その2
町長の家で出してくれた料理は、どれもこれも美味しかった。けれど、名士の家での、正式な晩餐会だ。
正装をして雰囲気も固く、テーブルが大きすぎて、ジェラルドともアルヴィンとも、ろくに話ができない。それが残念だと私は思っていた。
お腹は満足したものの、なにか物足りなさを感じながら部屋に戻ると、誰かが扉をノックする。
『キャナリー様。お言付けがございます』
聞き知っている小姓の声に扉を開くと、小型の衣装箱、それにくるくると、小さくまかれた羊皮紙を渡される。
ありがとう、と受け取って中身を読むと、こう書いてあった。
『夜でも市場はにぎやからしい。着替えて窓から裏庭へ。きみなら問題なく出られるはず』
一瞬パッと羊皮紙の上で光が輪になって、サインとマークのようなものが見え、消える。
私にはすぐにそのマークが、ジェラルドの花印であり、彼からの手紙だとわかった。
「本気なの? ジェラルド。だってこれってつまり……」
衣装箱を開くと中からは、簡素だけれど可愛らしい、エンジ色と焦げ茶色の生地を組み合わせた長いスカートや、ぴったりした上着、それにブーツなどが入っている。
コルセットはやはり必要だが、絹とレースのドレスよりは、ずっと快適に動けそうに思えた。
「お忍びで夜の町に、出かけようっていうことよね? ああ、どうしよう。わくわくしてきちゃった!」
私は浮き立った気分で、両手でスカートを手に持ち、くるりと回った。
もちろん、ジェラルドの提案に異論はない。
急いで着替え、入っていたリボンで髪もひとつに束ねると、ブーツに足を突っ込んだ。
部屋は一階なので、ジェラルドが言うとおり、窓から出ることに、なんの支障もない。
貴族のお嬢様ならできないことかもしれないが、私にとっては玄関と、まったく違いは感じなかった。
♦♦♦
晩餐会の済んだ時刻とはいえ、まだ外は薄明るい季節だ。
城ではないので、警備もさほど厳重ではなく、私は難なく待ち合わせに指定されていた、館の外の大きな杉の木の下に到着する。
「キャナリー、ここだ」
すぐに別の木の後ろから声が聞こえてきて、ジェラルドが姿を現す。
「えっ、どうしたの、その格好」
私が思わず言ったのは、ジェラルドがいつもの豪華で気品のある、皇子らしい服装ではなかったからだ。
胸元の開いた、袖のゆったりしたチュニックを身に着けて、腰はぎゅっと革のサッシュでしめ、ブーツはごつく、いわゆる庶民の格好をしていた。
とはいえ、ジェラルドは均整のとれた体形をしいているので、それはそれでとてもよく似合っている。
腰に下げた愛用の大剣だけは、いつもと変わらない。
(ジェラルドが変装して、夜の町に出かけるなんて、すっごく楽しそう!)
そう考えて、ますます私の胸は浮き立っていた。
ジェラルドは、町娘の格好をした私のまわりを一周するようにして、眺めながら言う。
「どうしたの、ってきみにもこの服を一式、用意させたじゃないか。着心地はどうかな」
「ええ。私としてはドレスより、こっちのほうが動きやすいわ」
「なかなか似合ってるよ。魅力を引き出すには、やたら着飾ればいいというものではない、という証明だな。つまり」
軽く咳払いをして、一度言葉を切ってからジェラルドは言う。
「可愛いよ、キャナリー」
「あ、ありがとう。改まって言われると、なんだか照れちゃうわ。ジェラルドも格好いいわよ。でも……私はともかく、ジェラルドの変装としては、ちょっと足りない気もするわね。だって服をどうやったって、顔はやっぱり皇子さまだもの」
「そうかな。いったいどんな顔だって言うんだ?」
「褒めてるのよ、上品でかっこいい、って。あらでも、その指輪はいつもと同じね」
「ああ。しまった、外し忘れていた」
ジェラルドは言って、大きな宝石のはまった金の指輪を、サッシュについている小物入れに仕舞う。
「ジェラルドは、他にも指輪やチョーカーや、宝石のついたものを身につけてることが多いけど。アクセサリーが好きなの?」
「いや。魔除けやら、魔力の増幅用やら、いろいろ意味があるんだよ。毒の入った食べ物を前にすると、変色して知らせる石もある。幼年期から身につけさせられている石も、いくつかあるんだ」
「子供に宝石だなんて、さすが帝国ねえ」
感心して言ってから、私はきょろきょろと、周囲を見回す。
「ところでアルヴィンは? 護衛の人も、誰もいないの?」
「あいつは、人混みが苦手なんだ」
ジェラルドは苦笑する。
「この衣類を調達する手配は、してくれたけどな」
「なんだか意外だわ。護衛もなしに、お忍びで町に出るなんて危ないです! って止める人なのかと思っていたのに」
「いや。人間しかいないところで、俺に危険などないよ。少なくとも、帝国から離れたこの町ではね。それをよくわかっているからだろう」
ん? と私はひっかかる。
今の言葉から察するに、彼の故郷である帝国にいるほうが危険だととれたのだが、どういう意味だろう。
(もしかして、深刻な問題なのかも)
直感的にそう思い、それについては詮索しないことにする。
出会った当初、自らが皇族だと言わなかったように、必要があれば、ジェラルドのほうから話してくれるに違いない。
私はそれを待つことにした。
まったく違う、無害でとりとめのない話をしながら、私たちは館の裏手にある林の中を、町に向かって歩き出した。
丈の短い草を踏んで歩くうちに、足元に小さな実をつけた草を見つけ、私は腰をかがめてそっと手に取る。
「キャナリー、それを食べるのかい?」
真剣な顔で聞かれて、私は思わず笑ってしまった。
「失礼ね! いくら私だって、目に付いたものをなんでも食べるわけじゃないわよ! これはインクの実。勝手にそう呼んでいるだけで、正式な名前は知らないけれど。ねえジェラルド。これで変装が完璧になるわよ」
インクの実は親指くらいの大きさで、先の細くなった紡錘形をしている。
先端をぷちっと取ると、黒い果汁がわずかににじみ出た。
「ちょっとかがんで、目を閉じて」
私の言葉に、素直にジェラルドは従ってくれる。
その鼻の下に、ちょいちょいと私はインクの実を滑らせた。
鼻の下から両頬に向かって、くるりと巻いたヒゲを描いてみたのだ。
「はい、もうこれで絶対に別人。我ながら完璧な、変装のできあがり!」
「……そうか?」
「ふふっ、嘘よ! ごめんなさい、でも肌についた果汁は、布で拭けばすぐ取れるわ。床に落ちたりすると、染みになってなかなか取れないんだけど」
鏡がないので確認のしようがなく、困惑しているジェラルドの顔に、私は謝罪しながらも笑い転げた。
「ジェラルドって、おヒゲが全然似合わないのね。すごく、なんというか、あやしい人に見えちゃう!」
「ひどいな、キャナリー。せめて似合うように描いてくれ」
事態を察して苦笑するジェラルドに、はい、と私はインクの実を渡す。
「私の顔にも、らくがきしていいわよ。これでおあいこ」
この実で私は小さいころ、よく眠っているラミアの顔に、イタズラしたものだ。
もちろん私も仕返しされて、鼻毛やシワを描かれまくった顔で、気が付かないまま町に薬を売りに行き、人が通り過ぎるたびに大笑いされたことがある。
(あら、どうしたのかしら。怒っちゃったの?)
顔にちっとも実が触れる感覚がないので、私は目を開ける。
と、至近距離にものすごく真剣な目をした、ジェラルドの顔があって驚いた。
「ど、どうしたの……?」
「いや。目を閉じて、上を向いたきみが……なんというか、つまり」
ぷふーっ、と私はこらえきれなくなって、身体を折って笑ってしまった。
「ご、ごめんなさい! だって、そんなおヒゲの顔で、真面目に言うんだもの」
「それはないだろう。きみが描いたんだぞ」
笑いながら言うジェラルドのヒゲを、私はハンカチで綺麗に拭き取る。
「はい、これでもういつもの男前よ。それで、なにを言おうとしていたの?」
「え。ああ、いいんだ、なんでもない。ええと。そうだ、シルヴィたちはどうしているかな」
急に話題を変えて歩き出したジェラルドに、私もついていきながら言う。
「シルヴィたちは、木の上で休む、って言ってたわ。あの子たちが町にいる限り、ビスレムは気にしなくていいのよね」
「ああ。おかげで俺も、安心してきみを町に誘えた」
「知らない土地って、なんだかわくわくするわよね。同じ町でも、ダグラス王国とでは、随分と違うでしょうし」
「しかしこの辺りだと、まださほど風習や文化がまったく違う、というほどのことはないんじゃないかな」
そうなのかしら、と期待外れを心配した私だったが、そんな気持ちはにぎわう夜の市場に出た途端、吹っ飛んでしまっていた。