すっぴんは素でも別嬪って意味らしい
急いで病院へと向かった俺が見たのは、二重さんと対峙する朝比奈さんだった。
何を言っているのかはわからないけれど、必死に何かを伝える朝比奈さんと、全く取り合うつもりのない二重さんが、病院の前にいた。
話していると言うよりは、揉めていると言った方がいい。
やがて踵を返してこちらの方向へと小走りした朝比奈さんと目が合う。
俺に気付いた朝比奈さんは更に速度を上げてこちらへ向かってくると、心配そうな──されど、安心したような表情でほっとため息を吐いた。
「怪我はありませんでしたか?」
「うん。俺は平気だよ。朝比奈さんこそ、大丈夫だった?」
「はい。私はむしろ精神的に辛かったと言いますか……」
「ああ。なんか、すっごく変な歌歌ってたもんね。聴いててあんなに悲しくなる歌詞、他にないよ。作詞した人はどんだけ寂れた人生送ってたんだろうね」
きっとひとりぼっちで寂しい人生を送っていたに違いない。
こんな俺でいいのなら、ぜひ友達になってあげたいものだ。
「し、失礼なっ! か、彼女だって一生懸命友達作り頑張ろうとしてたんですよ!」
頬を膨らませてぷりぷりと怒る朝比奈さん。
えっと、よく分からないけど、ごめん。
もしかして作詞した人と知り合いだったり?
とは言え、無駄話をしている余裕は俺にはないのだ。警察を呼ぼうとも思ったけれど、なんて説明したらいいのかもわからない。
そもそも、間に合うかどうか。
今俺にできることは、二重さんを刃物で刺そうとするファンがここを訪れる前に、彼女を誘導することだ。
「えっと、俺はちょっと二重さんに話があるから、朝比奈さんは先に学校行ってて?」
「えっ、二重さんに話しかけるんですか? 辞めた方がいいですよ?」
朝比奈さんは物凄く嫌そうな顔をしている。
存外表情の豊かな人らしい。
「そう言えばさっき揉めてたよね」
「実は秋梔くんを助けてもらうために二重さんに掛け合ってみたんです。でも、ファンの話をした途端、態度が急変しちゃって……」
「そっか。朝比奈さんにも心配かけちゃったね。ごめん」
俺はしょんぼりと肩を落とす朝比奈さんの頭を撫でた。なんだか心が落ち着く。
髪の毛つやつやだなあ。
「秋梔くん?」
「あっ、ごめん。無意識に手が」
気付いたら手が伸びていた。危ない危ない。
俺は愛萌との一件以来、セクハラには敏感なのだ。紳士な俺はたとえ興味津々でも女の子に不用意に触ったりしない。……つもりでいます。
「と、とりあえず、俺は行くねっ!」
いたたまれなくなった俺は、二重さんが消えていった方へと向かう。
今俺たちが会話していたのは駐車場の入口。
二重さんはそこから病院の外休憩スペースの方へと向かっていった。
それなりに広い病院なので、見失う前に声をかけなければ。
「二重さん、ちょっといいかな」
あまり目立たない、少し地味目の私服に体を包んだ二重さんがゆっくりとこちらを振り向く。
「あっ、なっくん。おはよう! こんなところで会うなんて奇遇だねっ。もしかして運命かな」
「う、うん。おはよう!」
二重さんの態度はいつも通りだった。
拍子抜けするほど、いつも通り。
故に、俺は彼女の反応に困惑してしまった。
それを二重さんが見逃すはずもない。
「もしかして、ここらが朝比奈さんと話してるの聞いてた?」
目が笑っていない。
俺はできるだけテンションを上げて、いつも通り二重さんに接しようと試みるが、口から出た言葉は全くの棒読みだった。
「キ、キイテナイヨー」
どうにか誤魔化されてくれ。
わずかな希望に懸ける。
「……そう」
ダメだった。我ながら、困ったアドリブ能力である。
二重さんの返事は普段の彼女からは考えられないとても低い声だ。
さては俺の言葉を信じてないな。
裏の顔、いや、彼女にとってはこちらこそが表の顔なのかもしれないけれど。
とにかく。
まるで別人のように──全てを見下すように、細められた眼でこちらを見る二重さんにアイドルの面影はない。
「はあ……。これは困ったなあ。まさかクラスメイトに盗み聞きされてるなんて」
「し、してないよ……」
開き直った二重さんは、心底嫌そうにこちらを睨み上げた。
鋭い視線が刺さる。
彼女は華奢な体躯からは想像もつかないプレッシャーを放っており、もはや取り繕う気はないようだ。
「 なっくんは不思議だね。私の態度が変わっても、全然驚かない。どうして?」
こてりと首を傾げる姿は、本来なら可愛らしい仕草であるはずだ。
しかし、二重さんの眼は俺を睨みつけたまま、瞬きのひとつもしない。
冷たいようでどこか熱を孕んだ視線に耐えかねた俺は、たまらず目を伏せる。
今の二重さんと真っ直ぐ視線を交わせる度胸が、俺にはない。
でも。どうして、と言うのならばその答えは既に持っている。
それは多分、俺が知っていたからだ。
二重さんには二面性があることを──ではない。
「君が人間だって、俺は知ってるから」
アイドルは──二重さんは神じゃあない。
博愛には生きられないし、不満だって、ストレスだって抱えるだろう。
泣きたいときもある。怒りたいときもある。
人を嫌うことだって、煩わしく思うことだって。
そうで在りたいと願わなければそうで在れない。
人間ゆえの不完全さを彼女はちゃんと持っている。
「二重さんはただ、普通だっただけだ。普通の、人間だっただけだ。人間が普通であることに驚く理由はないよ」
人の心を裏表で言うのならば、今の二重さんこそが表の二重さんだ。
攻撃的な言葉を投げかけ、不満を口にし苛立たしげにこちらを睨みつける今の二重さんこそが、彼女の本質。
アイドルとしての仮面を被る二重さんは、表裏のある人間ではなく、二重の表だ。
俺はそう思う。
「すごいね、なっくん。その言葉……多分、私が一番欲しかった言葉だと思う。お陰で自分のことが少しだけわかった気がするよ」
──でも、あんたの口からは聞きたくなかった。
「ははっ。……馬鹿だって思ってるでしょ? 私の事。愛されることに必死で、偽りの仮面を被って、キャラを演じて。なっくんには、さぞ滑稽に見えたんじゃない?」
「そんな事ないよ。そんなこと、ない」
これだけは言い切れる。
たとえ演技でも、本心じゃなくても、こんな俺に対して自分から声を掛けてきてくれたのは彼女だけだ。
だから俺は彼女が思う以上に、二重さんに救われていて、他のファンたちもきっとそうなのだろう。
しかし──二重さんは次の瞬間、それ等をバッサリと切り捨てた。
「私はもう……頭がおかしくなりそう。気持ち悪いんだよ。私も、兄貴も、ファンも、みんなッ!」
それは俺への言葉というよりは、独り言の類だった。堰を切ったように溢れたその言葉には確かに負の念が込められている。
二重さんは両手で顔を覆い、俯く。
その手には筋が際立つほどの力が入っていて、爪を立てれば顔を傷つけてしまいそうなほどだ。
「もう……限界だよッ!」
それは悲鳴だった。
そして号哭だった。
二重さんの顔を覆った指を伝い、雫が落ちる。
アスファルトが吸い込むよりも早く、次から次へと零れ落ちる。
俺の言葉が彼女の琴線に触れたのは間違いないだろう。
だけど、二重さんの涙のわけも、どんな声掛けをしてもいいのかも、俺にはわからないのだ。
やがてその場にくずおれ、嗚咽する二重さん。
知識だけあっても、彼女の気持ちにまでは寄り添えない。そんな自分を不甲斐なく感じる。
「二重さん?」
だからせめて、俺はその場にしゃがみ、二重さんに寄り添う。
先程まではあれほど大きく見えた二重さんの身体はやはり小さくて。
脆く。儚く。今にも折れてしまいそう。
俺は二重さんの肩に触れようと手を伸ばす。
しかし、その手は二重さん自身の手によって払われた。
代わりに、二重さんは勢いよく俺の胸倉を掴んで、濡れた瞳で俺を射抜く。
目元が赤く腫れて、ぐしゃぐしゃになった顔は貼り付けられた仮面の奥──ありのままの姿だ。
──どうしてっ。と、二重さんは声を上げる。
「私のことがわかってんならッ! だったらなんで、私を助けてくれないの!」
その姿はまるで救いを求める子供だった。
母親に泣きつく子供のようで、神に縋る人間のよう。
アイドルは人々に希望や夢を与える存在だ。
なら──彼女の希望は……?
二重さんの救いはどこにあるというのだろう。
「……」
俺は無意識のうちに、二重さんを抱き寄せていた。背に回した手で、きつく二重さんを自身の胸に押し付ける。
自分でも何をしているのか、よく分からない。
ただ、こうするべきだと、身体が勝手に動いた。
二重さんは俺を遠ざけようと、胸の中で暴れる。
それでも俺は離さない。
二重さんの嗚咽が大きくなる。
痛いくらいに、俺の二の腕を強く握って胸の中で泣く。
俺が最後に泣いたのはいつだろう。
もうずっと昔のことだ。
勉強に習い事。色褪せた日々の中に、俺は涙を流す時間なんてなかった。
でも追憶の彼方には、泣き虫だった頃の俺を抱きしめてくれる優しい母の姿があった。
あったかかったなぁ。
もちろん、俺は二重さんの母親じゃない。
でも、幼き日に感じたあの温もりが、彼女の心に届くと信じて──
次回、二章最終話です。
二重さんの涙のわけ。
黒の騎士団団長の行方。
二重極の額にある傷跡。
全てが明らかに──
なるはずです。まだ書いてません。
次話もよろしくお願いいたします!




