極月
両手をこすり合わせて、息を吹きかけた。
白い気体が吹きかかっても、暖かいのはほんの一瞬で、あっというまに暖は風に散らされてしまう。
やっぱり手袋が必要だったなと思いつつ、背を丸めてポケットの中に手を突っ込んだ。
ショーウインドウに写るのは、この時期特有のクリスマスのイルミネーションを反射した光りと、しょぼくれた自分の顔だけ。
チ、と小さく舌打ちして、先程のやりとりを思い返しつつポケットの中で転がる石のついた輪っかを指で探り当てた。
「返す。私が持ってる資格無いから」
「待てよ、返されたって……」
「いらないんなら、捨てといて」
急ぐでもなく来た道を戻る彼女の後姿を、見送るだけで引き止めなかった。
安い指輪だ。ついてる石だってイミテーション。
二人で歩いていたとき、たまたま目について、甘えた声でねだられて。高くもないし、もうすぐ誕生日だというから買ったものだった。安物でもものすごく喜んで、腕を絡ませて頬を赤くして、とろけるように笑ってた。
「これ以上、付き合えない」
同じ女だとは思えないような、醒めた目。まるで他人を見るような。もうおしまい。それはそう告げていた。
「気持ちが無いのに、一緒にいられないわ。あなただってそうでしょ、他の子と歩いてるの見ちゃったし。私じゃ満足できないんだから、もう終わりにしましょ」
「おい、勝手に決めんなよ。一体いつ俺が他の女といたって言うんだよ。ふざけんな」
「悪いけど、二股とか平気な人間じゃないの。とにかく、さよならだから。……今までありがとう」
好きだと言ったのも彼女なら、軽いノリでつきあって欲しいと言ってきたのも彼女。そして別れを切り出したのも彼女。
他の女なんて全く身に覚えがない。一方的に切り捨てられた、そう感じないわけにはいかなかった。
けれど、別れたがっている彼女にすがりついたって、結局、惨めになるだけだということはわかっていた。
つきあって三ヶ月。彼女の中で初めの頃の情熱が早くも薄らいできているなんて、とうに気づいていた。だいたい俺だって、なんとなく勢いに流されるかたちでダラダラ付き合いを続けていたんだ。好きだったかと問われても、今となってはもうわからない。
だから、追わなかった。
いや、嘘だ。追い縋って余計に傷つくのが怖かった。無様な男に成り下るのはごめんだった。
「あんなやつ……」
小声で漏らすと、ポケットの中で探り当てた指輪を引っ張り出し、後ろも見ずにぽいと投げ捨てた。
「いたっ!」
若い女の声がした。
はっと振り返ると、目元を片手で押さえている女の子がいて、自分の投げた物が当たったのだと気づいた。
何もかもがツイてない。
「すいません、後ろに人がいたとは思わなくて」
謝ると、女の子は首を振り、しゃがんで足元に落ちている指輪を拾いあげた。
「はい」
細い手の中で、差し出された指輪がイルミネーションの点滅する灯りを鈍くはじいた。
赤、緑、白。赤、緑、白。
ちらちらする光りを見ると、瞬く間に色々なことが浮かんでは消える。
ちょっと拗ねた時の顔、ふくれっつら、明るい笑顔、それを嵌めていた手、甘えてもたれかかってきたときのぬくもり、思わせぶりな態度とひらりとかわす背中。柔らかな唇。
「もういらないものなので」
「あの、でも……高そうだし」
「偽物ですから」
そう、偽物だった。好きだとか愛してるとか、ずっと一緒にいたいとか、あいつの言葉全部が偽物になった。
捨てたものを返されるのが嫌で、困ったように片手で目の下の頬を押さえた女の子に、無理矢理押し付けた。
「……なら、それもらって下さい。ぶつけたお詫びってことで」
「ええっ、もらえないですこんな」
「じゃあ捨てといて下さい。すみませんでした」
逃げるように立ち去った。
そうして、無くなってしまったものに対する気持ちも全部、捨てた。
くそ、なんだってんだ。
女の気まぐれに振り回された期間を心の中で呪った。
少しして、後ろから声が追いかけてきた。
「これもらいます。ありがとう!」
今までありがとう。
彼女の最後の言葉と重なって、つい振り向いた。
一体何が見たかったのだろう。
ただ、何も知らない女の子の笑顔があった。無垢な笑顔。
せめて、無関係のあの女の子は、こんな思いなんかと無縁でいて欲しいと、何故かふと、思った。
なんか知らないけど、指輪が降ってきて、顔に当たって、謝られて、私のものになった。
偽物だか何の石だかわからないけれど、綺麗な透明なのがついてる。デザインもカジュアルでラブリーな感じだ。
試しに嵌めてみたら、きつくもゆるくもなくて、ピッタリだった。
コレけっこう可愛いよ。ていうかモロ好み。本当にいらないのならもらっちゃおうかな。うん。そうしよう。
そう決めたら、とたんに嬉しくなって、足早に去っていく後姿に少し大声でお礼を言った。
「これもらいます。ありがとう!」
私に指輪をぶつけた男の人はちょっと振り返り、こくりと頷いて宵闇に消えた。
クリスマス前だけど、プレゼントもらったよ。あの人サンタさんかもしれない。サンタクロースにしてはかなりイケメンで若すぎるけど。ちょっと儲けた気分。
機嫌の良いままケーキ屋の前に辿り着いたら、店の飾り付けがすっかりクリスマス一色に変わっていることに驚いた。
仲間内でパーティーをすることになって、友達と一緒にケーキの予約をしに来たときはまだ秋模様で、店の奥の喫茶コーナーは、銀杏と紅葉で彩られていたのだ。
今の店内は、赤と緑と金色のリボンで飾られ、レジ脇の大きなツリーには、でっかい星とたくさんのオーナメントがくっついている。
「いらっしゃいませ」
「クリスマスケーキを予約してたんですが」
「はい。ご予約票の控えをお持ちですか」
コートの内ポケットから予約の控えを引っ張り出し、白いポンポンつきの赤い帽子をつけた店員さんに渡すと、指のリングがきらっと光った。
やっぱりコレ可愛い。あのひと、いいセンスだな。
にこにこしてたら、サンタ帽子の店員さんは何か困ったようにたずねてきた。
「お客様、クリスマスケーキですか? これ、お誕生日ケーキのご予約では」
「えっ、ホントに?!」
返された紙は複写式で、予約したケーキの種類のところにマルをつけるタイプなのだのだけれど、クリスマスケーキの下のバースデーケーキのところに、雑な殴り書きみたいな手描きのマルが半分くらいずれこんでいた。
ああ、これは確かに、間違われても仕方がないか。注文書いてたの誰だっけ。後で文句言っとかないと。
「もしかしてこれ、誕生日ケーキになっちゃってるんですか?」
「……はい。申し訳ありません、こちらも確認不足でした」
「いえ、いいんです。マルずれてますもんね。でも、どうしよう」
赤い帽子の店員さんも困った顔で、でも、うーんとうなって妥協策を考えてくれた。
「お客様、すぐお持ち帰りになりたいですよね? もしよろしければ、お誕生日のプレートをクリスマスのものと差し替えてお渡ししますが、どうでしょうか」
「あ、はい。それでいいです。すみませんがそうして下さい」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」
店員さんは頭を下げ、ホッとしたように笑んだ。
そして、ショーウインドウに並んだオプション飾りから、ちいさな砂糖菓子のサンタさんをつまんで見せた。
「こちらもサービスでつけさせていただきます」
「わ、サンタさん。ありがとうございます」
手早くケーキを包むと、サンタ帽子の店員さんは綴ったチケットみたいなものの裏に何かを書いて、一緒に渡してくれた。
「大変失礼いたしました。こちらは当店の割引券です。今年いっぱいご利用いただけますから」
「そんな、こっちが悪いのに。……え、全品半額!」
「はい。どうぞお持ち下さい」
うわあ、ケーキの半額券だ! すごいすごい。
今日は二回もいいことがあった。いったいどうしちゃったんだろう。
勝手に頬が緩む。私はお礼を言った。
「ありがとうございます。かえってサービスしてもらっちゃって、すみません。こんなラッキーで、明日、雨降ったりして」
「いいえ。雪なら降るかもしれませんね。またのご来店をお待ちしております。券、使ってくださいね」
「はい!」
私は店を出ると空を見上げた。
雪か。ホワイトクリスマスって素敵だろうな。雪なら、ちょっとぐらい降ってもいいかな。
帰りがけに見た大型のショッピングセンターの前に据えられた巨大クリスマスツリーが、ピカピカチカチカ光っていた。
ツリーの下には幸せそうな二人組や、プレゼントを抱えた人待ち顔がちらほら見えた。
もうすぐ聖夜。十二月。今年が終わるのも近い。
誰かを待つ様子の男に、一人の女が駆け寄っていく。一言二言、言葉を交わして微笑み合い、どちらからともなく差し出した手を繋ぐ。
それを目撃してしまって、じくじくと胸が疼いた。
そうか、適当なこと並べやがって。結局はそういうことか。
馬鹿馬鹿しい。心変わりしたのは、彼女。
見覚えのありすぎる後ろ姿を、暗く棘のある気持ちで見送った。
ころころと気が変わりやすい、ろくでもない女。
ツリーの真下に立って枝を見上げると、白い天使の飾りが頭上で揺れた。
なあ、天使さん。サンタはクリスマス直前に振られた男にも、何か慰めになるようなプレゼントをくれるかな。さもなきゃ、あの女に天罰でもくれてやってくれ。
澄まし顔でラッパを吹く天使の下で、ぼんやりと思う。
やっぱり俺、それなりにショックを受けている。
けれど、別れを予想できないわけでもなかった。
彼女はいつも「ドキドキすること」を追いかけていた。楽しいことが最優先。「付き合ってみたら意外とフツーでちょっと拍子抜け」な俺は、飽きられるのも早かったってわけだ。
期待通りの男でなくて悪かったな。けど、正直肩の荷が下りた気もするから皮肉なもんだ。
しかし俺、振り回されまくってとんだ間抜けだ。
大きなため息を吐き出して天使を見上げるのをやめた。
店舗のショーウインドウに写るのは、ポケットに手を突っ込んで眉間にシワを寄せた、不機嫌な自分。気付けば結構な時間ぼんやりしていた。
クリスマスだってのに、ガラスの中の俺はものすごく不景気そうだ。
そんな姿を目に入れたくなくて、ツリーに背を向けた。
やめだ、やめ。
すると、ちょうど前を通りかかろうとしていた女の子がこちらを見た。
ケーキ屋の箱を抱えている。箱を押さえる指には、俺が捨てたリング。
「あっ」
「……あ」
目が合った。
女の子は俺を覚えていたようで、嬉しそうににこりと笑うと会釈した。つられてぺこりと頭を下げた。
そのまま通り過ぎていくかに見えたその子は、何か思いついたらしく、足を止めた。
「あの、さっきはどうも」
「いえ」
何の用だろう、と首をかしげると、彼女はポケットからがさごそと何かの紙を引っ張り出した。何枚か綴ってあるそれを、器用に片手でピリピリと音を立ててちぎり取り、そのままこちらへ差し出した。
「あのですね、さっきケーキ屋さんでこれいただいたんで、良かったら貰って下さい」
「え」
「そこの角のところのケーキ屋さんの割引券なんですけど、こんなにいっぱいあるから」
「いや、そんな、いいです」
「ほんの気持ちなんです。これのお礼がしたいなって。すっごく気に入ったから」
そう言って、にこにこ顔で指輪を示した。確かに女の子の持つ雰囲気に合っていた。元の持ち主よりも似合うようだ。まあ、指輪だって道端に捨てられるより誰かに使ってもらったほうが嬉しいだろう。
「ああ、よく似合いますね」
そう言ったら一瞬目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。そして券をぐいっと前に出した。
「ありがとう。……どうぞ」
律儀な子だな。こんな捨てたものを押し付けられたのに、礼なんて。そんなに気に入ったのか。
なんだか、断ったらがっかりさせてしまうんじゃないかと思って、迷った末受け取った。
「……そう、ですか……じゃあ」
「良かった。ここのケーキはすっごく美味しいんです。店員さんも親切でいいし」
「へえ。そうなんですか」
「はい! クリームが、コクがあるのに軽くて、スポンジもフワッフワで甘さがもう絶妙で、卵が効いてるのにくどくなくて。特に苺とベリーのケーキが超おすすめです。あ、でも他のも美味しいけど」
「そ、そう」
きっとそれがこの子の好きなケーキなのだろう。熱弁をふるわれてしまった。
若干たじろぎながらうなづくと、熱を込めて語ってしまったのが自分でも恥ずかしかったのか、ちょっと照れたように笑って、ぺこりとお辞儀をされた。
「あー、ええと。とにかくその、ありがとうございました!」
「いいえ。こちらこそ、かえってありがとうございます」
赤らんだ頬が可愛らしく思えて、答えながら券を片手にくすりと笑うと、彼女の頬が一層赤くなった。
「それじゃ。失礼します」
「どうも」
もう一度ぺこりとすると、箱を抱えた女の子は通りの向こうへ姿を消した。
割引券を握ったままポケットに手を突っ込む。
何か白いものが落ちてきた気がして、ふと見上げれば空から天使の羽の欠片のような雪が降ってきたところだった。
雪が降った今年のクリスマスも過ぎた頃、俺はくだんのケーキ屋へ足を向けた。貰った割引券の期限が今年いっぱいになっていたので、年が明ける前に使おうと思ったからだ。
入ってみると、そのケーキ屋には小さめの喫茶コーナーが設けられていて、おもちゃみたいなテーブルが四つと椅子が八つ置いてあった。
入り口には門松が据えられ、壁にはいかにも正月らしく来年の干支が描かれた凧が飾ってあった。
ショーケース越しに割引券を差し出して、おすすめだと聞いた苺とベリーのケーキと、年賀用の菓子を選んで包んでもらっていると、そちらのほうから楽しげな声が聞こえてきた。
ちらりとうかがえば、女の子が三人、テーブルを寄せて談笑していた。
「正直に言いなさいよー。やっぱその指輪、彼氏でしょ?」
「ち、ちがうったら」
「じゃあなんで毎日つけてんの? それに毎日すっとんでここに来て、長いことケーキひとつで粘ってるわけ? 待ち合わせなんでしょ」
「そんなんじゃないって。このケーキセットが気に入ったの。そんだけなの! 二人とも早く帰りなよー」
三人のうち、二人にからまれている女の子はぶんぶん手を振り回していた。
その手の上にきらりと光る、見覚えのある指輪。
「毎日ケーキ、太るよー」
「大丈夫、太んない。運動してるから」
「運動って、開店と同時にダッシュでここ来て時間になったら全力疾走で帰るってこと?」
「や、やだ、……み、見てた?」
「っ、マジでえー?!」
「ほんとにそんなことしてんの? 何で?」
「う、引っ掛け、ううん……なんにもないなんにもない」
「吐きなさいよ。何があった、一体あんた何があったの!」
「ちょっと最近上の空でおかしいし。いや、元からおかしい子だけどさ」
「なによ。あんたたちこんな可愛い子に失礼ですよ!」
「自分で可愛い言うな」
賑やかな明るい声。他にテーブルを使っている客がいないから、こちらにまで会話が聞こえてくる。
友達にやいやい責められて、逃げ場を探すように女の子が首を巡らせた。
そして、こちらを見た。
その目が丸くなる。一瞬にして音が出そうなくらい、女の子がボッと赤くなって固まった。
その慌てぶりが面白くて、噴出しそうになるのをこらえ、軽く会釈した。
女の子は、はっきりわかるぐらいあたふたしながら友達を押しのけた。
「こ、こっこここんにちは」
お辞儀された。
それにしても噛みすぎだろう。更に可笑しくなったのは置いておいて、俺は礼を言った。
「こんにちは。割引券、ありがとうございました」
「いいえ。……あ、そのケーキ」
ケースに収められる途中の、ケーキの上に乗った苺とベリーを目敏く見つけ、彼女はパッと明るい顔をした。
「美味しいって言ってたから。さっそくこの券使わせてもらってます」
「うん、ホントに美味しいんですよ」
「それは楽しみ」
とても嬉しそうに笑う子だ。綺麗というより可愛いタイプ。親しみやすい雰囲気を感じた。
そんな軽いやり取りをしていると、彼女の友人たちが声をかけてきた。
「あたしら帰るから」
「じゃあねー。また、あ、し、た、ねぇー。ふっふふふ」
にこにこというよりニヤニヤといった顔で手を振る友人に彼女は、あっうああ、と変な声と赤い顔でうめき、それでも力なく手を振り返した。
おすすめだけあって、ちょっと驚くほどケーキは美味かった。甘いものが特別好きなわけではないが、ここは俺の中で気に入りの店になった。
それからしばらくして、彼女はそのケーキ屋でバイトを始めたらしく、次に行った時、可愛らしい白いエプロン姿でショーケースのむこうに立つ、真っ赤に照れた彼女に再会した。
彼女はレジの横でくるりと俺に背を向けて、つぶやいた。
「……また会えた。神様って、いるかもしんない……!」
その言葉に同意すべきかどうかまだわからないが、俺としては、彼女をいつ頃お茶に誘ったらいいのか、それよりもケーキ屋にしばらく通うべきなのか、悩んでいるところだ。
終
このお話に最後までおつきあいいただき、どうもありがとうございました。
少しでも楽しんでもらえたなら嬉しいです。
2011.03.17初