群集恐怖症
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
そんな弱音が頭の中を駆け巡る。
いや、もしかしたら口に出ていたかもしれない。
我に返ったとき、壇上から見下ろした生徒たちは訝しげにザワついていた。
「以上です」
一刻も早くその場を離れたくて、俺は話を締める。どれだけの間マイクを握っていたのかも、自分が何を口走ったのかも覚えていない。
ただひとつ、分かることがあるとすれば、俺は学園中の生徒の前でやらかしたという事だ。
拍手が聴こえてくる。
それはこの学園のトップ。学園長の手から聴こえたものだった。
一際大きなその音は、やがて波紋のように広がり、戸惑いながらも会場が俺に向けて手を鳴らした。
俺は一礼してすぐさま席に戻る。
すれ違いざま、左近が「お前は宇宙人だったのか」と、呟いたのを聞いた。
俺はただ、真っ白に燃え尽きながら時が過ぎるのを待つことしかできなかった。
☆☆☆
私立鈴音学園──学園長の最上周は退屈していた。
彼が学園長という座についたのは、今から約20年前のことだ。
教育というものにさほどの興味があったわけではない。それでも、父親よりこの座を受け継いだ理由があるとすれば、それは刺激を求めてのことだった。
最上学園長は、若き者達の紡ぐ青春に興味があったのだ。
彼が生徒会という組織に権力を持たせたのも、生徒たちの自主性を求めると共に、新たな化学反応を期待してのことだった。しかし。
──どいつもこいつも、つまらない。
それが生徒会への立候補者に対する率直な感想だった。
まるでテンプレートをなぞったような言葉の羅列。やれ学園のため、やれ発展のため。
それが悪いことだとは言わない。むしろ、本心からそう思っているのならば、誉められるべきことだ。しかし、つまらない。学園長が求めているものには程遠い。
「皆さんこんにちは。1年B組、秋梔夏芽です」
またひとり、壇上で生徒がマイクを手にする。
見た目こそ派手な生徒だが、一見冷たく見えるあの表情は、生徒会への道を臨む覚悟を表したものだ。静かな闘志を宿しているのがわかる。
──こいつもハズレだな。
期待できない。学園長が見たいのは薄っぺらい偽善による活動ではない。
野心を胸に秘め、学園を震わすような為政者の誕生だ。
と、その時、マイク越しにその声は響いた。
まるで天より降り立った神のような慈悲深き声。
否。それは同性の学園長でさえ聞き惚れるような美しき調と言うべきだろうか。
「ég vil fara heim」
それは流暢な異国語だった。
川のせせらぎ? いや、まるで舌にベルトコンベアでも取り付けているかのよう。それは機械的なまでに美しいアイスランド語だった。
趣味で他国語を学んでいる学園長はともかく、他の教員や生徒たちは何を言っているか聞き取れなかっただろう。
その男子生徒が放つ言葉はあまりにも流暢だった。とても悔しいが、学園長の耳では、彼が何を言っているのかまではわからない。
「أريد العودة إلى ديارهم」
「今度はアラビア語だとっ!?」
いよいよ体育館がざわめく。
当然だろう。生徒会に立候補した生徒が、自分の知らない言語で話し出したのだ。戸惑いもする。
「ninataka kwenda nyumbani」
よく見ると、壇上で話す男子生徒の瞳は濡れていた。雫こそ零れていないものの、潤んだ瞳は光と共に揺れている。
「আমি ঘরে যেতে চাই」
「嘆いているとでも言うのか……」
壇上と壇下──いや、天上と天下のその確たる隔たりを。
彼は生徒たちを見下ろしながらも見下しはせず、ただ自分の能力とここにいる全ての人間との能力の差を嘆いている。
ここにいる誰もが、彼の人間性や才能を正しく理解できていない。
現に学園長を含め、彼の言葉を理解する者はひとりとしていないのだ。
たとえば絵画や音楽といった芸術も、評価する人間の大半は、素人である。
いくらその道を極めた者にだけわかる究極の美がそこにあったとしても、素人に伝わらなければ、それは優れているものとは言えない。
そして、秋梔夏芽というこの男もまた、その類の人間なのだろう。普通の人間が聞けば意味のわからない言葉の羅列も、学園長の身からすれば、既に7カ国以上の語学を操る天才として映る。
凡人には計り知れない何かを彼は秘めている。
──恥ずべきだ。
学園長は素直にそう思った。
教師とは、生徒の声を聞く存在でなければならない。生徒たちの意志を受け取る義務がある。
しかし、学園長はどこかで生徒たちを見下していたのだ。自分の思い通りにならない生徒たちを"無能"だと、勝手に決めつけていた。
それを気付かせてくれたのは、今壇上にいるあの生徒だ。
きっと彼も、自分の言葉が届かないことくらい分かっているだろう。
だからこそ、瞳を濡らす。そして、哀れんでいるのだ。自身の価値に気づかない"無能"を。
──まさか、十代の子供にあのような目を向けられることになるとはな。
おそらく男子生徒が今回の選挙で生徒会の座に着くことはできないだろう。
しかしそれは彼のせいではなく、ただこの学園の人間が彼のレベルに追いついていないだけのことだ。
彼を落選させることで、自ら無能を証明した生徒たちを見て──彼はまた嘆くのだろう。
☆☆☆
翌日。朝会で発表された新・生徒会メンバーを見て絶句したのは、恐らく俺だけではないだろう。
会長 3年C組 藍寄 青士
副会長 3年A組 五六 留
会計 2年B組 凸守 歩穂海
会計 1年B組 一二三 三二一
書記 2年C組 人首 百一
書記 1年B組 秋梔 夏芽
「なんかあるんだけど……俺の名前があるんだけどっ!?」
嘘でしょ? まじてどうなってるんですか。
何度目を擦ってもある。俺の名前がある。
書記の欄に、俺が、いる。
昨日、俺のスピーチは散々だったらしい。
聞いたところによると、突如訳の分からない他国語でスピーチをはじめたのだとか。
他国語って……。
俺が話せるのは日本語を合わせて11ヶ国語だが、そのうちの8ヶ国は日常会話ができる程度のもの。
昨日のみんなの反応を見るに、きっと拙いものだったのだろう。しかし、何故か俺は書記にいた。
ステージの上では、学園長が興奮気味に何か語っている。我が校の生徒は物事の本質が見えているだとか、優秀だとか、大絶賛だ。
今回の生徒会メンバーがそんなにお気に召したのだろうか。俺は不満しかないよ。
次に、大まかな支持表が提示された。
どうやら俺は、2年次の女子生徒からの支持率が圧倒的に高いようだ。男子生徒からもチラホラ票が入ってはいるけれど、同学年からの支持率の低さは瞠目だ。色々噂が広まってるし、納得。
それに、2年生よりも3年生からの支持率が低いのは二重極先輩との噂が理由だろう。
2年生の女子生徒からの支持率が高いのは、俺の見た目がよかったからに違いない。
自分で言うのも変かもしれないけれど、秋梔夏芽は顔がいい。
ゲームでは軽口とセクハラ紛いの下ネタのせいでモテなかったけれど、黙っていればイケメンなのだ。俺の場合は黙り過ぎてコミュニケーションが取れないのでモテないけど。
ちなみに、今回の選挙、生徒は12人の候補生から2人を選ぶ権利がある。
3学年合わせて、約600票だ。そのうちの110票ほどが俺に入っていた。
おかしいって……。
誰かが作為的にコントロールしなければ、こんなに票が入るわけない。
さては不正だな!
「よかったな、でごわす。頑張るでごわす」
背の順で並ぶ俺のひとつ後ろ。
赤服黄熊がサムズアップする。
滅多に話しかけてこない彼が、何故か上機嫌だ。
分かったぞ。さては君の仕業だな!?
陰キャな俺への嫌がらせのために票を集めたんだな?
「謎は解けたよ。君が手を回したんだね、赤服くん」
「別にそれほどではないでごわす。秋梔殿が日頃から近衛騎士として自覚的に行動してきた成果でごわすよ」
赤服くんは鼻の下を擦りながら、照れたように目線を逸らす。別に俺、君に感謝してないよ?
どうやら彼が仕業というのは当たっていたらしい。嫌がらせではなく、善意で投票してくれたみたいだから文句は言わないけど。
「……はあ」
辞退できないかな。
生徒会みたいな中間管理職系の仕事は、三兄弟の次男じゃなきゃ務まらないよ。
俺は長男だからできない。赤服くん代わってよ。
「なんつーか、頑張れ、夏芽。ちょっと可哀想だけど、応援してるぞ」
「どうも……」
朝会中にも関わらず風船ガムを膨らませていた愛萌が、隣で励ましてくれる。凄い度胸だ。
ただそれよりも、彼女は今俺を可哀想だと言った。それはつまり、俺の内心を察してくれているということで良いのだろうか。
「後でジュース奢ってやる」
「ありがとう」
苦笑いしながら風船を割る愛萌。
パチっと破裂音がするも、周囲の先生がそれに気付く気配はない。
愛萌には後で、愚痴を聞いてもらおうかな。
聞いて欲しい話がいっぱいだ。
そもそも、俺っていつの間に生徒会に立候補してたんだろう。
そんなことを考えた時、背の順の前の前の生徒がこちらを振り返り列を抜けてきた。その足取りは軽やかで、どこか焦っているようにも見える。
「どうしたの? 左近」
「おい見ろ夏芽! 投票結果、俺に入った票は7つだとよ! これはラッキーなことがありそうだ! 今から春花に告白してくる!」
馬鹿が一人、朝会中に体育館を飛び出していった。
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