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最終話 あいは名前が欲しい。



 終点の駅を降りた後、あいとお父さんはバスに乗り、岬へと向かいました。



 朝からずっと座り続けていたあいの身体がウズウズし始めた頃、バスは岬の入り口に到着しました。



 お母さんのお墓があるのは、岬の先端。そこまでは歩き、ちょっとしたハイキングです。



 岬の遊歩道を歩きながら見えるものは、海と空と太陽、そして青々と茂る芝生。



 そこは、視界を遮る物が何もない、吸い込まれるような紺碧の場所です。



 半ばまで来たところで、あいは見たことのない自然の景色に目を輝かせ、歩みを止めました。



「美しいだろう?」



 お父さんも、一緒に風景を眺めながら、言いました。



「ええ。私、ここが好きだわ」



 お父さんは、あいの言葉に胸を撫で下ろしました。



「妻も好きだったよ」



 やがて、二人はお母さんの眠るお墓に着きました。



 お墓は真っ白な御影石で造られていました。手入れも行き届いているようで、汚れも殆どありません。



 それを見たあいは、なんだか胸に違和感を覚えました。



 しかし、それが何なのかは、よく分かりませんでした



 その時、あいの横に立っていたお父さんが「あっ」と何かに気がついたように声を漏らしました。



「どうしたの?パパ、何かあったの?」



「い、いや。そう言えば、"紅瞳"がどうやれば奇蹟を起こせるのか、知らなかった……」



 お父さんは、息を荒くして狼狽しました。



 彼は、その宝石に奇蹟の力が眠っているという情報は知っていましたが、奇蹟を起こす具体的な方法は知らなかったのです。



 それもそのはず、奇蹟がある、なんていうのはあくまでも"うわさ話"なのですから。



「それも、あの宝石商に訊くつもりだったんだが……いや、売るのを断った以上、教えてもくれないか」



 ここまで来てなんて様だと彼は自責の念に頭を抱えました。



 しかし、戸惑う彼をよそに、あいは懐にしまっていた宝石を取り出すと、お墓の前にそっと供えました。



「どうする、つもりだい?」



「奇蹟はね、信じていれば起きるのよ。きっと」



 そう言って、あいは手を合わせて祈りました。



「そんな道理が通るわけ……奇蹟を起こすのに、何もしないなんて」



「奇蹟に理屈も何もないのよ」



 あいは、お父さんの言い分を断って、目を閉じて祈りを続けました。



 お父さんは最初、理屈を逸している娘の言い分に躊躇を示しました。



 しかし、今は、奇蹟を信じるほか、方法はありませんでした。



 そうして、やがて、彼もあいのように手を合わせ、目を瞑り、祈りました。






          ◇






 岬の先端。雄大な自然に囲まれた、お母さんの大好きな場所。



 柔らかな日差しを受けて、今、宝石は紅く輝いています。



 穏やかな風が、海の向こうから流れてきて、あいとお父さんの瞼を押しました。



「目を開けて」



 風にのって耳に入った声に、二人は驚いて目を見開きました。



 あいによく似た、熟れた夕日のように真っ赤な瞳の女性が、優しく二人を見つめていました。



 彼女の姿を見た途端、あいの胸の奥から、見たことのない懐かしさが湧き、彼女の口を無意識に動かしました。



「ママ」



 あいは"私"をそう呼びました。



 私は、もう我慢できなくなり、溢れ出した涙も構わずに、彼女を抱きしめました。



 応えるように、あいは私を強く抱きしめ返してきます。



 そして、大粒の涙と一緒に、詰まったような声で、何度も呼びました。



「ずっと、ずぅっと会いたかったわ!」



「私もよ。ずっと見守っていたの。ごめんなさい。寂しい思いをさせたでしょう?」



「うん、寂しかった。でもね、大丈夫。パパが居るもん」



 あいが振り向くと、お父さんは言葉を失い、ただ目の前に起きている奇蹟に釘付けになっていました。



 私があいから手を放し彼を抱きしめると、ようやく彼は気を取り戻しました。



「もちろん貴方にも、会いたかったわ!」



 しかし、彼はまだ困惑した状態で、目をパチクリとさせました。



「本当に、君なのか?嘘じゃないのか?」



「ええ、本当よ。奇蹟が起きたのよ」お母さんは、あいの手を取って、頭を優しく撫でて褒めました。



「いいえ。貴方が奇蹟を起こしたのよ、"あい"。ありがとう」



 あいは褒められて嬉しくなったのでしょう、可愛い顔を紅潮させて微笑みました。



 しかし、これで終わりではありません。あいには訊かなきゃならない事が、残っています。



 ここに来た目的の一つ。自分の名前を貰うこと。



「ママ。あのね、私、欲しいもの、が……」



 あいは、そう言いながら、変な違和感を覚えました。



 さっき、お母さんは誰の名を呼んで、誰を褒めたのでしょうか?



「ねぇ、ママ?もしかして……」



 あいは、もう既に分かっていました。



 しかし、もっとちゃんと、お母さんの口から、呼んでほしかったのです。



 私はあいの頬にそっと触れると、今度はにこりと笑ってはっきりと伝えました。



「貴方の名前よ、"あい"。私達の、最愛の子の名前」






          ◇






 それはまるで、欠けていた破片が埋まったような感覚でした。



 初めて"私"は私に成れたのです。



 私は、何度もママに「名前を呼んで欲しい」と求めました。



 そして、ママは何度も私の名前を呼びました。



 私は、そして何度もパパに「名前を呼んで欲しい」と求めました。



 パパは、いつものように戸惑いながら、でも何度も私の名前を呼んでくれました。



 初めて、真の意味で、私は二人の娘に成れた。そう思いました。



 その後、私はこれまでを取り戻すかのように、ママとパパと沢山、おしゃべりをしました。



 三人で笑い合って、私の心は初めて満たされた気分になりました。初めて家族を知ったのです。



 この時間が永遠に続けば良い、そう思いました。



 それは、子どものわがままでしょうか。



 ふと私は、おしゃべりをしているお母さんの身体が、少し透けているのに気が付きました。



 奇蹟は短い時間しか私達に与えてくれなかった、ということです。



「嫌だ……ママ、もう行っちゃうの?」



 ママの袖をぎゅっと掴むと、彼女は悲しそうに微笑みました。



「あら、大丈夫じゃ無かったの?」



 私は、涙を堪えながら、鼻をすすりながら、言いました。



 私は持っていなかったから、欠けていたから、寂しくても耐えられたと。それこそ、本当の寂しさを知らなかったのかもしれない。



 でも、私は手に入れてしまった。幸せな家族を知ってしまった。



 それを失うのは、嫌だ。



 ママも、泣きそうになりながら、胸が張り裂けるのを抑えながら、掠れた声を漏らしました。



「私は見守っているわ。これからも、あいの側で……ずっと」



 そう言うと彼女は、私とパパの手をそれぞれ握りました。



「それに、あいには"お父さん"が居るわ。頼りないパパだけど、どうか、頼ってあげて」



 気づけば、パパの頬には既に涙が伝っています。



 ママは、そんな彼に最後のハグをしました。



「ごめんなさい。私があんな約束をしたばかりに、あの時、すぐに名前を言わなかったから、貴方と、あいを縛ってしまった」



 ママの目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちました。



 彼女はずっと、死の前に名前を伝えなかったことを後悔していたのです。

 

 

 それが、最後の最後に溢れてしまったのです。



「いいや、私のせいだ。私が勝手に縛られていたのだ。私が父親に成れていなかったんだ……本当に、すまない」



 彼は自身の愚直な性分を自戒するように、唇を噛みました。



 でも、私は自分を責めて、苦しむ二人を見たくはありませんでした。



「パパ、ママ」



 私が二人を呼ぶと、二人は悲しそうな顔で私を見ました。



 私は寂しいのは嫌だけれど、それで、最後の最後まで悲しみ続けるのは、もっと嫌なのです。



「二人とも謝らないで、ねぇ、最後は、笑って別れましょう?」



 すると、ママは少し痛いくらいに強く、私を抱きしめてきました。



 涙で腫れた顔は、今度は笑顔に変わっていました。



 彼女の身体は、いよいよ宙に解けて、消えてゆきます。



 彼女は、最後の最後に、笑って言いました。



「愛しているわ、あい」



「私もよ。ママ」



 こうして、私を腕に抱きながら、ママは紺碧の空に、消えていきました。



 私の頬に流れる涙を、そっと風が拭い去りました。






          ◇






 帰り道の途中、手を繋いで歩くパパが言いました。



「そう言えば、お腹が減ったな、あい。何か食べたいものはあるか?」



「そうね……ケーキ。甘いショートケーキが食べたいわ……ねぇパパ。明日、Hの家に行きましょう?」



 私は口に指を当てて続けました。「そしたら、一緒にDのお店に行くのよ。"紅瞳"の噂はホントだって、教えてあげるの」



 パパは、これからの事に思いを巡らす私を見て微笑んで頷きました。



「他に、何か欲しいものはあるかい?」



 私は、ちょっとわがままな答えを思いついたので、いたずら心に言いました。



「ずっと、ずぅ~っと、愛してくれたら、嬉しいわ」



「もちろんだとも」



 不器用なパパは、胸を抑えながら、誓うようにそう言いました。






 自分で言うのも何だけど、私は赤い瞳の女の子。



 小高い丘の上、静かな屋敷で暮らしています。



 家の中が好きだから、雪のように肌が白いの。



 とある晴れの日、ほんの小さな奇蹟が起きました。



 それから、それから……



 私は、家族と一緒に、幸せに暮らしています。






──"あいは名前が欲しい。" 終わり


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