えすえぬえす
結論から言えば、俺こと秋梔夏芽の夏休みはとても有意義なものだった。
朝比奈さんのお母さんが経営する喫茶店でのアルバイトはとても楽しかったし、稼いだお金で妹たちにプレゼントを買ってあげることもできた。
愛萌に誘われ、何故か女バスメンバーと夏祭りに行くことになったのは驚きだったが、新しく友達が出来たので良しとしよう。
いっぱい遊べたし。
いっぱい学べた。
ここまで充実した夏休みは生まれて初めてだと、断言できる。
だからこそ。
纔ノ絛龘くんを巡るあの物語はどこまでも異質で、どこまでも不思議であった。
俺はこの夏に体験したことを生涯忘れることはないだろう。
☆☆☆
ことの始まりは8月14日。
朝比奈さんの家でアルバイトをした帰りのことであった。
俺は駅へと向かう途中の帰り道、小走りで坂をかけ登ってくる少女に出会う。
否。
厳密に言えばそれは少女ではなく。
少女の姿をした少年だった。
彼の名前は纔ノ絛龘。1年B組のクラスメイトでもある。華奢な体格に色白な肌。艶やかな髪に大きな瞳。
常に女性服を見に纏い、制服もまた、女子生徒用のものを着用している。どこからどう見ても女性にしか見えない纔ノ絛龘くんではあるが、自他ともに認める男性だ。
そんな彼が、顔を伏せながら、どこか忙しない様子で俺の隣を通り過ぎていった。
クラスメイトと道でばったり出会ったことなんて、毛ほども気づいていない。そんな様子だった。
「……大丈夫かな」
追いかけた方がいいだろうか。
一瞬そんな事も考えたけれど、クラスメイトの中でも彼は露骨に俺を嫌っているため、さらに気分を害することになってしまうと考え、彼を見送ることにした。
翌日、何となく纔ノ絛くんのことが気になった俺は、夜鶴にその事を話してみたのだけれど、彼女からの答えは意外なものだった。
「私もひと月前に見ました。何かに怯えてるような顔つきで……。勇気を出して話しかけようとも思ったのですが、私にはちょっとハードルが高くて……」
どうやら夜鶴も、纔ノ絛くんの挙動は気になっていたらしい。1ヶ月前からそんな感じなのだと考えると、心配になるな。
この世界は正直、俺たち鈴音学園の生徒には優しくないから。
次見かけたら声掛けてみようかな。
嫌がられはするだろうけれど、困っているなら力を貸すべきだろう。
俺にそれだけの度胸があれば、の話だが。
「おい、夏芽、朝比奈なーに話してんだ?」
「ああ、左近。おはよう。今、纔ノ絛くんのことを話してたんだ」
今日も今日とて寝癖ボサボサの左近。
相変わらず朝は弱いようである。
「あー。纔ノ絛なら昨日の朝見たぜ? なんかキョドってたから声掛けたんだよ」
「声掛けたの!?」
さすが左近だ。
「それで、なんて言ってた?」
「えーっと。んー」
左近は調理場の蛇口を捻ると、バシャバシャ頭に水を被る。真夏日というのもあってか、飛び跳ねてくる小さな雫が、少し気持ちいい。
「あ、そうだ! アイツ何でもないって言ってたな」
「なーんだ。なんでもないのか」
安心したー。
「いえ、それ、なんでもある時の受け答えだと負いますよ」
「え?」
「そだなー。夏芽は言葉をバカ正直に受け止め過ぎだな」
そ、そうかあ。
言葉の裏を読め、なんてことはよく言われるけれど、察しの悪い身としては、やはり言葉にしてもらわないと難しいのだ。まあ、要努力ということで。
「けどよ、あれだよな。纔ノ絛めちゃくちゃ可愛いよなあ。0.004春花くらいは可愛いんじゃねぇか? 流石はおとこの娘だぜ」
単位春花が強過ぎるなあ。
「実は俺、おとこの娘と女装って何が違うのか、何となくしか分かってないんだけどさ。2人はそこら辺の違い、分かるの?」
「まあ、何となく?」
「そうですね。何となくなら」
2人とも何となくらしい。
ということは、明確な差別化はないのだろうか。
俺もまあ、何となくはわかる。何となくね。
「世はノンセクシャル時代へと進んでいるからね」
「あ〜。わかるかもしんねぇな。そういや入試のときも、性別欄にどちらでもないみたいな欄あったよな。最近クルッポーでも色々話題になってっし」
「……郷右近くんクルッポーやってたんですね」
「やってそうな顔はしてるよね。実名でやってそう」
「ったりめぇだろ。プロフィール欄には氏名、学校、身長体重、血液型から住所まで載せてるぜ」
それはダメじゃない!?
個人情報はちゃんと保護しないと!
「この前炎上して、家にめっちゃ手紙届いたわ」
まるで他人事のように言って、ゲラゲラと笑い出す。左近のメンタルは一体どうなってるんだ?
「そ、それなら私も経験が……」
まじですか。
炎上ってそんなぽんぽんするものなの!?
「確かあれは中学二年生の頃。最も友人に飢えていた時期の事です──」
あれ、過去編?
なんか回想シーンが始まってしまった。
「クルッポーにあげられた、好みのイラストを見つけたのです。感動を共感したくなって、リプ欄を覗いたわけなのですが、どれもこれもネタ画像ばかり。それは別にいつものことですから。仕方ないかもしれません。でも、数件もよく分からない画像を散りばめてる人! これは許せないですよね!?」
「えーっと」
ダメだ。よくわからん。
「カチンときた私はついつい『絵師のリプ欄は画像置き場じゃない!』って、言っちゃったんですね。そしたらもう凄い言い合いになってしまいまして……。最終的には絵師さん本人から『絵師のリプ欄は喧嘩する場所じゃないですよ』ってメッセージが飛んできたんです。そこからはもうリンチですよ。他の人まで参戦してきてボコボコにされて……アカウントも凍結されました」
「……。そっかあ」
根に持ってるんだろうなあ。
すごい話すじゃん。
「あの、夏芽くんはどう……思いますか?」
「うーん。ごめん、俺はクルッポーやってないから、正直よくわからないかなあ」
「そ、そうですよね……。あの、郷右近くんは?」
「あー。そうだな。お前、意外とよく喋るよな」
「あ、はい」
コイツ俺が口に出さなかったこと言っちゃったよ。
愛萌曰く、俺も左近もこういった発言には大差ないらしい。そう言われてしまってはさすがに危機感を抱かずにはいられないのだけれど、無意識を強制するのはかなり難しい。
口は災いの元とも言うし。やはり喋らない方が身のためなんだろうな。
「おーっと。そろそろ時間だね。仕事を始めようか!」
俺は変な空気を誤魔化しながら、立ち上がる。
バイト前からこんな沈む話をしていたらいいスタートを切れなくなってしまう。
切り替えていこう。
「そうですね。今日は夏芽くんにはトーストの作り方を教えるようにお母さんから言われています。郷右近くんはいつも通りホールの方をお願いします」
「了解です!」
「ガッテン!」
ついに俺は朝比奈家のトースト技術を手に入れるに至ったわけだ!
クックック。これを機に完璧なるトースト作成のノウハウを盗むのだ!
朝比奈さんのお母さんが作るトーストはものすごく美味しい。もうなんというか語彙力がすっ飛ぶくらい美味しいのだ。
喫茶店の人気商品でもある。
前世の俺は今と違ってそこそこ裕福な家庭であったが、それでもここまで美味しいものは食べたことがない。
「いっちょやりますか!」
「待って!」
エプロンの紐を締め、勢いよく踏み出したところで、後ろから声がかかる。
声の正体は夜鶴のお母さん。
「実はね、今日から宣伝のためにSNSを使おうと思うの! クルッポーとチンスコ・ウラブどっちがいいかしら〜」
朝から元気溌剌なお母さんの声に、俺たち三人はスっと目を逸らした。




