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第5話 あいは名前が欲しい。


 夜が明けて、次の日。



 あいは、いつものように、ふかふかのベッドの上で目覚めました。



 だけど今日は、いつもとは二つ、違うところがありました。



 一つは、昨日の夜、家政婦さんではなく、お父さんが寝る前に絵本を読んでくれたこと。



 そしてもう一つは、今日も、お父さんが家に居てくれること。



 彼女はベッドから飛ぶように起きると、自室を出て、お父さんの寝室に向かいました。



 彼の寝室は、書斎とは逆に真っ黒塗りの部屋で、いつでも夜の闇のように暗い部屋です。



 もちろん、黒いベッド以外には何物もありません。こうすることで、よく眠れるとか。



 あいがドアを開けると、お父さんは既に起きていて、スーツに着替えていました。



 あいは、元気のいい声で「おはよう!」と言いました。



 お父さんも、優しい声で「おはよう」と返します。



「家政婦が朝食の準備をしてくれているそうだ。着替えたら、ダイニングに来なさい。一緒に食べよう」



「はぁい」



 朝に交わされる、何気のない親子の会話。それも、あいが欲しかったものの一つでした。



 しかし、彼女が本当に欲しいものは、誰も知らない自分の名前。



 今日は、それを知れるかもしれない、特別な日でした。





        ◇





 数刻の後、あいはお父さんと二人で、汽車に乗っていました。



 目的地は、山と谷を越えた向こうの、大海原が綺麗に見える小高い岬です。



 そこに、お母さんはずっと眠っているのです。



 あいとお父さんは、長椅子が二つ取り付けられた、ボックス型の客室で向かい合うように座りながら、車窓を眺めていました。



 到着まで後どれくらいか、あいは知りませんが、そんなことは取るに足らないことでした。



 ただ、今がとても楽しいからです。



 ふと、客室の扉が、二、三ほどノックされ、二人は廊下の方に顔を向けました。



 廊下と客室の間は硝子が張られており、内も外も見えるようになっているのです。



 部屋をノックしたのは、気怠げな雰囲気を醸し、無精髭を生やした色黒の男性でした。



 お父さんは扉を開け、「何か御用ですか」と訊ねました。



「恐縮ですが、乗車券を失くしてしまいまして。次の駅までで良いので、相席よろしいでしょうか?……家内と娘も居るのですが」



 お父さんは、彼の背の後ろに目を向けると、そこには確かに、女性と子どもが居ました。


困っている人を断る理由も無く、「もちろん」と彼らを客室に招き入れました。



 家族は口々に感謝を述べると、三人ともあいの向かい側の席に座りました。



 そして、お父さんは元々座っていた席の代わりに、あいの隣、窓側の席に腰を下ろしました。



 あいは、家族三人とも、お父さんと同じような黒い服に身を包んでいることを、少し不思議に思いました。



「いや、ありがとうございます。私はF。こちらが家内のGと、娘です」



 名前を呼ばれた妻は礼儀正しく会釈をし、あいとお父さんもまた、会釈を返しました。

 

 

 あいは、女の子と目が合いました。あいよりも少し幼いくらいでしょうか。



Fのような黒い髪と、Gと同じ若草のように青い瞳を持った子でした。



「それにしても、災難でしたね。まさか乗車券を無くされるとは」



「ええ、まぁ。少し、考え事をしていましてね」



 Fはそう言うと、車窓から見える山間の景色を眺めながら、ため息をつきました。



「貴方。しっかりして下さいな」



 妻のGが夫の太ももを叩き、叱咤しましたが、夫は生返事をするだけです。



「まぁ。旦那様もお疲れのようですな……」



 Fに気を遣ったお父さんは彼を労りつつ、その後、なんとはなしにGと世間話を始めました。



 一方、子どもたちの方でも、自己紹介が行われていました。



「こんにちは。ねぇアナタ、お名前は、なんて言うの?」



 あいは「こんにちは」と挨拶を返すと、声を弾ませて答えました。



「今からね、終点まで行くの。名前は、そこでお母さんに貰うの」



「ふぅん。おらはね、Hって言うの。よろしくね。その髪留め、可愛いね」



そう言うと、彼女はあいの隣に座って、髪留めをじいっと見つめました。



「ありがとう。これはね、公園でDって言う宝石商がくれたの。きっと、あなたにも似合うのが見つかるわよ」



髪留めを褒められて、頬を弛ませたあいが、彼女の髪を撫ぜながら、そう言いました。



しかし、Hが「それって、さっきの街の公園のことよね?」と訊ね、あいが「そうよ」と頷くと、彼女は少し青い瞳を曇らせました。



「当分、あの街には行かないわ」



「Hはどこまで行くの?」



「行くんじゃないわ。家に帰るのよ」



「あら、私とは逆なのね……ねぇ、そう言えば」



 ここで、あいは、彼女にさっきから気になっていた事を訊ねました。



「アナタのパパやママだけど、どうして、そんなに暗い服を着ているの?」



 すると、訊ねられたHは、彼女の両親をちらと確認すると、声を顰めて、あいに耳打ちしました。



「あのね。昨日、おらのおばあちゃんの"そうしき"をやったの。その時に着る服なんだって」



「"そうしき"って?」



 あいは首を傾げます。



「おばあちゃんがね、遠い所に行ったんだって。そのお別れ会よ。全然楽しくなかったけど」



 彼女は顔を膨らませて、横目で両親を見ると、再びあいに耳打ちしました。



「葬式の話は内緒だよ。お母さんが他人に話しちゃダメって」



 頷いたあいは、彼女に耳打ちを返しました。



「おばあさん、好きなの?」



「うん。この名前も、おばあちゃんが付けてくれたんだ。素敵な名前でしょ?」



 無垢に笑うHの明るい笑顔で、あいもなんだか嬉しくなりました。


 

 しかし、同時に、好きな人に会えないという、自分が感じた寂しさを、彼女も感じているのかと不安に思って、言いました。


「でも、おばあさんに会えなくて、寂しくないの?」



 訊ねられたHは、一瞬だけ、言葉を飲み込みました。



しかし、すぐに顔を凛とさせると、静かに首を振りました。



「うぅん、もう寂しくないの。だって、おらの名前に、おばあちゃんの願いが一緒に入ってるもん」



 あいが言葉を返そうとした、丁度その時、汽車は駅に着きました。



 Hの家族とは、ほんの少しの間ではありましたが、ここでお別れのようです。



 母親に手を引かれたHが「じゃあね」と言って、汽車から降りて行きました。



「ばいばい」とあいも別れを告げました。



そうして、すぐに警笛の音が聞こえてきました。



 汽車が発進する合図です。



 あいが、車窓から外を見ると、そこには駅舎に向かって歩くHの姿が見えました。



 彼女はあいに気づくと、汽車に向かって手を振りました。



 あいは、客室の窓を開けると、身を乗り出すようにして、叫びました。



「また、会いましょう!H」



そう言って手を大きく振るあい。すると、Hの返答が、聞こえてきました。



「今度は、名前。教えてね!」



彼女たちは、互いの姿が見えなくなるまで、小さな手を振り続けました。


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