期末テスト
一学期末テスト。
3日間に置けるテストは基礎教科に加えて技能教科のテストも実施するため、1教科に割ける勉強時間は多くない。
──普段から積み重ねをしていないものにとっては。
「それにしても、夜鶴ってば、本当にテストを休むなんてなあ」
やれやれと言葉を零したのは秋梔夏芽。
前回のテストではクラス順位1位を通り越して、学年一の座を手にした男だ。高身長茶髪で見るからに不良生徒だが、その学力は他の追随を許さない。本物の秀才だ。
「人の心配? 随分と余裕なのね」
そんな秋梔夏芽に絡むこの女子生徒が、前回学年2位の座を獲った御手洗花束である。長い黒髪の上で花の装飾がされたカチューシャが座している。
「俺はいつだって余裕だよ」
「ちっ……ムカつくやつ」
今回のテスト勝負、もし夏芽が負ければ彼は退学になる。そんな理不尽な賭けを前にしても彼の余裕は変わらない。
「御手洗さんはきっとこう思ってるんじゃない? 『私は誰よりも努力した。人生を学力にかけている。だから絶対に負けられない。負けるわけがない! 今度こそ勝つのは私。圧倒的な点差で勝ってやる!』って」
「ふん。よくわかってるじゃない。そう。勝つの私! 私が負けるわけがない!」
「俺も同じことを思ってる」
冷たく微笑む秋梔夏芽。
普段は内気な彼は珍しく闘志を燃やしていた。
決して御手洗を侮っているわけではない。彼には彼のプライドがある それだけのことだ。
「……っ! その言葉……直ぐに後悔させてあげるからっ!」
こうして、彼らの戦いは始まった。
3日間における秀才と秀才の戦いが火花を散らす──はずだった。
事態は事件へ。
思わぬ方向へと加速していく。
☆☆☆☆
事件が起きたのはテスト3日目の最終テスト。
俺にとっては因縁の相手。地理のテストが終わった後である。
「やめ! では、1番後ろの席の人はテストを回収して前に持ってきてくれ」
終わりを告げる合図。
見直しも2周した。今回こそ全教科満点もありえるぞ。
俺は自分のテストの出来栄えに浮かれていた。
解放感と満足感についつい笑顔が零れる。
あるとすれば数学の計算ミスか国語の読解くらいだろう。あとは完璧。万に一つも落としはしていない(フラグっぽいセリフ)。
むしろ皇さんの方が心配だ。俺は余裕だけど、彼女は余裕じゃない。点数次第によっては今回限りで俺の家庭教師もクビになるので、是非ともいい結果を出して欲しい。合宿、頑張ったからなあ。
……頼むぞ〜。
「って、あれ? 回収遅いな……」
俺は後ろを振り返ると、御手洗さんが椅子から立ち上がらずに座っていた。下を俯いたまま動く気配がない。
どうしたんだろう。今回のテスト難問が多かったし、調子が悪かったのかな?
おっほい。もう俺の勝ちが決まった的な!?
浮かれながらも立ち上がる俺。……ぴちゃり。
「ん?」
足元が濡れていることに気が付く。
「え……」
「うっ、あ……あっ違っ、これは……」
御手洗さんがずっと伏せていた顔を上げる。
それは見るに堪えない酷いものだった。
顔面蒼白。恐怖。絶望。諦念。
彼女の瞳はグラグラと揺れていた。
よく見てみれば下顎が小刻みに震え、涙が頬を伝っている。
「御手洗さん……」
彼女は失禁していた。
俺の足元まで伝った水溜まりは彼女の尿とも言える体液である。
今のところクラスメイトに気づいている人はいなそうだが、バレるのも時間の問題だろう。現に、俺の前の席に座るクラスメイト達もこちらに視線を集めつつある。
「……。」
【イベント】だ。様々な事件や問題事を解決するために主人公に与えられた【イベント】。これ等は絶対で、彼女が3年間の高校生活のうちにテスト中失禁する事は運命づけられていたと言ってもいい。
彼女はこれを期に不登校となる。ただでさえプライドの高い彼女だ。興味の視線や些細なからかいの言葉でさえも、彼女の心を抉るには十分である。
そして、そんな彼女を再び登校させるのが、主人公に与えられた試練だ。
「残酷だな……」
ゲームの世界が現実となった今、この世界はあまりにも優しくない。
【イベント】が起こる。それはつまり不幸を義務付けられ、涙を押し付けられた人間がこの学園にはたくさんいるということだ。
秋梔夏芽もそのうちのひとりだ。
俺の身にもいつかはその時が訪れる。
それが運命だ。与えられた命の運びだ。
逃れられないルールだ。
ヒーローが生まれるには不幸な人間が必要だ。
贄とも言えるだろう。この学園に通う生徒の多くはそんな逃れ得ぬ鎖に縛り付けられている。
だから……だから、仕方ない。
成るべくして成った。起こるべくして起こった。
確定した未来の消化に過ぎない。
これは仕方のないことなのだ。……仕方の──
ギリリッ。
強く噛み締めた歯が軋むような音を出す。
「……ざけんなっ!」
俺は無意識のうちに机を叩きつけていた。
許されていいはずがないだろうが!
俺は、俺たちは生きてる。心を持って生きてるんだぞ! 自分で考え、行動する自由を手にする権利があるはずなのだ。こんな事が【強制】されていいはずがない!
絶望だって、苦しみだって、いつかは夜鶴が消し去ってくれるかもしれない。
彼女は優しい。その広い心を持って御手洗さんを抱き留めてくれるだろう。彼女の心を癒し、もう一度踏み出す勇気をくれるはずだ。夜鶴にはそれができる。
だからって!
傷付いていい理由にはならねぇだろうがッ!
考えろ……。
俺ならできるはずだ。彼女の傷を最小限に留める方法を見つけろ!
勉強だけ出来たって、学力だけ高くたって、今役立てらんなきゃ意味なんかねぇだろうがッ!
脳をフル回転させる。
チリチリと目の奥が焼き付くような感覚。もしかしたら脳がオーバーヒートを起こしているのかもしれない。
……構うもんか。
想像しろ。最善を! 創造しろ。逃げ道を!
これは俺にしかできない事だ。
俺がやらなきゃいけない事だ。俺が……俺がっ!
「……!」
俺は鞄からペットボトルを取り出して、御手洗さんの頭の上でひっくり返す。妹達が差し入れでもらってきた2Lのペットボトルだ。
トプトプと音を立ててスポーツドリンクが彼女の頭に流れ落ちた。
「あっ。ああっ、ああああ……」
水圧で御手洗さんのカチューシャが外れて机に落ちる。聞くだけで痛々しいような悲鳴が絶えず彼女の口から漏れ出した。
「なあ、御手洗。お前、ほんっと使えねえな」
できるだけ低く、強く、威圧するように、俺は言う。
やがて異変を感じたクラスメイト達の視線が集まり出す。
さあ、お前ら。俺を見ろ。
俺だけを見ろ。お前らの目の前にいるのは、最低なクラスメイトと被害者だ。
「あっ、あう……すみま、せん。すみません……」
今朝まで強気だった御手洗さんはただ弱々しい声で謝罪の言葉を繰り返す。
……っ!
謝らないでくれ。
俺の心が悲鳴を上げた。何故か泣きそうになり、下顎が震える。
同情なんてしてない。実際、俺は彼女に対してあまり良い印象を抱いてはいない。だからこれは決して同情なんかじゃない。
だけど。痛いんだ。
吐きそうなくらいに胸が苦しい。
彼女の為とは言えど自分の行為で他人が傷付く様を見るのがこんなにも胸糞悪いなんてな。
「秋梔ぃーっ!!!」
怒鳴り声を上げた社会科の先生がこちらへと詰め寄ってくる。
ああ。めっちゃ怒ってる。あれはガチの激怒だ。
ついに俺の学園生活も詰んだかな……。
だったら最後まで俺は俺の意地を通させてもらう!
「御手洗花束。こっちを見ろ。……俺を見ろ!」
湿る彼女の肩を掴んで顔を覗く。
そしてようやく交わる視線。
「大丈夫だよ。俺が守るから」
上手く笑えたかは分からないが、俺の声はしっかりと届いたようだ。あとは任せろ。
こんな運命、俺が絶対に変えてやる!
俺は前の方から飛んできた愛萌に思い切り顎を打ち抜かれた。
☆☆☆
絶望。
そんなものがこんなに身近に潜んでいるとは思わなかった。これまでの私、御手洗花束の人生初決して悪いものではなかった。
「なのに……」
初めての絶望は、高校に入ってすぐの中間テストだった。中学時代神童と呼ばれた私が、まさかの学年順位2位。しかも、1位の人と8教科で60点差がついての大敗だ。
高校受験のための模試では、毎回志望者順位で1位を取り続けていた私。入試でも1番で、新入生代表の挨拶だって任された。
そんな私が……2位。
しかも、学年1位は同じクラスの不良生徒が相手だという。ふざけるなと言いたくなった。
どうせカンニングして獲った点数に違いない。
そう思った私は、少しズルをして、席替えで彼の後ろの席を取った。
絶対に化けの皮を剥がしてやる。
そう思っていたのだけれど……彼は本当に頭が良かった。
ズルなんかじゃない。正真正銘、彼の実力だ。
だから、私は焦った。尚のこと焦った。
素の実力で、私は彼に圧倒されていたのだ。
でも。だからってそれを素直に認められる私じゃない。虚勢を張って、見て見ぬふりをして、何とかプライドを守った。
『勉強はそれなりに出来るがそれでも私よりは下。カンニングで底上げしてるに決まってる』
そんな風に他人を下げて自分を上げた。
期末テストこそは、私が1番になる。
私が1番じゃなきゃいけない。たまたま。……そうたまたまだ。前回はたまたま私の調子が悪かっただけだ。本気を出せば勝てる。私の方が頭が良いに決まってる。
だけど、もし今回も負けたら──
そんな気持ちで挑んだ地理のテスト。休み時間中にギリギリまで復習をしてトイレ休憩を挟まなかった私が、その訴えに気付いたのは、テストが始まってすぐのことだった。
初めは我慢できると括っていた。
しかし、尿意は意外と強く、それが焦りを呼び、問題を解くペースが落ちる。
後にして思えば、トイレに行きたいと思った時点で直ぐに行動していればよかったのだけれど、気付いた時にはトイレに行く余裕もないほど、時間が迫っていた。
そして……。
私は失した。
まるで世界がグラグラと揺れているようだった。
初めに感じたのは恐怖。クラスメイトに知られた後のこと考え絶望し、もうどうしようもないことに無理やり気付かされ、また絶望。
ピチャリと水音が聞こえ、秋梔夏芽が私のそれに気付いた時には呼吸さえもままならなかった。
「なあ、御手洗。お前、ほんっと使えねえな」
吐き捨てるような声。初めての呼び捨て。
鋭い目付きで秋梔夏芽が私にそう言い、次第に体が冷えていくのがわかった。
初めは恐怖ゆえかと思ったが、どうやら彼は私の頭の上でペットボトルをひっくり返したらしい。
そうか。これが私のこれからの扱いか。
私は彼の上履きを汚してしまったのだ。仕方ないとも言える。
遠くで先生の怒鳴り声が聞こえた。
クラスメイトの視線がこちらへと集まる。
どんなに虚勢を張ろうとしても、どんなに誤魔化そうとしても、もうどうにもならない。
私の努力が及ばないものがある。そんなことは秋梔夏芽に出会ってからとっくに気付いていた。
それでも。今にも壊れそうな心を何とか抱きしめ、指の隙間からこぼれ落ちる欠片を握る。
「御手洗花束。こっちを見ろ。俺を見ろ!」
肩を捕まれ、無理矢理に視線を交わらせられる。
ああ。ダメだ。私はもう──
込み上げてきた嗚咽がついに喉を越えそうになったところで、彼は──秋梔夏芽は言った。
「大丈夫だよ。俺が守るから」
それは覚悟を決めた男の眼。
私がその意味を知ったのは、それから数十分後のことだった。
秋梔夏芽退学編。やっと物語が動きはじめました。
次回もよろしくお願いいたします。




