それは粘着力の強い方の
今朝は憂鬱。
どんなに可愛い妹が起こしてくれても、お弁当を作ってくれても、昨日の一件がある俺には、重い朝だ。
『朝比奈さんに、二度と近づくんじゃねぇぞ!』
怒鳴る一一くんの声が今も頭の中で反芻する。
きっと、俺は朝比奈さんにも嫌われたに違いない。
もしかしたら、先生に呼び出されて、謹慎を食らうかも。うわ、どうしよう。困ったなぁ。
そんなふうに考え事をしながら、歩いていたのが悪かったのだろう。
物凄い勢いでこちらへ走ってくる人影がゴチーんとぶつかる衝撃と共に、俺は地面に倒れた。
「痛ってて……え、? えええ!?」
目の前には食パンを咥えた女子生徒が、真っ白なパンツを大々的に公開しながら倒れていた。
いや、真っ白と言うと語弊があるかもしれない。
なぜなら、そのパンツにはトラさんのプリントが施されていたからだ。
虎柄ではなくトラさん。深淵がこちらを覗いていた。
「大丈夫ですか?」
手を差し伸べて気付く。
それが、クラスメイトの男虎愛萌であることに。
男虎愛萌は秋梔夏芽と対を為すクラスの不良キャラ。
ギャルとヤンキーの中間ら辺。
黒のインナー以外は金髪のはずなのに、少しも痛んでいないショートボブの髪をハーフアップで束ねており、赤い瞳は真っ白な肌でよく映えている。
160cm後半もある高身長で、豊かな胸を内包したシャツがぱっつんぱっつんに張っている。
本当はゴスロリとかに憧れるメルヘンな少女なのだけれど、男所帯の家に生まれた経緯やカーストの立場的に、そんな事を言い出すことも出来ず、女番長風に振舞っている。
β版時代の俺の推しキャラの一人だ。
「ってぇ。悪ぃ、ちと急いでて……って、お前秋梔じゃん!」
「う、うん。そうだよ、おはよう、男虎さん。ごめんね、俺もちょっと考え事しててさ」
俺は自然な風に手を差し伸べた。
あれ、俺、今自然な風に朝の挨拶をしなかった?
生まれて……生まれてはじめて、クラスメイトにおはようって言わなかった?
おおおおおお!
おはようって言えた。噛まずに言えた!
「お、おはよう! おはよう! 男虎さん!」
「あ? ああ、おはよう……? なんかお前、気持ち悪ぃな」
テンション爆上げな俺。しかし、ある事に気付く。
「男虎さん、脚から血が出てるよ」
「あ? あー、ほんとだ。今ので擦り剥いたっぽいわ」
何でもないような風に言う男虎さんだけれど、膝からすねの辺りまで血が伝っている。
俺はポケットからティッシュを取り出す。
しかし、それを男虎さんに手渡そうとして、断られた。
「いいって。この程度の傷、日常茶飯事だから。つーか、あたし今急いでるし」
「いや、でも。女の子なんだし、ちゃんと身体は大切にしてあげないと」
どうにか食い下がろうとする俺だが、男虎さんは取り合ってくれない。
「別に、今更女扱いされたいとか、思わねぇから」
俺にしか分からないだろう「嘘」をついた男虎さんは面倒くさそうに踵を返そうとする。しかし──
「きゃっ……!」
女の子らしい可愛い声が上がったと思うと、そのまま俺の胸に倒れ掛かって来た。
んんんんん!?
俺の脳みそがバッドでフルスイングされたトマトのように弾けた。ように錯覚する。
凄くいい匂いがした。
というか、とっても柔らかい。
俺は激しい動揺を隠そうと、何とか平然を装う。
「おい、秋梔。鼻血出てんぞ?」
「なんだって? きっと妖怪のせいに違いないな」
おのれ、妖怪。俺が討伐してやる!
なんて。それより、なにより、足を挫いたのかもしれない。
俺の鼻血なんかよりも男虎さんの足が心配だ。
「俺が腰を支えるから、腕に捕まって」
「いいって。別に、これくらい平気だから」
顔を背けて男虎さんはそんな強がりを言うけれど、うまく立てないのか、未だに俺の胸の中に収まったままだ。
思ったよりも重傷なのかもしれない。
「とりあえず、近くの公園まで行こう」
俺は意識を切り替えると、その場にしゃがみこんで、背を向ける。
「あ? 何のつもりだよ」
「見てわかるでしょ? おんぶだよ。──学校遅刻しちゃう。早くして」
「別にあたしは……」
「いいから、早く!」
少しだけ声が大きくなる俺。
どうやら、俺は感情が込もると饒舌になる傾向があるらしい。
普段なら、男虎さんみたいな子と話したりなんかしたら、緊張して何も言えなくなってしまうはずなのに。
嗚呼、でもそう言えば、VRの中の彼女となら、俺ならぬ僕は何度も話しているんだっけ。
そんな事を考えていると、背中に柔らかな感触が伝わった。ふにりと潰れる2つの果実。
そして、耳元でこそばゆい吐息とともに声が掛かる。
「ありがとう、秋梔」
クラスメイトからのありがとう。
俺はもう、今日死んでも悔いはない。