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少し長めです。
藍寄青士は歓喜に打ち震えていた。
突如、生徒会室の扉が開け放たれたかと思えば、そこに現れたのは自分が愛して止まないアイドル、ここちむだったのだから。
更には彼女は自身にサインを求めてきた。
そう。アイドルの方からファンにサインを求めてきたのだ。
嬉し過ぎる。たとえ借金の保証人欄であっても、勢い余ってサインしてしまうかもしれないほどの歓喜だ。
まじか! 認知されてた! 幸せ過ぎて死んでしまうかもしれない、と必死にニヤける口許を隠しつつ、冷静に振る舞う。
「……それで? なぜ急にサイン交換の話を?」
「ここらのお兄ちゃんがですね、うちの会長はここちむのファンなんだよ、って教えてくれたんです!」
キラキラと眩しい限りの笑顔を振りまいて、一歩ずつ距離を詰めてくるここちむ。
藍寄会長の心臓は、それに比例するように強く打ち付け始めた。
「……う、うむ。きみがファンサービスをしてくれると言うのなら、僕としても嬉しい限りだ。……でも、どうして僕のサインが欲しいんだい?」
その質問に、目の前のアイドルはきょとんとした様子で首を傾げるが、やがて頬を紅潮させると伏し目がちに言った。
「えっと……それは、ちょっと、恥ずかしくて言えないかも……です」
もじもじと揺れながら縮こまるここちむの姿に、藍寄会長は天を仰ぐ。
──なんだこの思わせぶりな反応は! 可愛すぎる! まさかここちむのこんな顔を独り占めできるだなんて……。僕は今日この日の為に生きてきたのかもしれないな。
「あの〜、会長さんはどこにサインして欲しいとかありますか? ないなら色紙に書きますけど」
「ああ、色紙で頼むよ。ありがとうね」
密室で推しのアイドルと2人きり。
流れるようなペンの音だけが聴こえる。
それは藍寄青士にとって何事にも勝る至福の時であった。
「えっと……じゃあ、ここらにもサインお願いします。あ、書体は普通で大丈夫ですよ!」
藍寄は手渡された真っ白な紙に名前を書き込む。
借金の保証人欄にサインしてもいい、だなんて事をさっき考えはしたが、実際には何の変哲もないただの紙であり、藍寄会長は静かに安堵する。
「素敵な字ですね〜」
不意打ちで飛んできた褒め言葉に、藍寄会長は頬を染める。
──ガチ恋しそう……。
「あ、会長さん!? 鼻血出てますよ?」
「えっ?」
藍寄会長が気付くと同時にポタリと、赤い滴が紙に落ちた。
藍寄会長はその血を拭おうと、親指を上に重ねるが、思ったより染み込んでしまっており、十分には拭き取れなかった。
「すまなかった、今書き直し──」
「もうっ! 会長さん、まずはこっちをどうにかしなきゃ。めっ、ですよ?」
二重はティッシュを藍寄会長の鼻に当てて、お叱りをする。
「も、もういい。汚いだろう?」
「何言ってるんですか〜? 会長さんの血が汚いわけないですよっ!」
オーバーキルされた藍寄会長は卒倒しかけながらも、どうにか立ち直し、鼻血が止まると同時にここちむを部屋から帰した。
「ダメだ、刺激が強すぎる……」
ひとりきりになった生徒会室で、藍寄は小さく呟いた。今回の件で彼のファン度がうなぎ登りになったことは言うまでもないだろう。
一方で、生徒会室を出た二重心々良もとってもルンルンだった。
「藍寄会長のサイン貰っちゃったぁーっ!」
サインの書かれた紙が入ったピンク色のファイル。
それを大切そうに、胸に抱えながらぴょこぴょこと飛び跳ねる。
「えへへっ。ラッキー!」
廊下をすれ違う誰もが、思わず二度見してしまうような満面の笑み。ここでもまた、彼女は無意識に人々の心を射抜いていく。
ただ、それほどに、二重心々良にとっては藍寄会長のサインを手に入れられた事が嬉しかったのだ。
「えへへっ」
堪えきれない笑みを隠そうともせずに、二重はスキップしながら帰宅したのだった。
☆☆☆
教師にとって、試験後の採点は実質強制残業のようなものだ。ただでさえ時間的余裕がない中で発令された緊急職員会議には、誰もがうんざりとしていた。学園長の最上周もその1人である。
「今回の議題は昨日起きた事件についてです」
事件の目撃者である学年主任の鈴山が提示した議題に、最上は目を細める。
「事件?」
「はい。実は昨日、1年B組の秋梔夏芽という生徒が、クラスメイトにペットボトルの水を浴びせるという事件が起きました。動機はクラスメイトに『テストをカンニングさせろ』と命令したところ、それを拒否されたから、との事らしいです」
「ふむ……鈴山先生はそれを見たと」
「はい。見ました。この目で確かに」
それが事実ならば実に愚かしい。事件が大事になればテストをカンニングしようとしていたことまで露見するに決まっている。自制の効かない短絡的な性格なのか?
最上は失望と共に夏芽について考察する。
──いや、待てよ。秋梔夏芽?
学園長の最上には秋梔夏芽という名に覚えがあった。そうだ。生徒会書記のあの男ではないか、と。
「ふっ」
なかなかに面白い展開に、最上の口許が緩む。
彼には、どうもその事件には裏があるような気がしてならなかった。最上のなかで秋梔夏芽の評価はかなり高い。少なくとも、こんなくだらない事件を起こすような男には見えない。
「最上学園長?」
「ああ、いや。すまないね。それで、学年主任の鈴山先生は彼の処遇をどうするつもりなのですか?」
「はっきり申し上げまして、退学処置がよろしいかと」
「ほう? だが、些か罰が重すぎるようにも感じるね」
クラスメイトにペットボトルの水を掛けた。
カンニング未遂。
現状ではふたつの罪が上がっている。
しかし、それが退学に結び付くほどかと言われれば、そこまでではないと最上は考える。
せめて長期停学くらいのものだ。
しかし──
「元より、トラブルを起こしやすい生徒と言いますか。サボりに強姦未遂、暴力に動物虐待にイジメと、噂の絶えない生徒でもあります。彼と同じクラスの一一が不登校になってしまったのも、秋梔夏芽が原因だとか……」
たった数ヶ月でこれだけの事をやらかしていたのならば、確かに退学も視野に入れざるを得ないだろう。
最上は人差し指を撫でながら思考に耽る。
彼にしては、珍しく関心の持てる男だったが、火のないところに煙は立たない。
「……残念だが、それが事実ならば退学もやむを得ない、か。よし、秋梔夏芽に関しては退学、もしくはそれに近しい処置を行うという前提を元に話を進めていこうと思う。もちろん、証拠と被害者の存在は必須だ。異議のある者は?」
最上は会議室に視線を回す。
まあいるわけないか、と嘆息しようとしたところで、たった一人、手を挙げる者を視線に捉えた。
「失礼、あなたは?」
「はい。1年B組の担任教師、三崎希姫です」
学園長に名前を覚えられていなかったことに若干の動揺をしつつも、堂々と言い放つ。
「今回の秋梔夏芽の件に関しては一週間の自宅謹慎のみで済ませて頂きたく思います」
「「……っ!?」」
数多くの教員達が驚く中、学園長の最上だけは冷静な対応を重ねた。
想像していた事態。というよりは、期待していた事態というべきか。しかし、それでも彼には半ば確信を持てる事態だったには違いない。
「しかし、彼は君の担任するクラスの生徒だろう? これ以上被害が拡散する前に彼には学園を去ってもらった方が、他の生徒の為、そして君の為にもなるのではないかい?」
「ええ。もし、本当に秋梔夏芽という男が問題児なのだとしたら、早々に立ち去ってもらった方が私としてもありがたいですね。ですが、少なくとも今回の件に関して言えば、秋梔夏芽は退学になるほどの事をしてはいないと思うのです」
「ふむ。しかし、鈴山先生を含め目撃者もいるのだろう?」
三崎はその質問には答えず、そのまま席を立ち上がった。手元には冊子のような紙束を持っており、それを最上に手渡した。
「……これは?」
「今回、秋梔夏芽を巡る事件において、処罰の軽化を求める者たちによる署名です」
「これが全て……」
紙に書かれた名前は数人などの規模ではない。
二桁……いや、もしかしたら三桁にまで届いてるかもしれない。
「昨日の今日で一体……」
ペラペラと紙を捲る最上は目を見開く。
最後のページにあったのは、この学園の生徒会室、藍寄青士のサインだったからだ。
「しかもご丁寧に血判付きとはな」
その血判とやらは、藍寄会長が拭い損ねた鼻血であり、偶然の副産物だったのだが、効果は絶大。
「ちなみに、今回の被害者とされている御手洗花束のサインがこちらです」
「被害者までもがサインを書いたというのか」
──面白い。これは面白い!
教室という空間で水を浴びせられたという確たる証拠がありながらも、被害者までもが無実を主張する。実に興味深いじゃないか!
「ま、待ってください! 私は確かに秋梔夏芽が御手洗花束に水を浴びせているところを見ました!」
「はい。鈴山先生。その話は担任として、秋梔からも御手洗からも聞いています。その上で、の判断です」
「秋梔夏芽が御手洗花束を脅してサインをさせたという線は?」
「秋梔夏芽は現在自宅謹慎中。そのサインは今日書かれたものです」
ここに集まった署名の多くはここちむの騎士たちをクラスメイトや生徒会、風紀委員のメンバーのものである。昨日の時点で行動を開始していた二重の努力と人望の結果といえる。
そして、この署名はあくまで秋梔夏芽の処罰の軽化を求めたもので、他人に水を浴びせることを無罪だと主張しているわけではない。
被害者である御手洗は秋梔夏芽を無罪だと主張しているものの、署名に関しては『処罰を受けるべきことをした』という前提のもと行われている。
受け手としては、この差がかなり大きい。
状況を何も知らぬ人間が出張ってきて無罪を主張しようとも、その言葉には重みも責任もない。
しかし、処罰の軽化を求めるということは、主張の行方が事件そのものから秋梔夏芽個人へと移っている。それ即ち秋梔夏芽という人間そのものへの信頼を表しているため、意見を切り捨てる根拠が難しくなる。
「……面白い。今回の件は、私直々に御手洗花束とコンタクトを取った後、こちらで処罰の方を判断する。それでいいか?」
「「はい」」
会議は終了し、次々と教員たちが退出していく。
「やはり興味が尽きないな」
誰もいなくなった会議室で、最上は小さな笑みを浮かべるのだった。




