呆気ない
愛萌に心配そうな目を向けられながら、山川くんに対峙する。不思議とおしっこはチビりそうじゃなかった。
ただ早く終わらせたい。その一心で俺は立っている。
「お前喧嘩は素人か?」
「うん。妹と戯れるくらいかな」
短気な春花よりも、一見穏やかそうな冬実々の方が好戦的だ。おはようの蹴りが飛んでくるし、おやすみのアッパーが飛んでくることもある。俺は愛情表現の一種だと割り切ってるけれど、意外と鋭い攻撃が飛んできて危ないのだ。最近は背後から攻撃されても気配で察知できるようにはなったので、怪我はしていない。
そういえば、前世の記憶を思い出したあのときも、冬実々に攻撃されたっけ……。
「おい、何笑ってやがる」
「え、ああ、いや……」
なんか。
色々あったなって。
少し懐かしく感じてしまった。
あの頃から、俺は少しでも前に進めているだろうか。
「……山川くん、俺は明日愛萌たちとバンドをやるんだ。だからもし俺が勝ったら見に来て欲しい」
「あ? なんのつもりだ」
「……べつに。何でもないよ。さあ始めようか」
「ああ」
山川くんが構えると、野次馬の1人がセコンドのように開始の合図をする。
俺は喧嘩が苦手だ。
とくに暴力を伴う殴り合いなんて大嫌いだ。
これから始めるのは総合格闘技という体の喧嘩。
無益な争いでしかない。
喧嘩は嫌いだ。
痛いのは嫌いだ。
傷つけるのだって嫌いなんだ。
でも──弱くはないよ。
やらなきゃいけないなら、やるしかない。
適当に負ける選択肢もあっただろう。けれど、彼はこの闘いを八つ当たりだと言った。
どういった感情なのか、俺にはよく分からなかったけれど、手を抜くことが間違いなのは、俺にも分かる。
俺はフゥっと息を吐いて一歩踏み込んだ。
☆☆☆
中夜祭の柔道場で、1年と他校の生徒が闘っているとの話を聞いた男はその様子を見に行くことにした。
盛り上がる観衆の目の先には、2人の男が立っていた。
「随分と一方的なようだな」
茶色い髪をした男の方は随分と余裕がある様子で、襲い来る相手を様々な手で退けている。とくに靱やかな脚から繰り出される上段蹴りは防ごうと構える脚ごと打ち砕いているようだった。
フラフラと膝をついて、腕を抱え込むもう一方の少年。
「今ので腕が折れたんじゃないか?」
「かもしれないですね」
「随分と骨のある1年もいたもんだ。アイツの名前は?」
「あれが秋梔夏芽ですよ、二重極先輩」
「秋梔夏芽?」
男はその名前を聞いて首を傾げる。
秋梔夏芽という名前には心当たりがあった。
入学早々から調子に乗っているという不良生徒で、自分が直接シメてやった男だ。妹のお気に入りで、そのことを伝えたときにはハサミを持ち出し、大暴れしたくらいだ。……と思っていたのだが、何かおかしい。
男が一学期にシメた男というのは、確かに不良っぽい様子ではあったが、噂に聞くような喧嘩慣れした様子でもなかったし、ましてや妹が気に入るような男でもなかった。目の前の男の方がよっぽどそれに相応しいのは誰が見ても明白だろう。
「なるほどな」
おそらくこちらが本当の秋梔夏芽だ。
ムカつくくらい整った容姿に、実戦慣れした格闘技術。冷徹に拳を放つ精神の豪胆さ。まさしく噂どおりの男。
「どうやら俺は人違いをしていたらしい」
「え?」
「…………。俺が殴ったあの男は誰だ?」
☆☆☆
「お前、あれはないわ。さすがに引いた」
「えっ?」
試合が終わり、ほっと息をついたところで愛萌がジト目をむけてきた。頑張った俺に対して、随分な言い様である。
「もう少し手加減してやれよ」
「……してたよ」
試合前の意気込みとは裏腹に、だいぶ手加減をすることになった。
というのも、山川くんは正直……結構弱かった。
冬実々の方が全然強い。おそらく山川くんは総合格闘技がしたかったんじゃなくて、何でもありの喧嘩がしたかったんだと思う。
闘いに対する技術やセンスが全く感じられなかった。
既に山川くんは友人二人に肩を支えられて柔道場を離れてしまった。話をすることもできなかった。
するとそこに、頭ひとつぶん背の高い巨漢がこちらへと近付いてくる。がっしりとした筋肉に、顔につく斬り傷。
「お前が秋梔夏芽だな」
「……はい」
二重極先輩。二重心々良の兄だ。
何か言いたげな彼の顔を見てすぐに悟る。
やばい、今朝の女装の件がバレた!?
「お前──」
重々しくも、口を開こうとする二重先輩にぎゅっと身構えるも、そこに救いの手が差し伸べられる。
それはピンク色のツインテールを揺らしながら駆けてきた少女だった。
「なっくん大丈夫だった? ……お兄ちゃん、変なことしてないよね?」
「う、うん」
「ああ」
笑顔なのに、何故か圧を感じる!?
あの二重極先輩も妹には弱いようで、それ以上何も言わない。
分りますよ、先輩。妹には勝てないですよね。
「なっくんはこれからバンドの練習があるの! もう行くからね!」
二重さんは機嫌悪そうにそう言うと、べぇっと舌を出す。いつの間にか俺の手首を掴んでいた彼女は、どよめく観衆の中、俺の手を引いて歩き始めた。




