」

「俺がやるよりAIの方が確実だと思うんだけどな」

「なるほど、それは言えてます」

 二宮が鮫島を睨む。まあ、こういった馬鹿話をしながらやっていないと疲れるだけだ。

 そこに外回りを終えた神保が戻って来る。二宮が神保を捉える。

「神保さん、ちょっと代わってくださいよ。もう目がしょぼしょぼですよ」

「二宮はいつもそんなもんだろ」

「あ、はい、モラハラ決定です」

「何がモラハラだ。お前はハラスメントって顔してないぞ」

 笑顔を見せていた鮫島が画面に目をやって固まる。

「あ、これ、見てください」

 神保がその画面を確認する。そこには例のゴミ缶を抱えた人物が映っている。

「これはどこのカメラだ」

「白岡邸から大通りに出る直前のカメラになります」

 ゴミ缶を抱えた人物は二人いて、両側を抱えながら運んでいる。目出し帽を付けており、顔まではわからないが、雰囲気から言うと男性の二人組に見える。

「日時はいつだ」

「ちょうど3週間前の6月5日深夜2時です。死亡推定時刻と一致します」

「よし、じゃあ重点的にその時間帯の他の防犯カメラ画像を確認するぞ」

 久々に犯罪対策課から威勢のいい返事が響く。


 その日の夕方、捜査会議が開催される。防犯カメラ画像解析で事件解決に向けた進展があったためだ。

 本部長による会議開催の音頭の後、神保が防犯カメラの解析について説明を始める。会議場前面のスクリーン上に防犯カメラ映像が流れる。

「この画像は6月5日午前2時18分に記録されたものです」

 目出し帽により、性別不明の2名がゴミ缶を両側から抱えて運んでいる。恐らく遺体が詰め込まれている。

「これは白岡邸から通りに出るところの映像です。続いて通りにあるカメラ画像がこちらです」

 シルバーの軽トラにその二人組がゴミ缶を積みこんでいる。ただし、車のナンバープレートは隠されている。

「残念ながらナンバーが隠されています。その後の解析でこの車は番太池に向かっていました。池近くの防犯カメラでもこの車が確認されております。よってこの車で遺体の搬送を行ったことは間違いないと思われます」

 本部長が質問する。「車種の特定は出来ているのか?」

「はい、ホンダN-BOXです。ただし人気車種でもあり販売台数も多く、犯人に結び付く車の特定までには至っておりません」月に1万台以上も販売のある車種である。多摩地域でも相当数が販売されていた。

「車の特定については、捜査一課で解析中です」

 本部長が下を向く。前途多難だ。

「それと破壊された防犯カメラについては何かわかったか?」

 鑑識担当が立ち上がり、話を始める。

「破壊される直前の画面には何も映っていません。そして唐突に壊されています。カメラを解析したところ、物体が当たったことによる損傷が原因と思われます。具体的には石か、それに類する硬質な物質と思われます」

「石?自宅はともかく、もう一台は電柱の上にあったんだろ?」

「そうです。高さ14mの高所です。射撃などであれば可能性はあるとは思いますが、それなりに痕跡は残るはずです。今回はそういったものもなく。何かの器具を使えば出来るのかとは思いますが、具体的にはわかっていません」

「そういったものの痕跡も無いということか?」

「周辺の調査も行いましたが、それらしきものは見つかっておりません」

 管理官は頭をひねるが、何も浮かばない。仕方なく会議を続けていく。「所轄の報告を続けてくれ」

「さらに軽トラの番太池以降の足取りですが、立川方面に向かったことまではわかっております。その後どこへ行ったのかの特定ができておりません。ナンバー確認が出来ればNシステムでも探れるのですが」

「逆にナンバープレートを隠したということで発見できないのか?」

「その通りなのですが、そう言った車が無いことから、どこかでナンバーを表示しなおした可能性もあると思っています」

「なるほどそういうことか、つまりはそれなりに頭もいいということだな」

「そうなります。あと、補足ですが、白岡邸まで来た際の足取りについても判明出来ておりません」

「わかった。他に情報はあるか?」

「はい、軽トラが現場付近に到着したのが午前2時です。そして搬出が2時18分ですから、殺害したのはそれ以前だったはずです」

 本部長は首をかしげる。会議に出ていた捜査員たちも同様である。

「どう判断したらいいのか?」

「ホシが殺害を行ってから、時間を空けて搬送作業を行ったのかもしれません。あるいはホシと運搬係が別だったことも考えられます」

「それに何の意味があるんだ?すぐに搬送した方が良いだろう。聞き込みで何かわかってないのか?当日の動きはどうだったんだ?」

「隣人の話ですと6月4日、前日ですが、気になるような出来事は無かったということです。白岡が在宅していたとも思っていなかったとの話でした」

「争うような物音は聞いていないということだな」

「はい、そうです。ただ、白岡邸と隣とは距離もあって、それなりに防音対策も成されているようですので、音漏れは少なかったのかもしれません」

「所轄の報告書だと隣人と騒音で揉めたとあるぞ。それで音がしないとはどういうことだ、おかしいだろう」

「確かにそうなのですが、聞き込みからはそうなっています」

 本部長は諦める。「殺害現場はそこで間違いないんだな」

「血液反応が出ていますから、ほぼ間違いは無いと思います。ただ、現場も消毒済であり、犯罪の痕跡は極端に少なくなっています。先ほどの防犯カメラの破壊も含め、証拠隠滅の手際が良く、こういった点も知能犯であると言わざるを得ません」

「知能犯でサイコパスか、最悪だな」

 続いて捜査一課からの報告が始まる。

「マル秘(被害者)、白岡隼人について報告します。いわゆるストリートダンスの第一人者で業界では特に有名だそうです。ダンスの世界大会での優勝経験があり、ダンススクールも経営しています。さらに振り付けや指導での収益もあり、年収は億単位ではないかと言う話です」

 安月給の警察官たちからため息が漏れる。

「芸能関係にも顔が広く。現在活躍しているアーティストであれば、何らかの恩恵は受けているだろうということです」

「人間関係で何か気になる情報は無いか?」

「はい、それなんですが、一部、女癖が悪かったような噂がありますが、特段、それで訴えがあったようなことはなく。最近流行りのセクハラ行為までは無かったようです」

「間違いないのか?」

「業界の話ですから、話半分としてもそれで殺人事件に発展するようなことではないようです」

「そうなると金銭面での怨恨しか無いのか、それだけ稼いでいれば何かの恨みを買うような事例はあるんじゃないのか?」

「そうですね。もうけ過ぎだとかやっかみはあるようです。ただ、殺人まで犯すようなもめごとは、今の所見つかっておりません。今後も捜査は続けていきます」

「殺害当日のマル被の足取りはどうなってる?」

「はい、4日は経営しているスクールで指導を行っています。夜になってその仲間たちと会食し、20時頃帰宅したとの話です。同僚が同行していまして、新宿駅で別れたそうです。その後、一人中央線で20時44分に国分寺駅で降りています。自宅までも問題なく帰宅しています。防犯カメラでも確認は取れています」

「となるとそれ以降に殺害されたことになるな」

「はい、21時から2時の間に殺害されことになります」

「所轄の方で今言った時間の防犯カメラ解析はどうなってる?」

 再び神保が立ち上がる。

「報告します。一課からの情報を元にその時間の防犯カメラ映像を確認しましたが、今の所、犯行に結び付くような人物は見つかっていません」

「それは犯人のプロファイルから見てということだな」

 犯人のプロファイルは捜査一課主体ですでに作られており、殺害方法から男性、もしくはそれに類する怪力の持ち主で、類を見ない残虐性を持ち、サイコパスであるとの見解が出されていた。

「そうなります」

 本部長ならびに会議場の上座に座る幹部連中は頭をひねっている。早い話、手がかりが見つからないということである。その後も捜査員からの報告が続くも有益な情報もなく。結局、今後も地道に捜査を続けていくこととなった。


 茨城県警より本庁捜査一課に連絡が入る。幼児誘拐事件は保科が情報提供してから2週間で劇的に動き出したのだ。ついに容疑者が見つかったというのである。

 本庁の管理官、特殊捜査係とともに保科と冷泉も茨城県警に向かう。

 県警の会議室には久々に担当者が再集結し、捜査会議が始まろうとしていた。50人程度の参加者の中、保科と冷泉は末席に座る。事件解決に期待が持てるためか捜査員たちの熱気を感じる。8年間動きが無かった事件が日の目を見るのである。

 今回の新たな捜査本部の本庁管理官は30歳ぐらいだろうか、キャリアとしてはがっちりとした体育会系の男である。その管理官が話を始める。

「新たに捜査本部の指揮を取ります神宮寺です。8年ぶりに事件解決の目途が立っています。気を引き締めていきましょう」

 捜査員たちから威勢のいい応答が響く。

 その後は県警の署長が会議進行を引き継ぐ。まずは県警側の担当である新村が緊張気味に報告を始める。

「本庁からの情報を元に捜査範囲の見直しを行いました。その情報は誘拐された女児がチャイムを聞いたという話と塔を見たというものでした。この情報源の出どころははっきりとはしていませんが、確認の意味もあり、捜査範囲を絞ってローラーを掛けました」あらかじめ報告を受けていた話でもあり、幹部や捜査員からは質問も出ない。

「情報から塔が見え、夕方に防災無線のチャイムが鳴る地域を、ひたちなか市と推測しました。これは日立のエレベータ塔があることと、この地域の防災無線はウエストミンスターの鐘になっています」

 会議室のスクリーンにエレベータ塔であるG1TOWERと、防災無線のチャイムが鳴る。

「このチャイムが毎日17時に鳴ります。そしてその該当地区周辺を洗ったところ、容疑者が浮かんできました」

 スクリーンの画面がその男の顔に切り替わる。ただ、その写真は学生服を着ており、高校生のように見える。

「容疑者は小山優斗42歳。写真は高校時代の物です。現在、自宅に引きこもりで外に出ることがありません。こういった生活が20年近く続いているようです。実は事件発生当時も容疑者絞り込みの際に、この地域も重点的に捜査はしたのですが、小山については母親と同居でもあり、容疑対象範囲から外れていました」

 県警課長の顔がゆがむのがわかる。

「さらに小山の母親、信子は市会議員を務めた経験もあり、現在も地域の自治会長を務めています。優斗の父親は会社経営と同じく市議会議員をしていた小山次郎と言う、ひとかたの人物でした。そう言った事柄を考慮して容疑者から外していました。この点は深く反省したいと思います」

 新村も苦渋の表情である。

「そして今回の捜査で分かって来たことは、その父親である次郎氏が8年前に亡くなった後に自宅を改装しています」

 スクリーン上に自宅の写真と改装時の図面が提示される。自宅はまさに豪邸とも言える大きさで庭を含めると300坪はあるのだろうか、高い塀に囲まれた2階建ての自宅はまるで城のように見える。

「この改装図面でわかるように2階に窓のない部屋を作っています。さらにそこにバス、トイレも完備しており、ここだけで生活が完結するようになっています。優斗が閉鎖された御殿を作ったとも言えます。父親が亡くなったことでホシの要求に歯止めが利かなくなったとみるべきでしょう。早い話が母親の信子はホシの奴隷となっていると判断します」

 保科は吐き気を催す。これが本当であれば許されない犯罪である。

 管理官が話を促す。「それで証拠固めはどうなってる?」

「はい、捜査員を派遣して小山邸への聞き込みを行いましたが、2階については息子がいるといっただけで、入室などは無理でした。さらに母親の印象は動揺もなく、不自然さは無かったとのことです。ただ、二人暮らしとしては食料の消費が多すぎる点と、隣人が少女の声を聞いたことがあるとの情報も得ています。警察に連絡しなかったのは聞き間違いかもしれないということと、やはり信子が地域の第一人者であるということです。まさかあの家にそんなことがあるとは思えなかったということになります」

 本部長が周囲を見て幹部連中に見解を求める。

「それでどういう対応を取りますか?」

 県警の署長が話す。「任同(任意同行)を掛けるのが通常の流れでしょうが、ホシは引きこもり生活も長く、その対応だと何をするかわからないこともあります。へたに被害者に脅威を与えるようなことがあれば、責任問題になります」

「確かにそのとおりですね」

「令状を取って一気に逮捕するという形がいいと思います」

「もし、間違いであった場合はどうしますか。誰が責任を取りますか?」

 署長はやはりそう言う話になるかと渋い顔をする。そして覚悟を決めたように言う。

「私の一存ということにします」

 その話を聞いた本部長が笑顔になる。「いや、それだとおかしいですよ。私の責任とします。そういうものです。それで行きましょう」

 方向性が決まった。令状を取り、深夜に逮捕を掛けることとなった。各担当の行動手順も明確に決められていく。


 会議が終わって部屋を出ながら、保科が話す。「あの若い管理官、キャリアのくせにずいぶん、男気のあるやつだな」

 冷泉は無言で笑顔を見せる。

 すると幹部と話を終えたその管理官がこちらに来るではないか、保科が慌てる。話を聞かれたか。管理官は保科を通り過ぎて冷泉の近くに来る。

「冷泉、久しぶりだな。捜査一課に配属になったって聞いたぞ」

「ご無沙汰してます」冷泉が親しげに挨拶をする。保科は唖然とする。

「今回は先程の話通り、冷泉には少女の援護とフォローを頼むよ」

「わかりました」

「じゃあ、また今度な」そう言って手を上げて管理官が消えていく。

 保科はきょとんとしている。「知り合いなのか?」

「はい、学生時代の知り合いです」

「学生時代って、いつのだ?」

「ああ、大学で同じゼミでした」

「まじか」保科は冷泉の過去をよく知らない。大卒だとは思ったが、まさか国立大とは思わなかった。「冷泉はなんで刑事なんかやってるんだ?」

 冷泉はびくともしない。「好きだからですよ。保科さんと同じです」そう言って笑顔だ。

 保科はそれ以上聞く事はやめる。とにかく不思議な女性だとは思う。


 そして当日の夜になる。今夜は満月なのか月がきれいに見えている。痛ましい事件の陰で微笑んでくれている。時刻は22時5分前、小山邸を大勢の捜査員が静かに取り囲んでいる。先ほど母親の信子の在宅は確認した。

 一気にホシの逮捕と少女の保護を優先する。冷泉は女性であることから少女のケアを命じられている。よって捜査員とともに突入する手はずになっている。

 22時に決行、突入である。突入は特殊事件捜査係が行う。誘拐事件などの突入に関しては彼らが適任である。とにかく間違いであっても構わないのだ。スピード優先でマル秘の安全を最優先する方針である。その後に県警捜査員と冷泉が入って行く。

 保科は離れてこの光景を見ている。娘を見守る父親の心境だ。この場合の娘は冷泉だが。

 周辺の警察官たちの緊張の度合いが上がっていくのがわかる。

 そしていよいよ決行時間になる。

 まず捜査員がインターフォンを使って「届け物」と偽の情報を流して門を開けてもらう。そのまま一気に玄関まで進み、扉が開いたと同時に突入する。

 インターフォンで届け物を告げると、中からは怪訝そうな信子の声がする。「こんなに遅くなんなの?」

「申し訳ありません。冷凍もので今日中に届けるように言われています」

「今、開けます」

 家の大きな門が開く。

 特殊事件捜査係が数名、玄関まで急ぐ。

 そして扉が開く。

 隊員が一気に中に入り、静かに上の階に上がっていく。信子はびっくりして目を見張る。残った捜査員が逮捕状を見せる。

 応対した信子は最初、何事かと面食らうが、捜査員の逮捕状をみて電池が切れたかのようにその場にへたり込む。

 そして2階に駆け上がった隊員が階段を登り終えると扉があった。部屋の間取りは確認済で案の定そこには鍵が掛かっている。それを工具で静かに破壊する。数名が音を立てずに室内に進入する。ホシに気づかれてはならないのだ。

 優斗がいる部屋は少女と同室であるはずだ。

 該当の奥の部屋の扉を開けると、驚愕の表情で優斗がいた。まるでロボットのように表情が無い。そして隣には少女がいた。冷泉は特殊事件捜査係の後ろから少女を見る。

 なんということだろう、14歳のはずがまるで幼稚園児のように小さく見える。色白などと言うものでは無い。まるで蝋人形のようだ。

 優斗はとっさに少女を確保しようとするが、それよりも早く特殊事件捜査係が優斗を羽交い絞めにする。

 優斗はこの世のものとは思えない喚き声を上げる。

 耳を塞ぎたくなるようなその声を聞かせないように、冷泉が少女を抱きしめる。

「友里ちゃんね。もう大丈夫だから」

 そう言われた少女に感情は見られない。状況が呑みこめていないのか、そういった感情を持てなくなってしまったのか。ただ、彼女を抱きしめた冷泉はそのやせたからだに慄然としてしまう。なんということだろうか、どうしてこんなことになってしまったのか、これからどうやって彼女は自らの人生を歩んでいくのだろう、取り返しのつかないことになってしまった。

 ホシが連行されていなくなっても、少女は相変わらず感情を持っていない。人形のように無表情で佇む。冷泉はもう大丈夫だよと何度も話しかけるが、虚ろな表情のままだ。冷泉は少女を毛布でくるんで抱えていく。人目に触れないような配慮が必要である。

 すでにパトカーが小山邸の周囲に待機している。この段になって周囲には見物客が徐々に集まってきている。何事が起ったのかと興味津々である。

 そして猿ぐつわをされた犯人が捜査員に連れられてパトカーに収容されていく。その様子を見て辺りが騒然となる。その後、毛布にくるまれた少女を抱えるようにして、冷泉が姿を現す。これで何が起こったのかがはっきりする。周辺はお祭り騒ぎのようになる。

 冷泉が出来ることは、人目に触れないように十二分に配慮しながら少女を車に乗せるだけだ。

 保科もやりきれない思いしかない。なぜ、こんなことになったのだろうか、これからどうやって少女や家族は生きていくのだろうか、取り返しのつかない事件に言葉がない。

 こうして悪夢のような夜は終わりを告げた。


 翌日、本庁捜査一課に戻った保科と冷泉が清水班長に事件の報告をしている。

 清水は不思議そうな顔をして二人の報告を聞いている。

「つまり新たな証拠というのはイタコからだったということか?」

「そうです。まあ、そんな話をしても誰も信じないでしょうから、これは清水さんだけに話をしてます」

「にわかには信じられないが、つまりはその少年が話した通りのことになったということだな」

 保科も言葉を選ぶように話す。「そうです。どうしてそんなことが出来たのかはわかりませんが、その通りになりました」

 ついに清水は頭を振って、「どう解釈するんだ?」と嘆くように言う。

「そういった能力を持った子供がいるということだと思います」冷泉が言う。

 清水は少し考えてから、「これからも捜査に協力してもらえるんだろうか?」

「それなんですが、後見人のおばさんが言うには、あまりそういうことに関わらせたくはないようです」

「なるほど。ただ、8年かかって何も解決できなかった事件が、その子の能力で一気に解決できた。少女を救ったということだな」

 保科と冷泉がうなずく。そうとしか答えられない。


 妙高は都内のテレビ局にいた。

 今やテレビの歌番組は数えるほどしかない。この放送局は定期的にそれをやっており、旬な歌手を登場させては、それなりに話題提供も出来ていた。

 妙高の目的は例の歌姫、李沐宸リームーチェンの取材である。今日初めて日本のテレビ番組に登場することになる。

 これまではネットでの注目度が高く、CMの効果も出て、若者を中心に人気も上がってきている。それでも全国区になるためには、こういったテレビやラジオへの出演も必須らしい。やはりテレビは万人が見るものであり、それだけで老若男女への認知度が跳ね上がる。

 リーのマネージャーはプラチナシードの西城をチーフとし、サブとして女性の緋文字薫が務めていた。本日は初めてのテレビ出演ということで、二人とも真剣な顔でリーに付き添っている。緊張気味のマネージャーに対し、リーのほうは悠然としている。元々そういった大物感がリーにはあった。

 今も番組プロデューサーと3人で話をしているが、リーはとても落ち着いている。その後、ディレクターらしき男性と番組の進行についての話があり、そこでもリーはまるで古参の歌手のように振舞っていた。

 一通り話が終わったのか、3人が戻って来る。妙高が駆け寄る。

「こんばんは、いよいよですね」そういって西城に話かける。

 西城は笑顔で、「そうなんですよ。ただ、リーはどこ吹く風と言った感じです」

 リーはきょとんとしている。

「リーさん緊張しないの?」

「緊張は意味が無いことです。それよりも歌を聞いてもらえることにワクワクします」

 どこまでも前向きな性格なのだろうか。それとも歌うことが本当に好きなだけなのか。

「台湾でテレビに出たことはあるの?」

「はい、オーディション番組で出ました」

「ああ、優勝したやつね」

 リーはにこっと笑う。西城が付け加える。「でも妙高さん、リーはすべてのオーディションで優勝してるんです」

「ああ、そうでしたか」そういえば、そんな話だった。

「でも日本のテレビ局は台湾とは違うんじゃない?同じなの?」

「ああ、ここまでのセットは作らないかもしれないですね。台湾の規模は小さいかもしれません」

「じゃあ、余計に楽しみだね」

 りーは笑顔を見せる。こうした笑顔は日本人と全く変わらない。

 西城がリーを促す。「妙高さん、これからあいさつ回りなので失礼しますね」

 そういって消えていく。

 なるほど、あいさつ回りか、台湾人にはそういった習わしは理解できるのだろうか、もっとも日本人でも、近ごろの若手にはそう言った意識は薄れている気はする。


 そして番組が始まる。

 妙高も週刊誌の記者である。それなりに流行りの歌手も知っている。歌番組が少ないせいもあるが、今日ここにいる歌手は評判になっている人間ばかりである。そしてやはり生で歌っているのはいいものだ。ライブ会場とまではいかないが、それなりに臨場感も伝わってくる。特にスタジオで聞いている妙高には、そういった感覚がはっきりと肌で感じられる。ネットで聞いたことのある歌を、まさにその歌い手が歌っているのである。

 やはり生はいいと、どこかの親父のような感想が出る。

 そしていよいよ、リーが登場する。

 番組の進行は局の男性アナウンサーとアイドル系の芸能人が務めている。あらかじめリーの資料には目を通しているのだろう、妙高が知っているような彼女の遍歴について話を聞いている。

 妙高が驚いたのはリーの応対である。先ほどまでの悠然とした態度ではない。むしろおとなしい、どこか不安げな様子さえ伺える。そして感じる。恐らくこれは戦略に違いない。プラチナシード側の戦略なのである。少しおどおどした感じはそれだけで視聴者の庇護欲の対象となる。台湾から来ていることで視聴者はアウェイ感を持つかもしれない。ところがこのリーの態度だと、守ってあげたくなるのだ。さすがは大手事務所である。そしてその戦略にしっかりと対応できているリーの能力にも恐れ入る。

 そして歌になる。局が用意したセットの効果もあるのだろうか、どこか森の中で妖精が歌うようなイメージを構築している。そこにリーが佇んでいる。

 そして静かな伴奏と供に彼女の歌が始まる。

 妙高はあまりの衝撃に心臓が止まるかと思う。それほど強烈な歌声である。動画で見る数倍の破壊力だ。ああ、これは何なのだろうか、歌が身体にしみこんでくる。どこか昔の風景を呼び起こすようでもあり、むず痒い様な故郷を感じてしまう。

 隣に西城がいて、妙高に話しかける。

「どうですか?」

 妙高は期せずして自分の頬に涙が流れているのに気づく。

「なんというか、素晴らしいと思います。この歌は何ですか?」

「リーが作った曲です。原曲は中国詩だったのですが、日本のスタッフと共同で和訳しました。故郷を思う歌です」

「ああ、そうですね。わかります。故郷そのものです。ああ、じゃあリーは台湾を思って作ったんですね」

「そのようです」

 リーの歌が終わる。歌番組でありながら、スタジオでは大きな拍手が起きる。リーはうれしそうに会釈する。

 妙高も拍手をしていた。興奮気味に西城に話す。

「素晴らしいです。リーは最高です。あんな凄い歌を初めて聞きました」

 実際、スタジオでリーの歌を聞いていた万人が同じ感想を述べただろう。そういった興奮がスタジオ全体に広がっている。

「それで、これからのプラチナシードさんの戦略はどうなってるんですか?」

「ええ、まずは皆さんにリーを知ってもらうことから始めます。ご存じのように今の世の中はネットが主流です。ただ、彼女の場合圧倒的に生がいいんです。ですからゆくゆくはライブ活動を主体に考えています」

「なるほど、やはりそうなりますね」

「まあ音楽媒体では収益は上がらない実情もあります。リーは握手会だとかファンミーティングなどのキャラでもないですし、今後はライブと有料コンテンツですね。そういった戦略を考えています」

「しばらくは布教活動ですね」

「はは、そうですね。リー教を布教します」

 妙高は冗談めかしていったのではなかった。リーの歌声にはそういった宗教的な絶対感があったのだ。

 唐突に妙高のスマホが震える。表示を確認すると冷泉からだ。

『誘拐事件、無事解決しました。大夢少年の言葉通りでした』

 あらかじめ、冷泉には事件解決の一報を依頼していた。イタコの紹介のお礼の意味もある。記者としては早い段階で記事にする必要がある。すぐに現地に行かないとならない。妙高は足早にテレビ局を後にした。


 新潟県魚沼市、米どころとしても有名な場所である。ここで作られる米はそれだけでブランド価値がある。信濃川が流れるこの地は北海道のように、延々と農地が続くような場所だけではない。むしろ山間が多く、そんな中を先人たちが苦労して切り開いた田んぼが続いていく。

 警察署の電話が鳴る。受け付けた女性警官は緊急電話から送られてきたその内容に言葉が無い。すぐに担当警察官に電話を回す。

「糸井さん、事件です」

 担当の警察官、糸井康介が電話を受ける。「どこからだ?」

「県の職員だそうです。施設管理係の斎藤さんとおっしゃってます」

「わかった。つないでくれ」

 糸井が電話を替わる。「どうしました?」

「ああ、県庁施設管理係の斎藤と申します。円形分水工で遺体を発見しました」

「遺体ですか」

「はい、分水工から山の方に入るんですが、そこに遺体がありまして」何故か口ごもる。

「それは事故ですか?」

「いや、あれは事故ではないと思います」

「どういった状況ですか?」

「あの、ひどい状態で口で説明するよりも来ていただいた方が早いと思います」

 糸井は首をかしげる。いったいどういうことなのか、よく話が見えない。

「わかりました。すぐに伺います。斉藤さんは今、分水工におられるんですね」

「はい、事務所にいます」

「じゃあ、すぐ行きます。私は糸井と申します」

 糸井は同僚の久保田とともに現地に向かう。

 魚沼の分水工は、山から流れる佐梨川の水を均等に分けて、下流に流す役割をしている。円筒形の施設で全国各地に同じような施設が作られており、農業用として重要である。

 この地の分水工は山の中にあり、見学は出来るが、普段、人の出入りが多い場所ではない。その周辺は樹海になっている。

 警察署からは車で30分では着く場所だ。

 糸井たちが急いで事務所を訪ねる。

 扉を開けると、中から職員らしき二人が駆け寄って来る。なるほど血相を変えており、ただごとではないようだ。

「どうしました?遺体を発見されたと聞きましたが」

「はい、実際は大学の先生が発見されたんですが、我々も現場を見ました」

「大学の先生?」

「今、奥で待機してもらっています。東京の大学だそうです」

「その方に話を聞けますか?」

「はい、事務所に入ってください」

 糸井たちが奥の部屋に入ると、大学の関係者と思われる4名がいた。

 そこにいる全員の顔が青ざめている。

「魚沼警察署の糸井と申します」

 4人の中で年配の先生らしき男性が立ち上がって挨拶する。

「東京農林大学の下林と申します」

 下林と名乗った男は40歳ぐらいだろうか、銀縁眼鏡、短髪で日に焼けているせいもあるのか、スポーツ選手といった印象である。

「下林さんが遺体を発見されたんですか?」

「ええ、そうです」

「下林さんはここで何をされていたんですか?」

「はい、実は秋田県から依頼された案件で、動物の遺体を病理解剖する仕事をしていました」

 糸井たちはその意味が良くわからないので呆然としている。それを見た下林が補足する。

「私たちは獣医学部のものです。実はこの一帯で野生動物が突然死しているという事実がありまして、それを県からの依頼で調査していたところでした」

 これでなんとか理解できた糸井が言う。「その調査の最中に人間の遺体を発見したということですか?」

「はい、そうです」

 ここで県の職員がフォローする。

「そうなんです。通常でしたらそんな樹海の中には入らないんですが、その調査で発見することができました」

「わかりました。それでは現場を案内してもらえますか?」

「はい、一緒に来てください」

 職員二人と下林が山の方に向かっていく。道があるわけではない。樹々の間を抜けていく形になる。

「森の中になるんですか?」

 職員は木々をかき分けるようにして中に進んでいる。「ええ、もう少し先です」

 さすがに人が入るような森ではないようで、道もはっきりとはしていない。いわゆる獣道だ。夏の日差しも遮られるのか、どこか涼しくもある。

 確かにこんな場所だと人の出入りは無いだろう。今回のような調査でもなければ見つかるはずもない。それにしても遺体とは何なのだろう。自殺者なのだろうかと思う。話によると富士山の樹海も自殺者が多いと聞く。

 職員が言う。「カラスの鳴き声と匂いがするので気が付いたそうです」

「匂いですか」すると匂いと言う表現で理解する。先ほどからそれを強く感じ出す。なるほど、これは腐敗臭である。糸井は独居老人が孤独死したアパートに立ち会った経験がある。これは嗅いだことがある人間しかわからない。凄まじい匂いである。それが徐々に強くなっている。

 職員が振り返って前方を指さす。

「あれです」

 糸井は最初、それが何かよくわからなかった。

 この周辺は杉の大木が連なっており、ここにも同じような木がある。そして森の中であるために若干薄暗い。目を凝らして見るとひときわ高い木の上の方に、何かが吊るされているのがわかる。

 木の高さは20m以上はあるだろうか、その上部に何か、かかしのようなものが吊るされているのだ。

「あれが遺体ですか?」

「そうだと思います」

 糸井たちはその木の下まで行って見る。

 思わず腰が抜けそうになる。

 手足だろうか、遺体の残骸ともいうべきものが木の下に散らばっているのだ。腐敗臭はまずます強くなる。ハンカチで口を覆う。そして木の上を見上げる。

 臭いのせいだけではない。吐き気を催す。まるでモズのはやにえのように遺体の胴体と残った頭部だけが木に突き刺さっているのだ。手足は鳥獣に食われて落ちたのかもしれない。元々はすべてが吊るされていたのだろうか。

「いったい、どうやったんだ。これは」

 糸井の同僚久保田が叫ぶ。「糸井さん、あそこにもあります」

 糸井が久保田の指さす方を見る。するとその木にも同じような遺体があった。木に吊るされ、胴体と頭だけが残っている。

 糸井が下林に質問する。

「先生、これは動物のしわざじゃないですよね」

 下林は首を振りながら言う。「動物はこんなことしませんよ。ましてや人間でもない、悪魔の仕業ですよ」

 二人の遺体は同じように二本の木に吊るされて、あたかも何かの墓標のように存在していた。


 妙高は水戸市で起きた誘拐事件の取材を終え、週刊ジャーナル編集部にいた。

 先ほどから取材内容について編集長と口論になっている。

「妙高の言いたいことはわかる。ただな、イタコについて書かないとスクープにならないだろう」

「ですから何度も言うように、それはわかってますって。ただ、書ける内容にも限界があります。少年のことを書くことは問題が大きすぎます」

「そこをなんとかするのがお前の仕事だろ」

 妙高は返事をしない。そんな無理難題を言われてもと、顔にはっきりと書いてある。

「頼むよ。なんとかしてくれ」編集長が妙高を拝む。

「どう考えても難しいです」

「そこをなんとか」

 このところ週刊ジャーナルの売れ行きが良くないのは妙高も知っている。スクープがないことが原因だ。やはりここは折れるしかないのか、ここが宮使いのつらいところだ。

 仕方なく、「わかりましたよ。どこまで書けるか先方に確認してみます。ちょうど取材もしたかったんで」と答える。

「そうか、よかった。明後日までにやってくれよ。わかってるだろうけど締め切りだからな」

 まんまと口車に乗ってしまった。妙高は仕方なく出かける準備をする。

 社を出たところで町田佐和子に一報を入れる。

「お世話様です。先日お世話になりました妙高と申します。本日よろしければお話を伺いたいのですが」

 すると思いもよらない答えが返る。『はい、聞いてますよ。今日の14時ですよね』

「え、今日ですか?」

『はい、連絡貰ってます。冷泉さんから』

 なるほど、冷泉は自ら少年とコンタクトを取る気なのか。

「はい、そうでしたね。よろしくお願いします」妙高は適当に話を合わせる。

 冷泉は何をする気なのだろう。単にお礼を言うだけなのか、いや、あの誘拐事件について関与はしていなかったはずだから、それはおかしい。となると何があるのか。

 妙高はあえて冷泉に連絡はせずに、現地に向かうこととする。

 車中、妙高はメモを確認する。記事には出来ないかもしれないが、イタコの少年について素性を調べていた。

 町田大夢11歳。彼が今の町田家にきたのは6歳の時だ。それ以前は父親とともに都内武蔵野市に住んでいた。父親は大学教授で櫻井浩之といい、町田佐和子は彼の妻、美野里の妹になる。その浩之が50歳で亡くなり、叔母である佐和子が大夢を引き取ったのだ。その時に戸籍上も大夢は佐和子の子供になっている。

 さらによくよく調べてみると、大夢の母親美野里は彼が生まれてすぐに亡くなっている。以降は父親が一人で大夢を育てたことになる。そういった環境が彼にイタコとしての能力を与えたのだろうか。

 妙高もイタコなるものが、本当に死者を呼ぶなどとは信じてはいなかった。青森地方にいたイタコすべてがそんな能力を持っていたのかは疑わしい。ただ、イタコによっては知るはずもない死者の話をして、依頼者を驚かせたようなこともあったと聞く。よってそういった超能力のようなものを持つ者はいたのだろうか。

 ただ、今回の大夢はそういったものとは一線を画す。間違いなくすべてを言い当てたのだ。警察の聞き取りによると、驚くことに救出された少女友里は大夢と同じことを言ったという。チャイムと塔の話である。友里はその話を心で想ったと言うのである。

 妙高は過去のテレビ番組で海外から超能力者を呼び、行方不明者を捜索する番組を見た覚えがある。それはどこか眉唾物で、今となっては果たして本物なのかは疑わしかったが、大夢はそういった手品のようなことをしたのだろうか、しかしあの子供がそんな手の込んだことをするとは思えない。やはり何らかの能力を持っているとみるべきなのだろう。それが幼少期の経験から来るのか、また別の何か要因があったのか、なんとかして調べたいとは思っていた。


 タクシーで町田邸に着く。そのまま家には入らず、隠れてしばらく待つことにする。冷泉がどんな目的で当地を訪れるのか知るためである。こういったところが記者である。何か面白いネタが拾えるかもしれないと考えてしまう。

 ちょうど町田邸の隣が公園になっており、そのトイレの影に隠れて冷泉を待つ。

 定刻になりやはり冷泉が姿を見せる。妙高は頃合いを見て家に入ろうと考えていると、中から誰かが出てくるのが見えた。なんと冷泉と大夢が仲良く歩いて来るではないか。

 それはまるで本当の姉弟のように見える。妙高は今まであんな冷泉の笑顔を見たことが無い。大夢は学校の話でもしているのだろうか、身振り手振りで一生懸命に話をしている。冷泉はそれをうれしそうに聞いている。

 二人が公園に来る。すると冷泉は隠れていたはずの妙高にすぐに気づく。こういったところは刑事だ。とにかく鋭い。にこにこと近くに寄ってきて、「妙高さん、どうしましたか?」と聞く。

「それはこっちのセリフだよ。冷泉こそ何してるの?」

「大夢君とお話です」

 大夢は冷泉を見てにっこりと笑う。

「妙高さん、大夢君は私が刑事だって気が付いてましたよ」

「そうなの?」

 大夢は嬉しそうに言う。「うん、祐介君が教えてくれたよ」

「そうか、なるほどね」

 妙高は冷泉に改めて聞く。「仕事で来たの?」

「そうですね。半々というところですか、大夢君にお礼がしたかったので」

 大夢はきょとんとしている。彼は自分が誘拐事件を解決したことを知らない。

「おねえちゃんがケーキを持ってきてくれたよ。駅前のオーベルニュのケーキ、僕大好きなんだ」

「じゃあ、今度は私も買って来るね」妙高が言う。

「ショートケーキね。イチゴの載ってるやつ」うれしそうに大夢が話す。

 こういうところは普通の子供と変わりがない。

 妙高は町田家にお邪魔し、本来の目的である取材許可について佐和子さんと話をする。佐和子は当然、難色を示す。それは当たり前のことだ。ただ、妙高も何らかの成果が欲しいのだ。その旨を熱心に話す。最後は佐和子さんが折れる形で、名前を出さない。場所や個人が特定されるようなことにはしないという条件で認めてもらえた。


 妙高と冷泉が町田邸を後にし、駅に向かっている。

「冷泉さん、町田邸に来たのは何回目なの?」

「ああ、実は3回目になります。いや、最初を入れると4回目か」

 なるほど、どうりで大夢が打ち解けたはずだ。

「それは仕事で?」

「そうですよ。仕事のついでに立ち寄ることもありますけど」

 どう考えてもそれは嘘っぽい。冷泉は大夢に会いに来ているのだ。彼女にとって大夢はそれだけの存在になったということなのか。

「冷泉はどう思ってる?大夢君の能力について」

「不思議ですね。ただ、そう言った能力があることは間違いが無いと思ってます」

「そうだよね。確かにあるんだよ」

「で、妙高さんは記事にするんですね」

「わかってよ。つらいところなんだよ。こっちも生活がかかってるから、なるべく特定できないようにはするつもり」

「駄目ですよ。法律上も駄目ですし、あの能力は公にすべきじゃないです。あの子に危険が及ぶ可能性もあります」

「そう思うよ。悪用しようと思えば何でもできる」

「そうですね。ああ、そうだ。誘拐事件についても少女の人権優先でお願いしますよ。あの家族はこれからが正念場です」

「わかってるって。警視庁からもしつこく言われてる。記事の主体は犯人側に持っていってます。事件の背景だとか、幼児虐待問題だとか、警察の捜査内容とかね」

「妙高さんにはそれなりに情報を流しましたからね。これで貸し借り無しです」

「え、そうかな、まだ、貸しがあると思ってるんだけど」

「まったくないですよ」そういって冷泉が笑う。やはり少年に向けた笑顔とは違う。冷泉は間違いなくあの少年に自分の弟を映している。わざわざここまで来た理由もそこにあると思う。

「そうだ。妙高さん貸しが残ってるなら情報です」

「何?」

「近日中に公開になるんで流します。例の番太池殺人事件が広域捜査になります」

「どういうこと?」

「新潟の魚沼市で遺体が発見されました」

「ああ、一報ははいったよ。木に吊るしてあったんだって」

「そうです。同一犯の可能性が出てきました」

「同一犯?」

「はい、今回も殺害方法が同じです」

「ちょっと待って、番太池は確か引きちぎられたとか聞いたよ」

「そうです。新潟も同じように手足がちぎられてました」

「マジ?」

「ええ、やはり生きたままのようです」妙高に言葉は無い。「私の班も捜査に加わります」 

 周辺のセミが一段と声を大きくする。


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