水と油
学期末テストと球技大会が終わり、燃え尽き気味のクラス。
朝から重い欠伸が飛び交っている。
昨日まであれほど意識していた瀬戸くんから何か言われることもなく、いつも通りの日常に戻っていた。
「秋梔殿! もうすぐ夏休みでごわすな!」
「そうだね。赤服くんはどこかに行くの?」
「もちろんここちむを応援するためライブに駆けるでごわすよ! 北海道まで行くでごわす!」
ほえー。すごいなあ。
「愛だね」
「愛でごわす」
『はにぃ♡たいむ』のメンバーは全員が現役女子高生ということもあって、ライブの頻度は他のグループと比べ若干落ちる。それ故に、夏休みなどの期間に集中してライブがたくさん行われるらしい。
「そう言えば、藍寄会長もはしゃいでたな」
今日は休んでいた分の生徒会の仕事の為、早い時間から生徒会室に向かったのだが、それより更に早い時間から生徒会室で藍寄青士先輩は働いていた。
どうやら最近、二重さんと関わる機会があったらしく、それがいい思い出になったとのことで、色々とやる気に充ちているらしい。
彼も生粋のここちむファンだからなあ。
「秋梔殿はライブに行かないでごわすか?」
「うん。そんなお金ないよ」
北海道って……。
飛行機に乗るんだよね? それだけでご飯何食分になるんだろう。
「秋梔殿は近衛騎士としての自覚がおありでごわすか? 秋梔殿のサインを欲しがる騎士たちもたくさんいるでごわすよ?」
「なんでいつの間に俺が祭り上げられてるの!?」
「……暴漢からここちむを救った秋梔殿に惚れて『はにぃ♡たいむ』の騎士になった女性ファンも一定数いるらしいでごわす」
待って待って。
というかなんでその人たち俺のこと知ってるの?
どっから情報が盛れてるの!
「拙者が流してるでごわす」
貴様が犯人か!!!
「盗撮だよ。肖像権侵害だよ!」
「なーに。ここちむの為ならば盗撮くらい容易いでごわす」
「『はにぃ♡たいむ』の民度低すぎじゃない?」
二重さんはあんなにいい人なのに。
……表向きは。
「それで、秋梔殿は夏休みどのように過ごすでごわすか?」
「あー、俺はアルバイトかなあ」
喫茶店のバイト。今からもう緊張してきたな。
ちゃんと接客できるかなあ。
「アルバイト……? ふむ。何処でバイトするでごわす?」
「隣町の喫茶店だよ。コーヒーを淹れるんだ」
「なるほど。えー、『秋梔近衛騎士、夏休みに隣町の喫茶店でアルバイトをする』っと……。リーク完了でごわす! あっははー! リプライがたくさんでごわすー!」
「人の個人情報で承認欲求を満たさないでくれるかな!?」
それ、俺だけでなく夜鶴にまで迷惑かかるから。ちらりと横を見ると、夜鶴は何故か目をキラキラさせていた。さてはこれを機に儲けようとしているな?
肝が据わってるね。
「座れー」
そのタイミングで、教室に入ってきた先生が別の意味の座るを号令した。クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように席へと戻っていく。朝のホームルームが始まる。日常がまた、再開する。──はずだった。
「これから一学期修了時点での卒業適性を発表するぞー。適性が低い奴は留年するから気をつけておけよ」
卒業適性……?
なんだろう。初めて聞いた単語だ。
俺の前世はおろか『トモ100』でのβ版でさえ聞いたことがない。
「優良者から順に柏卯てつ子、御手洗花束、成木泉──」
次々と名前を呼ばれていく中で、未だに俺の名前が出てこない。……嫌な予感がする。
どのような基準で格付けされているのか不明だが、現在登校していない一一くんや、保健室登校の與微愛さんよりも適性が低いという点から察するに、単純な評価方法ではないのだろう。
「──瀬戸大樹、朝比奈夜鶴、そして最後、秋梔夏芽。以上だ。下位の者は今一度、何故自分が学園に通うのかを考え、残りの時間を有意義に過ごすように」
それだけ告げると、いつも通りの業務連絡をして教室から出ていってしまった三崎先生。結局、何が何だか分からず終いだ。
俺の次に適性が低いとされている夜鶴は、特段気にした様子もなく授業の準備を進めていた。
──それにしても、留年かあ。
「考えたこともなかったな」
留年。つまりは卒業に必要な要素が欠けているということ。学校である以上、適性は成績に依存すると思っていたのだが、そうでもなさそうだ。
唯一低評価だろう科目は保健体育。しかし、同じく保健体育が危なそうな柏卯さんが何故か適性最優良者なのだ。
「……俺に欠けているもの」
──案外、自分のことは自分が1番わかってねぇもんだぜ?
昨晩の愛萌の言葉が脳裏を過ぎる。
俺は俺をどこまで知っているだろうか。
☆☆☆
「瀬戸くん、少しいいかな」
昼休み、瀬戸大樹に声をかけたのはクラスの嫌われもの秋梔夏芽。夜鶴の熱弁により、クラスメイトからの表立った批判は少しだけ収まりはしたが、御手洗花束に対して行ったことを考えれば、全く印象は良くなっていない。
そんな彼がクラスの人気者に話かけに行くとなれば、何かかが起きてもおかしくない。
昼食を摂るクラスメイトたちは密かに構える。
しかし、瀬戸は少し驚いた様子を見せてから、席を立って夏芽と教室を出た。
向かったのは中庭のベンチ。
座った二人の間で沈黙が流れる。
「昨日、お昼ご飯誘ってくれたよね」
「ああ、そのことか」
遠慮がちに声をかける夏芽に、瀬戸は小さく息を吐く。
「何か用でもあったのかなって」
「用事はもうなくなったよ。昨日一日の君を見て、大体のことはわかったから。──前々から気になっていたんだ。……君は自分の存在をどう思っているんだろうか、ってね」
普段よりもワントーン低い声。
いつも明るい瀬戸からそんな態度を取られるだけで、夏芽は内心で酷く狼狽する。
学園での生活を経て、いくらマシになったとは言えど、やはり根っこの部分は変わらないのが人間である。
「どうって……」
「自分を客観的に見つめられない人間は往々にして、自己中心的思考をしていて、自分が周囲に与える影響を考えられない。僕はそう思う」
「それに俺が当てはまってるってことかな」
「言うまでもないよ。僕はそういう人間が許せない」
許せない。
その言葉に対して夏芽は思う。
許されなかったらどうなるというのだろうか、と。
瀬戸のように社会性を重んじる人間からすれば、秋梔夏芽の在り方は疎ましく思えるだろう。
しかし、その社会というものと馴れ合い切れず、不当に評価されている夏芽からすれば、他人からの評価を第一基準として生きるやり方は理解の外にある。
そして瀬戸もまた、クラスメイトからの評価、更には相手からの評価を捨ててまで、御手洗花束を救った夏芽を真似することはできない。
自分の為に周囲から好かれることを選んだ人間と、他人の為に周囲から嫌われることを選べる人間。ふたりが相容れないのは当然とも言える。
だからこそ。
そこに生まれるのは嫌悪であり、嫉妬だ。
互いに互いのように生きることができない。
だからこそ生まれるこの気持ちは嘘も誇張もなく嫉妬なのだ。
「……瀬戸くんはもっと自分を大事にした方がいいと思う」
「……っ。どういう意味だい?」
「うまく言えないけどさ。何となく、分かるんだ」
瀬戸は自分のことが好きではないのだろう。
個性というものは、集団においては害にしかならないことを幼いうちに学んでいた。
だからこそ、同調することを選び、他人から好かれる人間を演じるようになった。それが今の地位だ。クラスの人気者。誰からも愛されるそんな人格者。
「でも自分の好きな自分でいることだって、きっと大切だと思うんだ。俺はこんなだから、人からも嫌われるし、瀬戸くんみたいにはなれない。けれど、存外俺は今の俺自身を嫌ってはないよ。もう少しコミュニケーションが上手くなればいいなとは思うけど、それでも俺は──」
俺が好きだ。と夏芽は言い切る。
臆面のないその表情に、瀬戸は目を丸くし、やがめ小さく息を吐いた。
やはり何処まで行っても相容れないのだ、と。
「君は凄いね。正直驚いたよ」
「そうかな」
「俺は君みたいにはなれないな」
それはそうかもしれない。夏芽はそんなことを思う。
ふたりは対極。交わることはない。
「僕は君が嫌いだ。僕にできなかったことを意図も簡単に熟してしまう君が羨ましくて、妬ましくて、大嫌いだ」
自嘲するようにはにかんだ瀬戸からは、これまでのような敵意はなかった。
互いを理解し、自分の気持ちを受け入れた。
そこに残ったのは嫌悪ではなく嫉妬だけ。
「俺は瀬戸くんのこと、嫌いじゃないよ。瀬戸くんの生き方は俺の憧れでもあるから」
「ははっ。嫌な奴だな、君は!」
やがて声を上げて笑う瀬戸に、夏芽もつられて口許を緩める。
瀬戸からすれば、秋梔夏芽は嫌な奴ではある。それでも、そんな奴にもいい所はあって、存外憎めない奴なのだとわかった。
おそらくこれが友情の第一歩。
互いの良いとこも悪いところも知っているからこそ、深く分かり合える。
男という生き物は単純なものなのだ。
「あ、そうそう。君にはこれを言っておかないといけないと思ってね」
「どうしたの?」
「実は昨日、僕は二重さんに告白したんだ」
「え? ……ええええっ!?」
夏芽は驚きでベンチから転げ落ちるという古典的なリアクションを取ってしまう。瀬戸から打ち明けられたことにも驚きだったが、まさか瀬戸が二重を好きだったなんて、考えもしていなかった、と。口を大きく開けて固まる。
「知らなかった……瀬戸くんは二重さんが好きだったんだ」
「振られちゃったけどね」
「それは……まあ、二重さんはアイドルに人生を賭けてるからね。仕方ないのかもしれない」
ここちむとして生きる彼女は、自分がアイドルであることを徹底している。それはプライベートでも同じ。
人気者でイケメン、高スペック男子の瀬戸との恋愛よりもアイドルとしての仕事を取ることは用意に想像できた。
夏芽が返答に困っていると、瀬戸は立ち上がり、教室へと歩き出した。夏芽を気遣ったのか、それとも居た堪れなくなったかは分からない。
夏芽はそんなクラスメイトの背を黙って見送る。
今ならずっと怯えていた瀬戸大樹という男が、今の夏芽には等身大に見える。
「二重さんには他に好きな人がいるって言われたんだよ」
小さく零した瀬戸のつぶやきは、夏芽には届かなかった。




