生徒会選挙
生徒会選挙 立候補者
1年A組
碇 心刀
今湊 明日海
紅 上無
英 言吾
半田 後
1年B組
秋梔 夏芽
郷右近 左近
飛知和 知輪々
一二三 三二一
1年C組
庵野 瑛人
政宗 政宗
龍虎 流子
学校の掲示板に張り出されたポスター。
そこにあったのは、見慣れた名前。
というか、俺の名前だった。
「えっ……」
どういう事……?
なんで俺の名前がここにあるの?
分からない。
全然分からない。ただ1つ分かることがあるとすれば、生徒会選挙が今日行われるということだ。
そして、そこに自分がエントリーしている。
「うっ……」
吐き気を催しトイレへと駆け込む。
何かを吐くということはなかったけれど、過去最高に気分が悪い。お腹も痛くなってきた。
「……どうすんだよこれ、意味わかんねぇよ」
無意識に汚い言葉が口から溢れる。
生徒会に入れば、今後の学校生活は優遇されるだろう。
前の世界の生徒会なんてのはなんの権限も持っていなかったけれど『トモ100』の世界ではそれなりに力を有する存在だ。
しかし!
そんなことはどうでもいい!
今、俺が一番気にしなければならないのは、このままでは数時間後に、全校生徒の前でスピーチをしなければならないということだ。
胃がキリキリする。
今からスピーチ内容を考える?
否だ。間に合わないし、間に合ったとしても、俺は別に志があるわけではないので、あっさーい内容の文ができて終わるだけだ。
なら、ぶっつけ本番で流れに身を任せる?
それこそ公開処刑だ。黙りこくって焦って噛んで、死ぬ。社会的に死ぬ。
「くそっ! 影武者! 影武者はおるか〜?」
……。
いるわけがなかった。
いないよね。分かってたよ、そんぐらい。
「これはもうサボるしかないな」
俺はトイレを出て、真っ直ぐ保健室に向かうことに決めた。
一応トイレの水だけは流して個室を出る。
「あれ、夏芽じゃん。何してんだ?」
そこにいたのは俺の親友──郷右近左近だった。
「悪いけど、ロリ近くん。俺ちょっと体調が優れなくてさ」
「ロリコンじゃねえ。郷右近だ!」
そう言えばさっきのポスターには彼の名前も連なっていた。
ゲーム『トモ100』では、秋梔夏芽も郷右近左近も生徒会に立候補なんてしなかった。
たしか、飛知和知輪々と一二三三二一が選ばれていたはずだ。
「あー、もしかしてお前、緊張してんだろ? 軟弱な奴め! こんな軟弱な奴が義兄さんになるのは俺もいささか心配だな」
「……誰が義兄さんだって?」
「だってそうだろ? 噂、聞いてるぜ。今回お前が生徒会に立候補した理由もちゃんとな。一部のオタク共は勘違いしているようだが、要するに、これは春花と俺が結ばれるための試練だ。違うか?」
ごめん。俺には君が何を言ってるのかさっぱり分からないよ。それよりお腹痛い。
「妹が欲しくば、俺の屍を超えていけってことだよな?」
「いや、俺はまだ死んでないし」
死にかけてはいるけれど、死んではない。
「……ごめん。なんだかよくわからないや」
ダメだ。本格的に具合が悪くなってしまった。
ついに精神的ストレスが限界に近づいてきたらしい。
「申し訳ないけど、左近。俺は今、余裕がないから」
「どこか具合が悪いのか?」
「そんな感じ。盛り上がってるとこ悪いけど、生徒会選挙は辞退するつもり。というか、元から参加するはずじゃなかったんだ。スピーチの原稿も作ってないしね」
「なんだそんな事か。大丈夫だ! 原稿は俺が作ってやる!」
いや、違うよ。そういう問題じゃあないよ。
自慢じゃあないけど、俺は左近よりも良いスピーチ原稿を作れる自信がある。この人、馬鹿だからね。
問題は、人前で話すという一点だけだ。
「と、とにかく、俺は保健室に行くから」
左近の脇をするりと抜けて、俺はトイレを出る。
俺たち1年の教室があるのが3階。
保健室があるのが1階。階段を下りるだけで酔いそう。
そんなことを考えた俺だったが、結果として保健室へと向かうことはなかった。
ちょうど廊下の角を折れたタイミングで、二重さんに遭遇したからだ。
「なっくんすっごく具合悪そう。大丈夫?」
「あー、二重さん。なんか、体調が優れなくて」
フラフラと壁にもたれ掛かる俺に二重さんがハンカチを差し出してくる。
「良かったら使って」
俺はピンクのハンカチを手に握り口許にやる。
柔軟剤のいい匂いがして、少しだけ気分が落ち着く。
「大丈夫? ここちむ汁飲む?」
「え、持ってるの? 貰ってもいいかな?」
ゲームではここちむ汁はストレス回復のアイテムだった。不本意ではあるけれど、こっちは本気で状態異常にかかっているので助かる。
「……本当に飲む?」
「うん。貰えるなら、お願いしたいな」
「そっか……夏芽くんだけ。特別だよ? 誰にも言っちゃダメだからね?」
二重さんは俺の手を引いて誰もいない教室へと俺を連れ込んだ。
「え?」
シュルりとネクタイを解いた二重さんはプチプチとワイシャツのボタンに手をかける。
俺のじゃあない。二重さん自身のだ。
二重さんがシャツを脱いでいる。
やがて胸元をはだけさせた二重さんが俺の傍に寄ってきて真っ直ぐこちらを見上げた。
蛍光系の淡いオレンジのブラジャー。その肩紐と並ぶように、鎖骨にはホクロが幾つかならんでいる。
……冷静になれ。ホクロを数えて意識を逸らすんだ!(目線は絶対逸らさない)
「ここちむ汁……直飲していいから。首のところとか、胸のところとか、汗たまってると思うから……」
え、待って。それはなに?
二重さんは今から、俺に舐めろと言ってるの?
首筋や胸の谷間を直接舐めろと言ってるの?
「あ、あのね。夏芽くん、私、これ意外と恥ずかしいからさ、早くしてくれないかな」
いやいや、二重さんの汗にストレス回復の効果なんてないでしょ?
ここちむ汁がその効果を持っているのは、あれがハチミツドリンクだからだ。
「俺、そんなつもりじゃあ……」
「ああっ! もう……っ!」
焦れたようすの二重さんが俺の頭を無理やり胸に押し付けてくる。
顔は炎のように真っ赤だし、目はぐるぐると渦巻いている。俺以上に普通じゃない。
ドクドクと、二重さんの暴れるような心臓の鼓動が俺の頬を伝い自らの心臓へと伝わる。
逃げなきゃダメだ。逃げなきゃダメだ。逃げなきゃダメだ。逃げたらもったいない。
俺は二重さんの谷間で暴れるがなかなか拘束が解けない。やばい。窒息死する!
──ああ、でも、なんか心地良い。
俺だって男だ。たとえ陰キャでもスケベなのは変わらない。超高性能枕のような柔らかさと自身よりも少し高い体温。
俺は多幸感に包まれながら襲ってきた眠気に身を任せ……やっぱりダメだっ!
俺がペロリと舌を伸ばし二重さんの柔肌を撫でると、投げるように突き放された。
「な、舐めたよね!? 今、私のおっぱい舐めたよねっ!? 嘘、ほんとに? 舐めたの!?」
「けほけっ……舐めていいんじゃなかったの?」
危なかった。
あと数秒タイミングが遅れていたら、窒息してしまうところだった。完全に堕ちかけた。気絶する瞬間が気持ちいいって、本当だったんだ。
「そうだけど! なんか……そうだけどッ!」
頭を掻きながら、キョロキョロとする二重さんは言葉を詰まらせる。
一方の俺はいつの間にか吐き気が治まっていた。
ここちむ汁のお陰か、それとも死にかけたからかはわからないけれど、気は楽になっていた。
「ここらの事を考えてくれるのは嬉しいけど……無理し過ぎないでね?」
「うん? うん。わかった」
もしかしたら、二重さんは近衛騎士の仕事が忙しくて俺の体調が悪くなったと思っているのかもしれない。
実際には、午後の生徒会選挙が理由なので、二重さんは全く関係ないのだけれど。
ここまでしてもらっておいて、体調不良の原因を正直に話すわけにもいかず、俺は黙って二重さんに服を着せる。
「俺のためを思ってくれるのは嬉しいけれど、男の前で簡単に脱ぐもんじゃあないよ。紳士にも限界があるからね」
世の中、俺みたいなチキンばかりじゃあないのだ。
「……っ。うん、わかった。気を付けるね」
人のシャツのボタン留めは難しいけれど、俺は慣れた手つきでワイシャツのボタンを留めていった。
体調が回復したのはいい事なのか。それとも悪い事なのか。
生徒会選挙に参加しない大義名分を失ったという意味では悪いことなのだけれど……。
ええいっ! 腹をくくれッ!
ウジウジするな。目線を上げろ。
生徒会への道は狭き門だ。今日さえ乗り切れば、どうせ落選する。
俺は正々堂々とたたか──
たた、たたか──
闘えない。帰りたい。無理。
俺は体育館のステージの上。
パイプ椅子に座って他の立候補者のスピーチを聞いていた。刻一刻と、自分のスピーチの番が近づいている。吐き気が込み上げてくる。お腹痛い。おしっこチビりそう。
ステージの上を見上げる生徒たちは、誰もが俺を睨んでいるようにしか見えない。
手のひらに油性ペンで書いたはずの『人』が滲んでいる。なんでペンで書いた?
どうして俺がこんな目に……。
そんなことを思いながら荒い呼吸をどうにか抑え込む。そして、ついに、俺の番がやってきた。
「続きまして、1年B組、秋梔夏芽さん。お願いします」
「ぅはいっ!」
俺は緊張でガチガチになりながらも、マイクを手にする。手が震えて、思うようにスイッチが入らない。
数度の深呼吸。
俺は太ももをつねって喝を入れる。
「皆さんこんにちは。1年B組、秋梔夏芽です」
震える顎をなんとか噛み付けて。
自己紹介を終えた俺はカンペを開く。
朝比奈さんが一緒に考えてくれたカンペだ。
そして今は、手汗でくしゃくしゃになったカンペでもある。
俺は目を見開く。
水性のボールペンで書かれた文字のほとんどが滲んでいた。
どうしようもないくらい、俺の瞳も滲んでいた。




