すたんど
「おしっこちびりましたぁ……」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………俺も」
ここまでの学園生活で、幾度となくちびりそうになりながらも耐えてきた秋梔夏芽の膀胱が、ついに敗北した。量で言えば1mLにも満たないくらいのはずだ。でもちびった。確実に先走った。
「……夏芽くんもですか? 夏芽くんも、びっくりしてチビったんですか?」
夜鶴が期待するような目でこちらを見上げてくる。仲間が欲しいんだね。よくわかるよ。
俺はここで素直に頷けばよかったのに、なけなしのプライドが、勝手に言葉を紡ぐ。
「お、俺はビビってなんかないけどね? 今の俺達は──言わば一心同体ってやつだもん。夜鶴がちびったなら、一緒に俺もちびる。それが仲間ってもんでしょ?」
「なっ、夏芽くん……!」
今度は尊敬するような目でこちらを見上げてくる。
ちょっといたたまれない。おしっこちびった挙句、その理由を他人に押し付けた最低野郎なのに、何故か株が上がってしまった。
本当にごめんなさい!
「このことは二人だけの秘密ですね」
「うん……そうだね」
小さく照らされたランタンの向こうで照れたように笑う夜鶴。こんな状況なのに何故だろう。今日の彼女はいつもよりも魅力的に見えた。
…………もしかしてこれが吊り橋効果?
俺たちはさっきよりもいっそう手を強く握りあって次の教室へと向かう。理科室の人体模型、音楽室のピアノを弾く髪の長い女子生徒、度重なる困難を乗り越えてついに視聴覚室にたどり着いた。
校舎の形状からして、この視聴覚室が最後の砦だ。
深く息を吸い、ゆっくりと扉を開ける。
「…………。」
やばい。いよいよやばい。
ずらーっと並ぶ机と椅子。その全てに人が座っている。これまでと同じように、俯いたまま微動だにしない生徒たちが何十人と座っている。
「夏芽くん、あれがお守りじゃないですか?」
「あ、ほんとだ」
男子生徒が座る席。その机の上に何やら光るものが置いてある。どうやらあれがお守りらしい。
「……あれ、取るの?」
「夏芽くんならできます」
いやあ。いやあー。
これ取ったら絶対みんな襲いかかってくるでしょ。
これまで現れた幽霊役は誰ひとりとして動かなかった。それが最早伏線にしか思えない。来る。絶対ここで来る。間違いない。
しかも50人近い生徒がここにはいるのだ。これが一斉に動き始めたりでもしたら、ちびるどころの話じゃ済まなくなる。洪水だよ。大洪水。
教室に入れず躊躇うこと数分。ようやく意を決して、俺は内心でびくびくと震えながらもお守りに手を伸ばした。次の瞬間──
「サワルナァァァァァァァ」
「「ばよええええん!!!」」
背後で立ち上がった男子生徒に、耳元でそんなことを言われた俺と夜鶴は飛び跳ねるようにして駆け出す。
他の生徒が座っている机を掻き分けるようにして急いで教室から飛び出した。
その間俺も夜鶴も悲鳴を上げっぱなし。大絶叫だ。
だが、まだ終わらない。廊下に出ると、正面の壁には赤い血塗られた文字で【扉を閉めろ】の文字が。
振り返ると、教室の中にいた生徒のうち4人ほどが、こちらに迫っていたのだ。
俺は急いでランタンを肘掛けにすると、震える指を溝に食い込ませて、思いっ切り扉を引く。
女子生徒の不気味な顔が眼前に迫ったとき、ようやく扉が閉まった。
…………怖すぎる。
あまりにも心臓に悪い。
顔面蒼白で疲弊している俺の精神とは裏腹に、膝は大爆笑。少しでも気を抜けばヘナヘナと倒れ込んでしまいそうだ。夜鶴はグズグズと鼻をすすっており、子鹿のように震えている。
「すみません腰が……」
「大丈夫? もうすぐ出口だよ」
廊下の突き当たりには出口と書かれた看板が妖しく照らされている。そこまでたどり着けば後は廊下を下るだけだ。しかし夜鶴は俺にしがみついていなければ立っていることすらもできないといった様子で、繋いでいた手は既に離され、コアラのように俺の胸元に手を回している。
「これは死んじゃいます……。死んじゃいますよ」
気持ちはわかるよ。
俺も本当は今すぐ夜鶴にしがみつきたい。
不意に──出口まで残り10mほどのところで、タンッ、タンッ、と足音が聞こえた。夜鶴にも聞こえたようで、無意識にふたりとも足が止まる。階段に備え付けられた滑り止めの金属を踏み鳴らす音は一定のリズムを刻み、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、とこちらへ近づいてくる。思わず俺が一歩後退ろうとすると──タンッ、タンッ、タンッ、タンタンタンタンタンタンタンタンと、急に駆け足のように音が加速した。
「うっ!」
思わず絶句する。
これまでの制服姿の生徒たちとは違い、白いワンピースを着た少女がこちらを見てにたぁっと笑うと、「あはっあはははっ。あははははははははははははははははははははは」と声を上げ物凄いスピードで駆けてきたのだ。
息が詰まり、一瞬意識が遠のきかけた。
少女はこちらを目掛けて走ってくる。真っ暗なはずなのに、何故か鮮明に見える。あんなに笑っているのに、目だけはギョロりと、瞬きすらせずこちらを見ている。
少女が目と鼻の先に迫った瞬間、俺は夜鶴を胸に抱きしめて目をつぶった。ひんやりとした風圧に包まれる。
「……これ、もう無理」
その後のことは記憶が朧気で覚えていない。
いつの間にか受付を済ませた俺たちは、とぼとぼと廊下を歩いていた。周囲は大いに盛り上がっているというのに、俺たちは顔色が真っ白だった。
「もう二度とお化け屋敷には入れないかもしれない」
「…………同感です」
ただでさえ、俺は根が臆病なのだ。
脅かされてビビらないわけがない。
適当に入った上級生の経営する喫茶店で、腰を下ろす。
「だはー」
おっさん臭い声が出た。
夜鶴も深いため息を吐いている。
しばらくは無言のままドリンクに口を付けていた俺たちだったけれど、俺は最後の幽霊について口を開く。
「あのワンピースの子だけちょっと違って見えたんだけどさ。……あれってもしかして本物だったり、する?」
あの子は異質だった。他のどの幽霊役よりも。
存在そのものが、めちゃくちゃ怖かった。
「……ごめんなさい。私にも見分けはつきませんでした。もしあれが幽霊なのだとすれば、相当強い力を持っているのだと思います」
「……マジか」
夏休みに引き続き、俺はまた幽霊を見てしまった可能性があるということだろうか。できるなら、もう二度と見たくない。怖いもん。
「ですが、その前の教室にいた︎幽霊だったら見分けがつきますよ」
「え?」
その前の教室って……視聴覚室?
「え、あそこにも幽霊いたの?」
全然気づかなかった。
「?? 夏芽くんも気付いていませんでしたか? 席にたくさん座っていたじゃないですか」
席にたくさん?
確かにあの教室には50人ほどの制服を着た生徒が座っていた。あの中に幽霊が混じっていた、ということだろうか。全然気づかなかった。
「混じっていた、というか。あの教室にいた生きた生徒は、最後追いかけてきた4人だけですよ。残りは全員幽霊でした」
「全員……?」
「はい」
じゃ、じゃあ、あの場には40人を越える幽霊がいたというのだろうか。人間たちと同じように、席について、俯いて、座っていたと……?
「いやいや。そんなまさか……あはは」
そんなふうに脅かそうとしても俺は騙されないぞ、と夜鶴の言葉を聞き流そうとするも、とどめを刺すように彼女は言った。
「この学園、全校生徒300人くらいしかいないじゃないですか。そのうちの50人が幽霊役をしているなんて、そっちの方が不自然ですよ」
…………その通りだ。
あっけらかんという語られた夜鶴の言葉に、背筋が寒くなるのを感じた。




